日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

召天者記念礼拝説教

「御子の姿に似た者とされる」
イザヤ書 65章17~20節
ローマの信徒への手紙 8章28~30節

小堀 康彦牧師

1.召天者記念礼拝を迎えて
 今朝私共は、先に天に召された愛する者たちを覚えて礼拝をささげています。皆様のお手元にあります召天者の名簿には、新たにN・S姉、M・S兄、K・T兄、M・S姉、4名のお名前が加わりました。更に、週報にありますように、先週の木曜日にI・K姉が天に召され、昨日、私が司式をして葬式が行われました。ですから、昨年の召天者記念礼拝から5名の方が天に召されたことになります。
 愛する者が亡くなるのはまことに寂しいことですが、天の父なる神様の御許ではこの5名の者たちが加えられたわけです。私共はこのことをしっかり心に刻んでおかなければなりません。教会では、この地上での生涯を閉じた方々のことを、「天に召された者」と書いて「召天者」と呼んでいるのは、そういうことです。私共の命は、地上での生涯が閉じられても終わることなく、天の父なる神様の御許において保たれている、それは確かなことです。私共は見たり触れたりして、そのことを確認することは出来ません。けれども、やがて時が来てイエス様が再び天から降られる時、私共は共々に復活し、そのことをはっきり確認することとなります。私共はその日を待ち望みつつ、この地上での歩みを為していきます。そのような私共に今朝与えられております御言葉は、ローマの信徒への手紙8章28~30節です。この御言葉から、私共の地上における歩みに必要な霊の糧を与えられたいと思います。

2.万事が益となる
 28節「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」と聖書は告げます。「わたしたちは知っている。」何を知っているかと言いますと、「万事が益となるように共に働く」ことを知っていると言うのです。私共は、この地上の生涯において良いことも悪いことも経験します。この地上の生涯を与えられてから閉じられるまで、楽しいこと、嬉しいことしかなかった。そんな人はどこにもおりません。良いことも悪いことも経験せざるを得ない。しかし、それらのすべてが「益となるように共に働く」、そのことを私共は知っていると言うのです。良いことも悪いこともあるけれど、結局の所、益となると聖書は告げます。それは、「災い転じて福となす」とか「人間万事塞翁が馬」といった意味ではありません。悪いことがあっても結局益となるのだから、ポジティブに考えていこうという話ではないのです。
 この「万事が益となる」というのは、結局は私にとって都合の良い結果になるということではなくて、すべてのことが共に働いて、神様の御心が成っていく。神様の御計画、神様の救いの御業が前進していくという意味です。私共は、自分が経験する出来事にどんな意味があるのか、どんな過去の出来事と繋がり、或いは将来のどんな出来事へと繋がっていくのか分かりません。しかし、すべての出来事は神様の御心のなかで起きている。そうであるならば、私共には意味がよく分からない出来事であっても、神様はその意味を御存知であり、それは結局の所、神様の救いの御業が前進していく、そのために共に関連し合っている、そのことを私共は知っているということなのです。具体的に、この出来事は次のこういう事態へと繋がっているなどということは私共には分かりません。しかし、この出来事も神様の御心の中でのことであり、そうであるならば、必ず神様の救いの御業の前進のために働くことになる、そのように私共は信じているわけです。
 これは誰にとっても自明なことであるわけではありません。しかし、「神を愛する者たち」「御計画に従って召された者たち」には明らかなことなのです。「神を愛する者」「御計画に従って召された者」それはキリスト者ということです。キリスト者は神様を愛する者です。神様を信じているけれど愛していない。そんなことはあり得ません。神様を信じるとは、神様を愛することと同じです。では、その神様への愛、神様への信仰はどのように与えられたのか。それは神様の御心にある御計画の中で、神様によって召し出されて与えられました。自分が求め続けた結果やっと手に入れることが出来たというようなものではありません。ローマの信徒への手紙を書いたパウロにとって、このことは決定的に重要なことでした。それは、パウロが元々はキリスト教を迫害していた者だったからです。ところが、神様は自分を選び、キリストを信じ、愛し、宣べ伝える者とされた。パウロの中に、神様によって選ばれるにふさわしい何かがあったということではありません。それはパウロにとっては決定的に重要なことでした。キリスト者を迫害していた自分が召し出され、イエス様を愛し、信頼し、宣べ伝える者になった。それは、ただただ神様の一方的な恵みの選びとしか言いようがありませんでした。自分のような者さえ選び、召し出し、救いの御業を前進させられる神様。このお方の御支配の中でこの世界の営みのすべてが為されているのですから、すべての出来事は神様の救いの御心、救いの御計画によって前進していることを信じる。それはパウロにとって当然のことでした。私共もそうです。自分が救われた。キリストを愛し、信じる者になった。それはただ驚くばかりの神様の恵みでした。そうであるならば、どんなことであってもすべてのことが必ず、神様の救いの御業が前進するために用いられるということなのです。
 このことは、聖書から具体的な例を幾つも示すことが出来ますが、最も大切な例として、イエス様の十字架を挙げることが出来るでしょう。イエス様はイスカリオテのユダの裏切りによって、また律法学者や祭司長たちのねたみによって、十字架に架けられて殺されました。この出来事は、人が神の御子を殺すという最悪の出来事でした。しかし、神様はこの最も罪深い出来事を用いて、私共の一切の罪を赦すという、神様の救いの御業を成就されました。「万事が益となるように」とは、そういうことです。更に、イエス様は三日目に復活されて、肉体の死によって終わらない命、永遠の命、復活の命への道を私共のために開いてくださいました。実に、神様の救い御業は、人間の最も罪深い出来事を用いてさえ前進していくのです。

3.御子の姿に似た者とされる
 そのような大いなる神様の御計画の中で、イエス様の救いに与ったキリスト者は、イエス様の姿に似た者とされるという歩みが与えられます。29節「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似た者にしようとあらかじめ定められました。」とあるのは、そのことを指しています。
 「御子の姿に似た者となる」というのは、イエス様が再び来られる終末の時に、復活の体をいただいて完成します。しかし、この「御子の姿に似た者となる」のは、既にこの地上の歩みにおいて与えられ始めています。その歩みはこの地上の歩みにおいて完成することはありません。しかし既に始まっています。そのひとつの「しるし」が、私共が祈る時に、神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来るということです。「父よ」と呼べるのは「子」だけです。たとえどんなに近しい関係であっても、親子でなければ「父」とは呼べません。こう呼べるのは「子」だけです。つまり、私共は神様の子とされた者として、この地上の生涯を歩んでいるということです。御子に似た者とされる日を先取りして、その日に向かって歩んでいる私共なのです。もちろん、この地上にあっては、私共はどこまでも罪人です。しかし、神の御子に似た者とされるという歩みは既に始まっています。
 この私共がイエス様に似た者とされるということ、それが完成されるのは終末においてです。イエス様が再び天から降られる時、それはこの地上の生涯を閉じた後であっても、私共はイエス様の声を聞くのです。私の名が告げられ、「起きなさい。」というイエス様の言葉を聞く。「小堀康彦、起きなさい。」このイエス様の声と共に私はイエス様に似た者とされて復活します。どうしてその声がイエス様だと分かるのか。イエス様の声など聞いたことは無いではないか。その通りです。しかし、分かるのです。それは、羊はまことの羊飼いの声を聞き分けるからです。私共はイエス様の羊であり、イエス様は私共のまことの羊飼いだからです。先に召された、愛する方々も同じです。みんな、イエス様に自分の名前を呼ばれて、イエス様に似た者とされて復活するのです。私共はこのイエス様に似た者とされるというゴールを目指して、この地上での命を歩んでいる。それがキリスト者です。このゴールを目指すということは、信仰において、愛において、父なる神様との交わりにおいて、イエス様の心と自分の心が重なるようになりたいという願いと祈りをもって歩む者とされているということです。それがキリスト者なのです。
 先に天に召された私共の愛する方々も、この恵みの道を歩んで行かれました。もちろん、欠けもあったことでしょう。地上において完成されることはないのですから当然です。しかし、彼らはこの地上の生涯の歩みにおいて、その歩みの目標、目当て、モデルと言うべき方を持った。それは本当に幸いなことでした。

4.教会という交わり
 実にキリスト者とは、イエス様に向かって、イエス様と共に、イエス様に倣って歩む者とされた者です。このことを聖書は29節bで「それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。」と言っています。キリスト者は、イエス様を長子とする神の家族の一員とされ、イエス様の兄弟姉妹となった者なのだというのです。イエス様は確かに私共の歩みのモデルであり、目標・目当てですけれども、それだけではありません。私共はイエス様の弟や妹とされた。そして、お互いにイエス様との繋がりを通して兄弟姉妹という関係に入れられたのです。このイエス様を首(かしら)とする兄弟姉妹の交わりとして、教会が建てられました。教会は建物ではありません。イエス様を愛し、信頼し、従う者たちの交わりです。この交わりは世界に広がり、歴史を貫き、天と地をも貫く、ただ一つの交わりです。地上にあってはローマ・カトリック教会があったり、正教会があったり、プロテスタント教会があったりと、幾つにも分かれているように見えますけれど、神様の目から見れば、この交わりは決して分裂していない、ただ一つの交わりです。イエス様が長子である神の家族が、幾つもあるはずはないからです。「神の家族」は、ただ一つです。洗礼を受けて神の家族の一員となった私共は、肉体の死によっても壊されることのない、神様との、イエス様との、愛する者たちとの、永遠の交わりに入れられたのです。先に天に召された私共の愛する者たちは、神の家族の一員とされた者なのですから、地上の生涯を閉じたからといって、この神の家族から脱け落ちるということはありません。目には見えませんけれど、昔も今もこれからも神の家族の一員であり続けます。イエス様を長子とする交わりの一員であり続けるのです。
 そして、このことがはっきりと現れるのが終末の時です。30節「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」ここで「栄光をお与えになった」とありますのは、やがて時が来てイエス様が来られる時に、復活のイエス様と同じ姿に変えられ復活する、この復活の姿こそが、キリスト者に約束されている栄光の姿です。イエス様の復活の姿に似た者とされて、栄光に輝く姿を受けることになっている。それが私共なのです。
 この御子の姿に似た者とされる栄光に与る者は、一切の罪を赦された者として神様の御前に立ちます。罪が赦されなければ、私共はただ滅びるしかありません。しかし、イエス様の十字架によって一切の罪を赦された。親しい交わりを与えられた。イエス様の弟・妹にされた。だから、神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来るのです。

5.神様の御計画の中で
 今朝与えられた御言葉において繰り返し語られていることは、神様の予知、予定ということです。28節「御計画に従って召された者たち」、29節「前もって知っておられた者たち」、30節「あらかじめ定められた者たち」と繰り返されています。つまり、私共がイエス様の十字架と復活の救いに与ったのは、神様が既に永遠の昔に御計画され、予定されていたことだったと言うのです。私共が神様に選ばれ、救いに与ったのは、私共が真面目で熱心で、良い人だったからというのでは断じてありません。すべては神様の憐れみの御計画によるものです。そうであるとするならば、私共はこの救いの恵みに与ったことを自分の手柄にすることなど出来るはずもありません。ただ神様に感謝するばかりです。
 私共が復活された御子に似た者とされ、栄光に満ちた姿を与えられる時も、ただただ神様の恵みによります。すべてが神様の御計画、予定によることです。そうであればこそ、この救いの御業は確実に行われることになります。私共の努力や熱心によるならば、この救いに与れる人と与れない人が出るでしょう。そして、自分は本当に大丈夫か、救いの完成に与ることが出来るのかと不安にもなりましょう。しかし、最初から最後まで神様の憐れみの御計画、予定に基づくものであるならば、この救いの御業は、例外なく確実に私共一人一人の上に成就していくことになります。神様に失敗はないからです。だから、私共は安心して良いのです。私共も、先に天に召された愛する者たちも、必ず復活のイエス様に似た者とされ、復活の体を与えられて、共々に神様の御名をほめたたえることになります。そのことを信じ、その日を待ち望みつつ、為すべきことを誠実に為して、この一週も歩んでまいりたいと思います。

[2018年10月28日]