日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「キリストに結ばれて歩む」
詩編 119編105~112節
コロサイの信徒への手紙 2章6~15節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 週報にありますように、明日は婦人会の親睦会があります。まず教会で「風に吹かれて」という題の講演を聴き、その後食事を一緒にして親睦の時がもたれます。今回の講演は、婦人会の役員の方から聖霊について話して欲しいという希望がありまして、話をすることにしました。講演の題である「風に吹かれて」は、ノーベル文学賞をとったアメリカのシンガーソングライターであるボブ・ディランの代表的な歌の題名ですけれど、何もボブ・ディランの話をするわけではありません。聖書において「風」と言えば聖霊です。「風に吹かれて」とは、聖霊なる神様の導きの中で、聖霊なる神様の働きの中で歩んでいく、そのことをお話ししようと思っています。食事会には出席出来ない方も、ぜひ講演だけでも聞きに来ていただければと思います。私共の信仰の歩みは、その始まりから終わりまで、徹底的に聖霊なる神様の働きの中で促され、導かれ、支えられているものです。そのことをはっきりと弁える時になればと願っています。
今朝与えられております御言葉には、聖霊という言葉は直接的には出てきません。しかし、ここで告げられていることは、聖霊なる神様の働きを抜きに考えることは出来ません。言葉に表れていなくても、聖霊なる神様の働きが前提となっています。順に見てまいりましょう。

2.主キリスト・イエスを受け入れた
 6節「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」とあります。「主キリスト・イエスを受け入れた」これはイエス様を自分の主人として受け入れたということです。つまり信仰が与えられたということですが、この信仰は聖霊なる神様によって与えられたものです。確かに洗礼を受けるという決断をしたのは自分です。しかし、そのように私共を促したのは、そのように導いてくださったのは、聖霊なる神様なのです。コリントの信徒への手紙一12章3節に「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」と告げられているとおりです。「イエスは主なり」との告白は、聖霊なる神様の働きによって私共に与えられたものです。
 私共が受けた洗礼だって、聖霊の働きの中での出来事でなければ、単に頭に少しの水をかけられたということに過ぎません。しかし、洗礼はそんなつまらないことではありません。11~12節「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」とありますように、私共は、洗礼によって、キリストと共に葬られ、キリストと共に復活させられたのです。勿論、私共のこの肉体は衰え、やがては死を迎えることになります。しかし、霊においては既に復活のキリストと一つに合わせられ、復活の命に与っている。実際に、キリストと同じ復活の体をいただくのは終末においてです。しかし、既に復活の命に与っている。洗礼を受けるとは、そのような驚くべき出来事が私共の上に起きるということであり、それは聖霊なる神様の働きによってとしか言いようがありません。聖霊なる神様抜きに、洗礼を語ることは出来ません。
 ガラテヤの信徒への手紙2章20節「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」とパウロは告げました。これが聖霊によって私共に与えられた新しい命です。私共の内にキリストが生きておられるのです、そして、私共の信仰の歩みを導いてくださっている。見えない神の国に向かっての歩みを確かなものにしてくださっている。これは見えないことです。レントゲンを撮っても、私共の中にキリストを見出すことは出来ません。そもそも、肉体を持ったキリストは天におられるのですから、この私共の内に宿ってくださっているキリストとは、キリストの霊である聖霊ということです。聖霊なる神様が私共の内に宿ってくださっている。何とありがたいことでしょうか。

3.キリストに結ばれて、キリストの中で、キリストに包まれて
私共は「主キリスト・イエスを受け入れた」のですから、私の人生の主人はイエス様です。イエス様の御心を第一として、イエス様の言葉に従って生きる者になった。その私共の歩みを聖書は「キリストに結ばれて歩む」と告げています。  私共が用いております新共同訳聖書の特徴の一つは、この「キリストに結ばれて」という訳です。かなり踏み込んだ訳だと思います。口語訳では「キリストにあって」となっていました。元々のギリシャ語ではεν Χριστω、英語のin Christです。ですから、「キリストの中で」「キリストに包まれて」とも訳せます。この言葉は聖書の中で何十回も出てきます。このεν Χριστωを何と訳すか。これは聖書を訳す上での大きな課題の一つです。新共同訳はかなり踏み込んで訳したわけですが、最近出た新しい訳では口語訳に戻っているようです。この「キリストに結ばれて歩む」「キリストにあって歩む」「キリストの中で歩む」「キリストに包まれて歩む」どう訳しても良いでしょうが、内容とすればこれは歩むのは私であるに違いないのですけれど、その歩みのすべてはキリストに結ばれて、キリストの中で、キリストに包まれての歩みだということです。
私共は今朝、この主の日の礼拝に集っています。あれもやりたい、これもしなければならない、そういうものを後ろに投げ捨てて、ここに集って来た。ここに集うことが他の何よりも大切なことだと思ったからでしょう。いやいや、そんなことは改めて考えることもなく、主の日の朝になったからここに来た。習慣だから。そういう人もいるでしょう。いずれにせよ、主の日にここに集う、ここに明らかな「キリストに結ばれた歩み」があります。
 私は、この「キリストに結ばれて」という訳は良い訳だと思います。でも、この言葉に出会ったら、皆さんはεν Χριστω、in Christ という言葉を思い出して欲しいのです。私共の歩みはすっぽり丸々、イエス様に包まれているイメージです。それが私共の歩みなのです。キリストの喜びを自分の喜びとし、キリストの悲しみを自分の悲しみとする、キリストの希望を自分の希望とする歩みです。私共の信仰の歩みはそのように、自分の頑張り、自分の熱心、自分の信仰深さによって為されていくのではないのです。キリストの霊である聖霊なる神様が私共を包んで、私共の心に働きかけ、私共に促しを与え、私共を導いてくださるのです。確かに、この促しになかなか従えない、従おうとしない、そういう自分がいるでしょう。そこで、私共はどうしても戦わなければなりません。それが信仰の戦いです。すべては聖霊の御業の中のことだから自分には責任はない、とは決してならないのです。聖霊の導きの中で、その促しに応えて、イエス様を我が主・我が神として、私共は歩んでいく。自分の責任においてそれを為していかなければなりません。

4.キリストに根を下ろし
 その営みの中で私共は、7節にありますように、「キリストに根を下ろし」「造り上げられ」「信仰をしっかり守り」「感謝にあふれる」者とされていくのです。ここで四つのことが告げられています。私共の信仰の歩みは、この四つの点で、私共自身を信仰者として成長させていくものなのです。あっという間に成長するということもあるでしょうけれど、私共の信仰は生涯をかけて成長し続けていくものなのです。
 第一の点は、「キリストに根を下ろす」。これは私共を植物に例えています。木々はしっかり根を張って、地面から養分を吸い上げて成長します。しっかり根を張らないと、強い風に煽られれば倒れてしまいます。或いは、根がなければあっちにフラフラ、こっちにフラフラ、風になびいてよろけ続けるしかありません。しかし、私共はキリストにしっかり根を張ることによって、どんな強い風が来ようと倒れず、ふらつかず、しっかり立ち続けることが出来るのです。私共は自分の力だけで信仰をしっかり保持し続けることは出来ないのです。
 更に、私共が信仰の成長に必要な養分をもらうのは、キリストからです。キリストからいただく養分、それは信仰・希望・愛・喜び・平安・命etc. 、そしてキリストの言葉、キリストの御業、わけても十字架と復活の出来事をしっかり心に刻んで、キリストに従って生きていく。この世には様々な思想、考え方、いかにも価値がありそうに見えるものがたくさんあります。しかし、それに心も目も奪われてはなりません。どうやら、コロサイの教会の人々の中にはそのような時代の思想、価値観に惑わされてしまった人たちがいたようなのです。ですから、8節で「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。」とパウロは言うのです。これが具体的にどのような哲学だったのかは研究者によって意見が分かれます。べつに、哲学が邪魔だとか、意味が無い、と言っているのではありません。そうではなくて、どんな哲学であれ、思想であれ、それは人間が考えたもので、要は「こうすれば幸いになる。」「こうすれば世の中は良くなる。」とか「世界はこうして成り立っている。」とかいうものでしょう。しかし、そこにはキリストはおられない。私が主になってしまうからです。私の主、この世界の主はイエス・キリストです。それを見失わせてしまうものに気をつけなさい、そうパウロは言っているのです。
 もう50年ほど前になるでしょうか、北朝鮮は世界の楽園だとキャンペーンをした新聞社がありました。しかし、あの国がとても楽園と言えるようなものではないことを、今私共は知っています。また、21世紀には日本がNo.1になると言っていた人たちもいます。しかし、そうはなりそうにありません。どんな知恵も将来への希望も、キリストに根を下ろしていなければ、それはやがては枯れていってしまうのです。その時どんなに心を燃やしたものであっても、一時のものに過ぎません。形あるものは、必ず消えていくからです。そのようなものに心を奪われてはなりません。

5.造り上げられる
 キリストに根を下ろして、キリストから養分をいただいて、私共はキリスト者として「造り上げられ」ていきます。これが第二の点です。そこには、この世の価値観がすべてだと思う人とは違った人格が造り上げられていくでしょう。富や名声や社会的地位といったものに目もくれない人格です。キリストの香りを放つ人格です。「神と人とに愛され、神と人とを愛し、神と人とに仕える」人格です。これは、教会において子どもたちを祝福するときの祈りの言葉です。私共は子どもたちが「神と人とに愛され、神と人とを愛し、神と人とに仕える」者となるようにと祈る。それは、そこにこそ私共が聖霊によって造り上げられていく人格があるからです。そして、それは私共一人一人がそうなっていくというだけではなくて、キリストを主とするキリストの体なる教会が、そのようなキリストの御人格を表すものに造り上げられていくということです。
 昨日、T・H姉の納骨式が行われました。御遺族の方々は、教会のことは分からないので、葬式の時は心配だったそうです。しかし、教会の方々がみんな親切に受け入れてくれて、とても安心したと言っておられました。教会を知らない人が来る。そして安心する。この言葉を聞いて、私は嬉しかったですし、少し誇らしい気持ちにもなりました。口には出しませんでしたけれど、「そうでしょう。」と言いたかった。キリストの香りを放つ存在として証しを立てられたかなと思いました。
 先週の日曜日に前夜式をし、月曜日に葬式をしたO・T兄の御家族の方々も喜んでおられました。よかったなと思いました。奥様のO・Y姉が、教会に来ていないお子さんたち、お孫さんたち、ご兄弟たちに、前夜式・葬式で歌う讃美歌を教えてみんなで練習し、讃美歌を覚えて参列されました。御遺族の方々がみんな大きな声で讃美歌を歌われた、その姿にO・T兄の教会での姿を思い起こすと共に、イエス様に与えられた救い、永遠の命の希望に存分に与らせていただきました。

6.教えられたとおりの信仰
 葬式で告げられますことは、「教えられたとおりの信仰」です。これが第三の点、「信仰をしっかり守って生きる」ということです。その人がその信仰に生きたこと、そしてその先にはキリストの十字架と信仰による永遠の命、復活の命があるということです。
 私共の信仰には自分たちで発明したものなど何一つありません。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」(ヘブライ人への手紙13章8節)だからです。時代は変わります。思想も変わります。世界の情勢も変わります。しかし、イエス・キリストは変わりません。この変わることなきイエス・キリストを我が主・我が神として拝み、この方を愛し、この方に包まれて、この方に従っていく。それが、主イエス・キリストを受け入れた私共の歩みなのです。この歩みは、地上の生涯では完結しません。死を超えた歩みです。イエス様が来られる時、キリストに似た者に変えられることによって完成する歩みです。

7.あふれるばかりの感謝
 そして、その歩みは「あふれるばかりの感謝」と共にあります。これが第四の点です。何か良いことがあったら感謝するというのではありません。そうであるならば、私共は年に何回かしか感謝出来ないということになってしまうでしょう。しかし、私共がキリストに結ばれて歩むならば、私共は日々の歩みの中に聖霊なる神様の御業があふれていることに気付きます。
 今は木々の緑がきれいな時です。この木々の緑を目にして、私共はこの世界を造り、すべてを支配しておられる神様を覚えます。そしてこの木々と同じように、天地を造られた全能の神様の御手の中で生かされている自分を思い、感謝へと導かれていくでしょう。食事を前にしても、私共は主の祈りにおいて「日用の糧を今日も与え給え」と祈るわけですが、神様はこの祈りに応えてくださり、この食事を与えてくださった。この食事をもって「今日も生きよ」と私に告げておられる。私は神様の養いの中に生かされている、ありがたいことだという感謝が生まれるでしょう。そして何よりも、私共はイエス様を知った。キリスト者となった。神の子・神の僕とされている。神様に向かって「父よ」と呼べる者とされている。あり得ないほどに、本当にありがたいことです。
 私共は死んだら終わりだと思っていた。しかし、終わりじゃない。洗礼によってイエス様と一つにされ、イエス様の御復活の出来事によって私にも復活の命が与えられた。ありがたいことです。この感謝と共に生きる者とされたのが私共なのです。感謝と共に、この一週もまた、キリストに結ばれた者として歩んでまいりたいと思います。

[2019年5月19日]