日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

元日礼拝説教

「広がり行く神の国」
エゼキエル書 17章22~24節
マタイによる福音書 13章31~35節

小堀 康彦牧師

1.2019年を迎えて
 2019年最初の日、私共はここに集い、礼拝を守っています。父なる神様を賛美し、祈りをささげ、御言葉を受け、新しい一年を歩み出そうとしています。ここに私共の姿勢が現れています。私共はこの新しい2019年という年を、神様を礼拝し、神様の御言葉を受け、神様と共に歩んでいきたいと願っています。めいめい具体的に、こうであったらいいなと願うことはありましょう。しかし、その願いが叶えられるかどうかということよりも、この一年、神様を愛し、神様を信頼し、神様に従って歩んでいきたい。それが私共の第一の願いでありましょう。だから、私共は今朝ここに集ってきたのでしょう。神様はその思いを喜んでお受け取りくださいます。

2.天の国の二つのたとえ話
 今日、そのような私共に与えられた御言葉は、イエス様がお語りになった天の国についての二つのたとえ話です。イエス様は天の国について、「からし種に似ている」と言われ、また「パン種に似ている」と言われました。
 天の国は、いわゆる天国とは少し違います。天国というのは、死んだら行く所というイメージでしょうけれど、マタイによる福音書が語る「天の国」は、「神の国」「神様の御支配」という意味です。この神様の御支配としての天の国、神の国は、イエス様の到来と共に既に始まっております。私共は既に神の国に生き始めています。しかし、それはまだ完成してはいません。それが完成するのはイエス様が再び来られる時、終末の時です。私共はその日を目指して歩んで行くわけですが、2019年の新しい歩みを始めようとしている私共に対して、今朝、イエス様はこの二つのたとえを用いて約束を与えてくださっています。その約束に共に耳を傾けたいと思います。

3.広がり増える神の国
まず「からし種のたとえ」です。イエス様はこう告げられました。31~32節「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」この「からし種」というのは「からしの実」ですけれど、これは1mmもない小さなものです。しかし、それが成長すると3m或いは4mもの木になる。その枝には鳥が巣を作るほどだ。天の国はそれと似ていると言われるのです。ここでイエス様が言おうとされているのは、天の国、神様の御支配はほんの小さなことから始まるけれど、やがて多くの人々が宿るほどに成長していくということです。
 この鳥が宿るほどの木というイメージは、先程お読み致しましたエゼキエル書17章22~24節においても用いられており、これは諸国を従わせるほどの繁栄を指しています。イエス様が語られたのもそういうことです。
 イエス様がこのたとえを語られた時、イエス様の弟子たちは数えるほどしかいなかったはずです。今朝ここに今集っている人数よりも少なかったでしょう。しかし、イエス様が十字架にお架かりになり、復活され、天に昇られ、聖霊を弟子たちに注いで、弟子たちはイエス様の福音を全世界に宣べ伝えました。宣べ伝え続けました。その結果、今では世界の人口の三分の一がキリスト者になっています。このたとえ話を聞いた時、人々はこのような将来を想像することなど決して出来なかったでしょう。しかし、イエス様は御存知でした。御自身が十字架に架かり、復活することによって開かれる、神様との親しい交わりの世界。これが天の国ですが、その天の国そのものが持っている力によって、神様の御業によって、福音が世界中に広がって行くことを知っておられました。これが私共に与えられている第一の約束です。
 天の国は、私共が何かをしたら広がっていくとか、しなかったらダメになってしまうとか、そういうものではないのです。神の国は、からし種が自然に大きくなるように、神様の御手の中で大きく成長していくことになっているということです。今までもそうでしたし、今もそうなのです。
 神の国の成長は、洗礼者が出ることで私共にも見える形で現れますけれど、皆さんは、世界中で毎日どれくらいの人が洗礼を受けていると思われますか。現在キリスト者は世界に約22億人いるとの統計があります。これは、一人が大体60年間キリスト者であるとすると、一年間に3600万人が洗礼を受けているということになります。単純に365日で割りますと、一日あたり約10万人が洗礼を受けているという計算になります。これは想像するだけでも気が遠くなるような数字ですけれど、これが現実です。私共は、この神の国が広がり続けている2019年という一年を歩むのだということです。
 もちろん、この広がり続ける神の国は、私共の住むこの富山の地にも及んでいます。137年前、この富山の地にイエス様の福音が伝えられた時、ここには一人のキリスト者もいなかった。しかし、今日では幾つもの教会があります。先日のクリスマスに洗礼を受けたY・Sくんは五代目のキリスト者です。137年前には誰も想像していなかったことです。

4.世界を私を変えていく神の国
 さて、神の国はキリスト者の数が増えればいいのか。そんなことはありません。次にイエス様は、天の国をパン種にたとえられました。33節「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」ここで、3サトンという量は、1サトンが13.5Lですので、3サトンは約40Lになります。40Lの小麦粉、これは相当な量です。100~150人分のパンが焼ける量だと言われます。この粉にパン種を入れる。パン種は少しです。しかし、これを混ぜて、こねてしばらく置きますと、小麦粉全体が膨れるわけです。そして、分けて整形して焼くとパンが出来る。ここでは、少しのパン種によって大量の小麦粉全体が変わってしまうと言われているわけです。
 「からし種」が数とか大きさにポイントがあったのに対して、「パン種」のたとえでは質が問題になっています。つまり、イエス様の福音によって、この世界の質が変わっていく、社会が変わっていく、人間が変わっていく。そう言われているのです。  この世界は神の国の完成に向かって進んでいます。そして、神の国には差別も貧富の差もねたみも悩みも無いのですから、この世界もそちらの方向に必ず進んで行きます。そのことを私共は信じて良いのです。世の人が誰も信じなくても、私共は信じる。何故なら、イエス様が約束してくださったからです。これが第二の約束です。
 しかし、それは隠されています。誰の目にも明らかなわけではありません。イエス様は、35節で「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」と言われています。本当に神の国は広がっていくのか。本当にこの世界は御心に適うように変わっていくのか。「自分の周りを見ていると、とてもそうは思えない。」と言う人もいるでしょう。しかし、変わっていきます。
 2018年は「#MeToo」という運動が起き、性的な嫌がらせを受けた女性たちが世界中で声を上げました。社会的に力のある男性が女性にひどいことをしても、女性は黙っていなければ生きていけないという時代が長く続きました。今でもそういう所はあるでしょう。しかし、変わってきた。医学部の入試における女性差別にしても同じです。多分、公然の秘密だったのでしょうが、こういうことは秘密に出来なくなってきました。障害者の雇用にしてもそうです。パラリンピックもちゃんと報道されるようになってきました。障害者に対しての見方も変わってきていると思います。全く十分ではありませんけれど、変わってきている。私が会社で働いていた40年前は、日本中の企業がブラック企業でした。でも、それではいけないというように、社会は変わってきました。
 残念なことに、新聞を広げれば、何たることだというようなことが毎日のように起きています。2019年もまた、そういうニュースが毎日のように流れるのでしょう。しかし、変わってきているし、変わっていきます。これでも神様はいるのかと言いたくなるような悲惨な出来事はいつまでも起きるでしょう。先日の主の日の礼拝で見ましたように、毒麦は終末まで無くなることはないのですから。神様の御心に反することは起き続け、無くなることはありません。しかし、それでも変わっていきます。

5.待たねばならない
それは、あっという間に、一瞬にして変わるというものではありません。からし種が大きな木に成長するには時間がかかります。「ジャックと豆の木」のように、一夜にして大木になるわけではないのです。また、三サトンの小麦粉全体にパン種が行き渡り、全体を膨らますのだって、一瞬の内にというわけにはいきません。パン生地を寝かせる時間が必要です。しかし、からし種は確実に成長しますし、パン種は確実に小麦粉全体を変化させ、膨らませることになる。私共は、このからし種の成長の過程、パン種によって社会が変質させられていく、そういう時代に生きているのです。
 そのような私共に求められていることは「信じること」そして「諦めない」ことです。イエス様がこのたとえ話で教えてくださったことを信じて、諦めないことです。それは、私共の力で何とか出来ると信じることではありませんし、何としてもやり抜くのだと諦めないことでもありません。神の国は、神様の御手によって広げられ、神様の御手によって世界が、人間が、変えられていくのです。その神様の御業を信じて、諦めないということです。

6.祈りつつ
 イエス様は、そのように信じて、諦めない私共のために、祈ることを教えてくださいました。主の祈りです。主の祈りの初めの三つの祈り、「御名を崇めさせたまえ。」「御国を、来たらせたまえ。」「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」は、神の国を来たらしめる神様の御業を信じ、諦めない私共に与えられている祈りです。
 この世界の主は、天地を造られた父なる神様であり、その右におられるイエス様です。その御手の中で生かされている私共であり、保持されている世界なのです。ですから私共は「御名が、つまり神様御自身が崇められるようになること」、それを私共は第一に祈り求めるのです。神様以外のものが、それは富であったり、名声であったり、社会的地位であったり、自分に喜びを与えるいかなるものであっても、それが神様以上に尊いものであるかのように思われ崇められる所では、人間も社会も、その本来の歩むべき道を見失ってしまうのです。それは偶像礼拝だからです。それは天の国・神の国と最も対極にある世界だからです。
 そして第二に、御国、つまり天の国・神の国ですが、これが来ることを願い求めます。私共は2019年を迎えましたが、それは、2018年よりもイエス様が来られるまでの時が確実に一年短くなったということです。神の国は今も広がっていますけれど、イエス様が来られなければ完成はしません。「御国を、来たらせたまえ。」とは、イエス様が来てくださいますようにという祈りでもあります。
 第三に、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」です。神様の御心は天においては完全に為されています。しかし、この地上においては、神様の御心ではなくて、力ある者の欲によって様々なことが動いているかのように見えます。力の強い者が弱い者を虐げている現実があります。それが御心ではないことを私共は知っています。そして、それがいつまでも続くものではないということも知っています。御国が来れば、富も力も権力も、すべては意味のないものになってしまうからです。
 天の国、神の国は既に来ている。それは隠されていて、すべての人に明らかにされているわけではないけれど、私共はそれを知っている。私共は、イエス様の十字架による罪の赦しに与り、神様に向かって「父よ」と呼ぶ者とされているからです。この既に来ている神の国は、やがて完成します。それがいつなのか、私共は知りません。しかし、必ず来る。そのことを信じて、諦めることなく、祈りつつ待つのです。
 御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が天になるごとく地にもなりますように。そう祈りつつ、この2019年、人の目には隠されている神の国の前進を、信仰のまなざしをもってここにもあそこにもその前進のしるしを見させていただきながら、主と共に、主の御前を歩んでまいりたい。そう心から願うのであります。

[2019年1月1日]