日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

召天赦記念礼拝説教

「わたしは復活であり命である」
詩編 103編1~5節
ヨハネによる福音書 11章17~44節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今朝私共は、先に天の父なる神様の御許に召された、愛する兄弟姉妹を覚えて礼拝をささげております。お手許にあります召天者の名簿にお名前が記されており、今それを読み上げることは致しませんが、昨年の召天者記念礼拝の時から五名の方の名前が加わりました。更に、この名簿には記されておりませんが、週報にありますように、先週S・K兄が加わりました。改めてお一人お一人の在りし日の姿を思い起こすものです。そして、この方々は、主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストと一つに結び合わされた者として、天の父なる神様の御許に召されました。この一人一人は、決して肉体の死をもってすべてが終わったわけではあません。そのことを心に刻みたいと思います。

2.死は終わりではない
 今朝与えられております御言葉は、ヨハネによる福音書の11章です。ここには、ラザロという、イエス様と愛の交わりにあった者が死んだこと、そしてイエス様に復活させられたことが記されています。イエス様が死んだ人を生き返らせた聖書の記事のうち、最も詳細に記されている有名な記事です。この出来事を通し、イエス様は私共に二つのことを教えてくださいました。第一に、イエス様は死を打ち破る力を持っておられること、第二に、私共もやがてこのラザロのように復活するのだということです。
 死は、いつの時代でも、人間にとって決して越えることの出来ない限界点でした。どんなに立派に生きようと、どんなに素晴らしい業績を上げようと、どんなに人々に愛されようと、死んだらお終い。これはどんな人も越えられない限界だと思われています。しかし、聖書はそうではないと教えるのです。
 聖書を見てみましょう。17節「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。」とあります。死んで四日もすれば肉体の腐敗は進み、死臭を放っていたことでしょう。今日お読みしたところの直前には、イエス様のもとに、ラザロが病気であるとの知らせが届いたことが記されています。ラザロにはマルタとマリアという姉妹がおりました。イエス様はこの三人ととても親しい愛の交わりを持っていました。でも、この知らせを受けて、イエス様がすぐにラザロの所に来たかというと、そうではありませんでした。知らせを受けてから、イエス様は二日間もそこを動かれませんでした。それから、「わたしの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」と言って、ラザロの所へ出発されました。イエス様はラザロが死んだことを知らなかったのではありません。ラザロが死んだことをはっきり御存知でした。その上で「わたしは彼を起こしに行く。」と言われました。それは、ラザロを生き返らせる、そのためにラザロの所に行くということを意味していました。
 先にこの地上での生涯を閉じた人々を、私共の教会では召天者と言いますが、永眠者と言う教会もあります。死んだのではない、永い眠りについているのだという意味です。眠りという表現は、やがて目が覚めることを前提としている言い方です。つまり、やがて復活する。それがキリストの教会の死んだ者に対する理解なのです。

3.マルタとのやり取り
 イエス様がラザロの所に着きますと、そこには既に多くの弔問者が来ていました。姉のマルタがイエス様を迎えます。このマルタとの間で大変重大なやり取りが為されます。
 マルタは開口一番、イエス様にこう言うのです。21~22節「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」ここには、イエス様がラザロが死ぬ前に来てくれていれば、ラザロは助かっただろうに。でも、もう遅いです。そんな思いが表れています。マルタはイエス様がメシア、救い主であると信じています。イエス様が大変な力をお持ちの方だということも知っています。しかし、死んだらお終いだ。イエス様でもどうにも出来ない。マルタはそう思っています。
 それに対して、イエス様はこう告げます。23節「あなたの兄弟は復活する。」これに対して、マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」と答えました。当時のユダヤ教においても、律法を守り神様の御前を正しく歩んだ者は終わりの日に復活すると信じられておりました。ファリサイ派の人々などはそう信じていました。しかし、サドカイ派の人々は復活を信じていませんでした。この時のマルタの復活に対しての信仰は、私共が、やがて時が来ればイエス様が再び来られて、その時イエス様を信じた者たちは復活して永遠の命に与ることを信じているのと似ています。
 しかし、イエス様はここで、復活についてのマルタの信仰のあり方を、それで良しとはされなかったのです。イエス様はマルタに対して、25~26節「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と言われたのです。これは一体どういう意味なのでしょうか。イエス様は何をお語りになったのでしょうか。一回聞いただけでは、何を言っているのか分からない、不思議な言葉です。しかし、私共の死はこの言葉に懸かっている、大変重大な言葉です。この言葉にキリスト教の救いのすべてがあると言っても良い言葉です。
 まずイエス様は、「わたしは復活であり、命である。」と言われました。イエス様はこの後で十字架にお架かりになり復活されるのですけれど、その時になって初めて復活するお方になられたわけではないのです。イエス様は、天地が造られる前から天の父なる神様と共におられた方、神の独り子です。イエス様は永遠から永遠まで生き給うお方であり、命そのものであり、イエス様の命は肉体の死によっても失われることのないまことの命のお方です。イエス様が肉体の死で終わる命しかお持ちでないなら、十字架にお架かりになって終わってしまったでしょう。しかし、それで終わらず、三日目に復活されました。肉体の命、死によって限界付けられる命ではなく、それを超えた命を持つ方、それがイエス・キリストというお方です。
 そして、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」これはもう、日本語として成立していないような言葉です。「死んでも生きる」という言葉は意味が分かりません。それは、命というものをこの肉体の命しか考えていないからです。イエス様には、肉体の命と共に、永遠に生き給う神様の御子としての命がある。そして、イエス様を信じる者は、このイエス様と一体とされます。つまり、肉体の死を超えた命、まことの命、永遠の命に与るのです。洗礼を受けるということは、このイエス様と一体とされるということです。イエス様の命と私の命が結ばれるということです。だから、イエス様を信じる者は、肉体の死を迎えようとも、それですべてが終わりとはならない。肉体の死を超えた命に既に与っているからです。「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」も同じです。私共は例外なく肉体の死を迎えます。しかし、その死がすべてではない。永遠に生き給うイエス・キリストと一体とされた者は、このキリストの命にも与っているからです。イエス様は、マルタに「このことを信じるか。」と言われた。マルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と答えました。しかし、この時マルタがイエス様の言われたことをちゃんと受けとめて、このように答えたかどうかは分かりません。多分、よく分かっていなかったと思います。
 だったら、マルタはダメだったのかと言えば、そうではありません。私共の信仰、私共が神様・イエス様について理解していることなど、ほんの少ししかありません。私共が神様・イエス様をすべて理解するなんて、出来るはずがないからです。神様・イエス様は私共の理解よりずっと大きい方だからです。だって、天と地のすべてをお造りになった方なのですから、当たり前です。マルタは、よく分かっていなかったけれどイエス様を信じた。このよく分かっていないような信仰も、イエス様は受け取ってくださり、私共と一つになってくださるのです。イエス様を信じるということは、イエス様を信頼し、イエス様を愛することです。マルタはイエス様を信頼し、愛していました。それで十分だったのです。死んでしまったラザロも同じように、イエス様を愛し、信頼していたのでしょう。

4.マリアとのやり取り
 イエス様がマリアを呼び出すと、マリアはマルタと同じことを言いました。32節「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」マリアも、イエス様がいやす力を持っておられる方だと信頼していました。しかし、死んでしまったらもう無理だ。死んだらお終いだ。そう思っていたのです。マリアは泣きます。愛する家族を失ったのですから当たり前です。
 35節「イエスは涙を流された。」イエス様も涙を流されました。愛する者が死に取り込まれ、それに対してどうすることも出来ない人々、涙し悲しみにくれるしかない人々。イエス様はそれを見て涙を流されるのです。愛する者を失った人の悲しみ。これは人間が味わう最も深い悲しみ、嘆きでしょう。イエス様はそれに心を動かされ、涙を流される方なのです。そして、このように人々を悲しませ、嘆きの淵に投げ込む死に対して、我が物顔に力を振るう死に対して、「心に憤りを覚え」られるのです。33節と38節で、イエス様が憤られたことが繰り返して記されています。イエス様は怒ったのです。死に対して怒ったのです。私共の主イエス・キリストとは、そういうお方なのです。マリアと共に涙を流し、そしてマルタやマリアを嘆きの淵に追いやる死に対して憤られるのです。

5.ラザロの墓の前で
 そして、イエス様はラザロの遺体を納めた墓に行きます。イエス様は石でふさがれた横穴の墓の前に来て、「その石を取りのけなさい。」と言われます。しかし、マルタが言いました。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます。」四日もたっているから、死体は腐り始め、死臭を発している。今更何をするというのか。どうして墓の石を取りのけろなんて言うのか。マルタには分かりません。しかし、イエス様は引きません。40節「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」そう言って、石を取りのけさせます。そして、神様に祈られました。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」そう言ってから「ラザロ、出て来なさい。」と大声で叫ばれました。イエス様は普通の声で「ラザロ、出て来なさい。」と言われたのではありません。大声で叫んだのです。大声で「ラザロ、出て来なさい。」と叫ぶと、その声と共に死は破られたのです。そして、「死んでいたラザロが、手と足を布で巻かれたまま出て来た」のです。
 イエス様は人々の目の前でラザロを復活させることによって、御自身が肉体の死をも打ち破る者であることを示すと共に、御自身を信じる者にはこのような復活が与えられるのだということをはっきりとお示しになったのです。

6.既に復活の命に生かされて
 勿論、このラザロの復活の出来事は、私共に備えられている復活、終末において与えられる復活と同じではありません。何故なら、ラザロはこの後もずっと生きて、今もエルサレムで生きている、そんなことではないからです。ラザロもまた、やがて時が来て死んだでしょう。そして、その時には二度目の葬式が為されたはずです。しかしその時の葬式は、この最初の葬式の時のように、マルタもマリアも嘆き悲しむだけの者ではなかったはずです。やがて時が来れば、あの時のように「ラザロ、出て来なさい。」というイエス様の声がして、復活することになる。しかも、その時には、やがては朽ちていくこの肉体ではなく、復活されたイエス様と同じ、復活の体をもってよみがえる。そのことを信じての葬式となったことでしょう。復活を信じての葬式。ここに、キリストの教会が営む葬式が生まれたのです。
 イエス様は十字架にお架かりになり、三日目に復活されました。そのことにより、信仰によってイエス様と一つに結び合わされた者はイエス様の復活の命と一つにされ、復活する。永遠の命に与る。そのことをはっきりと示してくださいました。ラザロの復活の出来事は、このイエス様の復活によって与えられる救いの恵みを私共が信じることが出来るようにと与えられた出来事でありました。
 私共の復活がいつ与えられるのかは分かりません。しかし、私共はこの地上において信仰を与えられて、ラザロと同じようにもう既にキリストの命に生き始めています。イエス様を知る前、私共は肉体の死と共に終わってしまう人生しか知りませんでした。神様と共に生きるという、新しい命を知りませんでした。自分の欲に引きずられ、目に見える何かを手に入れれば幸いになるのだと思い込んでいました。しかし、イエス様に出会って、私共は「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈りつつ生きる者となりました。
 自分の願いや自分の思いを遂げることよりも大切なことがある。それは神様の御心がなることであり、互いに愛し合い、支え合い、仕え合う交わりを形作ることであり、愛に生きることです。そして、それこそが本当の人生であることを知りました。また、自分が何かを手に入れるよりも、献げることのほうが美しいことを知りました。既に、まことの命が、キリストと一つにされた命が、私共の中に息づいています。既に、死んでいたのによみがえっているのです。キリスト者として生きるとは、死んでいたのに復活させられたラザロとして生きるということです。私共は復活させられたラザロなのです。既に復活の命に生き始めているのです。

 私共の愛する、先に天に召された兄弟姉妹はそのことを、御自分の人生をもって私共に教えてくれました。この地上にありながら御国を目指し、復活の命に生かされて、それぞれの場において歩まれました。その歩み方も、歩まれた場所も、皆違います。しかし、目指していたところはただ一つ。神の国の完成でした。そして、その歩みには復活の命が息づいていました。私共も、そのお一人お一人の後をしっかり歩んでまいりたいと思うのです。その私共の先頭には、生ける主イエス・キリストがおられます。

[2019年10月20日]