日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「キリストの体と血とに与る」
出エジプト記 24章1~18節
マタイによる福音書 26章26~30節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今日はこの礼拝の後で教会修養会が行われます。テーマは「聖餐…その意味と守り方~全国連合長老会の式文改訂にあたって~」です。全国連合長老会は、2010年の会議において「主の日の礼拝の指針」を、2015年の会議において「主の日の礼拝式文」を、採択しました。そして、来年2019年の会議では「諸式の式文」を採択しようとしています。諸式というのは、長老の任職式とか教会設立式とか、通常の主の日の礼拝では行われない諸々の式ということです。この三つがすべて採択されますと、「全国連合長老会の式文」として印刷され製本されることになると思います。私も、式文委員会に責任を持つ者として10年以上にわたって関わりまして、やっとこれで一区切りが付くことにほっとしているところです。新しい式文には色々な特徴がありますけれど、今回、教会修養会で取り上げます「聖餐」については、より聖書的に、そして、より改革派・長老派の信仰の筋道がはっきりと表れているものになっていると思います。是非、皆さん残って、修養会に出ていただきたいと思います。

2.過越の食事
 さて、今朝与えられております御言葉は、イエス様が聖餐を制定された食事の場面です。この食事は、イエス様が十字架にお架かりになる前の日、つまり木曜日の夜の食事です。いわゆる「最後の晩餐」と言われる場面ですけれど、大切なことは、これが「過越の食事」であったということです。かつて、イスラエルの民がエジプトの地からモーセによって導き出される時、エジプト王ファラオは、エジプトを出て行って良いとはなかなか言いません。そこで神様は、エジプトに対して十の災いを下しました。災いの度毎にモーセとアロンがファラオとやり取りをします。災いが下った時にはファラオは「出て行って良い」と言うのですが、災いが収まりますと「やっぱりダメだ」と言い出す。そんなことが繰り返され、そして最後にして最大の災いが下されます。それが過越の出来事です。エジプトのすべての初子、ファラオの初子から家畜の初子に至るまで、エジプトのすべての初子が神様によって撃たれて死んでしまうという出来事が起きた。その時神様は、その家がイスラエルの民の家であることが分かるように、家毎に羊をほふり、その羊の血を鴨居と入り口の二本の柱に塗るように命じられました。そのしるしのあるイスラエルの家は、災いが過ぎ越して行きました。それで、過越の出来事、過越の祭というわけです。イスラエルの民は、この過越の出来事によって奴隷の状態であったエジプトから脱出することが出来て、出エジプトの旅が始まったのです。
 過越祭は、毎年この過越の出来事を覚えて守られるもので、その中心にあるのは、各家庭で守られる過越の食事でした。この食事は宗教的食事であり、神の民イスラエルにとっては、自分たちが神の民であることを確認する大切な食事でした。食事のメニューも食べる順番も祈られることなども決まっている、そういう食事です。イスラエルの民がイエス様の時代まで千年以上にわたって守り続けていた宗教儀式としての食事、それが過越の食事でした。

3.聖餐の制定
 しかし、イエス様はこの食事の席で、過越の食事においては決して言われることのないことを弟子たちに告げました。それが今朝与えられております場面に記されているイエス様の言葉です。26節「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』」この「パン」は、過越の食事において必ず食べられる種入れぬパンであったはずです。過越の出来事の日、イスラエルの民は急いでエジプトを出発したので、パンを発酵させるいとまがありませんでした。それで、イースト菌を入れないパンを過越の食事の時には必ず食べることになっていた。この食事全体が過越の出来事、出エジプトの出来事を思い起こす食事となっていたわけです。
 ところが、イエス様は「取って食べなさい。これはわたしの体である。」と告げることによって、この食事を全く新しい食事にされたのです。イエス様はこの食事を、十字架によって与えられる新しい神の民の食事とされたのです。イエス様は次の日には十字架にお架かりになり、十字架の上でその体を裂かれます。イエス様はその体を弟子たちに与えると言われる。それは即ち、この食事をイエス様の十字架によって与えられる罪の赦しを覚える食事、その救いに与る者たちの食事とされたということなのです。これが聖餐の制定です。聖餐を守らないキリストの教会はありません。キリストの教会はこの日以来、イエス様の十字架の出来事とそれによる救いの恵みを心に刻む食事として二千年にわたって守り続けてきました。過越の出来事によって生まれた神の民イスラエル。しかし今、イエス様の十字架によって新しい神の民が生まれる。その新しい神の民の食事として、聖餐が制定されたのです。
 イエス様は、パンに続いてぶどう酒の入った杯を取って、こう告げられました。27節b~28節「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」ここでイエス様は、はっきり「多くの人の罪が赦されるように流されるわたしの血」と言われました。これは明らかに十字架において流されるイエス様の血を示しています。イエス様が十字架にお架かりになって、私共の一切の罪が赦されるための犠牲となられる。その血を飲むということは、このイエス様の十字架の血によって与えられる新しい命に与るということです。旧約以来、聖書では、血は命を表しています。このイエス様の血に与るということは、イエス様の命に与るということです。イエス様は十字架の上で死なれるが、三日目に復活される。この復活の命に与るということです。イエス様の十字架による罪の赦しに与る者は、復活の命にも与るのです。この時イエス様は十二弟子と共に食事をされたわけですが、「多くの人のために」と言われました。この食事はその後、イエス様を信じ、イエス様の救いに与る多くの人、すべての人が与るものとなります。イエス様はそのことをもこの時既に御存知だったのです。

4.契約の血
イエス様は、この血は「契約の血である」と言われました。この「契約の血」という言葉は、先程お読みいたしました出エジプト記24章6~8節に、「モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、『わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります』と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」とあります。これは、シナイ山において、モーセによってイスラエルの民が神様と契約を結んだ場面です。この時、犠牲としてささげられた雄牛の血の半分が祭壇に振りかけられ、残りの血がイスラエルの民に振りかけられました。これが「契約の血」です。イエス様はこの場面を思い起こし、これと重ね合わせるようにして「契約の血」という言葉を使われたのでしょう。ここでイエス様は、モーセによって結ばれた神様とイスラエルの契約、神様と神の民の契約、それが御自身の十字架によって全く新しい契約となる。イエス様御自身が犠牲となることによって、神様との間に新しい契約が結ばれる。そのことをお示しになったのです。イエス様の十字架によって結ばれる新しい契約。それは、イエス様を信じる信仰によって、一切の罪が赦され、神の子とされ、神様との親しい交わりに生きる者となるというものです。
 イエス様の十字架の血は、過越の出来事の時に鴨居と柱に塗るためにささげられた羊の血を示し、イエス様御自身は、そのために犠牲となった羊を示す。それ故、イエス様は「神の小羊」と言われるのです。しかし、イエス様の十字架の血はそれだけではなくて、「契約の血」なのです。その血に与ることによって神様と契約が結ばれる。そういう血です。私共がイエス様の血である聖餐の杯に与るということは、神様との新しい契約、イエス様による罪の赦しという契約に与るということなのです。
 神様と契約を結ぶのは洗礼ではないか、と思われる方も多いでしょう。確かに、神様との契約は洗礼によって結ばれます。それと同じ契約内容が、この聖餐の度に更新されていくということです。契約が結ばれるのは一回だけです。だから洗礼は一回限りなのです。しかし、その契約は何度も更新されて、いつも新しくなっていなければなりません。私共の信仰、私共と神様との関係はそういうものです。いつも新しくされる。そのために与えられたのが聖餐です。これは契約更新ですから、まだ契約を結んでいない人は更新は出来ません。だから、洗礼をまだ受けていない方、信仰告白の終わっていない方は陪餐することが出来ないのです。

5.神の国の食卓
 イエス様は更にこう告げられました。29節「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」イエス様のこの言葉は、父の国とは神の国のことですから、イエス様は十字架の死によって終わるのではなく、復活される。更に、神の国・天の国において再び弟子たちと食卓につく時が来るということをお告げになったのです。これは、とても大切なことです。私共は聖餐に与る時、イエス様の十字架の出来事を思い起こすだけではない。やがて神の国・天の国においてイエス様と共に同じ食卓につく、その日を待ち望みつつ歩む者となるということです。
こう言っても良いでしょう。イエス様によって制定されたこの聖餐は、二千年前のイエス様の十字架と復活の出来事を思い起こすと共に、今、私共と共にいてくださるイエス様との交わりを与えられ、更に、再び来られるイエス様に思いを馳せるのです。過去・現在・未来と、とこしえに変わることのない主イエス・キリストとの交わりを与えられる。聖餐は、二千年前のイエス様の十字架を思い出して心に刻むだけではありまん。もちろん、そのことが一番大切なこととしてあります。イエス様の十字架の出来事と切り離されたところに聖餐はありません。イエス様が最後の晩餐においてこの聖餐を制定されたということは、聖餐がイエス様の十字架と切り離し得ないということです。しかし、思い出すだけではないのです。十字架にお架かりになったイエス様は、三日目に復活され、そして天に昇り、父なる神様の右に座して、すべてを支配しておられる。そのイエス様が、今、私共と共にいてくださるのです。そして、そのイエス様はやがて天から下り、全き救いの完成を与え、新しい天と地をお造りになる。そこに私共のまなざしを向けさせるのです。

6.イエス様と一つにされる
 さて、聖餐は、このようにとても大切な食事としてキリストの教会に保持されてきました。そこで大切なことは、二つあります。
 一つは、私共はこの聖餐においてイエス様の体と血とに与るのですが、それはイエス様と一つにされるということ、イエス様と一体とされる恵みに与るということです。イエス様と一つとされるが故に、イエス様の十字架は私の十字架となり、イエス様の復活は私の復活となり、イエス様の昇天は私の召天となるということです。イエス様の命が私の命となるということです。イエス様と一つにされて、私共もまた、神の子とされるのです。この救いの恵みが最もはっきりした形で示されているのが聖餐という出来事なのです。この救いの恵みは、説教によっても示されます。ですから、聖餐は、洗礼と共に「見える御言葉」と言われ、説教は「聞く御言葉」と言われるのです。聖餐と説教は、同じ救いの恵みを私共に示しているのです。

7.聖霊のお働きによって
 もう一つ大切なことは、この救いの恵みは聖霊のお働きによって私共に与えられるということです。聖餐のパンはただのパンです。杯に入っているのはただのぶどうの実から採れたものです。しかし、聖霊が働き、私共に信仰が与えられることによって、私共はこのパンをキリストの体として、杯をキリストの血として受け取ることになります。聖霊が働いてくださらなければ、それはただのパンであり、ただのぶどう汁に過ぎません。牧師が祈るとパンがキリストの体に、ぶどう汁がキリストの血に変わるということではありません。すべては聖霊のお働きによるものです。
 これは聖書も同じです。私共は、聖書の言葉を神の言葉として読み、また聞きます。しかし、聖書は、パウロの手紙はパウロが書いたものですし、エレミヤ書はエレミヤが書いたものでしょう。聖書は人間が書いたもの、人間の言葉で書かれています。しかし、聖霊が働かれることによって、聖書は神の言葉として私共に迫ってきます。私共の罪が明らかにされ、悔い改めを迫られ、救いの恵みに与る幸いを私共に教えます。聖霊が働かなければ、信仰が無ければ、聖書の言葉が神の言葉として私共に聞き取られることはありません。
 私共は今朝もこのように礼拝を守り、心を一つにしてイエス様の言葉を聞き、父・子・聖霊なる神様をほめたたえております。これは、聖霊なる神様の御臨在の下で為されていることです。聖餐は聖霊の御業だけど、聖餐が無い時の礼拝には聖霊が臨んでおられない、聖霊が働いていない。そういうことではありません。聖霊はこの礼拝に臨み、御言葉を与え、ここから始まる一週間の歩みを導いてくださいます。それが確かなことであることを示すために、イエス様は聖餐を制定されたのです。
 宗教改革者カルヴァンは、どうしてイエス様は聖餐を制定されたのかということについて、それは私共が不信仰だから、私共の信仰が弱いからだと教えています。私共の信仰はまことに弱く、頼りないものでありますから、イエス様と一つにされているということが分からなくなる、信じられなくなる。だから、この聖餐によって、見える形において、イエス様と一体とされる救いの恵みを示すために、そして私共の信仰の歩みが支えられるようにと、イエス様は聖餐を制定してくださったのです。まことにありがたいことです。信仰と真実をもって聖餐に与りつつ、御国に向かっての歩みをいよいよ確かなものにしていただきたい。そう心から願うのであります。

[2018年9月30日]