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礼拝説教

「主の備えの中で」
ヨシュア記 2章1~24節
マルコによる福音書 14章12~17節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 7月最後の主の日を迎えています。毎月最後の主の日は旧約から御言葉を受けています。先月はヨシュア記1章から御言葉を受けました。40年間の出エジプトの旅が終わり、モーセの後継者であるヨシュアに率いられたイスラエルの民がいよいよ約束の地に入ろうとする所です。神様はイスラエルの新しい指導者であるヨシュアに、繰り返し「強く雄々しくあれ。わたしは共にいる。」と告げられました。また神様は、「あなたたちの足の裏が踏む所をすべて与える。」と約束してくださいました。この主の言葉に励まされて、イスラエルの民は、ヨシュアと共にヨルダン川を渡って約束の地へ入って行くわけです。イスラエルの民は、死海の東側を北に向かって進み、ヨルダン川を渡れば約束の地に入るという所まで来ました。実際にヨルダン川を渡るのは3章においてです。今朝与えられております2章には、その前に、ヨシュアによって遣わされた二人の斥候がエリコの町に偵察に入った時のことが記されております。

2.中心は二人の斥候?それともラハブ?
 ヨルダン川を渡って最初にある大きな町、それがエリコでした。ヨシュアは、この町を素通りするわけにはいかない、どうしても戦わなければならない、そのことが分かっておりました。それで、エリコの町を探るために二人の斥候を送ったのでしょう。兵隊の数、水や食料の備えはどうか、門や城壁はどうなっているか、住んでいる人はどのくらいか、知りたいことはたくさんありました。二人の斥候はエリコの町に入り、いろいろ調べ、そして遊女ラハブの家に泊まりました。町の外から来た者が泊まるには、人目につかない都合の良い所でした。しかし、すぐにエリコの町の王に、二人の斥候が来たことが告げられ、王はラハブの所に人を遣わして、「お前のところに来た者を引き渡せ。」と迫ります。この時ラハブは、この二人の斥候をかくまい、無事に逃がしました。この場面はまるでスパイ映画のようになかなかスリリングです。けれど、聖書はこの出来事によって私共に何を告げようとしているのか、一度読んだだけではよく分からない。そう思われた方も多いのではないかと思います。
 この2章の小見出しは「エリコを探る」となっています。そうすると、二人の斥候の活躍がこの2章の中心であるかのようですが、どうやらそうではないようです。この2章の中心人物はラハブです。二人の斥候については名前さえ記されておりません。ラハブが、この二人の斥候をかくまい、逃がした。それがこの2章のメインテーマです。

3.新訳聖書におけるラハブ
 ラハブ。この名前は新約聖書に3回出て来ます。これはかなりの頻度と言えます。その3回うち、ヘブライ人への手紙11章31節には「信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。」とあり、ヤコブの手紙2章25節には「娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。」と記されています。どちらも、二人の斥候をかくまい逃がしたという行為が、信仰の業として称賛されているわけです。しかも、わざわざ娼婦という言葉を付け、「娼婦ラハブ」と言っています。この後、エリコの町は6章において滅ぼされるのですが、ラハブとその親族は滅ぼされることなく、助け出されます。ラハブは娼婦だったのに救われたのは何故か。順を追って見てみましょう。

4.信仰による行為者:ラハブ
3~7節a「王は人を遣わしてラハブに命じた。『お前のところに来て、家に入り込んだ者を引き渡せ。彼らはこの辺りを探りに来たのだ。』女は、急いで二人をかくまい、こう答えた。『確かに、その人たちはわたしのところに来ましたが、わたしはその人たちがどこから来たのか知りませんでした。日が暮れて城門が閉まるころ、その人たちは出て行きましたが、どこへ行ったのか分かりません。急いで追いかけたら、あるいは追いつけるかもしれません。」彼女は二人を屋上に連れて行き、そこに積んであった亜麻の束の中に隠していたが、追っ手は二人を求めてヨルダン川に通じる道を渡し場まで行った。」エリコの町から見れば敵であるイスラエルの斥候が、遊女の家に泊まりに来た。王はそれを知って捕らえさせようとした。ところが、ラハブは二人を屋上の亜麻の束の中に隠し、「その人たちはわたしのところに来ましたが、出て行きました。」と嘘を言ってかくまったのです。普通ならば、エリコの町の人から見ればイスラエル人は敵なのですから、王のもとから来た人に「はい、その人たちはここにいます。」と言って、すぐに引き渡すでしょう。しかし、彼女はそうしなかったのです。とても不思議です。この不思議と思える行為こそ、聖書は信仰による行為だと言っているのです。
 ラハブはこの二人の斥候にこう言います。9~11節「主がこの土地をあなたたちに与えられたこと、またそのことで、わたしたちが恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆、おじけづいていることを、わたしは知っています。あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。」ラハブは、出エジプトにおいてイスラエルの民が経験した奇跡を挙げます。そして、「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられる」と言ったのです。これは明らかな信仰告白です。彼女が神様について知っていたことはそれほど多くはなかったでしょう。しかし彼女は、イスラエルの神こそまことの神であると信じ、告白し、それ故にこの二人の斥候をかばい、逃がしたのです。これは、エリコの王に見つかれば命がない、とても危険な行為でした。しかし、彼女はそうしたのです。そして、それこそが神様に喜ばれる信仰による行為というものだと聖書は告げているのです。こう言っても良い。このラハブの行為こそ正しい行為なのだと聖書は告げているということです。

5.正しい行為とは
 正しい行為とは何か。これはなかなか難しい問題です。何故、この時のラハブの行為は正しいのか。ラハブは、エリコとイスラエルが戦うことになると知って、エリコとイスラエルを天秤にかけて、イスラエルに分があると思ってイスラエルの斥候をかくまっただけではないか。ラハブはエリコの人々を裏切っているではないか。あるいは、ラハブは嘘をついているではないか。いろいろ言えるでしょう。私共が生きていく上でも、どうすることが正しいのか分からないことがある。それぞれの置かれている状況もありますし、こうすることが正しいなんてことは、そう簡単に言えることじゃない。しかし、基準はある。それは、まことの神に従うということです。損得や自分の見通しではなくて、まことの神に従う。この一点を外してしまえば、正しさとは何なのか、そのことさえ分からなくなってしまうのではないかと思うのです。ラハブはイスラエルの神こそまことの神と信じた。そして、イスラエルの二人の斥候をかくまい、逃がしたということなのです。聖書はそれを「良し」と言っているのです。
ラハブは、自分だけではなく、自分の一族も助けるようにと言いました。12~13節「わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示す、と今、主の前でわたしに誓ってください。そして、確かな証拠をください。父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください。」二人の斥候はこれに対してこう答えます。14節「あなたたちのために、我々の命をかけよう。もし、我々のことをだれにも漏らさないなら、主がこの土地を我々に与えられるとき、あなたに誠意と真実を示そう。」誠意と真実です。これは契約に基づく真実です。
 ラハブは二人を窓から綱でつり降ろし、城壁の外へ逃がします。ラハブの家は城壁の中にあり、家の窓は城壁の外壁に付いていたからです。そしてラハブは二人に、山の方へ逃げて三日間はそこに身を隠しているようにと助言します。追っ手は、二人がイスラエルのいるヨルダン川の向こうに逃げると考えて、山とは反対のヨルダン川の方に行くだろうというのがその理由です。二人の斥候は、18節「我々がここに攻め込むとき、我々をつり降ろした窓にこの真っ赤なひもを結び付けておきなさい。」と告げました。「真っ赤なひも」は目印です。真っ赤なひものある家をイスラエルは攻め滅ぼさないと誓ったのです。そして、二人の斥候は無事ヨシュアのもとに戻りました。

6.神の民に加えられたラハブ
真っ赤なひも。それは過越の出来事を思い起こさせます。更にイエス様の十字架の血を思い起こさせます。ラハブとその一族は、この真っ赤なひもの印によって滅びを免れました。それだけではありません。ラハブの一族は、イスラエルの十二部族の者ではありませんでしたけれど、このことから神の民イスラエルに加えられていったのです。その証拠に、マタイによる福音書1章、あのイエス・キリストの系図の中にラハブの名が出てきます。5~6節「サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。」とあります。つまり、ラハブはダビデ王の4代前の先祖となったのです。そして、そのダビデの家からイエス様が生まれることになります。ラハブは娼婦でした。また、イスラエルの民ではありませんでした。しかし、まことの神を信じ、二人の斥候をかくまい、逃がすという行為によって、神の民に加えられた。神の救いに与る者とされたということです。
 このように見てまいりますと、このラハブという女性は、私共自身の姿を映しているのだと思えてなりません。ラハブはエリコの人であり、娼婦でした。そのままだったら、イスラエルから見れば、とても共に救いに与る者とは思えなかったでしょう。しかし、彼女はまことの神様を信じたのです。そして、イスラエルの斥候をかくまい、逃がした。そのことによって、彼女は滅びを免れ、彼女の一族と共に神の民に加えられたのです。私共もそうです。主イエス・キリストの父なるまことの神を信じた。そのことによって、神の民に加えられ、滅びを免れ、永遠の命に与る者にしていただいたのです。

7.神の民とは
 ここに、神の民とはどういうものかが示されています。それは、国家や民族を超えたものであるということです。これは、神の民というものについて考える時のとても大切な点です。今朝与えられた出来事において、イスラエルを一つの民族国家として見てしまいますと、イスラエルとエリコの民族紛争・国家紛争において、ラハブは民族・国家を裏切った者ということになってしまいます。今、世界ではこの民族・国家という単位で考え、いろいろな所で対立が起き、紛争も起きています。日本も例外ではありません。ナショナリズムが世界中で台頭しています。勿論、民族や自国への誇りや愛着は自然なものです。高校野球で自分の県の代表が勝てばうれしいし、オリンピックで自国の選手がメダルを取ればうれしい。しかし、ナショナリズムが暴走すれば誰もそれを止めることは出来ません。行き着く先は戦争です。私共は神の民です。神の民としての教会は、キリストの体であって、国家や民族を超えて一つなのです。この富山鹿島町教会は、確かに日本の国の法律である宗教法人法のもとにあります。しかし、それがすべてではありません。キリストの体である教会は、国を超え、民族を超えた交わりを持つ。それは、国家や民族に絶対的価値を置かないということです。ラハブは、エリコという目に見える共同体を超えて、まことの神の民となったのです。私共もそうなのです。

8.主の備えの中で
 彼女は、自分から進んでイスラエルの二人の斥候を自分の家に招いたわけではありません。向こうからやって来たのです。そして、その後からエリコの王の使いまでやって来ました。面倒なことになった、何と厄介なことがやって来たのかと思いそうなところですけれど、そこにラハブの救いへの道が備えられていたのです。
 これは偶然と言えば偶然です。しかし、聖書はこれを偶然とは言いません。主の備えと言います。実に私共の人生は、この主の備えに満ちています。この主の備えの中で生かされ、救いへと導かれているのが私共なのです。この備えの中で神の民となったのです。ヨシュアから遣わされた二人の斥候にしても同じことです。彼らがラハブの家に泊まったのは、彼女なら自分たちのことをかくまってくれるだろう、自分たちを無事逃がしてくれるだろう、そう思ったわけではありません。遊女の家なら人々の目を逃れられるだろうと思っただけです。遊女の家は他にもあったのかもしれません。しかし、彼らはラハブの家に泊まりました。もし、他の家だったならば、彼らはエリコの王に捕らえられて殺されていたでしょう。しかし、そうはなりませんでした。偶然と言えば偶然です。しかし、そこに確かな主の備えがあったのです。私共の人生は、たくさんの人との出会いに満ちています。この出会いを私共は生み出すことは出来ません。出会ってしまうのです。そこに主の備えを見ることが出来るかどうかです。主の備えを見ることが出来れば、そこから私共は変わっていくのでしょう。
先ほど、マルコによる福音書14章にあります、弟子たちが過越の食事の準備をする場面をお読みしました。この時、弟子たちはただイエス様の言われるままに、水がめを運んでいる人を見つけ、その人の後について行き、その人が入って行った家の主人に、「先生が、『弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか』と言っています。」そう告げただけです。すると、既に場所は用意されており、弟子たちはそこに過越の食事の準備をし、最後の晩餐が守られることになったのです。この出来事も、既に主がすべてを備えてくださっているということを私共に示しています。
 私共は明日を知りませんから、明日のことを思うと不安になる、そういうことがあるかもしれません。しかし、私共の明日は神様が、イエス様が御存知です。そして、必ず道を備えてくださっています。そのことを信じて良いのです。イエス様は「明日のことを思い悩むな。」と言われました。明日は神様の備えの中にあるからです。私共はそのことを信じて、安んじて神の国と神の義を求めて、今日為すべきことを為していけば良いのです。

[2019年7月28日]