日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「神に愛された子どもとして」
申命記 7章6~8節
エフェソの信徒への手紙 5章1~5節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 4月の最後の主の日を迎えています。本来ですと、今日の礼拝後に2020年度の定期教会総会が行われるはずでした。しかし、新型コロナウイルスの感染が広がっている中、とても総会を開ける状態ではありません。いずれ開かなければなりませんし、開きたいと願っておりますけれど、現時点ではまだ見通しは立っていません。もし開けない場合は、文書で議案の賛否を問うなり、それなりの対応をしなければならないでしょう。
 先週の礼拝後の臨時長老会で、教会員の全員にホームページを開いて礼拝するのか、礼拝の栞と説教原稿を郵送してもらって礼拝するのかを確認することに致しました。ですから、今日は教会員の全員が、それぞれ場所は違いますけれど、時を同じくして礼拝を守ることが出来るようになっています。このようなことを私共は経験したことがありません。いつも礼拝堂に集まって、互いに顔を合わせて礼拝するのが当たり前だと思っておりました。しかし、そういう時であっても、自宅や施設や病院で祈りを合わせていた兄弟姉妹がいたわけです。勿論、私共はその方たちを忘れたことはありません。けれども、今回のように、共に礼拝を守るための工夫と努力をしてきたかと言えば、そうではありませんでした。その意味では、私は牧師としての怠慢を改めて突きつけられた思いがしております。今回の困難な歩みの中で、どうしてもしなければならないこととして強いられた工夫や試みが、私共の教会にとって、今後の牧会や伝道の新しい局面を開くということはあるのだろうと思います。

2.2020年度の教会聖句
 さて、そのような中で主の日を迎えている私共でありますが、今朝与えられている御言葉は、2020年度の教会聖句です。この御言葉に導かれて2020年度の歩みを為してまいりたいと願い、与えられた御言葉です。エフェソの信徒への手紙5章1節「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」との御言葉です。
 2020年4月5日(日)から、この御言葉が週報の表紙に記されております。この2020年度最初の主の日は、3月30日(月)に富山県で初めて新型コロナウイルスの感染確認者が出て、最初の主の日でした。富山県ではその六日の間に7名の感染確認者が出ました。それまで富山県は感染者0でしたので、遂に富山にも来たかとの思いの中で、連日、「今日の富山県の感染確認者は何名」ということがニュースになり始めた頃でした。次の12日(日)はイースター礼拝でしたが、その前日までに感染確認者は24人に増え、それが19日(日)には80人になり、そして今朝までに175人になっています。このような状況の中、礼拝に来ることも難しくなってきましたので、まだ表紙にこの聖句が印刷された週報を目にしていない方も多いかと思います。この御言葉が、今年度の教会聖句であることを初めて知ったという方もおられるでしょう。今朝はこの御言葉に聞いて、2020年度の私共の神様の御前における歩みを整えられてまいりたいと思います。

3.神様に愛されている子ども
 まず、「あなたがたは神に愛されている子供ですから、」と聖書は告げます。この「子ども」と訳されています言葉は、複数形で記されています。「子どもたち」です。「あなたがた」というのは、この手紙を読んだエフェソの教会の人たちのことです。つまり、ここで聖書は「エフェソの教会の人たち、あなたがたは子どもたちですね。神様に愛されている子どもたちですね。」そう言っているわけです。この「あなたがた」の所を、「エフェソの教会の人たち」の代わりに「富山鹿島町教会の人たち」と読んでも、当然、良いでしょう。聖書は、今朝私共に、「富山鹿島町教会の人たち、あなたがたは神様に愛された子どもたちですね。」と告げています。誰の子どもたちなのかと言えば、勿論「神様の子どもたち」ということです。私共は神様の子どもたちです。私共一人一人が神様の子とされており、神様の子どもたちの群れである教会という、神の家族の一員とされている。それは、天地を造られた神様が私共の「父」となってくださったからです。
 ここで、神様が私共の父となってくださったのは何故なのか、私共は知りません。申命記7章6~7節には、神の民イスラエルが神様に選ばれた時のことがこう記されています。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」ここでイスラエルが選ばれたのは、イスラエルが他の民よりも力があったり、優秀だったり、見栄えがしたからではない。イスラエルは「どの民よりも貧弱」だったとはっきり告げられています。私共とて同じことです。私共が神様の子として選ばれたのは、私共の中に神様の子とされるにふさわしい、特別に良いところがあったからではありません。何故か分かりませんけれども、神様が私共を愛してくださったからです。
 ですから、間違っても、「神様が私共を愛するのは当然であり、私共の父であるのも当然のこと」といった受け取り方は出来ません。また、してはなりません。このことは、はっきり申し上げなければなりません。何故なら、私共の中には、日本人の宗教観、神観、神様に対してのイメージからでしょうか、そのような「神様が私を愛するのは当然。神様が私の父であるのも当然。」というような感覚がどこかにあるのではないかと思うからです。森の中や自然の中に「神なるもの」を感じてきた日本人にとっては、神様がとても近い。しかし、それは聖書が告げる神様ではありません。日本人にとって、自然の一部として自分を受け止める時、自分は自然と渾然一体となって、神なるものと繋がる。そして、自分はその神なるものに愛されていると感じる。その神なるものの子とされることも当然のこととされる。これは、大きな自然の中に身を置いた時に感じるようなものなのかもしれません。このような感覚が私の中にもあることも否定出来ません。それは日本人の宗教的DNAのようなものではないかと思います。しかし、私が伝道者としていつも違和感を感じてきたのは、この私の中にもある、自然と神様を一つにしてしまうような感覚、そしてその自然と一体となって聖なるものを感じるという感覚です。どうして違和感を感じるのか。それは、その感覚こそ私共に「全能の父なる神」を見失わせ、「罪人なる私」を忘れさせ、「十字架のキリスト」から目を逸らさせるからです。
 私共の神様は、天と地を造られたただ独りの全能のお方です。どんなに自然が大いなるものであっても、このお方に造られたものでしかありません。天と地はこのお方の大いなることを証ししていますが、このお方と一つではありません。そして、このお方が私共を愛してくださった。そして私共の父となってくださった、それは当然のこととして受け取れるようなことではありません。何故なら、私共は大いなる自然の前にまことに小さな存在でしかありません。その取るに足らぬ私をどうして神様は愛してくださるのか。更に、御自分の子として迎えてくださったのか。まことに不思議なことです。しかも、私共は神様など放っておいて、自分の思いのままに生きていた。全能の神様は私共を造り、必要のすべてを与えてくださり、一日一日を御手の中で養ってくださっていたのに、私共はその神様に感謝することもせず、それこそ当然のことだと思っておりました。それは神様に背を向け、神様に敵対し、己が腹を神とするような者だったということです。ところが、そのような私共を神様は愛してくださいました。私共の一切の罪を赦してくださいました。私共を我が子としてくださいました。しかし神様は、その為に天地を造られる前から一体であられた御子キリストを人間としてこの世に送り、私共のために、私共に代わって十字架の裁きを受けさせられたのです。この出来事無しに、私共が神様の子とされることはなかった。私共が「神様に愛されている子ども」であるということは、このあり得ないような神様の愛の故です。驚くべき神様の御業の故です。「何となく、神様に愛されていると感じる」とか、「父なのだから、子である私を愛するのは当然でしょう」ということでは全くないのです。私共が神様の子どもとされるには、これ抜きには起こり得ないはっきりした出来事があった。そして、それは決して忘れることが出来ない、忘れてはならない、イエス様の十字架の出来事でした。

4.神に倣う者
 このあり得ないような神様の愛を受け、驚くべき神様の御業によって「神様の子ども」とされた私共に対して、聖書は「神に倣う者となりなさい。」と告げます。これはどうでしょうか。とても出来るはずのない、あり得ないほどに高い要求のように思われるでしょう。確かに、力もなく、愚かで、罪に満ちた私共が、どうして天地を造られた神様に倣うことが出来るというのでしょう。全く不可能としか言いようがありません。しかし、聖書は出来るはずのないことを私共に求めているのでしょうか。
 ここで、次の2節の御言葉に聞きましょう。聖書は「神に倣う者となりなさい。」と告げて、すぐに「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」と告げるのです。つまり、「神様に倣う者となる」ということは、「愛によって歩む」ということであり、その愛は「キリストがわたしたちを愛して」くださった愛であり、それは「いけにえとして神に献げ」られる歩みだというのです。ここで、神様に倣うとは、キリストに倣うということであることが分かります。そして、「キリストに倣う」とは、「キリストによって示された愛に生きる、愛によって生きる」ということなのです。
 更に、「神に倣う者となりなさい。」との御言葉の直前、4章の最後、32節には「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」とあります。ということは、「キリストによって示された愛に生きる、愛によって生きる」とは「赦し合う」者として生きることだと言うことが出来るでしょう。その赦し合う交わりは、第一に、キリストの名によって呼ばれる者の集い、キリスト者の集いであるキリスト教会、私共の教会において形作られなければならないということです。

5.赦し合う交わり
さて、「赦し合う」ことの前提にあるのは、私共がキリストの十字架によって赦された者であるということです。赦されるはずのない私が赦していただき、神様に向かって「父よ」と呼ぶ者にしていただいたということです。このこと抜きに「互いに赦し合う」など、私共には出来ません。私共はそんなに良い人ではないからです。勿論、皆さんが、特に悪者であると言うつもりはありません。どちらかと言えば、良い人たちでしょう。ですから、赦した顔をすることくらいは出来ます。お互い社会人として、その程度の人との付き合い方は心得ています。しかし、聖書が私共に求めているのはその程度の話ではありません。「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように」です。私共が神様に赦されているのは、形だけ、表面だけ、上っ面だけではないでしょう。私共が赦されているのは、徹底的にです。ということは、私共が形作る互いに赦し合う交わりとは、徹底的に赦し合う交わりであるということになります。あの人に言われたあの言葉、あの人にされたあのことは無かったことにしてあげるという程度のことではなくて、その人を信頼し、愛するというところにまで踏み込んでいくのです。しかし、そんなことが私共に出来るのでしょうか。
 ここで私はイエス様が私共に教えてくださった祈り、主の祈りを思い起こします。主の祈りの中の「我らに罪をおかす者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」との祈りです。この祈りは、しばしばこのように誤解されます。「この祈りは『私が自分に罪を犯す者を赦しますから、私の罪を赦してください。』と祈るように教えている。ここでは私が赦すことが条件となっているではないか。この『私が赦す』という条件をクリアして、初めて私は神様に赦していただけるのだ。私共は神様に赦されるために、赦していかなければならないのだ。」という誤解です。これは全くの誤解です。もしそうだとすると、「いつも牧師に教えてもらっている福音と全く違う。どういうことだ?」となりかねません。
 では、この誤解はどうして生まれるのでしょうか。それは、この祈りはイエス様が弟子たちにお教えになった祈りであるということを忘れているからです。イエス様は、御自身と何の関わりもない者にこの祈りを教えられたのではありません。イエス様の弟子たちに教えられたのです。イエス様の弟子、それはイエス様によって赦された者です。つまりこの祈りは、既に完全にイエス様によって一切の罪を赦された者が、その恵みの中で祈る祈りだということです。イエス様に赦された者は、どうしたって赦す者として歩むしかない。イエス様の尊い血によって赦されていながら、「私は赦さない。」なんて言えるはずがない。赦すしかない。しかし、それは戦いです。赦そうとしない私がいるからです。赦せない私がいるからです。その信仰の戦いの中で、イエス様はこの祈りを祈るようにと教えてくださったのです。ですからこの祈りは、「私は赦す者として歩んでいきたいのです。だから、あなた様の赦しの中に置いてください。あなた様が与えてくださった赦しの中に、神様との交わりの中に生きる者であり続けさせてください。」という祈りなのです。そう考えますと、この祈りはイエス様の赦しに与った者の、まことに自然な祈りなのではないでしょうか。イエス様の赦しに与った者が、どうして「私は金輪際赦さない者として生きる。」なんて思うことが出来るでしょうか。出来ません。赦された者が、赦せない中で、赦す者として歩んでいこうとする祈りです。ですから、この祈りは、今年の私共の教会聖句である「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」と全く同じことを告げているということが分かるでしょう。

6.神様の期待
この御言葉が告げられる少し前の4章30節に「神の聖霊を悲しませてはいけません。」とあります。私共が信仰を与えられたのも、イエス様の救いに与ったのも、信仰者として歩む日々も、すべて聖霊なる神様によります。その聖霊を悲しませるとは、神様が期待していたことを裏切るということでしょう。逆に言いますと、聖霊なる神様は私共に期待して、信仰を与え、救いに与らせ、神の子とし、信仰の歩みを与えられているということです。その期待とは、私共が愛に生きる、赦し合う交わりを形作るということです。  出来るとか、出来ないとか論じる前に、私共は、この神様から期待されているということをきちんと受け止めなければなりません。私共の父なる神様は、私共を神の子として期待しておられるのです。父に全く期待されない子がいるでしょうか。私共の場合は、子どもが成長するにつれて、「トンビがタカは生まんわな。」とか「まあ、こんなものだろう。」と諦めると言いますか、過度の期待をしなくなります。親の過度の期待は子どもを潰してしまうこともありますので、それで良いのです。しかし、神様は私共に対して「まあ、こんなものか。」とは言われないのです。何故なら、私共を神の子として生んでくださったのは聖霊なる神様だからです。私共の神の子としての生みの親は、聖霊なる神様だからです。聖霊なる神様が私共を神の子としてくださったのならば、神の子としてのふさわしさもまた備えてくださるはずだからです。だから、神様は決して諦めない。私共が神様の子どもとして、キリストの愛に生き、献げる者として生き、赦し合う交わりを形作る者として期待し続けておられるのです。

7.神の子としての言葉
3~5節において、神に倣う者とされた者が退けなければならないことが記されています。今、丁寧に一つ一つ見ていくいとまはありませんが、はっきりしていることは二つのこと、つまり「不品行」と「偶像礼拝」です。これを退けなければなりません。不品行というのは、はっきり言えば性的な不品行です。不品行と偶像礼拝は、旧約以来、神の民が神様から厳しく排除するように求められてきたことでした。「姦淫」という言葉と「偶像礼拝」という言葉が、へブル語では全く同じであることからも分かります。そして、偶像礼拝というのは、実際に偶像を拝むということだけではなくて、何よりもそれは貪欲ということです。貪欲は己が腹を神とすることだからです。神様の子どもとされた私共は、この二つを退けていく。それを口にすることさえも退けていくということです。神の子どもには、神の子としてふさわしい言葉、聖なる者にふさわしい言葉があるからです。それは何かと言いますと、「感謝」という言語だと聖書は告げます。
 互いに赦し合う交わりの中に溢れる言葉は、感謝の言葉です。神様に赦され、守られ、生かされている私共です。この恵みの中に生きる時、私共の唇には感謝の言葉が溢れます。父なる神様に感謝、イエス様に感謝、聖霊なる神様に感謝、兄弟姉妹に感謝、今日出会った人に感謝、新型コロナウイルスの感染が広がる中で社会を保つためにそれぞれの持ち場で働いておられる方に感謝です。私共の日々の歩みは、感謝すべきことに溢れています。私共は感謝の言葉を告げながら、この2020年度も神様の子として、健やかに歩んでまいりたいと心から願うものです。

祈ります。

 主イエス・キリストの父なる神様。今、私共は「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」との御言葉を与えられました。どうか、あなた様に愛されているあなた様の子どもとして、互いに愛し合い、赦し合い、感謝の言葉で満たされる交わりを形作っていくことが出来ますよう、私共の歩みを導いてください。
 この祈りを私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン

[2020年4月26日]