日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「つまずかせないために」
出エジプト記 30章11~16節
マタイによる福音書 17章24~27節

小堀 康彦牧師

1.神殿税
 今朝与えられております御言葉の中に、耳慣れない言葉があります。「神殿税」という言葉です。これは、先ほどお読みいたしました出エジプト記30章11節以下に「各自は命の代償を主に支払わねばならない。…聖所のシェケルで銀半シェケルを主への献納物として支払う。…登録を済ませた二十歳以上の男子は、主への献納物としてこれを支払う。…豊かな者がそれ以上支払うことも、貧しい者がそれ以下支払うことも禁じる。」と規定されておりますことから、イエス様の時代にも二十歳以上の男子はエルサレム神殿に必ず納めることになっていたものです。その金額は、イエス様の時代には一人2ドラクメでした。ドラクメというのはギリシャの通貨ですが、ローマの通貨単位であるデナリオンと同じ価値です。1デナリオンは一日の労賃でしたから、2ドラクメという神殿税は当時の2日分の労賃に当たります。現在のお金に換算すると、1万5千円とか2万円ということになるかと思います。
 実は、このマタイによる福音書のギリシャ語本文には「神殿税」という言葉はなくて、「2ドラクメ」と記されています。「2ドラクメを集める」とあれば「神殿税を集める」ことだと誰もが分かっていたのでしょう。この「2ドラクメ」を「神殿税」と訳したのは良いと思います。
 これはエルサレム神殿に納めるものですから献金なのですけれど、私共が考える献金の自由さはここにはありません。金持ちでも貧しい人でも、成人男性は例外なく2ドラクメを納めなければならなかったし、そのために集金する人もいて、まるで神殿に納める税金のようになっていたのです。しかし、この2ドラクメの神殿税の元々の意味は、イスラエルの人々の命の代償、命の贖いのためでした。神様がイスラエルを特別に愛してくださり、自分たちの命を保ってくださっている、そのことを覚え、感謝の中で捧げられたものでした。しかし、イエス様の時代のようにそれが制度化され、義務化されていく中で、この意味は次第に忘れられていき、まさに税金のような感覚になってしまっていたのではないかと思います。献金というものは、義務化されれば必ずそうなるのだと思います。神殿税を納めることはイスラエル人である証しであり、イスラエル共同体の一員であるための義務となり、神様に対してということが弱くなり、抜けていってしまう。まさに税金のような感覚になってしまっていたのだろうと思います。この神殿税は毎年、過越祭が近づくと納めることになっていたようです。

2.あなたの先生は神殿税を納めるのか?
さて、イエス様一行はカファルナウムにやって来ました。カファルナウムという町はガリラヤ湖の北の湖畔にあり、イエス様がガリラヤ伝道の拠点とした町です。ペトロの家もこの町にありました。多分、この時ペトロの家にイエス様もおられ、そこに神殿税を集める人が来たのでしょう。そして、ペトロにこう言います。「あなたの先生(イエス様のことです)は神殿税を納めないのか。」この言い方には何か悪意を感じます。あなたの先生は、食事の時に手を洗わなければならないという当時のエルサレム神殿を中心としたユダヤ教の教えを守らない。安息日にもしてはならない手の萎えた人を癒やすということを平気で行う。だったら、エルサレム神殿に納める神殿税はどうなのか。あなたの先生はこれを納めるのか。もし、これを納めないということだったら、あなたの先生はエルサレム神殿の権威を否定し、冒涜する者であり、イスラエル共同体の一員ではなくなりますよ。どうなんですか。そんな感じではなかったかと思います。ペトロは「納めます。」と即答しました。
 ペトロは、ここで納めませんなんて言ったら面倒なことになる、と思ったのかもしれません。あるいは、ペトロにとって神殿税を納めることはあまりに当たり前のことであって、考えるまでもないことだったのかもしれません。しかし私は、この神殿税を集めに来た人とペトロとのやり取りの直前に、イエス様の受難と復活の二回目の予告があったということが重要ではないかと思っています。
 イエス様の受難と復活の第一回目の予告は、16章21節以下にあります。ペトロがイエス様に対して「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白した直後のことです。この時ペトロは、受難と復活を予告したイエス様に向かって「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」といさめて、イエス様から「サタン、引き下がれ。」と叱責されました。
 そして、この二回目の予告は、山上の変貌の出来事があった後です。山上の変貌の出来事において、イエス様がまことの神の子であることは、共に居た三人の弟子たちに疑う余地のないこととして示されました。その後で二回目の予告が為されました。このイエス様の予告を聞いて、これはまことの神の御子が告げられることなのだから、もう否定出来ない、そうペトロは心に刻まざるを得ませんでした。だから、「非常に悲しんだ」のです。イエス様は「人々の手に渡されようとしている。そして、殺される」と告げられました。確かにその直後に復活されることも告げられたのですけれど、こちらの方は弟子たちの耳には届かなかった。届いても、どういうことなのかさっぱり分からなかったのだと思います。しかし、イエス様は捕らえられ、殺される。これは分かった。そして、イエス様を捕らえるこの「人々」というのが、大祭司や律法学者、いわゆる当時のユダヤ教の指導者たちのことであることも、ペトロには薄々分かっていたのではないかと思います。そして、神殿税の話です。ここで「うちの先生は神殿税を納めない。」などと言えば、ペトロはとんでもないことになる。まさに「人々の手に渡され」かねない。そんな危険を感じたのかもしれません。だからペトロは「納めます。」と即答したのでしょう。

3.神様の子供たち
 これに対して、イエス様はどうだったでしょうか。イエス様はペトロにこう言われます。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」ペトロは答えます。「ほかの人々からです。」するとイエス様は、「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。」と言われました。神殿税は神様に納めるものだろう。神様が自分の王様だからユダヤの人たちは税金を納めるのだ。しかし、私が神の子なら、子供は王様である父に税金を納める必要はないだろう。そうイエス様は言われたわけです。
 先ほど申しましたように、この神殿税は、命の代償・命の贖いのために納められるものでした。イエス様はそもそも何の罪も犯しておられない神の御子ですから、命の代償も贖いも受ける必要はありませんでした。また、イエス様は十字架の死によってすべての人の命を贖う方でありますから、この出エジプト記に記されている規定の対象外であって、そもそも、この神殿税を納めなくてもよいお方です。
 もう一つ大切なことは、ここでイエス様が「子供たち」と言われていることです。この「子」という言葉が単数形ならば、イエス様だけのことを言っている。つまり、イエス様は神の子なのだから、父である神様に税金を納めなくてもよい。そう言われたということになります。しかし、ここでイエス様は「子供たち」と複数形でお語りになったのです。ということは、この神様の子供たちとは、イエス様だけではなくてペトロたちも含めるということになりましょう。実にイエス様はここで、神様と御自身との関係だけではなくて、神様と弟子たちの関係もまた、父と子の関係であると言われたのです。
 これはとても重大なことです。しかし、ペトロはやっとイエス様が神の子であると告白したところです。この時点で、自分もまた神の子とされるというところまでは、とても理解することは出来なかったでしょう。しかしイエス様は、マタイによる福音書6章9節以下において弟子たちに「主の祈り」を教えられました。その冒頭で、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけることを教えておられます。ペトロはこの「主の祈り」は知っていたでしょう。しかし、神様に向かって「父よ」と呼べるということは自分が神の子とされているということだ、とまではまだピンと来ていなかったのではないかと思います。

4.イエス様を信じることと、自分が神の子とされることを信じること
 イエス様を神の子であると信じる。それは、自分が神の子とされるということを信じるということと一つながりのことです。しかし、これが私共の中で一つながりになっていくためには、聖霊の働きが必要です。私共は神様に向かって「父よ」と呼びかけることが出来る。それは誰にでも出来ることではありませんし、「父よ」と違和感なく呼ぶことが出来るならば、その人は既に信仰が与えられているのです。本来、天地を造られた神様に向かって「父よ」と呼べるのは、まことの神の御子であるイエス様だけです。にもかかわらず、私共が神様に向かって「父よ」と呼べるとすれば、それはまことの神の御子であるイエス様の霊、聖霊が私共の中に宿り、私共がそのように神様に向かって呼ぶことが出来るようにしてくださっているからなのです。実に、救われるということは、神様と私の関係が父と子の関係にされるということであり、神様の愛の中に安んじて生きる者にされるということであり、神様との永遠の交わりに生きる者にされるということです。その救いに与った確かなしるしが、神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来るということなのです。
 私は教会に通うようになって一年半ほどして洗礼を受けたのですが、その間、正直なところ、祈るということが分かりませんでした。何よりも、「父なる神様」のひと言が言えなかったのです。勿論、日本語が話せるのですから、口から出る音として「父なる神様」という言葉を口にすることは出来たはずです。しかし、出来ませんでした。どうしようもない違和感があったからです。それは、神の御子であるキリストの霊、天地を造られたかも様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来る唯一の存在である主イエス・キリストの霊、つまり聖霊ですが、これをまだ受けていなかったからなのでしょう。しかし、洗礼を受けてからは、私は何のてらいもなく「父なる神様」と言えるようになりました。これは、洗礼を受ける前と後で私の中ではっきり変わったと言い切れる出来事です。実に洗礼によって、私共は主イエス・キリストと一つとされるからです。イエス様と一つとされますので、私共はイエス様の父に対して共に「父よ」と呼ぶことが出来るのです。実に、私共が神様に向かって「父よ」と呼ぶ前に、神様が私共を選び、神様が私共に向かって「我が子よ」と呼びかけてくださり、聖霊を注いでくださったのです。

5.イエス様のやわらかさ
 イエス様は、神殿税は「納めなくてよい」のが本筋だと告げます。イエス様は、ペトロに「子供たちは納めなくてよいわけだ。」と言われましたけれど、「だから神殿税は納めないことにしよう。」とは言われませんでした。不思議なことに、27節「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。」と言われるのです。そして、「湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」と言われました。この銀貨と訳されている言葉は「スタテラ」という言葉で、当時のギリシャのスタテル銀貨を意味しています。この銀貨は4ドラクメの価値、つまり二人分の神殿税を納めるのにちょうど良い価値がありました。こうしてペトロはイエス様と自分の分の神殿税を手に入れることが出来ました。
 イエス様も信仰を与えられたペトロも、神の子です。ですから、神殿税を納める義務はない。これが信仰における筋道です。しかし、この時「だからもう納めなくてもよい。」とはイエス様は言われませんでした。ここにイエス様のやわらかさ、しなやかさがあります。イエス様は、正しいことは正しいのだから何としてもそのようにしようという考え方、あり方を採られないのです。それは、筋道を曖昧にするということではありません。「彼らをつまずかせない」という配慮、それは愛と言っても良いでしょう。愛は、自らの正しさを保持しつつ、相手のことを思い、行動を決めていくのです。
 この場合、「彼らをつまずかせない」というのは、もしイエス様が神殿税を納めなかったならば、イエス様について「神様を軽んじる者」「神殿を侮辱する者」「神の民イスラエルを否定する者」といった評判が立ち、イエス様に対して「つまずく」、イエス様を信じられなくなるということです。これから十字架と復活において、自らが神の子・救い主であることを明らかにされるのに、その前に神殿税を納めるかどうかという些細な問題で無駄に人々と対立する必要はないと考えられたのでしょう。
 神殿税を納めるかどうか。今私はこれは些細な問題と言いました。しかし、いやいや、これは大問題だ、そう考える人もいるでしょう。イエス様がまことの神の子であることを示すためには、この神殿税をどうするかは決して些細な問題などではない。神殿税を納めれば、自分が神の御子であることを否定することになってしまうではないか。そのような理屈も成り立ちます。確かに理屈としてはそうとも言えるのです。しかし、イエス様はそうは思われなかったし、そうはされなかったのです。ここにはイエス様のやわらかさ、しなやかさ、おおらかさ、何事にも囚われない自由さというものがあるように思えます。この自由さは神様の自由さです。この自由さの中に生きるようにと、イエス様は私共を招いてくださったのです。神の子とされるということは、イエス様と共にこのおおらかさのなかに生きることが出来るようになるということでもあるのです。

6.魚の口から銀貨が
 神殿税として納めるお金にしても、ペトロに釣りをさせて、採れた魚の口の中にある銀貨で納めるというのです。何ともユーモアを感じるではありませんか。ひょっとすると、この時ペトロの家には神殿税のお金、イエス様とペトロの分、合わせて3万~4万円のお金もなかったのかもしれません。ペトロは「納めます。」とこの時即答しましたけれど、私の想像ですけれど、実はお金はなかったのかもしれません。でも、イエス様にとっては、それは些細な問題でした。魚の口に銀貨があるから何も心配は要らないと言われるのではありません。ペトロの中には色々な心配があったのでしょう。神殿税を納めないと言ったら、村八分にされはしないか。でも、納めるだけのお金が家にあるか。どうしよう。しかし、イエス様は少しも心配しておられないのです。必要なものは神様が備えてくださる。お金だって魚の口にある。だから、何も心配は要らない。
 私の父は事業家でしたので、このような話をすれば、「神様が手形を落としてくれるとでも言うのか。そんなバカなことがあるか。」と言っていました。その父が、私が牧師になって何年かしてからでしょうか、前任地の教会の主の日の礼拝に来て、「牧師は手形の心配をしなくてもいいのか。良い仕事だな。本当に良かった。」そう言いました。確かにこの地上の生活において、お金の心配というものは、本当に神経をすり減らす、胃が痛くなる問題です。深刻な問題です。しかし、それでもイエス様から見れば、やっぱり些細な問題なのだと思います。お金の問題は命の問題ではないからです。命は神様の御手の中にあり、命の養いは神様によって一日一日為されているのです。
 あなたは、わたしと同じように神の子とされているのではないか。既に神様の養いの中に生かされているではないか。安心しなさい。神様に向かって「父よ」と呼んで、神様の大いなる愛の御手の中に憩いなさい。些細なことに心を痛めるな。そう言われているのでしょう。このイエス様の大いなる安心、おおらかな自由さを与えられて、この一週も歩んでまいりたいと心から願うのであります。

[2019年8月11日]