日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「愛のしるし」
ヨナ書 2章1~3節、11節
マタイによる福音書 16章1~12節

小堀 康彦牧師

1.人はしるしを欲しがる
 今朝与えられております御言葉の小見出しは、「人はしるしを欲しがる」となっています。なるほどと思います。ここでイエス様に「しるし」を求めたのは、ファリサイ派とサドカイ派の人々です。しかし、この小見出しを付けた人は、この「しるしを求める」というのは、何もファリサイ派の人々やサドカイ派の人々に限ったことではない。人というものはみんな「しるし」を求めるものなのだ。そう理解したのでしょう。その理解は正しいと思います。イエス様が神の独り子であり救い主・メシアであるならば、その証拠を見せて欲しい。それを見たら信じましょう。それも無いのにどうして信じられますか。そういうことです。
 私も伝道者として歩みながら、「ここで祈ってすぐに奇跡が起きれば、この人は信じてくれるのに。」そう思ったことは何度かあります。末期のガンの人に手を置いて私が祈る。そうすると、あっと言う間にガンが消えてしまう。そうなれば、この人も、その家族も信じてくれるのに。もちろん、その人のために祈って病がいやされたということもあります。しかし、それはいつもそうだというわけではありません。いつでもそうならば、病院は要りません。それに、死ぬ人はいなくなってしまうでしょう。教会で葬式をすることもなくなります。

2.O・T兄の死
 週報にありますように、昨年の1月に悪性のリンパ腫の末期と診断されていたO・T兄が、10日の金曜日に天に召されました。昨年の6月には、余命2ヶ月と言われて緩和ケア病棟に入られたO・T兄でしたけれど、その時は不思議なようにいやされて、自宅に戻ることが出来ました。その時は祈りが聞かれたと喜びました。しかし、リンパ腫が無くなったわけではありません。先月再び入院され、食事が摂れなくなって、一昨日天に召されました。先週の主の日の礼拝の後、壮年会の方々が病室に訪ねた時には、一人一人と握手をして、目を見て、声には出ませんでしたけれど「ありがとう」と言っておられました。今日前夜式、明日葬式がご自宅で家族葬として執り行われます。私が司式をします。ここ3年ばかりの間、O・T兄のことを私も毎日祈ってきましたし、皆さんも祈ってこられたと思います。けれど、この時はやって来ました。いつかは来る、そのことは分かっておりましたけれど、やっぱり悲しく寂しいものです。しかし、この時私共が目を向けなければならないのは、愛する者の死を超えた向こうにある復活の命、永遠の命であり、私共が肉体の死を迎えた後に招かれて行く、天にある永遠の住まいです。

3.「しるし」を求める信仰
 イエス様は、しるしを求めるファリサイ派とサドカイ派の人々に対して、4節で「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」と言われました。このイエス様の言葉は二つのことを告げています。一つは「しるしは与えられない」ということ、もう一つは「ヨナのしるしは与えられる」ということです。「ヨナのしるし」、それは先ほどお読みした旧約のヨナ書にあります、ヨナが大きな魚の腹の中に三日三晩いて、陸に吐き出されたという出来事を指しています。つまり、イエス様が十字架にお架かりになり、三日目に復活された出来事を意味しているのです。イエス様はこの言葉を告げるまで、既に様々な奇跡をしてこられました。しかし、それを神の御子としての「しるし」と認めないファリサイ派やサドカイ派の人々に対して、イエス様は、「もう復活というしるししか残っていない。」そう宣言されたのです。
 しかし、復活というしるし、復活という奇跡もまた、結局の所は、それを信じる者にとっては、イエス様がまことの神の御子であるというしるし、自分の命が肉体の死では終わらないという希望を与える確かな「しるし」となりますが、信じない者にとっては、何の意味もないただの作り話ということになってしまう。「しるし」とはそういうものです。ここでファリサイ派の人々もサドカイ派の人々も「天からのしるし」を求めました。それは多分、モーセやエリヤがやったような驚くような奇跡を自分たちの目の前でやって見せよ、ということだったのだと思います。その動機は、イエス様を信じたいからということではありませんでした。聖書ははっきりと、「イエスを試そうとして」と記しています。彼らはイエス様を信じてはいないのです。彼らが「しるし」を求めたのは、イエス様の化けの皮をはがそうとしてのことでした。イエス様は様々な奇跡をなさいましたけれど、このようにイエス様に救いを求めるわけでもなく、ただ試そうとするような、イエス様を信じない人のために奇跡をされたことは一度もありません。それは、そんなことをしても何の意味もないことをイエス様は知っておられたからです。
 それはこういうことです。もしここでイエス様が奇跡を為されたならば、彼らはイエス様を神の子・救い主として信じたでしょうか。信じる人もいたかもしれませんし、信じない人もいたでしょう。「あいつは悪魔の力で奇跡をした。」とか「あれは手品だ。ペテン師だ。」と言う人もいたでしょう。問題は信じるようになった人です。「しるし」を求めて、その「しるし」が与えられて信じるようになった人は、イエス様の力を信じた、イエス様を力ある方だと信じるようになったということでしょう。しかし、それがイエス様が求めておられる、神様が求めておられる信仰なのでしょうか。それは、自分の利益のために、自分の欲を満たすために神様の力を信じ、それを求めるということでしかないのではないでしょうか。実は、これがいわゆる偶像礼拝という信仰のあり方なのです。まず自分がある。神様より前に自分がある。自分の価値観、自分の欲、自分の願いがある。そして、その自分は変わらない。変わろうとはしない。そして、神様の力をその自分の求めを満たすために利用する。ですから、力さえあればどんな神でも、もっと言えば悪魔だっていいのです。しかし、そのようなあり方は、神様・イエス様が求めておられる信仰のあり方ではありません。

4.ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種
 だからイエス様は、11節b「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」と言われたのです。ファリサイ派とサドカイ派のパン種、それはイエス様に「しるし」だけを求めるという信仰のあり方です。
 パン種というのはイースト菌のことですが、これはほんの少しの量でパンの生地全体を膨らませる力があります。つまり、この「しるし」を求める信仰というものは、初めは少しであっても、信仰者全体、教会全体に広がって、やがてすべてのキリスト者をダメにしてしまう、そのような力のあるものなのだ。だから注意しなさい。そうイエス様は言われたのです。
 更に言えば、この「しるし」を求めるというあり方は、マタイによる福音書4章の、荒れ野の試みにおいてイエス様が退けられた、悪魔の誘惑そのものだったからです。悪魔はイエス様に「石をパンになるよう命じたらどうだ」と言い、神殿の屋根から飛び降りるようにと言いました。しかし、イエス様はその試みを退けられました。奇跡をもって人々を信じさせるという道を退けられたのです。そして、イエス様は十字架への道を歩まれたのです。更に、イエス様が十字架にお架かりになった時、人々は「神の子なら十字架から降りて来い。そうすれば信じてやろう。」と言いました。これもまた、悪魔の誘惑であり、しるしを求める信仰のあり様です。実に、しるしを求める信仰とは、イエス様を十字架に架けた者たちの信仰のあり様なのです。これをイエス様は退けられたのです。

5.愛の交わりとしての信仰
 では、イエス様が求めておられた信仰のあり様とはどういうものなのでしょうか。それは、イエス様を愛する、神様を愛するという、愛の交わりとしての信仰のあり方です。もちろん、神様の力を信じる、それは大切な点です。力の無い神様をどうして信じることが出来るでしょうか。しかし、それだけではダメなのです。私共の中にある罪は、神様さえ利用してしまうほどに、自己中心的であり、傲慢であり、不敬虔なものだからです。その私の罪が拭われ、新しい私にならなければ、私共は救われません。そのために必要なのは、イエス様を愛するということです。神様を愛するということです。愛の交わり抜きで、神様の力だけを求めるのは、偶像礼拝です。そんなものを神様は私共に求めてはおられないのです。
この信仰のあり方は、代々の聖徒たちが告白してきた使徒信条にはっきりと示されております。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」と私共は告白します。ここで私共は、神様を「天地を造られた方」「全能の方」と信じることを告白しています。神様を全能のお方、天地を造られたお方として信じる。それは神様を力ある方として信じるということです。しかし、それだけではありません。同時に私共は、その方を私共の「父」なのだと告白しているのです。神様が私共の父であるということは、私共は神様の子であるということです。神様と私共の間には、父と子という愛の交わりがある。神様を「父よ」と呼ぶことが出来る愛の交わりの中に私共は招かれたのです。何とありがたいことかと思います。力と愛が結びついたあり方で、私共は神様を信じている。力だけでもないし、愛だけでもありません。力はあるけれど愛が無い。そんな神様なら、私共は神様に何をされるか分かりませんから、神様に脅え、機嫌を損ねないようにとなだめの供え物を献げるしかありません。ヤマタノオロチの世界です。これは聖書の信仰の世界ではありません。また、愛はあるけれど力が無い。それではどうして自分のすべてを委ねることが出来ましょう。そもそも、そんな方は聖書の神様ではありません。
 このことが更にはっきり示されておりますのが、主の祈りです。イエス様は私共に、このように祈りなさいと「主の祈り」を与えてくださいました。その祈りの最初は、「天にまします我らの父よ。」です。「父」と呼べるのは、その子どもだけです。私共は、天地を造られた全能の神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来る愛の交わりに招かれているのです。この交わりこそ、肉体の死を超えた永遠の交わりです。この交わりに生きる者とされたということが、救われたということなのです。この交わりを壊すことは誰にも出来ません。パウロは、この神様との愛の交わりの力、絆と言っても良い、それをこう言いました。ローマの信徒への手紙8章35~39節「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。…しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」私共は、使徒パウロと共に、「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」と言い切ることが出来る者とされているのです。

6.愛のしるしは、信じるしかない
 では、この神の愛はどこに示されたでしょうか。それが「ヨナのしるし」です。イエス様の十字架と復活です。イエス様が私のために、私に代わって十字架にお架かりになって、私の一切の罪の裁きをお受けになった。そして、三日目に復活された。ここに神様の愛が明確に示されています。この「しるし」はすべての者に与えられています。
 この「しるし」は、信じる者にとっては何物にも代え難い、最も大いなるものです。しかし、信じない者にとっては、何の意味もないものです。「しるし」とはそういうものです。確かに、不思議な奇跡を見れば、神様の全能の力を信じるようになるのかもしれません。しかし、その力ある方が私を愛している、これはどうすれば信じることが出来るのでしょうか。
 ある牧師がこう言いました。「愛は信じるしかない。」なかなかの名言だと思います。この人は私を愛している。そのことは、どうすれば私共は受け入れることが出来るでしょうか。毎日「愛している」と言われれば信じられるのでしょうか。毎日「好きだ」というメールが100通も送られてくれば、その思いを受け入れることが出来るのでしょうか。これは単なるストーカー犯罪者でしょう。100万本のバラを贈られれば受け入れることが出来るのでしょうか。何と言われても何をしてもらっても、愛は、その人の言うこと為すことを信じなければ仕様がない。その人を信じるしかない。信じない限り、そこに愛の交わりは生まれないのです。
 私共と神様との交わり、私共とイエス様との交わりもそうなのです。どんな奇跡が為されようと、どんな言葉が語られようと、それを信じなければ、愛の交わりは生まれません。私共はイエス様を信じた。ヨナのしるしに現れた、愛と力を信じた。そして、この愛の交わりの中に生きる者とされたのです。
 実は、この愛の交わりが確かなものとして成立するには、大切な前提があります。それは、神様は嘘つきではないということです。真実な方だということです。当たり前のことです。嘘つきならば、何を言われても、何を為しても、それは嘘だということですから、その愛の交わりは幻想であって、何の意味もないことになります。神様は自らの真実を証しするために、聖書を与えてくださったのです。ですから、聖書はすべてが真実か、すべてが嘘か、どちらかということになります。私共は、神様が真実な方であるということを、この愛の交わりの中に生かされる中で知らされ続けていきます。神様が真実な方で、生きて働き、私の人生を導いてくださっている。聖書の言葉は本当だ。そのことを知らされ続けていくのが、私共の信仰の歩みなのです。

7.O・T兄の最後の言葉
 最近、毎月のように葬式があります。私は、その方の人生を思い起こしながら前夜式・葬式の説教の備えをします。昨日は、今日の主の日の礼拝の備えと共に、O・T兄の姿を思い起こしながら、今日行われる前夜式の説教の備えもしておりました。4月24日の水曜日に病室を訪ねました時、私がお祈りしますと、O・T兄も祈られました。全体としてはあまり良く聞き取れない言葉でしたけれど、何度も何度も「感謝です」「感謝です」と言っておられました。それが、私が聞いたO・T兄の最後の言葉でした。最後の言葉が祈りであり、その言葉が「感謝です」でした。多分、もう自分の死が近いことを分かっておられたと思います。私はこの言葉を聞いた時、この人は本当に神様の救いの恵みの中に生きた。神様はこの時にも共にいてくださり、慰め、励まし、とらえてくださっている。神様は真実な方だと思わされました。
 私共は愚かであり、同じような過ちを何度も繰り返すかもしれません。しかし、それでも神様は私共を愛してくださり、「我が子よ」と呼んでくださり、イエス様の十字架の故に、一切の罪を赦し、イエス様の復活の故に、永遠の命へと導いてくださいます。私共は、この神様の真実、神様の愛、神様の力、それを証しする者として招かれ、生かされているのです。ありがたいことです。

[2019年5月12日]