日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

クリスマス礼拝説教

「救い主の誕生」
イザヤ書 57章14~21節<BR> ルカによる福音書 2章8~20節

小堀 康彦牧師

1.クリスマスを迎えて
 私共の救い主、主イエス・キリストの御降誕を共々に喜び祝う礼拝をささげています。今年のアドベントの期間、私共は旧約、特にイザヤ書から御言葉を受けてまいりました。イエス様の到来が偶然たまたま起きたことではなく、長い神様の御計画の中で起きた、既に告げられていた預言の成就としての出来事であったことを改めて心に刻み、旧約の人々が救い主の到来を待ち望んだように、私共はイエス様が再び来られることを待ち望む。待ち望みつつ生きる。この信仰を整えられたいと願ったからです。今朝も、イザヤ書57章14節以下の御言葉が与えられています。この預言がイエス様の到来を指し示しており、その預言の成就としてクリスマスの出来事があったことを確認する。そして、このクリスマスの出来事によって与えられた救いの恵みに、私共が既に与っていることを改めて受け止め、共々に主をほめたたえたいと思うのです。

2.第三イザヤがこの預言を告げた時の状況
 紀元前6世紀の終わり、神の民の一部がバビロン捕囚からエルサレムに帰還します。彼らは神殿を再建し、エルサレムの城壁を建て直して、再出発しようとします。しかし、それがうまくいかない。事業は進まず、頓挫してしまう。バビロン捕囚から解放されれば、すべてがうまくいくと思っていた。しかし、そうではなかった。そういう中で、イザヤ書57章は預言者第三イザヤによってこの預言を告げたと考えられています。第三イザヤが目にしているのはそのような神の民の状態です。しかし、神様によって第三イザヤが見せていただいたのは、そして第三イザヤが告げているのは、救い主の到来によって与えられる救いの出来事です。
 私は、第三イザヤがこのことを語らねばならなかった状況というものがとても大切だと思うのです。私共は、目の前に困難な状況がありますと、何とかこの状況が変わるように、こうなれば良いな、こうなれば何とかなるのに、そんな風に考えるでしょう。それは個人のレベルでもそうですし、日本の少子高齢化や、国際問題、超大国のパワーバランス、地球温暖化といった大きな問題についてもそうです。様々な困難な状況の中で、私共は、こうなったらいいな、こうなればこの状況を脱却できるのにと思います。そして、神様にそう願い求めるわけです。これは当たり前のことです。誰もがすることです。しかし、その現実が実際に好転し、これですべてがうまくいく、そう思った矢先に全く予期していなかった別の問題が立ち現れてくる。この時の失望、やりきれなさ。もうこれで大丈夫と思ったのに、まさかこんなことになるなんて…。第三イザヤが目にしていた神の民の姿は、まさにそういうものでした。バビロン捕囚から解放されれば、神の民として再出発できる。神殿を再建して、また新しくやり直そう。そう思って耐えてきた。歯を食いしばって頑張ってきた。そして、それができる状況になった。これですべてがうまくいくはずだった。しかし、現実はそうではない。神の民は、もう何を求め、何に希望を持って生きていけばいいのか、分からなくなってしまった。この闇は深いのです。困難な状況が解決され、これで大丈夫だと思った途端に、全く別の問題が立ちはだかる。イスラエルの民は、もうそれに立ち向かうだけの勇気、元気、気力がない。そういう人たちに向かって、第三イザヤはこの預言を告げたのです。

3.至高にして永遠の聖なる神様
 今朝注目したいのは、まず15節です。「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み」とあります。ここには、神様がどういう方であるかが告げられています。  第一に、至高の方である。これ以上高い方はおられない。この方の下では、すべての者が低くされます。
 第二に、永遠の方です。世にあるものはすべて滅び、消えていく。しかし、この方は永遠に生き給い、すべてを支配されます。
 第三に、聖なる方です。この方には一点の曇りもなく、罪なく、正しく、聖なる方。この方の前に出るならば、すべてのものは卑しく、小さく、滅びるばかり。この方を目にすることはできず、天の高きにおられる方です。  これが私共の神様です。

4.へりくだる霊の人と共にある神様
 しかし、この方が「打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」と告げたのです。永遠にして至高の聖なる方が、打ち砕かれた霊、へりくだる霊の人と共にあることになる。そして、へりくだる者、打ち砕かれた者に命を得させると告げたのです。「へりくだる霊の人」と「打ち砕かれた心の人」というのは同じ意味です。神様の前に何一つ誇るべきものを持たない人。いや、持てない人です。傷付き、打ち砕かれ、弱り果ててしまっている人です。それが「へりくだる霊の人」です。へりくだる霊の人というのは、自分は大した者だけれど、そんな風には見せない謙虚な人という意味ではありません。そんな余裕なんて全くない人です。心打ち砕かれた人です。頼るべきものを持たず、それ故自分に自信もなく、希望の明日を思い描くことさえ出来ない。弱り果て、打ちひしがれ、うな垂れている者のことです。神様は、そのような人と共にあり、そのような人に命を得させると告げられたのです。
 バビロン捕囚から解放された人々は、立派な神殿を再建し、エルサレムの城壁も再建して、神様に喜ばれる神の民として再び歩み出そうとした。しかし、エルサレムに戻った人々は貧しく、弱く、とてもそんなことを成し遂げる力はありませんでした。周りの民も邪魔をするのです。それを退ける力も無い。彼らは希望を失い、その場にうずくまるしかありませんでした。その時、「わたしは、この打ち砕かれた人々と共にあり、この人々に命を与える。新しく生きる力と勇気を与え、立ち上がらせ、救いに与らせる。命を与える。」そう神様は第三イザヤの口を通して語られたのです。

5.マリアとヨセフの子として
 何故、イエス様はマリアとヨセフの子として生まれたのでしょうか。マリアは、まだ少女と言っても良いほどの女性です。幼い、今の中学生くらいの子です。ヨセフは大工。二人とも、特に知恵に優れているとか、社会的に立派と言われるような存在ではありませんでした。何故、彼らが救い主であるイエス様の父と母となったのか。それは、救い主イエス様の誕生を最初に教えられたのが、何故、野宿をしていた羊飼いであったのかということと同じ理由でしょう。それは、彼らが打ち砕かれた者、へりくだった者だったからです。神様の前に誇るべきものなど、何一つ持たない者たちだったからです。天の高きにいます神、永遠の神、聖なる神は、自らを誇り、自分は大した者だとうぬぼれる者と共におられるのではない。聖書の神様は、打ち砕かれ、小さくされ、力も富も何もない、弱り果てたそういう者と共におられる。そういう者たちを救う。そういう者に命を与える。聖書の神様はそうお決めになったのです。
 その御心がもっとも明らかな形で現れたのがクリスマスの出来事です。天の高き所から永遠のお方が、聖なるお方が、マリアを母としヨセフを父とする幼子として降って来られて、飼い葉桶に寝かされた。羊飼いにその出来事が知らされた。それは、彼らが打ち砕かれた者たちだったからです。誇るべき所など何も持っていない、へりくだった者たちだったからです。神様は、そのような者と共にいるとお決めになったのです。この神様の御心は、イエス様の十字架において徹底されます。イエス様が死ぬ時に共にいたのは、イエス様の右と左に立つ十字架に架けられた二人の罪人でした。十字架刑というのは極刑ですから、軽い罪を犯した人は架けられません。とんでもなく重い罪を犯した人、それがイエス様が死ぬ時に共にいることにした人たちでした。
 もし神様が、力があり、富があり、自分の力でやっていけると思っている人と共にいようとされたなら、イエス様の父と母は、王と后であったことでしょう。イエス様は飼い葉桶ではなく、金の揺りかごに入れられたことでしょう。そして、イエス様の誕生は、羊飼いではなく、律法学者たちに、祭司たちに告げられたことでしょう。しかし、そうではありませんでした。イエス様の父と母は、大工のヨセフと幼いマリアでした。イエス様は飼い葉桶に寝かされ、その恵みの出来事を最初に知らされたのは羊飼いでした。ここに、神様の意志、御心、第三イザヤを通して告げられた神様の救いの御計画があったのです。
 イエス様は言われました。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイによる福音書5章3節)「心が貧しい」というのは、自分の中に何一つ誇るべきものを持っていない、何も頼るべきものを持っていないという意味です。自分の中には何もないのですから、神様を頼るしかありません。そういう者のために天の国はあるとイエス様は告げられました。
 また、「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(マタイによる福音書5章4節)と告げられました。悲しむ人が幸いなはずがありません。しかしイエス様は、「わたしはそのような人を慰める。だから幸いだ。」と言われたのです。

6.地には平和
 私共の幸いは、このイエス様というお方と共にあること。この方の愛を受け、天地を造られたただ一人の神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来ること。一切の罪を赦され、永遠の命に与る者とされていること。ここにあります。この救いの恵みは、打ち砕かれた者に、へりくだる者に与えられます。そのためにイエス様は来られました。
 イザヤは更に19節でこう告げました。「わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。」世界で最初のクリスマスの夜、天の使いが羊飼いに救い主の誕生を告げた時、天の大軍が加わり神を賛美した歌が、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカによる福音書2章14節)でした。「地には平和」です。この御心に適う人というのは、打ち砕かれた人、へりくだった人のことです。心も行いも口も、清く正しく美しい人のことではありません。弱り果て、困り果て、どうしていいのか分からない人のことです。そこに平和が来る。そのためにイエス様は来られたのです。
 一昨日、高志リハビリ病院のロビーで、M・M姉のオルガンとN・Kさんの朗読でクリスマス演奏会が行われました。人工呼吸器を付けての足踏みオルガンの演奏です。昨年もこの時期に行われたので、あれから一年経ったのだなと思いました。多くの車椅子の方が聞いておられました。また、その人に付き添っておられる方も来ていました。「イエス様はあなたのために来られた」、そのことを知らせたいというM姉の思いが私にはよく伝わってきました。M姉は急性肺炎で倒れてから2年間、本当に大変な日々を過ごされました。しかし、主が共にいてくださいました。主の憐れみの御手の中で生かされました。この恵みの事実を、M姉はその存在と演奏で表していました。「地には平和、御心に適う人にあれ。」との天使たちの賛美が、彼女と共にありました。

7.神様はあなたと共に
 今朝ここに集われた皆さんに申し上げます。あなたが弱り果て、困り果て、打ち砕かれしまっているなら、主はあなたと共にいてくださっています。あなたの唇が「平和、平和」と歌うことができるように、主はあなたをいやしてくださいます。それが、クリスマスにイエス様を与えてくださった神様の御心だからです。
 何度も言います。神様は富も地位もあり、心が清く、何も困っていない人と共におられるのではありません。打ち砕かれ、頼るべきものが何もない、困り果て、弱り果てたあなたと共におられます。そして、主はいやしてくださり、私共の唇に平和の歌を備えてくださいます。それが、愛する独り子イエス様を私共に与えてくださった神様の御心なのです。今、共々にイエスさまをほめたたえ、祈りを合わせたいと思います。

[2019年12月22日]