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礼拝説教

「明らかにされる正しさ」
創世記 18章16~33節
マタイによる福音書 11章16~24節

小堀 康彦牧師

1.今の時代
 今週は米朝首脳による会談が行われます。画期的なことであるには違いありませんが、これがどんな結果を生み出すのか、今のところ誰にも分かりません。東アジアの平和、世界の平和に繋がっていくことを誰もが願っていますが、しかし、どうなるのかは全く分かりません。何か時代が動いているような気はしますけれど、どう動いているのか、どこへ動いているのかよく分かりません。
 イエス様は「今の時代を何にたとえたらよいか。」(16節)と言われました。イエス様の時代と現代とでは、社会も経済も文明も全く違っています。イエス様が用いられた「時代」という言葉は、大体40年くらいの期間を指す言葉です。「一世代」といった感じです。
 40年前、私が二十歳の頃の日本或いは世界は、現在と大きく違っていました。40年前には携帯電話もスマートフォンもありませんでしたし、パソコンもありませんでした。世界は米ソ冷戦の時代でした。どちらかが負けるということを考えることが出来ないほどに、世界の秩序は右と左に完全に別れていました。そして、日本の知識人の多くは、どちらかと言えばリベラルでした。右寄りの発言をする人もマスコミもほとんどありませんでした。国家よりも個人という流れにあったと思います。今思えば不思議なことですが、ベトナム戦争でアメリカが負けた時、ほとんどの日本人は喜びました。学生運動は下火になったとはいえ、まだありました。就職すれば終身雇用が当たり前でした。学生運動をしていた人が、就職試験を前に髪の毛を綺麗に切って、大きな会社に就職する。そんな時代でした。日本の経済は右肩上がりでした。
 その後数十年の間に、日本も世界も大きく変わりました。日本は少子高齢化が進み、人口は減少に転じました。景気は長く低迷しています。いつの間にか、世界の経済の中心に中国が出てきました。米ソ冷戦の勝利者であるアメリカは、トランプ氏という不思議な大統領を選びました。確かに時代は変わっていきます。数十年でこの変化ですから、イエス様の時代とは比べようがありません。
 しかし、神様の御前における姿はどうでしょうか。イエス様の目から見た日本や世界の姿はどうでしょうか。社会も経済も時代精神も、比べることが出来ないほどに大きく変わった。けれども、イエス様の目から見た「この時代」は、イエス様の時代とそれほど違っていないのではないか。そのように思えてなりません。

2.わがままな子どもと同じ
 イエス様はこう言われました。16~17節「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』」少し分かりにくい言葉ですけれど、これはイエス様の時代を、当時の子どもたちの遊びにたとえているのです。その遊びというのは、結婚式ごっこ、葬式ごっこです。子どもはいつの時代でもごっこ遊びをします。幼稚園ごっこやおままごとなど、今もします。ここで子どもが実際に笛を吹いたかは分かりませんけれど、「今から結婚式をします。あなたが花嫁、あなたが花婿。あなたたちは結婚式に来た人。さあ始めるよ。」と言って始めたけれども、誰も踊らない。「結婚式ごっこなんてつまらない。」そう言って、みんな集まってこない状態。葬式ごっこも同じです。葬式の歌を歌ったら、みんな悲しんで泣かなきゃいけない。そういう段取りで「葬式ごっこ」を始めるのに、いざ始めてみると誰も悲しまない。子どもたちは、自分が楽しいと思うことしかやりませんから、「さあ、結婚式ごっこをしましょう。」「さあ、葬式ごっこを始めましょう。」と言っても、楽しそうだと思わなければ、やらないわけです。イエス様は、それが今の時代だと言われました。
 それは、洗礼者ヨハネが厳しく悔い改めを求めると「あれは悪霊に取りつかれている。」と言い、イエス様が罪人たちと共に食事をすると「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ。」と言う。それは、自分が楽しいと思わなければやろうとしない子どもと同じだ、とイエス様は言われたのです。子どもは自分が楽しいと思うかどうかですが、大人は自分が正しいと思うかどうか、或いは自分に得かどうかということかもしれません。

3.自分のイメージの中に神様を取り込む罪
 イエス様は、御自身の宣教を結婚式に、洗礼者ヨハネの宣教を葬式になぞらえているのでしょう。洗礼者ヨハネは「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」(マタイによる福音書3章4節)とあります。ヨハネは神様の厳しい裁きを語り、悔い改めることを求めました。多くの人がヨハネのもとに行き、悔い改めの洗礼を受けました。しかし、ヨハネは領主ヘロデに捕らえられてしまいます。一時は盛んになったヨハネの運動も、ヨハネが捕らえられると下火になり、遂には「洗礼者ヨハネは悪霊に取りつかれていたのだ。」と言う者さえ現れたということではないかと思います。或いは、ヨハネの運動が盛んだった時も、ヨハネのもとに行ったのは社会全体から見れば少数であり、多くは「あんな過激なことを言って、あいつは悪霊に取りつかれているのだ。」と言っていたということなのかもしれません。
 そして、イエス様が罪の赦しの宣教を行い、「神の国は来た。」と神様の愛を語っても、徴税人や罪人と共に食事をすると、「大食漢だ。大酒飲みだ。罪人の仲間だ。」と言う。ああ言えばこう言う、そんな感じです。
 どうして、そうなるのか。神様がヨハネを送り、救い主イエス様を送ってくださったのに、ちっともその神様の御心を受け取ろうとしない。それは、子どもが自分に楽しいと思うことしかしないように、人は自分が正しいと思うこと、自分が持っている神様や救いや救い主のイメージが大事であって、生きて働き給う神様に従おうとしないからです。大切なのは自分であって、神様ではないからです。自分の考え、自分のイメージ、自分の損得が大切なのであって、神様の御心を大切にしよう、これに従おうとはしないからです。これを罪と言います。神様が主人ではなくて、自分が主人なのです。イエス様はこの時代を、そのような罪が支配している時代だと言われました。
 その意味では、今の時代も少しも変わっていないのではないでしょうか。聖書の言葉が自分の考えと一致していれば「なかなか良いことが書いてある。」と言い、自分の考えと違っていれば「おかしなことが書いてある。」と言う。キリスト者に対して勝手に聖人君子のイメージを持ち、少し怒っただけで「それでもキリスト者か。」と言う。大切なのは自分であり自分のイメージです。神様の御心ではない。

4.働きによって証明される
 しかし、イエス様は「知恵の正しさは、その働きによって証明される。」(19節)と言われました。イエス様がお語りになったこと、それはその働きによって正しいことが明らかになると言われる。つまり、イエス様がお語りになった神様の愛、神の国の到来、罪の赦し、それはイエス様御自身の御業によって本当だということが明らかにされるということです。この働きというのは、8~9章においてイエス様が為された様々な奇跡だけを指しているのではありません。イエス様の為さったすべての業です。そして、それは十字架に極まります。イエス様の十字架と復活、それによって私共がどんなに神様に愛されているかが明らかになり、私共の一切の罪が赦され、肉体の死によっても終わることのない永遠の命が与えられるということが明らかにされました。私共は、その救いの喜びに与るようにと招かれている。その喜びとは、結婚式の喜びのような喜びです。ただただ嬉しい。底抜けの喜びです。この歓喜の中に生きるようにと招かれているのが私共なのです。自分の考えやイメージでなく、イエス様の言葉と業に信頼するなら、この喜びの中に生きる者とされる。私共は既にこの恵みに与っている。まことにありがたいことです。
 では、イエス様はそのような時代に生きる人を、もう見込みがない、もうダメだと見ておられたのでしょうか。そうではありません。もし、そうならば、十字架にお架かりになることなどなかったのです。人々を、自分の罪に引きずられ、裁かれるまま、滅びるままにしておけば良かったのです。しかし、イエス様はそうなさいませんでした。神様を認めず、これを受け入れず、この方を拝まず、この方に従おうとしない、そういう時代の人々のために、イエス様は十字架にお架かりになった。だから私共は、こうして主の日の度にここに集い、神様を拝むことを許されている。ここに招かれている。神の国を目指して生きる者とされているのです。

5.二つの町のグループ
 それは、20節以下においても同じです。ここの小見出しは『悔い改めない町を叱る』となっています。確かに、ここを一読すると、イエス様は悔い改めない町を叱り、裁きを告げておられると読めます。しかし、本当にそうなのでしょうか。ここには、二つのグループの町の名が記されています。
 第一のグループは、コラジン、ベトサイダ、カファルナウム。この三つは、ガリラヤ湖の北に位置する町々で、イエス様が実際に活動された町です。イエス様はこの三つの町で多くの奇跡をなさいましたし、町の人々はイエス様の教えも聞いていました。しかし、この三つの町の人々の多くは、悔い改めてイエス様に従うことはなかったのです。もちろん、誰一人としてイエス様に従うことはなかったということではありません。イエス様の弟子たちはこの辺りの人たちなのですから。しかし、町全体としてイエス様を受け入れるということはなかったのです。
 もう一方のグループは、ティルス、シドン、そしてソドムです。ティルスとシドンは異邦人の町で、地中海貿易で大変栄えた町です。しかし、イザヤ書23章、エゼキエル書26章~28章、アモス書1章9~10節、ゼカリヤ書9章2~4節などで、神の裁きが告げられている町です。また、ソドムは、先程お読みした創世記18章16節以下で、自らの不品行の故に神様の裁きを招き、アブラハムの執り成しにもかかわらず滅ぼされた町です。
 イエス様は、裁きの日にはティルス、シドン、ソドムの方が、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムよりも軽い罰で済むと言われた。それは、ティルス、シドン、ソドムもイエス様が為さった業を見れば悔い改めただろう。しかし、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムは、イエス様の言葉を聞き、イエス様の御業を見ながらも悔い改めなかったからだと言うのです。

6.ソドムとニネベ
 こう読んできますと、コラジンもベトサイダもカファルナウムも、もう救われようがない。イエス様も見放した。そのように読んでしまうかもしれません。しかし、そうではないのです。先程、創世記18章をお読みしましたけれど、神様は罪に満ちたソドムの町を喜んで滅ぼされたかというと、そうではありませんでした。アブラハムが、「50人の正しい人がいても滅ぼすのですか。」と問うと、神様は「滅ぼさない。」と言われた。アブラハムが50人を45人、40人、30人、20人、10人と減らしていっても、神様は「滅ぼさない。」と言われた。それは、神様は罪に満ちたソドムでさえも滅ぼしたくないからです。アブラハムは10人でやめてしまいましたけれど、もし「一人しかいないかもしれません。」と更にアブラハムが神様に詰め寄ったらどうだったでしょうか。神様は「滅ぼさない。」と告げられたのではないかと私は思います。何故なら、この罪に満ちた現在の世界は、イエス・キリストという唯一人の正しい方によって滅びを免れているからです。
 この罪人さえも滅ぼしたくないとの神様の御心は、ヨナ書にも明らかに示されています。ヨナはニネベの町に遣わされました。彼はニネベの町の人々に悔い改めを求め、そうでなければこの町は滅びると告げました。すると、ニネベの町の人々は悔い改め、ニネベは神様の滅びを免れました。その時神様はヨナに向かって「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。」(ヨナ書4章11節)と告げられました。これが神様の御心なのです。だから、イエス様をお送りなされたのでしょう。

7.イエス様の嘆き
 21節「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。」と訳されておりますが、ここで「不幸だ」と訳されている言葉は「ウーアイ」という嘆きの感嘆詞なのです。日本語にすれば、「ああ」とか「おお」という嘆きの言葉です。イエス様は、コラジンのために、ベトサイダのために、「ああ、コラジンよ。」「おお、ベトサイダよ。」と言って嘆いておられるのです。何故か。滅ぼしたくないからです。悔い改めて、救いに与ってほしいからです。イエス様の目には、裁きの日における悔い改めない者の姿が見えている。滅びが見えている。だから、「ああ、何ということか。」と嘆いておられるのです。
 イエス様は、裁きがないなどとは言っておられません。裁きが分からないから、本気にしていないから、神様なんて関係ないと言っていられるのです。裁きはあるのです。裁きがなければ、救いもありません。洗礼者ヨハネが語ったとおりです。しかし、イエス様は、何としてもその裁きから救おうとされた。それが十字架です。
 イエス様は、今の時代を見て、「ああ、富山よ。」「ああ、日本よ。」そう嘆いておられるのではないでしょうか。神様もイエス様も、罪人が滅びるのを少しも望んでおられない。悔い改めて救われること、ただそのことを望んでおられるのです。私共が自分を主人とすることをやめて、神様こそ私を造り、すべてを支配し導いてくださっている、私の主・私の王として迎えること。神様を我が父として愛し、神様の子とされた者として神様との親しい愛の交わりの中に生きること。そのことこそ、神様がイエス様が私共に求めておられることなのです。
 この地上の命は、やがて終わります。しかし、それで終わらない命に生きるようにと、まことの救いに与るようにと、イエス様は私共を招いてくださっているのです。この招きに応えて、この一週も主と共に、主の平安の中を歩んでまいりたいと思います。

 

[2018年6月10日]