日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「天の国の秘密」
イザヤ書 6章8~13節
マタイによる福音書 13章10~17節

小堀 康彦牧師

1.先週の説教を振り返って
 先週私共は「種を蒔く人のたとえ」から御言葉を受けました。種を蒔く人が種を蒔いた。ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ある種は石だらけで土の少ない土地に落ちて、芽は出たけれど枯れてしまった。茨の地に落ちた種は、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ほかの種は良い土地に落ち、百倍、六十倍、三十倍の実を結んだ。
 このとても印象深いたとえ話から、種を蒔く人と蒔かれた種とに注目して御言葉を受けました。この種とは御言葉で、これを蒔くのは神様・イエス様です。神様・イエス様は良い土地にだけ種を蒔かれるのではない。実が結ばない道端にも石地にも茨の地にも種を蒔く。何度でも惜しみなく蒔く。御言葉の種は、蒔いても蒔いても無くならない。だから、私共も諦めず、どんな時もどんな人にも御言葉を伝えていこう。その人がどんな土地なのか、私共には分からないのだから。
 そして、この道端・石地・茨の地というのは私共自身だ。初めから良い土地の人なんて一人もいない。神様に耕していただいて、頑なな心を砕いていただいて、良い土地になっていく。そして、私共も良い土地に変えられ続けている。しかも、やがて百倍、六十倍、三十倍という、あり得ないほどの豊かな実りを結ぶと約束されている。神の国の完成の時、私共は全き救いに与り、一切の罪を赦され、イエス様に似た者とされ、復活の命に生きる者としていただく。まことにありがたいことだと御言葉を受けました。

2.HG大学のセミナーに奉仕して
 私自身、この御言葉に押し出されるようにして、一昨日と昨日、HG大学のコミュニティー文化学科のセミナーに行って来ました。最近は学科名がしょっちゅう変わるので、よく分からない方もいると思いますが、これは昔の英語科と教養科が合わさったものです。どんな土地にも種を蒔く。蒔き続けるのだ。そんな思いで行きました。前もって「あなたにとって大切なものは何ですか」というアンケートを生徒全員に答えていただいておりました。各々三つずつ挙げてもらったのですが、アンケートの結果は、「家族」「お金」「友人」がそれぞれ70%近くを占めるという結果でした。それで、この三つについて、心得ておかなければいけないこと、聖書が語っていることをお話しました。この心得ておかなければいけない実際的なことについては、皆さん良く話を聞いてくれ、伝わっているという手応えがありました。しかし、どうしてそうするのか、その様に考えるのかという聖書の話になりますと、なかなか伝わっていかない。何とか興味を引くようにと、色々やってみましたけれど、敗北感と言いますか、自分の力の無さを思わされる結果になってしまいました。もちろん、一時間の講演二本で信仰に目覚めるというようなバラ色の結果を期待していたわけではないのですが、改めて難しさを感じました。しかし、何人かHG高校からから入ってきている子たちがいまして、その子たちはとてもよく話を聞いていました。やはり、中学・高校からが大切なのだと思いました。現実的に、こういう場合にはこういう考え方をして対処すること、こういう危険がありますからよく弁えておきましょう、そういう話は伝わるのです。しかし、どうしてそうした方がいいのか、それは神様の御心から導くわけですが、その所になるとなかなか伝わらない。私としては、そこを伝えに行っているわけで、何とも敗北感と言いますか、挫折感と言いますか、そんなものを感じながら帰ってきました。
ただ、講演を聴いて何を学び、何を感じ、何を考えたのかということの発表があり、そこで「伝わっていない」ということを知らされて打ちのめされてしまったのですけれど、ちょっと伝わったかなと思うこともありました。それは、一人の学生が「自分の軸をしっかり持つことが大切だと思った。」と言ったことです。学生が「自分の軸」という言葉で表現したことは、自分の価値観あるいは倫理基準といったものでしょう。それがぶれないのは、私共が「神の御前で」生きるということを知ることによってなのです。そのことをセミナーの一番最後にお話しして、帰ってまいりました。

3.分かりにくいたとえ話
 さて、今朝与えられております御言葉は、イエス様が「種を蒔く人のたとえ」をどうして語られたのか、その理由が示されている所です。
 この「種を蒔く人のたとえ」は、当時の種を蒔く人の情景を語っているだけで、このたとえ話を聞いただけでは、何を言っているのか分からないような話です。幸い、18節以下で、イエス様御自身が説明してくださっていますので分かりますが、この説明が無ければ、私共も、イエス様が何を語ろうとされたのか、よく分からなかったのではないかと思います。
 求道者の方とこのたとえ話を読みますと、1~9節までを読んで「このたとえ話は何が語られているでしょうか。」と尋ねて、「分かった。」と言う人に今まで一人も会ったことがありません。多分、この時もそうだったのだと思います。このたとえ話を聞いた群衆は、イエス様が何を言っているのか、さっぱり分からなかったに違いないと思います。弟子たちはイエス様に言います。10節「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか。」これは、イエス様に対して、「もっとストレートに、分かりやすく、神の国について、救いについてお話しになれば良いのに。」そう批判したのでしょう。これに対してのイエス様の答えは、11節「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。」というものでした。このイエス様の答えも、私共を戸惑わせるものです。イエス様は、この人には天の国・神の国について悟ることが出来るように定められているが、あの人たちには悟らないように定められている。そうイエス様が告げられたように読めます。しかし、イエス様はそのように、この人は救われる、この人は救われないと、人を分けて見ておられる方なのでしょうか。イエス様はすべての人を救うために来られたはずではないのか。とすれば、このイエス様の答えは矛盾していると言いますか、何を言おうとされたのか分からない。私共は、正直な所、このイエス様の言葉に混乱してしまいます。

4.天の国の秘密
 ここで私共は、イエス様が語られた「天の国の秘密」という言葉に注目しなければなりません。「天の国の秘密」とは一体何を指しているのか。このことについて色々な言い方、色々な側面があると思いますけれど、これを外してはいけないという中心ポイントは、「イエスは主なり」ということです。「イエス様はまことの神にしてまことの人である。」「イエス様は神の独り子である。」「イエス様は救い主である。」「イエス様は愛のお方である。」言い方は色々あるでしょうけれど、「イエス様が誰か」ということが、天の国・神の国について、私共の救いについて、決して外すことの出来ないポイント、天の国の秘密なのだと思います。このことを外してしまいますと、天の国についても、私共の救いについても、何も分からない。この大切なポイントを、この時の群衆は受け入れなかった。弟子たちはそれを受け入れていた。そういうことなのだと思います。
 イエス様は13節で「だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。」と言われました。「見ても見ず」。彼らは見ているのです。イエス様御自身を目の前で見ている。イエス様の様々な奇跡も見た。しかし、神の御業としては見ていない。イエス様を我が主としては見ていない。「聞いても聞かず」。彼らは聞いているのです。イエス様の言葉を、様々な教えを聞いている。しかし、それを神の言葉としては聞かない。だから、「理解できない」のです。何故でしょうか。イエス様はイザヤ書6章の言葉を引用され、これが実現したのだと言われます。14~15節「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。」これもなかなか分かりにくい所ですけれど、最後の所で「心で理解せず、悔い改めない。」とあります。何故、見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないのか。それは、悔い改めないからだと言われるのです。イエス様を我が主、我が神として受け入れるということは、悔い改めることを必要とします。今までの自分の生き方、考え方、その根本から変わらなければならない。イエス様が主なのですから、自分が主人であった生き方とは変わらなければならない。しかし、彼らはそうしない。だから、天の国について少しも分からないのだとイエス様は言われたのです。

5.分かっていると思っている人が分からない
 この時の群衆は分からない人たちではなかった。分かっている。この前の12章に出てくる、律法学者やファリサイ派の人々と同じように分かっていると思っている人たちだったのでしょう。神様について、その御心について、自分は分かっている。そう自分で思っていた。だから悔い改めない。だから変われない。変わらない。イエス様を我が主、我が神として受け入れない限り、イエス様が告げた言葉は何も分からないのです。彼らは、自分は分かっていると思っている。だから、聞いても聞かない。そして、何も変わらない。
 しかし、「イエス様は誰か」、このことさえ分かれば、自分が誰であるかも分かります。私共は、イエス様の僕です。イエス様の十字架によって一切の罪を赦していただかなければならない者です。私の命は神様からいただいた命であって、神様の御心に従います。神様が喜ぶことを喜ぶ者として生きるのです。このことが分かれば、イエス様のお語りになったことが分かります。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイによる福音書6章33節)、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイによる福音書6章24節)、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイによる福音書5章3節)等々、イエス様が今まではっきりお語りになったこと、これらもイエス様を我が主、我が神として受け入れなければ、分からない。どんなにはっきり語っても、「天の国の秘密」が分からなければ、分からない。イエス様が誰かということが分からなければ、何も分からないのです。
 イエス様は12節で「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」と言われます。これは、まさにイエス様を我が主、我が神とすることがなければ、どんなに御言葉を与えられてもそれが豊かな実りを結ぶことはなく、ファリサイ派の人々もユダヤ人の多くも「自分は神の民だ。選ばれし者だ。」と思っていたわけですけれど、その持っていると思っていたものさえも失うことになる。つまり、天の国に入ることは出来なくなってしまうということです。しかし、「イエスは主なり」ということさえ分かれば、その信仰さえ与えられたならば、その人はどんどん変えられていき、やがては天の国においてイエス様に似た者へと造り変えられる。救いの完成に与ることが出来るということです。
 イエス様は「天の国の秘密」と言われましたけれど、口語訳では「奥義」と訳されていました。原文では、ミステリーの語源となったミステリオンという言葉です。「秘密」というものは、普通は隠しておくものでしょう。しかし、「天の国の秘密」、イエス様が誰であるかということは、少しも隠されていない。露わにされている。私共は一生懸命、イエス様が神の子であり、救い主であることを公に伝えています。隠したことなんてありません。この主の日の礼拝の度毎に、公に伝えている。しかし、分からない人には分からない。それは、分かろうとしていないからなのです。悔い改めて、変わりたくないからなのです。イエス様が自分の主人になって欲しくないのです。自分の主人は自分に決まっている。この主人の座をイエス様に明け渡したくない。そうである限り、天の国の秘密は秘密のままだということになります。しかし、イエス様を我が主、我が神として受け入れる者にとって、イエス様がお語りになったことは少しも難しくない。とても分かりやすいことばかりをお語りになったのです。
 神様がどうして罪人のために何の罪も無い我が子を十字架に架けたりされるのか。どうして天地を造られた神が一人の人間となって降るのか。私は知っている、分かっていると思っている人。つまり自分の常識や価値観こそが正しく、それ以外のものは間違っていると考える人にとって、これは全く理解出来ず、納得出来ないことでしょう。しかし、イエス様を我が主、我が神と受け入れた者にとって、それはありがたいこと、感謝すべきこと以外の何ものでもないのです。

6.あなたがたの目は、あなたがたの耳は幸いだ。
 イエス様は16~17節「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」と言われました。イエス様はここで、「幸いだ」「幸いだ」と繰り返されました。何と幸いなことかということです。旧約の預言者たちは、イエス様の到来、イエス様によって与えられる救いを指し示して預言しましたが、彼らはそれを見ることなく、地上の生涯を閉じました。しかし、イエス様の弟子たちは、預言者たちが見たい、聞きたいと願った救い主の姿を、救い主の業を見ることが出来、救い主の言葉を、救い主の教えを聞くことが出来た。何と幸いなことか。イエス様はそう言われたのです。
 私共もそうなのです。主の日の度毎にここに集い、イエス様の言葉を信仰をもって聞き、イエス様の御姿を霊のまなざしをもって見ている。ここに既に天の国・神の国は来ている。私共は、既に神の国に生き始めている。私共は御言葉を与えられ、百倍、六十倍、三十倍の豊かな実りを結ぶ者とされているのです。まことにありがたいことです。
 HG大学での奉仕にいささか気落ちしていた私でしたけれど、この説教の備えをしながらこう思いました。イエス様だって、お語りになったことがいつも人々にちゃんと伝わり、すべての人がそれを受け入れ、「イエスは主なり」と告白する者へと導かれたわけではない。だとすれば、私が話したってすぐに何か伝わるというものでもなかろうと思い直しました。そして、種は蒔かれたのだから、その種が豊かに実りを結ぶことを期待し、祈っていくことが私の務めなのだと思いました。聖書の言葉ではありませんけれど、私の好きな言葉に「蒔かぬ種は生えぬ」があります。種が蒔かれることなく実を結ぶことはないのですから、「イエスは主なり」との天の国の秘密を明らかにするように、御言葉を伝えていこう。そう改めて思いました。共々に、主の御手の中にある実りを信じて、御言葉の種を蒔いてまいりましょう。

[2018年11月11日]