日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「財宝よりも貴いもの」
詩編 119編9~16節
マタイによる福音書 13章44~52節

小堀 康彦牧師

1.天の国のたとえは、今起きていること
 2019年最初の主の日を迎えています。今朝与えられております御言葉は、イエス様がお語りになった天の国の三つのたとえです。マタイによる福音書は、同じような話をまとめて記すという編集の仕方が為されていて、この13章には天の国のたとえがまとめられています。「種を蒔く人のたとえ」「毒麦のたとえ」「からし種とパン種のたとえ」に続いて、今朝与えられております三つの短いたとえが記され、7つの天の国のたとえが記されています。
天の国のたとえを読む時に大切なことは、これは、神様の御支配がどのようにもたらされるのか、神様の御支配とはどういうものなのか、それを告げているものであるということを弁えることです。つまり、天の国のたとえは、イエス様の到来と共に始まった天の国、神の国、神様の御支配というものが、このように広がっていく、そして完成に至る、そのことを告げているのであって、いわゆる天国とはこんな所ですよ、というようなことが告げられているわけではないのです。ですから、このたとえで告げられていることは、今現実に起きている神様の御支配のこと、これから起きる神様の御支配のことが告げられています。もっと言えば、既に天の国、神の国に生き始めている私共のことが語られているのです。天の国のたとえとは、そういうたとえ話なのです。ですから、少しも難しい話ではありません。イエス様はここで、私共が見たことも聞いたこともない別世界の話をしておられるわけではないからです。
 これら七つの天の国のたとえ話を語り終わって、イエス様は弟子たちにこうお尋ねになりました。51節「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」この問いに対して、弟子たちは「分かりました。」と答えます。弟子たちが特に頭が良かったとか、理解力に優れていたということではありません。そうではなくて、弟子たちは、イエス様が語られた天の国は既にここに始まっている、自分たちは天の国に生き始めている、そのことが分かった。イエス様が語られたことは、今自分たちがイエス様と一緒にいることによって味わっている現実のことだ。イエス様が語っておられるのは自分たちのことだ、ということが分かった。このことが分かりましたので、弟子たちはイエス様の問いに対して、「分かりました。」と答えたのです。
 ですから、私共もこのたとえにおいて、イエス様がお語りになられたことは私のことだ、私の上に既に始まっていることだ。このことが分かれば、この時の弟子たちと同じように、「分かりました。」と答えることが出来るはずなのです。皆さんが、この説教の後で「分かりました。」と言うことが出来れば何よりだと思います。

2.初めの二つのたとえ
 では、三つのたとえを順に見てまいりましょう。
 この三つのたとえの最初のものは、こういうたとえです。1節だけで終わってしまう短いたとえです。44節「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」ここで、天の国とは、畑に隠されていた宝ではありません。この宝を見つけた人に天の国、神様の御支配がもたらされるということを告げています。
 次のたとえはこういうものです。45~46節「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」ここでも、天の国は高価な真珠ではなくて、それを見つけた商人、ここに天の国がもたらされているということです。
 この二つのたとえで共通していることは、畑の宝や良い真珠を手に入れるために、畑の宝を見つけた人も良い真珠を見つけた商人も、どちらも「持ち物をすっかり売り払って」畑を買い、良い真珠を買っていることです。持ち物をすっかり売り払うということは、自分は無一文になるわけです。しかし、そのお金で畑を買えば、それよりずっと高価な宝が手に入る。良い真珠を手に入れれば、持ち物を売った以上の富を確実に手に入れることが出来る。だから安心して、聖書の言葉で言えば「喜んで」、そのようにしたということです。この二人の人は、ギャンブルをしたわけではありません。こっちの方がずっとずっと得であることが分かりきったことだから、そうした。それだけのことです。
 ちなみに、畑に宝があったというのは、今のように銀行に預けるということが当たり前の時代ではありませんので、戦争のようなことが起きれば全財産を土の中に埋めて逃げるということがよく行われていました。その人が帰ってくればそれを掘り出すわけですけれど、それを隠した人がその地に戻ることが出来なければ、宝は畑の中に埋められたままになってしまう。そうことがあったようです。畑の持ち主も変わり、何も知らない農夫、この土地の持ち主ではないので雇われ農夫か小作人のような人が、畑を耕していてそれを見つける。当時は、土に埋まっているものはその土地の持ち主のものということになっていましたので、その人は持ち物をすべて売り払ってお金を工面して、その畑を買い、そして宝を手に入れたという話です。現代の日本の法律では、そういうわけにはいきません。自分の畑であっても自分の知らない宝を発見したら、警察に届けなければなりません。
 また、真珠というものは当時、高価な物の代表でした。養殖はないのですから、今のダイヤモンドのような価値があったと考えて良いでしょう。

3.宝や真珠は何を意味しているのか
 では、この宝や真珠は何を指しているのか。色々な言い方が出来るでしょうけれど、その中心にあるのはイエス・キリスト御自身です。あるいは、イエス様によってもたらされた福音、罪の赦し、永遠の命、神の子たる身分、父なる神様との親しい交わり、等々です。これと出会い、これを知ってしまった人は、今まで自分が大切にしていたものが色あせてしまう。そして、これを何より大切なものとして生きていく者になる。こうして、天の国、神様の御支配がその人にもたらされるとイエス様は言われているわけです。
 弟子たちはこのことがよく分かった。何故なら、彼ら自身、この畑に宝を見つけた人のように、良い真珠を見つけた商人のように、イエス様に出会って、イエス様に従うために、漁師であった者は舟を捨て、網を捨てたからです。徴税人であった人は、その仕事を捨てたからです。弟子たちは、この話を聞いて、これは自分たちのことだと分かった。だから、少しも難しい話ではなかったのです。
 私共もそうです。イエス・キリストというお方に出会って、自分にとって一番大切なものがはっきりした。この方と一緒に生きていこう。そこに自分の人生を投入していこう。そう思って生きてきたのではないでしょうか。この方の言葉に真実がある。この方の業に力がある。そして、この方にまことの愛があるからです。この方を愛し、信頼し、従っていく。ここに新しい私が生まれました。天の国に生きる私が生まれたのです。それは、つらい苦しい決断ではありませんでした。イエス様と出会うことによって、まことの主人を持った。生きる基準を持った。それは本当に喜びでした。この喜びと共に、天の国は私共の中にもたらされました。罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命を与えられました。目に見えるどんなものよりも貴い宝を、私共は与えられたのです。天の国・神の国というものは、このように一人一人にもたらされます。イエス様と出会った一人が変えられて、神の国は広がっていきます。天の国に生きるということは、この地上の命よりも貴いものです。この地上の命が消えても、失われることのない命だからです。この宝と出会って、私共は自分の人生がただ長ければいいというものではないことを、はっきり知りました。地上の命が僅かばかり長くても、大した意味はない。イエス・キリストが与えてくださる救いに与ること。それは百年生きることにも優るということを知りました。

4.隠されている天の国
さて、畑に宝を発見しても、良い真珠を見つけても、持ち物をすっかり売り払ってでもこれを手に入れようとしなければ、どうなるでしょうか。何も変わらないし、喜ぶことも出来ません。どうして、そこまでしないのか。それは、その宝が、その良い真珠が、そんなに価値があるものだと思えないからでしょう。残念ながら、そういう人もいます。それは、本当に深い所でイエス様に出会っていないからです。或いは、サタンの誘惑にそそのかされたということなのかもしれません。いずれにせよ、この宝や良い真珠を手に入れるためには、自分の財産をすべて売り払うほどの覚悟が求められるということも本当のことでしょう。喜びの中で、しかし覚悟を持ってです。それは、結婚に似ているかもしれません。喜びの中で、自分の人生が全く変わる覚悟をして、一歩を踏み出す。少し違うのは、結婚は相手が人間ですからいい加減な所がありますけれど、イエス様・神様は決して裏切りませんので、決して失敗はないということです。
 そもそも、この宝や良い真珠は、誰の目にも明らかなものではなく、隠されているものです。誰の目にも明らかならば、イエス様はこんなたとえ話はなさらなかったでしょう。そして、あっという間にすべての人がイエス様を我が主として受け入れたことでしょう。しかし、そうはならない。不思議なことですが、神の国とはそういうものなのです。
 イエス様の十字架は誰の目にも明らかでした。しかし、皆がその意味が分かったわけではありません。また、それだけではキリスト教は生まれませんでした。イエス様が三日目に復活された、そのことによってキリスト教は生まれました。復活によって、イエス様が神の子・救い主であることが決定的に明らかになったからです。しかし、このイエス様の復活は、誰の目にも明らかなあり方で起きたのではありませんでした。イエス様は、御自分の弟子たちにその復活の姿を現されました。けれども、誰の目にも明らかなように、例えば神殿や市場で「わたしが十字架に架けられて死んだイエスだ。」と言ってみんなにその復活の御姿を現されたのではありませんでした。イエス様との出会いは、信仰的・霊的出来事でした。それは今でも同じです。そして、この復活のイエス様に出会った弟子たちによって、イエス様の福音は世界中にもたらされ、神の国は広がり続けているのです。

5.偶然か、努力の結果か
さて、この二つのたとえにおいて、畑の宝を発見したのは偶然ですが、一方、良い真珠を発見したのは、それを探し求めての結果でした。これは、イエス様に出会う、福音に出会う、それには色々なあり方があるということでしょう。実際には、全くの偶然ということも少ないでしょうし、すべて自分の努力だけで探し求めてたどり着くという場合も少ないのではないかと思います。私共がイエス様に出会った経緯は人それぞれでしょうけれど、偶然教会に導かれたといっても、その後通い続ける、求め続けるということがなければ出会えません。また、一生懸命本を読んだりして求めたといっても、その教会に通うようになったのは偶然と言っても良いようなことがきっかけだったりするでしょう。例えば、キリスト者の両親のもとに生まれるのは本人の意志ではなく偶然でしょうが、それだけで宝の発見には至りません。私共は、どちらにしても「神様のお導きによって」と理解していますが、それが一番正しい受け止め方なのだと思います。

6.三つ目のたとえ
三つ目のたとえですが、これは終末における裁きを告げています。天の国を語る時、イエス様は必ず終末を語られます。それは、神の国は現実にこの地上において神様の御業として現れ、人を変え、世界を変え、広がっていくのですけれど、その積み重ね、その結果として神の国は完成するわけではないからです。神の国は、イエス様の再臨と共に来る終末において最後の審判が為され、そして完成します。ですから、神の国と終末は不可分な関係にあります。終末が来なければ神の国は完成しないからです。私共は、この地上の生活においては、その完成の日に向かって歩んでいるわけです。
 イエス様はここで、人間を魚に、神様の御業を網に、例えておられます。網には良いものも悪いものも入るわけです。そして、より分けられる。ここで「正しい人々」と「悪い者ども」が出て来るのですが、もちろん、この「正しい人」というのは行いの正しい人という意味ではありません。そうであれば、誰も救われないことになってしまいます。この正しい人とは、畑の宝を発見し、良い真珠を発見し、これを手に入れた人のことです。イエス様との出会いを与えられ、その交わりを何よりも貴い宝として人生を生きた者ということです。救われるとはそういうことです。私共はそのような者として召され、生かされている。まことにありがたいことです。私共は既に神の国に生きており、その神の国は終末において完成する。神の国の完成は、私の救いの完成でもあるわけです。実に私共は、この地上での生活がすべてではない者とされているのです。

7.天の国についての学者
さて、最初に申し上げましたように、イエス様は天の国のたとえを語り終わって、弟子たちに「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」と言われ、弟子たちは「分かりました。」と答えました。そして、イエス様は弟子たちに更にこう告げます。「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」何と弟子たちのことを「天の国のことを学んだ学者」だと言うのです。「えーっ!?」と驚くでしょう。七つの天の国のたとえが分かっただけで、学者になってしまうのか? しかし、それだけではありません。弟子たちに言われたということは、私共も「天の国のたとえ」が分かったのならば、それは私共にも言われているということになります。「ええええ~っ!?」ですね。「え」が4つ付くくらいに驚いてしまいます。しかし、イエス様がそう言われているのですから、それは本当のことです。
 私共は天の国、神の国については、学者のようによく知っている者なのです。この天の国の学者は、天の国についての本をたくさん読む必要などありません。大切なことは、天の国に生きていることです。そこに生きているのですから、何でもリアルに答えることが出来る。それは、富山に住んでいれば、富山について聞かれた時、富山に来たことのない学者よりよっぽど富山について知っているし、語ることが出来るのと同じです。
 では、私共は天の国について何を知っているというのでしょうか。すべてを挙げるいとまはありませんが、幾つか挙げてみましょう。「神様は私を愛してくださっている。」知っているでしょう。「その神様の愛は、独り子を十字架に架けるほどのものだ。」知っているでしょう。「神様はすべてを御存知であり、すべてを支配されている。」知っているでしょう。「神様はどんな罪人でも悔い改めるなら赦してくださる。」知っているでしょう。「神様の救いに与るのに、人種も国籍も身分も職業も性別も収入も学歴も、何も関係ない。」知っているでしょう。「神様は私共の祈りをちゃんと聞いてくださっている。」知っているでしょう。教会に来ると、神様について分かるようになります。知っているでしょう。「私共は死んで終わりじゃない。」知っているでしょう。「イエス様は本当の神様だ。十字架に架かり、三日目に復活されて、今は天におられる。そこから、聖霊を注いでくださって、私共に信仰を与えてくださる。」知っているでしょう。いくらでも挙げることが出来ます。実に、私共は既に神の国に生き始めているからです。
 私共は天の国の学者ですが、それは私共が、天の国、神の国のことを知らない人々に、天の国について教え、伝えるためです。天の国に生き始めている者として、それぞれが自分の言葉で、天の国、神の国について、喜びを持って大いに語る者たちの群れとして、この2019年も共に歩んでまいりたいと心から願うのであります。

[2019年1月6日]