日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「更新され続ける契約」
ヨシュア記 24章14~25節
コリントの信徒への手紙一 11章23~26節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 2019年度最後の主の日を迎えています。次の主の日から受難週に入り、その次の主の日にはイースターを迎えます。今日は、礼拝の後に臨時長老会を開いて、2020年度の教会総会に向けての準備を致します。私は教会総会の資料を作りながら、改めて2019年度の歩みを振り返りました。愛する3人の方、S・T姉、O・T兄、S・K兄を天に送りました。また、何人もの方が手術を受けました。入院もされました。そして、5人の方が洗礼を受け、1人が転入会されました。そして最後は、世界的な新型コロナウイルス感染という事態が起きました。今まさに進行中です。富山県はまだ感染確認者がゼロということですが、この状況がいつまで続くか分かりません。今日の長老会ではそのことについても話し合います。来週の説教の後で、少し丁寧な報告をすることになると思います。
 私は、毎年この時期になりますと教会総会資料だけではなく、教区への報告、全国連合長老会への報告と幾つもの報告を書かねばならず、一年間の歩みを振り返ることが多いわけです。こんなことがあった、あんなことがあったと思い起こす。そういう中でいつも思わされますのは、あまりに当たり前のことなので年度報告の中には表れませんけれど、一番大切なこと。それは、主の日の度に私共はここに集って礼拝をささげてきたということです。主の日が来る度にここで主をほめたたえ、祈りをささげ、御言葉を受けてきた。ここに私共の教会の歩みのすべてがある。そう思うのです。様々な集会をしました。色々な出来事もありました。でも、主の日が来る度に私共はここで礼拝を守り続けた、それが私共の一年の歩みだったと思うのです。
 では今年度の52回の主の日の礼拝において、私共は何をしてきたのか。御言葉を受けてきた。そのとおりです。主をほめたたえてきた。そのとおりです。伝道してきた。そのとおりです。色々な言い方ができます。しかし、今日の御言葉との関連で言えば、神様との契約を更新してきた。そのように言うこともできるだろうと思います。私共は洗礼を受け、信仰を告白し、神様と契約を結びました。洗礼は一回限りのことです。しかし、神様との契約は、一度結べばそれでおしまいではなくて、更新され続けていくものです。私共は神様と結んだ契約を、この主の日の礼拝の度ごとに更新してきました。ここに集う度ごとに、神様と契約を結んだ者としてそれぞれ遣わされている場へとここから押し出されてきた。その歩みがどんなにたどたどしい歩みだったとしても、私共は神様と契約を結んだ者として、その契約を更新し続けながら生きてきた。それが2019年度の私共の歩みであったと思うのです。

2.シケムの再契約
さて、今日は三月の最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けるわけですが、与えられている御言葉はヨシュア記24章です。ヨシュア記はこの24章で終わります。先月は23章で、ヨシュアの告別説教の御言葉でした。24章も、内容的には23章と重なるところが多いのですが、24章の最初の小見出しは「シケムの契約」となっています。
 イスラエルの民は、出エジプトの旅の途中、シナイ山において神様と契約を結びました。その時、十戒に代表される律法を与えられました。この契約を、その場所の名前を取って「シナイ契約」と呼びます。イスラエルの民は、このシナイ契約をもって神の民となりました。それまでの契約は、アブラハムの契約のように、神様が個人と結んだものでした。しかし、シナイ契約は神様がイスラエルの民全体と結んだ契約です。シナイ契約をもって神の民となったイスラエルでありました。そして、出エジプトの旅が終わり、ヨルダン川を渡って約束の地に入り、神様の守りと導きの中で戦いに勝利し、約束の地カナンにおいてそれぞれ神様からいただいた土地に住み、新しい生活が始まった。今、ヨルダン川を渡る時からイスラエルを導いてきたヨシュアの命が尽きようとしている。この時、ヨシュアはイスラエルの全部族を集めて、シケムの地で全イスラエルに対して、神様との契約を更新させたのです。改めて神の民として歩んでいくことを誓わせた。これがシケムの契約です。
 私は「シケムの再契約」と呼ぶ方が良いと思っています。シケムの契約は、内容においてシナイ契約と何も変わった所はないからです。内容は変わらない。しかし、改めて契約を結び直した。それがシケムの契約です。シナイ契約を更新したのです。ですから、「シケムの再契約」と言った方が事柄を正確に表していると思います。
 ここではっきり示されていることは、神様との契約は更新されるものだということです。一回結んで終わりということではない。それは新約においても同じです。先ほど、コリントの信徒への手紙一11章23~26節をお読みしました。これは聖餐の時に読まれる、聖餐制定の言葉です。聖餐は、洗礼において神様と結んだ契約を更新する時だと言われます。洗礼も聖餐も、神様と結ぶ契約内容とその意味する所は同じです。洗礼は契約式であるのに対し、聖餐は契約更新式ですから、聖餐は何度も繰り返されるのです。そして、契約更新ですから、契約していない人、まだ洗礼を受けていない人は、これに与ることができません。契約していないのに更新しようがないからです。私共は聖餐に月一回しか与りませんけれど、主の日の礼拝の度に契約は更新される。ここで御言葉に与る度に、私共は神様と契約を結んだ者として心を新たにされて、ここから遣わされていきます。この講壇に洗礼台と聖餐台が置かれているのは、飾りではありません。洗礼を受け聖餐に与る者として御言葉を受けるということを意味しているのです。

3.シケムにて
今日は24章14節から読みましたが、それまでの所は、神様が何をしてくださったのかをヨシュアが語っている所です。2節b~4節は、アブラハム、イサク、ヤコブのこと。5~8節は、モーセによってエジプトから導き出されたこと。9~10節は、その旅の途中のこと。11~12節は、ヨルダン川を渡ってからのことです。このように神様はヨシュアの口を通して、アブラハム以来の神の民の歩みを思い返させ、今与えられている恵みはすべてわたしが与えたものではないかと告げたのです。これらの所にも注目したい所はたくさんありますけれど、一点だけ。
 冒頭の2節b「イスラエルの神、主はこう言われた。『あなたたちの先祖は、アブラハムとナホルの父テラを含めて、昔ユーフラテス川の向こうに住み、他の神々を拝んでいた。』」アブラハムと父テラは他の神々を拝んでいた、とはっきり言っています。神の民の始祖、最初に神様と契約を結んだ、最も偉大な祖先であるアブラハムは、元々は他の神々を拝んでいた。始めから、天地の造り主であるただ一人の神を拝んでいたわけではなかった。他の神々というのは、その土地の神々です。それがどうして神の民の父祖となったのか。それは神様が彼を選んだからです。何故神様がアブラハムを選んだのかは分かりません。しかし、神様は彼を選んだ。そして、神の民の歴史は始まりました。ヨシュアより何百年も前、神様はアブラハムに「あなたの子孫にこの土地を与える。」(創世記12章7節)と約束され、アブラハムは初めて祭壇を築いて主なる神様を礼拝しました。その場所がこのシケムです。今、ヨシュアはそのシケムに立っている。神様はアブラハムと最初に契約した場所にヨシュアと全イスラエルを立たせ、アブラハム以来の神様の恵みの御業を思い起こさせたのです。
 私は、アブラハムが元々は他の神々を拝んでいた者であったというところに注目しないわけにはいきません。それは、私もまた、そうだったからです。しかし、今は違う。それは、ただ神様が私を選び、私を愛し、私に信仰を与え、私と契約してくださったからです。私共もまたアブラハムになる、何百年も後に。何代か後にではありません。何百年の後にです。私共の子孫が私共を思い起こし、私の家がキリスト者なのはあのおじいさん、あのおばあさんがいたからだ、そう言われる時が来る。そう想像しただけで楽しくなるではありませんか。

4.わたしとわたしの家は主に仕えます
 さて、ヨシュアが契約するに当たってイスラエルの人々に求めたのは、こういうことでした。14~15節「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」エジプトで仕えていた神々や川の向こう側で先祖が仕えていた神々を選ぶのか、主なる神を選ぶのか、今日、自分で選べというのです。
 信仰は強制されるものではありません。自分で選ぶ。確かに、神様が私共を選んでくださいました。しかし、この神様の選びに応えるのは私共です。私共が自分の責任において選ぶのです。神様が私共をお選びくださったただけでは、神様と私共との関係は成立しません。私共は神の民にはならない。私共もまた私共を選んでくださったただ独りの神様を「我が神」として選び取らなければなりません。ヨシュアはこの時、大変有名な言葉をイスラエルの民に告げました。「ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」イスラエルの人々がどの神を選ぼうと自由。しかし、「わたしとわたしの家は主に仕えます。」これがヨシュアの決意でした。周りが何と言おうと、他の者たちがどう歩もうと、「わたしとわたしの家は主に仕える。」これは地上での生涯を閉じようとするこの時まで、神様と共に、神の民を導き続けてきたヨシュアの生涯を賭けた宣言です。キリスト者の家庭を訪ねますと、この言葉を木に彫ったものが玄関や居間に掲げられているのを見ることがあります。これは私共の宣言でもあろうかと思います。

5.覚悟をもって
 それに対して、イスラエルの民は16~18節でこう答えます。「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。……わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」ヨシュアの決意を聞き、イスラエルの民は、自分たちも主に仕えます、と答える。これで一件落着かと思いますと、そうではないのです。19節「ヨシュアはしかし、民に言った。『あなたたちは主に仕えることができないであろう。』」どうしてヨシュアはこんなことを言ったのでしょうか。それは、ややこしい話ではないと思います。ヨシュアは単純に、「その時の気分で誓ってもダメだ。主に仕えるということは、私共の信仰というものは、生涯にわたってのことであり、幸いな時も嘆きの時も、良い時も悪い時も、変わることのないものでなければならない。あなたたちはその覚悟があるのか。」そう問うたのでしょう。
 私共の信仰は、その覚悟をもって、神様との契約、神様との約束に生涯をかけるのです。この神様を信じれば良いことがあるとか、あっちの神様の方が効き目があるとか、そういうことではありません。そんな浮気心の信仰など、聖書が教える信仰ではありません。へブル語では「姦淫する」という言葉と「偶像礼拝する」という言葉は全く同じです。神様との約束を守る。生涯をかけて守る。それは結婚した者が、生涯その相手を裏切らない、姦淫しない、浮気をしないというのと同じです。神様と私共の関係は、そのように一途なものであり、それが私共の信仰であり、聖書の信仰です。だから、私共は主の日の度にここに集って礼拝をささげ、神様との契約を更新する。あなた様こそ、私共のただ独りの主、崇めるべきただ独りの神様ですと告白し、神様の子・僕としての歩みをここから始めるのです。
 このヨシュアの厳しい言葉に対して、イスラエルの民は21節「いいえ、わたしたちは主を礼拝します。」と言います。そして、ヨシュアは「あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなたたち自身である。」と告げ、イスラエルの民もまた、「そのとおり、わたしたちが証人です。」と答えました。信仰は自分の責任において為されるものです。誰か他の人のせいにはできません。私と神様との間の関係です。親であってもそこに口を挟むことはできません。

6.偶像を捨てて
ヨシュアは、そのように主なる神様に仕えるのならば、23節「それではあなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」と告げます。これは14節にも告げられていました。これは、十戒の第一の戒めである「あなたは私のほか何ものをも神としてはならない。」からして当然のことです。しかし、この「外国の神々を取り除き」というのは、単に心の中だけのことではないと思います。この時、まだイスラエル人々の家には、外国の神々の偶像があったのではないでしょうか。イスラエルは神の民として歩んで来た。そうであるにも拘わらず、それぞれの家にはまだ偶像があった。ヨシュアはそれを取り除く、捨てるということを求めたのです。そうでなければ、神様の御前に神の民として歩んで行くことは出来ないからです。
 ただ、これを文字通り、今日家に帰ったら家の仏壇や神棚を取り除かなければいけない、と受け取られますとなかなか大変なことになります。それぞれの家は、分家か本家か、家族全員がキリスト者なのか、それとも自分一人だけなのか、親戚も皆キリスト者なのか、その状況が全く違います。自分の代だけでどうにかなるものではないかもしれません。慌てることはありません。しかし、それをしなければならない時はやがて来るのでしょう。
 そして、ヨシュアは「イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」と勧めます。主に心を傾けるとは、神様のことを思って生きる、神様を愛し、信頼し、従いつつ生きるということです。自分が主ではなくて、神様が私の主となられるのです。イスラエルの民は、24節「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。」と答えます。このように、イスラエルの民に四度、自分の口で主に仕えることを告白させて、ヨシュアはイスラエルの民と契約を結びました。

7.限りある地上の命の中で
 ヨシュアが出来たのはここまででした。29節に「ヨシュアは百十歳の生涯を閉じ」とありますように、ヨシュアもまた、この地上の生涯を閉じなければなりませんでした。31節の表現は考えさせられます。「ヨシュアの在世中はもとより、ヨシュアの死後も生き永らえて、主がイスラエルに行われた御業をことごとく体験した長老たちの存命中、イスラエルは主に仕えた。」とあります。「長老たちの存命中、イスラエルは主に仕えた」のです。この言い方は、長老たちが存命しなくなったら、イスラエルは主に仕えなくなったということを暗に示しています。それが次の士師記に記されていることです。
 ヨシュアは自分のできる限りのことを為しました。イスラエルの民を信仰において整えて、再契約もさせ、地上の生涯を閉じました。しかし、その次の世代は主から離れてしまうのです。そのことを見ると、ヨシュアが為したことは何だったのかと思う方もおられるかもしれません。しかし大切なことは、ヨシュアがどれだけ偉大であったか、彼が為したことによってイスラエルがどうなったのか、ということではありません。私共の為すことには限りがある。私共は与えられた時を、主の前に誠実に、為せるだけの精一杯のことを為すだけなのです。確かにヨシュアの後、イスラエルの民は信仰において堕落します。しかし、イスラエルが神の民でなくなったわけではありません。
 神様の御業はずっと続くのです。その救いの御業が完成するまで続くのです。私共は、その神様の御計画の中で、与えられた地上の生涯の中で為すべきことを、為せるだけ、為していくだけです。時代も変わり、世代も変わっていく。しかし、神様は変わりません。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ人への手紙13章8節)
 このお方の前を、このお方と共に、このお方と結んだ契約を更新し続けて、与えられた時を捧げて歩んでいく。それが、イエス様の尊い血潮をもって、神様の子、僕としていただいた私共の為すべきことなのです。

[2020年3月29日]