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礼拝説教

「赦し合う者として」
創世記 50章15~21節
マタイによる福音書 18章21~35節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今朝与えられておりますマタイによる福音書18章は、教会についてイエス様が教えられた所です。前回は15~20節の御言葉から、教会において罪を犯した人が出た場合、どのように対処しなければならないか、そのことについてイエス様がどう教えておられるかを聞きました。結論は、赦すということです。勿論、その人が自分の非を認め、悔い改めなければなりませんけれど、悔い改めたなら赦す。それは、教会が赦しの権能を行使するために建てられているものだからです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」とイエス様が約束してくださったのも、実に赦しの御業を為すために御臨在されるということです。私共が主の日の度にここに集って礼拝をささげているのは、このイエス様による赦しに与るためです。イエス様は今朝もここに御臨在されています。それは、私共に赦しを与えてくださるためです。何故、礼拝堂の正面に十字架が掲げられているのか。それは、私共がこの礼拝の場において、イエス様の十字架によって、十字架のもとで赦しに与るからです。

2.七の七十倍も赦しなさい
 今朝与えられております御言葉は、その続きです。ペトロがイエス様にこう尋ねます。21節「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」ペトロは、罪を犯した兄弟を赦すべきだとイエス様に言われて、だったら何回まで赦せばいいのか。現実的に実際的に兄弟を赦す場合、その辺のことが問題になるではないか。ここをはっきりさせておかなければ、ただ赦せと言うだけじゃダメではないか。そんな気遣いから、このように尋ねたのかもしれません。ペテロにしてみれば、イエス様の言われたことを実際に行っていくためには、どうしても必要なことだと考えたのでしょう。当時、律法学者たちは、三回は赦さなければならないと教えておりました。「仏の顔も三度」と同じですね。人間の常識で考えると、大体こんなところになるのでしょう。しかし、ペトロはその倍よりも更に一回多く、「七回までですか。」と言った。三も七も完全数ですので、三の上なら七という感覚だったのかもしれません。この時ペトロは、イエス様にほめてもらえると思っていたのではないでしょうか。「ペトロよ、よく言った。律法学者たちは三回と言っているが、わたしたちはそれよりずっと多く赦さなければならない。七回か。三回の倍以上。それでいい。」そんな風に言われることを期待したのではないかと思います。
 しかし、イエス様の答えはペトロが考えこともないものでした。ペトロの思いをはるかに超えていました。イエス様はこう答えられます。22節「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」七の七十倍、計算すれば490回です。しかし、これはもう具体的な回数を言っている数字ではありません。大体、490まで数えるというだけで、その執念深さに恐怖を覚えます。どれだけ491回目を待っているのか。この人が自分に対して犯した罪を1回、2回、3回と数えていって490回までは赦す。でも、491回目からは遂にもう赦さなくても良くなる。この時までに積もりに積もった怒りはどれほどでしょう。今まで溜まりに溜まった恨みを、この491回目で思いっきり晴らす。491回目は大変なことになるでしょう。ここでイエス様が言われたのがそういうことでないことは明らかです。イエス様が七の七十倍と言われたのは、そもそも三回だ七回だと数えるということは、少しも赦していないのだ。赦しているふりをしているだけではないか。三回だ七回だと数えること自体、意味がないし、それは本当のところで赦していない証拠だ。そうイエス様は言われたのでしょう。七の七十倍。それは何回でも際限なく、という意味です。赦し続けるということです。

3.一万タラントンの借金を帳消しにされた者の話
 イエス様はここで、そもそも自分に罪を犯した者を赦すとはどういうことなのか、そのことを教えてくださったのです。それが23~33節に記されているたとえ話です。とても印象深い話です。
 ある王様が家来たちに貸した金の決済をしようとした。すると、ある家来が一万タラントンの借金をしていた。この一万タラントンというのは、とんでもない金額です。1タラントンは6000デナリオンです。1デナリオンは一日の労賃ですから、52回の安息日は働きませんので、300デナリオンでほぼ一年分の労賃になります。つまり1タラントンである6000デナリオンは、20年分の労賃ということになります。この借金は更にその1万倍ですから、20万年分の労賃ということになります。あまりに大きすぎてよく分からないほどです。これを、一日の労賃を5000円として換算しますと、5000円×6000×10000=3000億円となります。もし、一日の労賃を10000円とすれば6000億円となります。いずれにせよ、とんでもない金額です。金額が大きすぎて、想像することも出来ないほどです。当然、この家来は返済なんて出来ません。王様はこの家来に、自分も妻も子も持ち物も全部売って返済するように命じました。しかし、何を売ったったところで何千億円もの金額になるはずもありません。この家来はひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします。」としきりに願いました。全部返せる見通しがあったわけではないでしょう。でも、そう言い訳するしかありませんでした。すると、何と王様は「憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」というのです。
 問題はここからです。この家来は一万タラントンの借金を帳消しにしてもらって外に出ました。ところが、「自分に百デナリオンの借金をしている仲間に会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った」のです。100デナリオンは100日分の労賃ですから、50万円とか100万円ということになります。これなら私共にもよく分かる金額です。家来に対してこの借金をしていた仲間の人はひれ伏します。そして、「どうか待ってくれ。返すから。」としきりに頼んだのです。けれども、家来はその願いを聞き入れず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れたのです。これを見ていた仲間たちは非常に心を痛め、王様にこの事件を残らず告げました。すると王様はその家来を呼びつけて、「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」と言いました。

4.このたとえ話の意味
 このたとえ話において、王様・主君というのは神様であり、一万タラントンの借金を帳消しにしてもらったのは私共です。そして、百デナリオンの借金をしていた人が、私共に罪を犯した人ということになります。
 イエス様は、あなたは一万タラントンの借金を帳消しにしていただいたのだ、だから百デナリオンの借金くらい帳消しにするのは当たり前のことではないか、それが自分に罪を犯した者を赦すということなのだ、と教えてくださいました。これが、天の国・神の国のあり方であり、天の国・神の国を指し示すために建てられているキリストの教会において為されなければならない赦しというものだと言われたのです。
 ここで、一万タラントンの借金を帳消しにしてもらった家来、百デナリオンの借金をしていた人、主君にこの事件を知らせた人、これらはみな「仲間」と言われています。つまり、キリスト者なのです。
 一万タラントンの借金を帳消しにしてもらった。それはイエス様の十字架によって、私共の一切の罪が赦されたということを意味しています。このことが前提となって、私共は自分に罪を犯した者を赦すのです。もし、一万タラントンの借金の赦しがなければ、百デナリオンの借金を取り立てるのは当たり前ということでしょう。しかし、キリスト者は、キリストの集会に集う私共は、このイエス様の十字架による罪の赦しに与った。だったら、それにふさわしく赦す、赦し合う、それが当たり前ではないか、とイエス様は言われたのです。
 ここで私共は、この一万タラントンの借金を帳消しにしてもらったにもかかわらず、百デナリオンの借金を帳消しにせず牢に入れてしまったこの家来に、自分の姿がはっきり示されていることを知るのです。自分の罪が赦されるのは当たり前、しかし他の人の罪に対しては赦せない。「笑ってごまかせ自分の失敗、厳しくののしれ他人の失敗」という言葉がありますが、私共は自分にはとことん甘く、他人に対しては本当に厳しいのです。同じことをしても、自分がした場合には大したことではないと思い、他人がした場合にはとんでもないことだと大騒ぎする。自分が傷付けられた時には、何という人だ、あれでも人間かとまで思うけれど、同じようなことを人に対してしてしまっても、平気な顔をしている。そういうところがあるのでしょう。
  ペトロが、七回までですかと問うた時、彼は「自分が神様に赦されなければならない者」であることに全く気付いていないのです。ペトロにしてみれば、自分に罪を犯した者を赦すのは、自分の意志によるのであって、それが当たり前のことだとは全く思っていませんでした。自分が神様に赦されなければならない者だとは考えてもいなかったからです。しかしイエス様は、私共が赦すのは赦されたからだ、しかもとてつもなく大きな赦し、考えられないほどの赦しに与ったのだ、だから赦すのは全く当たり前のことなのだ、と言われたのです。

5.赦し合う交わりを形作るために
 私共が互いに赦し合う交わりを形成するためには、ただ一つのことが必要です。それは私共が、共にイエス様によって赦していただいた者であることを知ることです。共に神様の御前に立つことです。そして、自分が一万タラントンの借金をした、決して返済することの出来ない負債、決して自分で処理することの出来ない罪を帳消しにしていただいた、そのことを受け取ることです。「お前には私は百デナリオンを貸している。」と偉そうに思い出すこともなく、共に一万タラントンの借金を帳消しにしていただいた恵みを感謝する。そこに共に立つ時、私共は互いに赦し合う交わりを形作る者にされていくのです。教会は、このイエス様の十字架の赦しによって立つのであって、私共の「赦してあげましょう」という善意によって立っていくのではないのです。私共の持つ善意など、三回赦すだけでも大した者だと自惚れるようなものでしかないからです。
 イエス様は弟子たちに、「こう祈りなさい。」と言って「主の祈り」を教えてくださいました。その祈りの中に、「我らに罪を犯すものを、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」という祈りがあります。この祈りは、「私が赦しますから、私も赦してください。」という、私が赦すという善き業により、その善き業の見返りとして自分を赦してくださいと祈るのだと勘違いしている人がいるかもしれませんが、この祈りはそういうものではありません。この「主の祈り」は、イエス様の十字架によって一切の罪を赦された者の祈りです。イエス様を知らない人がこの祈りを祈るのではありません。イエス様によって一切の罪を赦され、神の子としていただいた者の祈りです。だから、「天にまします我らの父よ」で始まるのです。ですから、「主の祈り」における「我らに罪を犯すものを、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という祈りは、「私はイエス様によって一切の罪を赦していただきました。だから私も、私に罪を犯した者を赦します。どうか私をあなたの罪の赦しの中に生かしてください。」と祈るのです。既に赦されているのです。その赦しの中に生きている者の祈りであり、その赦しの中に生き続けるための祈りなのです。
 私共は、自分に罪を犯す者を赦す、赦そうとする、その時はっきりとイエス様の十字架の前に立ちます。ここに立たなければ、私共は赦せないからです。赦すということは、私共の善意などから生まれてくるものではありません。私共はそんなに善い人ではないからです。自分のことは棚に上げて、他人には厳しいのです。赦している顔をして、心の中では相手を見下すような者なのです。ペトロの「七回までですか。」という言い方には、まさにそのような心が表れています。この「七回までですか」という問いをイエス様にしているペトロは、「赦してやる」という、自分に罪を犯した者を見下した心でこれを言っています。それに対してイエス様は、「私共が赦すのは、赦し合うのは、そんなことではない。当たり前のことなのだ。」そう言われたのです。私共が赦すのは、当たり前のことなのです。「赦してあげる」というようなことではない。だから、七の七十倍までもなのです。
 そんなこと言われても、あの人は赦せない、そう思う方もおられるでしょう。でも、その人と共にイエス様の十字架の前に立つならば、必ず赦せます。私が小さくなるからです。赦す者と赦される者がいれば、赦す者の方が上で、赦される者は下になる。それが私共が考える赦す者と赦される者の関係です。加害者と被害者の関係です。しかし、イエス様はそうではないと言われるのです。イエス様の十字架の前に立てば、上も下もない。上におられるのはイエス様だけです。しかも、そのイエス様は私のために十字架にお架かりになられたイエス様です。この方の前に立てば、私共は赦すしかない。そこに本当の赦しが生まれるのです。「我らに罪を犯すものを、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」と祈るしかありません。

6.1万タラントンの負債を帳消しにしていただいた者として
 イエス様は、このたとえ話の中で御自分の十字架のことはひと言もお語りになっていません。しかし、このたとえ話がイエス様の十字架を抜きにしては成り立たないことは、今までお話ししてきたことでお分かりになったでしょう。このたとえ話は、イエス様が十字架にお架かりになって、私共の一切の罪を赦してくださることを前提として語られた話です。ですから、このたとえ話の中にイエス様の十字架の姿が現れて来ます。このたとえ話もまた、十字架の言葉なのです。
 私共は、一万タラントン、3000億円の借金、負債を帳消しにしていただいた者です。ありがたいことです。だったら、百デナリオン、50万円の借金など帳消しにしてやったらよい。私共はこのイエス様のたとえ話を聞いて、百デナリオンの借金をしていた仲間を牢に入れた家来に対して、「何て奴だ。」と思ったでしょう。そうです。こんな奴になってはダメなのです。自分に対して罪を犯した者を赦す。それは、イエス様の十字架の前では当たり前のことです。この当たり前のことを当たり前に為していく交わり、そのただ中にキリストはおられます。私共の一切の罪の裁きを我が身に負われた方がここにいる。そして私共に告げるのです。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」この御声に対して私共は、「主よ、私は赦します。どうか私を赦してください。」そう答えるしかありません。

[2019年10月13日]