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礼拝説教

「しるしを求めず」
ヨナ書 2章1~11節
マタイによる福音書 12章38~42節

小堀 康彦牧師

1.しるしを見せてください
 「先生、しるしを見せてください。」何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエス様にそう言いました。「しるし」、それはイエス様が神の子、キリストであるという証拠です。それを見せよと言うのです。彼らは一体どんな証拠を見たいと思ったのでしょうか。どんな証拠ならば、イエス様を神の子、キリストと認めるというのでしょうか。
 そもそも、このような求めが律法学者やファリサイ派の人々から出されたのは、イエス様がこの時まで様々な奇跡を行ってこられたことに始まっています。12章9節以下の所で、イエス様が安息日に片手の萎えた人をいやされた。そして22節以下の所では、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人をいやされた。このようないやしの奇跡がイエス様によって為されたのです。しかし、ファリサイ派の人々は、安息日にこのような業を為すのはけしからん、安息日規定違反、十戒違反だ。それを堂々と行うなど、とんでもないことだ。彼らはイエス様を殺そうと相談し始めた、と14節にあります。また、24節では、イエス様のいやしの奇跡は悪霊の頭であるベルゼブルの力によるのだと彼らは言ったのです。それでイエス様は、33節以下の所で「木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。」と言われた。つまり、「イエス様こそ我が主・我が神」との告白が自分の言葉として語らなければ義とされない、救われないと言われた。あなたたちの口から出るその言葉が、最後の日に裁きを招く、そうイエス様は言われたのです。そこで、律法学者とファリサイ派の人々は、「そこまで言うのでしたら、しるしを見せてください。」とイエス様に言ったということなのです。

2.「しるし」を見たら信じる?
 私共は、「しるし」と言えば、何か不思議な奇跡のようなものを考えるでしょう。しかし、それは既に与えられているのです。片手の萎えた人がいやされ、目が見えず口の利けない人がいやされているのです。その上、彼らは一体何を求めているのでしょうか。一体どんなしるし、どんな証拠が示されれば、彼らはイエス様を神の子、救い主として受け入れ、信じるというのでしょうか。そもそも、この「先生、しるしを見せてください。」という言葉は、「しるしを見たなら信じます」ということを意味しているのでしょうか。
ここで、私共の心の中にもこの「しるしを見せてください」という思いが無いかどうか省みますと、この「しるし」の正体というものが少し分かるのではないかと思います。神様は見えませんし、私共は直接その声を聞くわけではありません。ですから、神様なんて本当にいるのか、また、神様は本当に私共を愛しているのか、そのような思いを一度も抱いたことがないという人はいないでしょう。信仰が与えられる前、私共は、皆このような思いを抱いていたのではないかと思うのです。また、自分が大変辛い苦しい状況に置かれますと、このような思いが沸々と心の中に湧いてくるということもあるでしょう。そしてそういう時、私共は「しるし」を求める。イエス様が神の御子であるしるし、神様がわたしを愛しておられるしるしを求めるのでしょう。
 はっきり言えば、この場合の「しるし」とは、こうして欲しい、こうなりたい、それを実現してくれることを指すでしょう。そうすると、ここでファリサイ派の人々がイエス様に求めていた「しるし」とは、自分の願い、自分の求め、それを実現してくれることだったのではないでしょうか。しかし、そのような神様との関わりの中では、決して悔い改めは起きません。何故なら、そこでは「私が主」であって、私の考え、私の理解、私の求めに応えるのが神様、つまり「神様が僕」ということになってしまうからです。
 ですから、ここで言っている「しるしを見せよ」とは、律法学者やファリサイ派の人々の言っていることやその考えは正しい、その求めていることは御心に適っている、そのことの証拠となるものを見せよということです。それは、天の軍勢を呼び出してローマ兵をやっつけるというようなことだったり、エルサレム神殿の上に天からふわふわと降りてくるというようなことだったり、安息日を守らない人を皆殺しにしてしまうというようなことだったかもしれません。しかし、イエス様が神の御子であるしるしは、既に様々な奇跡によって与えられているのです。ただ、それは自分たちの考えや理解とは違うから認めない、受け入れない。その上で彼らは「しるし」を求めていたのです。それに対してイエス様は、「そんなしるしは与えられない。」そう答えられたのです。

3.悔い改めへと導く「しるし」
 ここで誤解の無いように言っておかなければならないことは、自分が苦しい時、困難な時に神様の助けを求めることは意味がないとか、そんな求めには神様は答えてくださらないとか、そういうことでは全くありません。この時だって、イエス様は片手の萎えた人をいやし、目が見えず口の利けない人をいやされたのです。「しるし」はあります。「しるし」は与えられているし、与えられます。しかしそれは、「イエスは主なり」との信仰へと私共を導くものです。それは私が主ではなく、イエス様が主であるということを明らかにするしるしです。この私の主人が変わる、これが悔い改めです。神様がイエス様が与えてくださる「しるし」は、この悔い改めへと私共を導くものなのです。「しるし」とは決して、私は正しいということを裏打ちするためだったり、私の求めや願いを実現するためのものではありません。
 以前、こんな証しを聞いたことがあります。今はある教会で長老をされている方ですが、信仰を与えられる前に、興味本位で、聖書の学びの会にしばらく出ておられた。この方は女医さんで、神様なんているわけないじゃないかと思っていたそうです。ある日、家の鍵が無くなった。どこを捜しても見つからない。そこで、こう思った。「神様がいるなら試してみよう。」そして、「神様、あなたが本当にいるなら、証拠を見せてください。家の鍵がありません。鍵が今見つかったなら、あなたを信じましょう。」と祈ったそうです。これが彼女の初めての祈りだった。すると、あれだけ捜しても見つからなかった鍵が出てきた。何度も何度も捜した場所から見つかった。この時、彼女は背筋がぞっとしたそうです。本当に神様はいる。とすれば、私は大変な過ちを犯してしまった。神様に対して何と失礼なことをしてしまったのか。彼女は本当に恐ろしくなって、「神様、赦してください。あなたを信じます。」そう祈ったそうです。そして、洗礼を受けました。彼女はその証しの最後に、「神様を試すような祈りはしないほうがいいです。本当に恐ろしいことですから。」と言っていました。
 彼女がしたことが良かったのか悪かったのか、そんなことを論じることは意味がないと思います。私共が為すことなど、いつだって罪に満ちているのですから。しかし、神様はそのような私共を救うために、御心のままに私共に悔い改めを与え、救いへと導いてくださるのです。

4.ヨナのしるし
さて、イエス様はこの「しるしを見せてください。」という求めに対して、こう答えられました。39~40節「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」ここでイエス様が「よこしまで神に背いた時代の者たち」と言われているのは、しるしを求めてきた律法学者とファリサイ派の人々を指していると考えて良いでしょう。そして、今は「よこしまで神に背いた時代」だ、あなたたちは神に従っていると自分では思っているけれど、結局の所、神様に従ってなどおらず、自分を一番にしている。自分が一番正しく、自分が一番偉いと思い違いして、神様さえも自分に従わせようとしている。今はそういう時代だと言われたのです。しかし、そのような時代は、何もこのイエス様のおられた時代に限ったことではないでしょう。いつだって、自分が一番だと思い違いして、神様に従うことが出来ない、神様に従おうとしない。現代だって少しも違いません。そのような時代の中で、人々は自分の願いを叶えてくれる神を求め、まことの神に従おうとはしない。現代もまた、自分に都合の良いしるしを求める人々で満ちているのでしょう。
 イエス様は、「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」と告げられました。この「ヨナのしるし」とは、40節でイエス様御自身が説明して、「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」と言われています。これは明らかに、イエス様の十字架の死と三日目の復活の出来事を指しています。つまり、イエス様の十字架と復活の出来事こそ、いつの時代においても与えられている、イエス様が神の子・救い主であられる「しるし」だということです。  このイエス様の十字架こそ、私共の一切の罪を赦してくださる神様の愛、神様の憐れみのしるしに他なりません。この十字架の前に立つ時、私共は自らを正しい者とする罪を悔い改め、ただ神様に赦しを求める者となります。決して、自分が一番などではなく、神様が一番であることを示されるのです。また、イエス様の復活こそ、死さえも打ち破る神様の御力をはっきり示しています。そして、この復活の命が私共にも与えられるという、驚くべき恵みが示されているわけです。

5.愛は信じるしかない
 しかし、この十字架と復活という大いなるしるしを前にしても、人は、必ず悔い改めて「イエスは主なり」との告白へと導かれるとは限りません。「しるし」というものは、それを受け入れるか受け入れないかはその人が決めるのであって、そのしるし自体が受け入れさせるわけではないからです。こう言っても良いでしょう。イエス様の十字架と復活は神様の愛のしるしそのものですけれど、この愛というものは、どんなしるしが与えられようとも、それを信じるということによってしか受け取りようがないものなのです。
 もし、皆さんが夫や妻に「私を愛しているしるしを見せよ。」と言われたらどうでしょう。どんな「しるし」を見せることが出来るでしょうか。私などは、「そんなこと、今更言われたって困る。」と言うしかありませんし、「どんなしるしを見せたら信じてくれるの。」と聞き返すしかないかと思います。そもそも、「私を愛しているしるしを見せよ。」と言われること自体、愛を信じていないから言われるのですから、この問い自体が成り立たないと思います。何故なら、愛は信じるしかないからです。もちろん、もう少し家事を手伝えと言われるならば、そりゃ出来るだけやらなければならないでしょう。だけれども、それをしたら愛が証明されるわけではありません。そんなことでは私を愛していることの証明にならないと相手に言われたら、それで終わりです。愛は信じるしかない、信じてもらうしかない、そういうものです。
神様の愛もそうなのです。信じるしかない。イエス様の十字架と復活という「しるし」を、本当に本当だと信じて受け入れるしかない。

6.ヨナにまさる者、ソロモンにまさる者がここにいる
 41節「ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」とあります。ヨナの話は御存知だと思いますが、少し思い起こしてみましょう。ヨナは、ニネベの町に悔い改めよと告げるよう、神様に命じられます。このニネベの町というのは、当時の大帝国であったアッシリアの都です。アッシリアはイスラエルを苦しめている敵です。ヨナはニネベへ行くことを拒みます。ヨナはニネベの町が神様に滅ぼされればいいと思っていたからです。自分が行って、もしニネベの町の人々が悔い改めたなら、ニネベは助かってしまう。そんなことは真っ平御免だ。ニネベなんか滅びればいい。滅びるべきだ。滅びなければならない。ヨナはそう思っていたはずです。だから、彼は逃げ出してニネベとは正反対の、当時の地の果てであるタルシシュ行きの船に乗ったのです。しかし、ヨナの乗った船は嵐に見舞われ、沈みそうになります。積み荷をどんどん海に投げ捨てて船を軽くしようとしますが、ダメです。一体誰のせいでこんなことになったのか、くじを引くことになります。そして、くじはヨナに当たるのです。ヨナは、自分が神様の御命令に従わなかったせいでこの船に乗っている人々を危険な目に遭わせしまったことを悟り、自分を海に放り込むようにと言います。そして、ヨナを海に放り込むと、海は静まりました。
 先程お読みしましたヨナ書2章は、海に放り込まれたヨナが大きな魚の腹の中で神様に祈りをささげた、その祈りが記されています。祈りの後、魚に陸地へ吐き出され、ヨナは今度こそニネベへ向かったのです。悔い改めを求めるヨナの言葉を聞いたニネベの人々は、何と悔い改めました。そして、ニネベの人々は神様の裁きによる滅びを免れたのです。
 「異邦人の町ニネベの人々でさえ、ヨナの言葉によって悔い改めた。わたしはヨナよりまさった者ではないか。どうして、あなたたちはわたしの言葉を聞いて悔い改めないのか。」そうイエス様は言われたのです。
 また、42節には「また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」とあります。これは列王記上10章に記されている出来事です。シェバの女王がソロモンの知恵を試しにやって来ました。シェバというのは、現在のアラビア半島の南の端にあったと考えられています。エルサレムから2000kmも離れています。そんな遠くからもソロモンの知恵を聞くために来た。
 「しかし、わたしはソロモンよりまさった者ではないか。異邦人であるシェバの女王さえソロモンの知恵に驚き、主をほめたたえた。それなのに、どうしてあなたたちはわたしの言葉に驚きもせず、受け入れようともしないのか。」イエス様はそう言われる。
 自分が一番、自分が正しいというところから悔い改めて、イエス様は正しい、イエス様が一番、そのように変えられていく。それこそ、イエス様が何よりも私共に求めておられることなのです。そして、神様とイエス様との愛の交わりに生きるようにと私共を招いてくださっている。愛の交わりは、相手の愛を信じて受け入れるところにしか成立しません。私共は、イエス様の十字架と復活という神様の愛の確かな「しるし」を与えられているのですから、この神様の愛を喜びと感謝とをもって信じ受け入れ、神様を父と呼び奉り、神様との愛の交わりに生きていきたいと思います。この交わりにこそ永遠の命があるからです。

[2018年9月9日]