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礼拝説教

「恐れるな、恐れるな、恐れるな」
イザヤ書 43章1~7節
マタイによる福音書 10章26~31節

小堀 康彦牧師

1.「恐れるな」と三度繰り返される
 今朝の説教題は「恐れるな、恐れるな、恐れるな」としました。「恐れるな」で良いのではないかと思った方もおられると思います。しかし、今朝与えられた御言葉において、イエス様御自身が「恐れるな」と三回告げておられるのです。26節、28節、31節と、この短い御言葉の中で三度繰り返された。それはイエス様が、「恐れるな」と一回告げるだけでは十分ではないと思われたからなのだと思うのです。
 イエス様は、私共が信仰の歩みをしていく上でどうしても恐れてしまう、その恐れによって私共の信仰が弱くなってしまう、そのことをよくよく御存知であり、そうならないように、「恐れてはならない」「恐れるな」「恐れるな」と繰り返されたのだと思います。三回という回数にそれほどこだわる必要はないかもしれません。しかし、聖書に於いて三という数字は完全数です。つまり、イエス様がここで「恐れるな」と三回繰り返されたということは、完全に恐れなくて良い、徹底的に、間違いなく、絶対に恐れなくて良いと告げられたということなのです。

2.出来事となる神の言葉
 イエス様の言葉は出来事となります。イエス様は神様ですから、イエス様の言葉は神の言葉です。ですから、神様が天地を造られた時に「光あれ」と言われると光が生じたように、イエス様の言葉も出来事となります。神様の言葉・イエス様の言葉は、私共が発する言葉とは違います。私共の発する言葉は、口から出るとすぐに空気の中に消えて行ってしまいます。しかし、神様の言葉はそうではありません。イザヤ書55章11節に「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」とあるとおりです。そのような出来事を起こす言葉として、イエス様は今朝、私共に向かって「恐れるな」という言葉を三回繰り返し告げておられます。このイエス様の御言葉によって、私共が恐れない者となること。それがイエス様の御心です。
この「恐れるな」というメッセージは、聖書全巻を貫いているものです。信仰が与えられるということは、神様が私共に告げているこのメッセージと共に生きる者となるということです。私共がどのような歩みをしている時にも、神様は私共にこのメッセージを告げておられます。「あなたは恐れなくて良い。」「あなたは恐れることなく生きる者とされた。」神様は聖書を通して私共にそう語りかけておられます。私共はこの「恐れるな」という言葉を、神様が私に告げておられる言葉として聞くのです。

3.あなたはわたしのもの
 今、イザヤ書43章1~7節をお読みいたしました。ここでも「恐れるな」という言葉が1節と5節で繰り返されております。
 1節を読んでみましょう。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」ここで神様は、「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は」と言われます。神様は何よりも私共を造ってくださったお方です。私共が、この神様がいいな、と自分で選んだのではないのです。そうではなくて、神様が私共を造ってくださった。私共が信仰を与えられたのは大人になってからかもしれません。しかし、神様は私共が生まれる前から、私共が母親のお腹の中にいた時から、神様は私共を知っておられ、私共の存在のすべて、その歩みすべてを御手の中に置いてくださって、守り、支え、導いてくださっていたのです。私共を造ってくださったその神様が、「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」と言われるのです。私共は神様のものなのです。神様は私共一人一人を名前で呼ばれます。それは、私共一人一人を知っておられるからです。

4.主が共にいてくださる
 私共は神様のもの。神様の御手の中に生かされている。だったら、大変なこと、困ったこと、そんなことは全く無いかと言えば、そうではありません。もし、そんな風に言われるならば、それは私共の人生と全く違っており、とても信用出来ないでしょう。神様は、私共の人生が様々な困難と無縁ではないことをよく知っておられます。ですから、2節でこう言われるのです。「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」この大河というのは、神通川程度の川ではありません。チグリス川、ユーフラテス川のことです。向こう岸が見えないような大河です。私共は人生の中で、そのような水の中を進んで行かなければならない時がある。火の中を歩まなければならない時もある。しかし、そのような時も私共は足下を水にとられて流されて溺れてしまうことはない。あなたは大丈夫だと言われる。火の中を歩むような時であっても、炎が燃え移り、焼かれてしまうこともない。大丈夫だと言われる。何故なら、「わたしはあなたと共にいる」からです。
 神様が共にいてくださる。だから、恐れることはないのです。神様が共にいてくださるから、大変な時はあるけれど、どうしようもない力に巻き込まれてにっちもさっちもいかないような時もあるけれど、大丈夫だと言われる。5節でも言われます。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」神様が共にいてくださる。これが私共が「恐れることはない」ことの根拠です。
 神様が共にいてくださるということは、そんなに大丈夫だと言い切れることなのでしょうか。言い切れます。何故なら、神様は私共を造られただけではなくて、この世界のすべてを造り、そのすべてを支配しておられる方だからです。そして、その方が私共一人一人を愛してくださって、その全能の御力で守ってくださるからです。この方が共にいてくださって、この方が「恐れるな、大丈夫。」と言ってくださるなら、これほど確かな保証はありません。

5.弟子たちを遣わすに当たって
 今朝与えられておりますイエス様の言葉は、直前の16節以下の所に続くものです。16節でイエス様は、「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」と言われました。イエス様が弟子たちを伝道のために遣わすに当たって、このように言われたわけです。狼の群れの中に羊が送り込まれたら、たちまち噛み殺されて食べられてしまうでしょう。イエス様は、弟子たちが伝道に行ったら、どこへ行っても歓迎されて、瞬く間にイエス様の福音が世界中に広がっていくなどと思ってはおられませんでした。迫害されることもある。だれも受け入れてくれないこともある。そんなことは百も承知です。しかし、そういう中で、弟子たちが人々を恐れ、福音に生きること、福音を伝えることをやめてしまわないように、ここで「恐れるな、恐れるな、恐れるな」と告げられたのです。
 順に見てまいりましょう。

6.御国を目指して
 26節「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」とあります。「人々を恐れてはならない。」と言われます。これは、今申し上げたように、イエス様の福音を告げていく中で、人々がそれを受け入れず、迫害されるということさえ起きる。このマタイによる福音書が書かれたのは、そういう状況にキリスト者たち、キリストの教会が置かれている時代でした。ですから、この「人々を恐れるな」というのは、28節の「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」という言葉と重なって、とてもリアルなものだったのです。
 イエス様を信じているが故に受けるあからさまな迫害は、現代の日本ではありません。しかし、世界を見渡しますと、今でもあるのです。イスラム圏や共産国では今も起きています。毎年、何千人もの人々が信仰の故に命を奪われています。この日本でも先の大戦の時は、迫害と言ってもよい状況に置かれました。遠い昔の話ではありません。ほんの70年程前のことです。今でも、同調圧力と言いますか、キリスト者は本当に少数ですから、日曜日の礼拝を守るというだけでなかなか大変なところがある。特に、家族の中で一人だけキリスト者である人は本当に大変です。職場においてもそうだと思います。イエス様はそのことをよくよく御存知で、「人々を恐れてはならない。」と言われたのです。
 その理由が、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」と言われています。この「覆われているもの」「隠されているもの」とは、福音のことです。イエス様がまことの神であられること。神様の御支配が既に始まっていること。私共が神の子とされていること。そういったことは覆われており、隠されている。だから世の人々にはそれが分からない。だから迫害もする。しかし、それが明らかになる時が来る。それは終末です。イエス様が再び来られる時です。だから、世の人々がそれを知らずに、私共キリストの福音に生きる者を迫害したり、嫌がらせをしたり、バカにしたりしたとしても、恐れてはならない。やがて、本当のことが明らかになる。神様の御心が明らかにされる時が来る。だから、恐れるな。そうイエス様は言われたのです。御国を目指して、イエス様が再び来られる日を目指して歩めと言われたのです。

7.神の御前で
 そして、どのような状況の中であっても、27節「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。」と言われた。この「わたしが暗闇であなたがたに言うこと」とか「耳打ちされたこと」というのも福音です。世の人々には隠されているイエス様の福音を、私共は不思議なように知らされた。それを堂々と人々に言いなさい。言い広めなさい。つまり、伝道しなさいとイエス様は言われたのです。
 これと同じことを使徒パウロは、若い伝道者テモテに対して言いました。テモテへの手紙二4章1~2節です。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者とを裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。」とパウロはテモテに告げました。これは、まさにイエス様がここで言われたことを、パウロが自分の言葉で言い換えたものでしょう。イエス様が来られる日を思いながら、折りが良くても悪くても御言葉を宣べ伝える。これが、このイエス様の「恐れるな」との御言葉と共に生きて来たキリスト者の姿なのです。ここでパウロは「神の御前で」「キリスト・イエスの御前で」と言います。折りが良くても悪くても御言葉を宣べ伝える者は、実に「神の御前で」生きる者なのです。「神の御前で」、コーラム・デオです。私共はどこに生きているのか。それは神の御前です。イエス様の御前です。この神の御前、イエス様の御前ということが分からなくなりますと、私共は目の前の見える力がすべてとなり、世間を恐れ、人を恐れるということになってしまうのでありましょう。

8.本当に恐るべき方は誰か
 イエス様は28節で「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」と言われます。これは、私共が本当に恐れるべき方は誰なのかということです。私共は、人の目とか世間とかを恐れて、本当に恐れるべき方が誰かということを見失っているのではないか。そうイエス様は指摘しておられるのです。しかしこのことは、上から「本当に恐れるべき方を恐れよ。」と言うだけではどうにもなりません。それでは、相手を追い詰めるだけになりかねません。本当に恐るべき方を恐れ、この方の御言葉に従うことが出来るように支え、導くということが同時になければならないのではないかと思うのです。
 私の娘が中学生になった時、どのクラブに入るかと聞くと、娘は「ブラスバンド部に入りたい。」と言いました。私は別に何でも良いと思っておりましたので、それについては何も言いませんでした。しかし、「主の日の礼拝には出なければいけない。」そう言いました。娘は「分かった。」といった後ですぐに「でも大会の前とか、大会当日で出られない時もあると思う。年に何回なら休んでいいか。」と言うのです。一回もダメだと言いたいところでしたが、それでは娘との関係が悪くなると思いまして、「5回まで。」と申しました。娘は「分かった。そうする。」と言いました。ところが、いざ始まってみますと、毎週日曜日の練習がある。5月中に5回を超えてしまいそうになって、娘は困りました。そこで、妻に相談したそうです。これは後から聞いた話なのですけれど、妻は娘に「『お父さん、5回なんて無理です。夕拝をやってください。』と頼みなさい。」と知恵を付けたそうです。こう言われますと、嫌とは言えません。それは娘の申し出だからではありません。主の日の朝の礼拝を守れない人が夕礼拝をしてくださいと申し出れば、牧師は断れるはずもありません。それで長老会に申し出て、夕礼拝をすることにしました。私が神学生の時にも、サッカーをやっていて日曜日の教会学校に来れない子がいました。そこで、その子のために三年間、土曜日の午後にマンツーマンで礼拝をしたことがあります。
 主の日の礼拝を守ることは大切です。恐れるべき方を恐れるが故に、どうしても守りたい。しかし、それがなかなか出来ないという現実もある。仕事の都合ということもあるでしょう。家庭の事情もあるでしょう。そういう人に対して、「恐るべき方を恐れよ。主の日の礼拝を何としても守りなさい。」と言うだけでは、何か違うのではないかと思うのです。そういう人のために夕礼拝をする。場合によっては、早朝の礼拝をするということだってあるでしょう。教会は、一人の人が信仰を守っていくためには、何でもしなければならないのだと思います。今、働いている若い人たちの中で、日曜日の朝の礼拝に来られない人は30%くらいいると言われています。その人たちのために教会は何でもする。恐れるべき方を恐れよとは、そういうことも含んでいるのではないかと思うのです。

9.髪の毛までも数えられている
 さて、私共がキリスト者として神の御前、イエス様の御前で生きるというのは、恐れるべき方を恐れるべき方とするということでありますけれど、それは神様を恐れて、こんなことをしたら神様の怒りに触れる、そんな思いでびくびくして生きるということではもちろんありません。  イエス様は続けてこう言われました。29~31節「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
 二羽の雀というのは、多分食料だったと思います。当時のファストフードのようなものでしょうか。二羽セットで一アサリオン。アサリオンというのは16分の1デナリオン。1デナリオンは一日の賃金ですから、五千円くらいと考えればいいでしょうか、その16分の1ですから、二羽で312円。一羽が150円くらい。そんな雀でさえも、父なる神様の許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたは雀よりはるかにまさって、神様に愛されている者ではないか。何故なら、人間は神様に似た者として造られたからです。私共の髪の毛までも一本残らず数えられているとイエス様は言われる。自分の髪の毛の数を知っている人などいないでしょう。しかし、神様は御存知だと言う。それほどまでに、父なる神様は私共のことを愛し、すべてを御存知なのです。だから、恐れることはない。安心しなさいとイエス様は言われたのです。

 確かに、私共は色々なことで不安になったり、恐れを抱いたりします。私共の教会も高齢の方が多くなってきました。忘れ物をしたり、病院に行くことが多くなったり、こんなことでどうなるのだろうと、不安や恐れを抱くこともあるでしょう。しかし、今朝イエス様は私共に、「恐れるな、恐れるな、恐れるな」と告げられました。このイエス様の言葉をしっかり聞き、すべてを御存知であるイエス様の御前に為すべきことを為して、イエス様が来られる日を待ち望みつつ歩んでまいりたいと思うのです。

[2018年5月6日]