日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「大丈夫、逃れる道はある」
サムエル記上 19章1~17節
コリントの信徒への手紙 一 10章13節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 私共が愛し、信頼し、従う神様とはどのようなお方なのか。今朝与えられております御言葉は、明確にこのように告げます。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」これが私共の神様です。これは大変有名な御言葉で、この御言葉によって苦しい時を乗り越えることが出来た、そういう人もたくさんいます。皆さんの中にもきっとおられるでしょう。今日は、この御言葉に共に与ってまいりたいと思います。

2.神様は真実な方
 まず何よりも、私共の神様は真実な方です。嘘をつかないということです。私共と約束したことは必ず守ってくださる方だということです。私共を救うと言われたなら、その全能の御力をもって、必ず私共を救ってくださるお方だということです。それは、私共が真実ならそれに応えて真実になってくださるということではありません。私共はまことに弱く愚かで、言ったことを平気で忘れますし、嘘もつきます。ちっとも真実じゃない。しかし、神様は真実です。神様の真実、ここに私共の救いは懸かっています。もし、神様が真実でなかったとしたらどうでしょう。イエス様の十字架は、復活は、何だったのでしょう。また、聖書が告げていることの何を信じることが出来るでしょう。
 聖書は二千年或いはそれ以上前に記された書です。二千年も経っているのですから、これが人間の書であるならば、昔の人はこんなことを考えていたのか、バカなことを考えていたものだということになってしまうかもしれません。しかし、聖書は神様の書ですから、神様が聖書の中で約束されたことは、二千年経っても少しも揺らいでいない。そうでなければ、私共の信仰は成り立ちません。二千年前はそのように考えたけれど、今はそのように思ってはいないということでしたならば、私共の信仰は成り立たないでしょう。神様は真実なお方である。これが私共の信仰、私共の救いの大前提なのです。神様は真実な方である。それは、何よりも私共を救ってくださることにおいて、救いの約束を果たしてくださることにおいて、真実であられるということです。私共が不真実であったとしても、神様は真実な方として私共を救ってくださるということです。ですから、この神様の真実は、愛というものと結ばれています。私共が不真実であっても、なお真実であり続ける神様こそ、愛のお方だと言うことが出来るでしょう。

3.神の真実が、私共を支える
 では、それならばどうして私共は、苦しみや悲しみや人生の試練と言うべきものに出遭わなければならないのかという問いも生まれます。神様が真実であり、愛のお方であるならば、私共はどうして苦しみ・悲しみ・試練に出遭うのか。この問いに答えることは本当に難しい。特に、今実際に苦難の中にある人、悲しみの中にある人に対して、適切に答えることが出来る人など、どこにもいないだろうと思います。聖書は、今実際に苦難の中にある人に対して、どうしてそんな目に遭うのかという原因や理由を告げることはありません。しかし、そのような状況の中でも、今を生きる力と勇気を与える言葉を与えてくれます。それが、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」ということです。実際、この御言葉によって困難な時期を支えられ、そして今がある。そういう人もいるでしょう。この御言葉の真実さは、この御言葉と共に歩んだことのある人のすべてが証人となることでしょう。
 具体的な例を話し始めたらキリが無いので、今一つだけお話しします。前任地におられた一人の婦人です。彼女には二人のお嬢さんがいました。そして、信仰が与えられました。しかし、三人目のお嬢さんが生まれた時、この婦人はうつ病になりました。とても重いものでした。でも、礼拝を休むことはありませんでした。礼拝が始まる直前に来て、礼拝堂の一番後ろ、出口のそばでじっと御言葉に耳を傾け、礼拝が終わるとさっと帰る。そうして礼拝を守っておられました。うつの症状は、しばらくすると少し元気になるけれど、またひどくなる、その繰り返しでした。しかし、礼拝を休むことなく、少し元気なときには教会学校を手伝ってくださいました。一番辛かったのは、長女が高校生で不登校になった時でした。長女まで自分と同じ状態になったらどうしよう。そんな不安にさいなまれていました。しかし、その長女も大学を出て、今はスチュワーデスをしています。次女も三女も大学を卒業し、本人も随分元気になって、昔の大変だった時期が嘘のようになりました。10年以上にわたる大変な時期を、「神は真実な方です。」との御言葉をにぎりしめ、礼拝に集い続け、祈り続けた結果でした。私共夫婦も、毎日の祈りの中でこの方のことを覚え続けました。神は真実な方です。それは、私共の祈りを空しくされない方だということでもあります。

4.試練=誘惑=テスト
さて、パウロがどういう文脈の中でこの言葉を語っているかを見てみましょう。有名な聖句は、その文脈と切り離して受け止められている場合が多いものです。パウロはここで、神様の救いに与った者がその信仰の歩みを全う出来ないということが起こり得る、「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」(12節)と言い、続けて13節「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」との御言葉を語っているのです。
 まずパウロは、10章1~4節において、旧約の出来事を私共キリスト者の予兆として語ります。出エジプトにおける海の奇跡を洗礼の予兆として、マナの奇跡を聖餐の予兆として語るのです。しかし、その海の奇跡、マナの奇跡で救われたイスラエルの民の内、約束の地に着いたのはヨシュアとカレブだけでした。他の者は皆、40年の荒れ野の旅の中に倒れて死んでしまった。それは、「悪をむさぼったから」「偶像礼拝したから」「みだらなことをしたから」「主を試みたから」「主につぶやいたから」と五つの理由を挙げています。だから、そうならないように、信仰を失わないように、倒れないように、気をつけなさいとパウロは言うのです。
 13節の「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。」と言われている「試練」を、私共は「苦しみ」「困難」という風に読んでしまいます。確かに、そのように受け止めて間違いということではありません。そういう面もあります。しかし、この「試練」は、「誘惑」或いは「試す、テスト」とも訳せる言葉なのです。つまり、私共は、神様の全き救いの完成に与るための信仰の歩みを為していく上で、必ず誘惑に遭う。信仰を捨ててしまおうという誘惑、神様なんて関係ないと言う誘惑に遭う。それは神様が私共の信仰を試し、テストしているのだということなのです。ですから、それに負けてはいけない。神様は私共を救おうとされているのだから、必ずその試練・誘惑に負けない道をも備えてくださっている。神様は私共を全き救いの完成へと導こうとし続けてくださる真実な方なのだから、この方を信じて歩みなさい。そうパウロは告げているのです。

5.選ばれた者=試練に遭う者
 ここでパウロが出エジプトのことを例に出したのは、パウロの中に、旧約においては「選び」と「試み」は一つのこと、ヘブル語では「バーハル」という同じ言葉であることが頭にあったからではないかと思います。神様に選ばれた者、それは試みに遭う者、試練に遭う者、誘惑に遭う者となったということなのです。何故なら、神様に選ばれて神の民とされることがなかったならば、偶像を拝もうと、みだらなことをしようと、それは普通のことをしているのであって、取り立てて誘惑とはならないからです。苦しみや困難の中で「神も仏もあるものか。」と言ったところで、それは人間の当たり前の心の動きなのであって、神様の救いに与っていなければ、これが神様に対しての不信仰になど、なりはしないからです。私共は洗礼を受け、聖餐に与る者となった。それ故、それらのことが試練・誘惑となるのです。
 こう言っても良いでしょう。私共の出遭う試練は、神様の救いの選びに与ったが故に必然的に与えられるもので、この試練に負けてしまえば、救いの完成に与ることが出来ないのです。しかし、この試練がそのような神様の救いの御計画の中にあるものならば、神様はその試練と共に私共を滅ぼそうとされているのではありません。そうではなくて、神様はその試練を通して、私共を救いの完成へと導こうとされているということなのです。ですから、この試練には、必ず逃れる道も備えられているのです。そうでなければ、私共は皆、滅んでしまうでしょう。それでは、真実な神様の御心に適うはずがありません。神様は真実な方ですから、何としても私共を救いの完成へと導きたいのです。私共を救いたいのです。そうでなければ、どうして愛する独り子を私共に与えるなどということがありましょう。私共が出遭う試練というものは、その何としても罪に満ちた私共を救いたいという御心の中で、私共に与えられているものなのです。

6.逃れる道=抜け出る道
 この「逃れる道」というものは、試練のただ中にあっては私共には分かりません。私共が抱く「きっとこんな道が開かれる」というような期待や予測は、多くの場合裏切られます。そうならない。しかし、逃れる道は必ず備えられています。私共は、ただそのことを信じて、試練の中でなお神様を見上げて、神様を信頼して歩むことが求められているのです。カトリックのフランシスコ会訳聖書では、この箇所は「試練と共に抜け出る道も用意してくださるのです。」となっています。新共同訳の「逃れる道」は「抜け出る道」と訳されています。「抜け出る道」は「逃れる道」よりも積極的と言いますか、前に進みながらやがて突き抜けていくというイメージがあると思います。これも良い訳だと思います。試練の中でなお神様を信頼し、神様に向かって顔を上げて、いつまでですかと祈り続ける中で、その苦しみの状況が変わっていく。気がつくと抜け出ていた。そういうこともあるのではないでしょうか。

7.ダビデの場合
 私共は試練の中で、苦しみの中で、一人で頑張っていると思いがちです。しかし、神様が与えてくださる逃れの道、抜け出る道というものは、私以外の者によって備えられるということも少なくありません。神様の御手は私の上にだけあるのではなくて、この世界のすべての者の上に臨んでいるからです。神様が他の人に働きかけて、私共の逃れの道、抜け出る道を備えてくださるのです。
 先程、サムエル記上19章をお読みしました。ダビデは既にサムエルによって油注がれ(サムエル記上16章13節)、神様の御前にイスラエルの王とされています。しかし、それが現実となる前に、ダビデはサウル王によって命を狙われるのです。それは恐れとねたみの故でした。ダビデは戦いにおいて誰よりも良い働きをしました。人々はそれをほめたたえ、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」(18章7節)と歌いました。サウル王はダビデのこの人気を恐れ、ねたみ、ダビデを殺そうとします。しかし、この時、サウル王の息子ヨナタンが、ダビデを助けるために働きます。また、ダビデの妻でありサウル王の娘ミカルも、ダビデを窓からつり降ろして逃がします。サウル王の最愛の息子ヨナタンと娘ミカルによって、ダビデはサウル王の手から逃れることが出来ました。ヨナタンもミカルも、サウル王の子どもなのですから、父の命に従っても当然だったかもしれません。しかし、彼らはそうしなかった。ここに、ダビデに油を注いだ神様の御手による働きを見ることが出来るでしょう。ここでも、神様の選びと試練は一つになっています。もし、ダビデが神様に選ばれてサウル王の後のイスラエルの王とされることがなければ、ダビデが神様の選びの中で大いなる戦果を挙げることもなかったでしょう。そして、サウル王に恐れられることも、ねたまれることもなかったはずです。そうであれば、命を狙われることもなかったのです。しかし、神様はダビデを選ばれた。それ故にダビデは試練に遭わなければならなかったのです。しかし神様は同時に、ダビデが逃れることが出来る道もヨナタンやミカルを用いて備えておられたのです。

8.パウロの場合
パウロが13節の言葉を語った時、パウロもまた、実際に何度も命の危険に遭っていました。コリントの信徒への手紙二11章23~27節で「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」と記しています。パウロは何度も何度も死ぬような目に遭いました。しかし、守られました。だから、パウロはこのように言うことが出来たのです。この13節の言葉は理屈ではありません。パウロ自身によって、そして代々の聖徒たちによって、実証されてきたことなのです。そしてこの言葉は、私共の信仰の歩みにおいても実証されることを求めるのです。13節「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。」とパウロは告げますが、確かにそうなのです。私共は、信仰の歩みの中で本当に辛い時があった。しかし、何とか耐えられた。だから今、私共はこうしてここに集うことが出来ているのでしょう。
 試練と共に、逃れの道も抜け出る道も、その時その時に与えられてきた。だから、これからも大丈夫。何故なら、神様は真実な方だからです。愛する独り子を十字架にお架けになってまで、私共を救ってくださるお方だからです。そして、私共がたとえ誘惑に一度や二度負けたとしても、必ず再び私共を呼び出し、召し出し、何度でも御国への道を歩み直させてくださるお方だからです。この真実な神様を信頼して、この一週もまた、それぞれ遣わされている場において、信仰の道を歩んでまいりたいと心から願うのであります。

[2018年7月22日]