日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「復活の時には」
申命記 25章5~10節
マタイによる福音書 22章23~33節

小堀 康彦牧師

1.対話の中で
 福音書を読んでおりますと、イエス様が人々との対話の中で真理を示されるという場面にしばしば出会います。その対話の中で、イエス様は相手が全く思いもよらないところに、想定外の所に話を持って行かれます。そして、全く思いもよらなかった真理へと導かれていくわけです。対話をしている人が全く思いもよらないところとは、私共もまた全く思いもよらないところです。しかし、そこにこそ真理があり、イエス様は私共をその真理へと導こうとしていてくださる。どうしてイエス様は対話の中で、私共の思いもよらない真理へと導くことがお出来になるのか。その理由は、はっきりしています。それは、イエス様が私共の思いを超えた真理を知っておられる方だからです。そして、私共の思いはその真理を想像することさえ出来ないほどに小さく、私共は本当に愚かな者に過ぎないからです。
 勿論、私共はこの目に見える世界については、イエス様の時代の人たちとは比較にならないほど多くの知識を持つようになりました。今朝の礼拝もインターネットを通じてライブで配信されています。家にいながら、祈りと賛美を一つにし、共に御言葉に与ることが出来る。本当に驚きです。しかし、見えない世界のこと、神様のこと、そして自分が死んで後のことについては、私共が知っていることはイエス様の時代の人たちとそれほどの違いはないのではないかと思います。
 今朝与えられております御言葉は、イエス様とサドカイ派の人々との問答です。先週はファリサイ派とヘロデ派の人々との問答でした。問答と言いましても、イエス様の言葉じりをとらえて、イエス様を陥れようとするために仕掛けられた罠です。しかし、この仕掛けられた罠をも用いて、イエス様は、私共が死んで後のこと、復活のこと、私共の救いの完成のこと、神の国の真理へと私共を導いてくださるのです。

2.サドカイ派
 今日の御言葉に出てきますサドカイ派というのは、ファリサイ派と共に当時のユダヤ教を代表するグループです。サドカイ派とファリサイ派が当時のユダヤにおける二大勢力でした。そして、この二つのグループは、かなり違っていました。サドカイ派の名前の由来は、ダビデ時代の大祭司ツァドクに由来するとも言われ、その事からも分かりますように、彼らはエルサレム神殿の大祭司や祭司長といった人々を含む、神殿貴族たちです。ファリサイ派が、庶民派と言いますか、町々や村々のシナゴーグと呼ばれる会堂を中心に活動していたのに対して、サドカイ派は、エルサレム神殿を中心としていました。彼らは支配階級・上流階級の人々です。ですから、政治的には現在の体制を維持したいわけで、保守的であり、ローマに対しては仲良くやっていこうという親ローマの立場です。そして、ファリサイ派と何よりも違うのは、聖書に対しての態度です。サドカイ派はトーラー(律法)と呼ばれる旧約聖書の最初の5つの書、モーセ五書とも呼ばれる創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記しか、神の言葉としての権威を認めなかったのです。ですから、それ以外の預言や詩、更には口伝も認めるファリサイ派とは随分違います。当然、信じていることも違っていました。具体的には、サドカイ派は霊も天使も復活も認めません。しかし、ファリサイ派は認めていましたし、大切にしていました。当時のユダヤの人々の間では、ファリサイ派の理解の仕方の方が一般的だったと思われます。
 サドカイ派は霊も復活も認めませんから、彼らの死に対しての理解ははっきりしています。死んだら終わり、それだけです。死んだら土や塵に返るだけ。神様の救いや恵みは、この現世において与えられるという理解です。彼らは神殿貴族であり、豊かな富を持つ支配階級でしたから、この現世における自分たちの状況こそ神様の恵みであり、救いの結果だと理解していました。律法に記されている献げ物を献げ、犯した罪に応じて贖罪の献げ物をしているならば、神様は自分たちを赦し、目に見える具体的な恵みを施してくれる。彼らは目に見える世界のことしか関心がありませんでしたし、自分たちの頭で理解出来ることしか受け入れない。実に合理的で、現世主義者でした。これが宗教家かと思われるかもしれませんが、それが大祭司や祭司長に代表されるサドカイ派の人々でした。
 ちなみに、このサドカイ派は、紀元後70年、イエス様が十字架にお架かりになり復活されて40年ほどの後のことですが、ユダヤはローマ帝国によって滅ぼされてしまいます。エルサレムの町もエルサレム神殿も瓦礫の山となりました。すると、エルサレム神殿という自分たちの権力基盤を失ったサドカイ派は、歴史の舞台から消えていくことにになります。ですから、現在まで続いているユダヤ教は、すべてファリサイ派の流れだと考えて良いでしょう。

3.サドカイ派の人々の問い
 このようなサドカイ派の人々がイエス様に仕掛けた罠である問いは、こういうものでした。24~28節「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」
 話はとても単純です。七人の兄弟の長男が妻を迎えましたが、跡取りの子どもをもうける前に長男が死んでしまいます。この長男の妻は次男の妻となります。次男も子供が出来ずに死に、次に三男の妻になります。そして、この女性は次々に七人の兄弟の妻となったというのです。どうして、そんなことが当然のように語られるかと言いますと、先ほどお読みしました申命記25章5~6節に「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」とあるからです。律法にそうしなさいと書かれていたからです。これは「レビラート婚」と呼ばれる制度で、古代では広く行われていたあり方です。日本では逆縁婚、或いはもらい婚と呼ばれておりました。戦前や戦後すぐの頃は、日本の田舎でも普通に為されていたものです。このサドカイ派の人々の話では、このお嫁さんは七人の兄弟に次々に嫁いだのですが、子供が出来ず、七人の兄弟は死に、この女性も死にました。復活があるとしたら、この女性は一体誰の妻になるのでしょうかという問いです。実際にこんなことがあったわけではありませんけれど、全く起き得ない話ではありません。皆さんならどう考えるでしょうか。「最初の長男の妻」、「妻が選んだ人」、或いは「ちょうど七人だから一日交替で一週間を回す」、色んなアイデアは出てきそうですけれど、サドカイ派の人々が言いたいことはそういうことではありません。彼らが言いたかったのは、「こんな馬鹿馬鹿しい事態はおかしいでしょう。だから、復活なんてないんです。あるんだったら、この女性は誰の妻になるんですか?反論出来ますか?」ということでした。
 この問い自体、復活なんてないのだということを証明するために作った話です。下らないと言えば下らない話です。しかし、この問いを作ったサドカイ派の人々と同じようなことを考えているところが、意外と私共にもあるのではないかと思います。私共の愛する妻や夫が先に亡くなった。或いは父や母が亡くなった。私共は復活を信じておりますから、これですべてが終わったとは思いません。けれども、その復活を信じるということが、単に愛する者にまた会えるという程度のことであったならば、このサドカイ派の人の問いにきちんと答えることは出来ないだろうと思います。勿論、愛する者にまた会えるということは間違いではありませんし、私も葬式においてそのように語ります。しかし、私共が信じている復活は、単に死んだ人が生き返るというようなことでは全くありません。もしそういうことであるならば、本当に喜ばしい、私共がどんな時でも失うことのない希望となり得ることなのかどうか分かりません。何故なら、私共は愛する人とだけ会うなどいうことはあり得ないからです。私共は、決して会いたくないと思う人とだって必ず会うことになるからです。七回も夫と死に別れしないまでも、再婚した人はどうなるのか。私共はきちんと答えられるでしょうか。

4.あなたたちは何も知らない
 イエス様の答えに聞いてみましょう。29~30節 「イエスはお答えになった。『あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。』」イエス様はサドカイ派の人々の問いに対して、「あなたたちは何も知らないから、こんな思い違いをしているのだ。」と告げたのです。イエス様は何を知らないと言われたかと言いますと、「聖書」と「神の力」です。聖書については後で見ることにしますが、イエス様がサドカイ派の人々に向かって何よりも分かっていないと告げられたのは、「神の力」です。神様の力。それは、天と地のすべてを造られた力です。この神様の大いなる創造の力をあなたたちは全く分かっていない、とイエス様は言われたのです。サドカイ派の人々が考えていた復活の命の世界、死んだ後の世界、それは神の国と言っても良いでしょうが、それはこの世界の延長でしかありませんでした。この世界で夫婦であった者は復活した世界においても夫婦となる。彼らは復活の世界をこの世界の延長でしか考えていない。これでは一体、この世界とどこが違うというのかと思うほどです。しかしイエス様は、復活によって開かれる世界は全く新しい世界であり、神様はその全能の力によってその世界を造られるのだと言われたのです。復活によって開かれる世界において、私共は「めとることも嫁ぐこともない。天使のようになる」のです。
 「めとることも嫁ぐこともない」とは、復活による世界は、この世界の日常とは全く違う世界だということです。そして、この世界での繋がり、縁、関係性は全く新しいものになるということです。日本には「子は一世、夫婦は二世、主従は三世」という言葉もあります。これは「親子の関係は一世(この世だけ)、夫婦の関係は二世(この世と来世)にわたり、主従関係は三世(前世とこの世と来世)にわたるほど深いものである」ということですが、これとは全く別のことをイエス様は教えられました。この世界において夫婦であっても、復活したらその人とまた夫婦になるということはない。そもそも、夫婦という関係性がないのです。こう言いますと「それは寂しい」と思う方もおられるかもしれません。逆に「ホッとする」という人もいるかもしれません。いずれにせよ、復活によって開かれる世界、神の国、そこにおいて私共は「めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」とイエス様は言われるのです。
 「天使のようになる」とは、「天使になる」ということではありません。私共は肉体を持った人間であり、人間として復活するのです。しかしその時私共は、神様の御心をはっきりときちんと受け取る者であり、それに喜んで従うことが出来る者になっているということです。そして、天使のように死ぬことはありません。天使は結婚はしません。死ぬことがないのですから、子孫を作る必要もありません。それよりも何よりも、天使のようになるとは、愛において、神様の完全な愛をしっかり受け、それに完全に応えるという、神様との完全な愛の交わりの中に生きる者になるということです。その愛の交わりは、夫婦の愛などよりも深く、豊かで、喜びに満ちたものです。永遠の愛の交わりです。復活した者同士の交わりもまた、そのような麗しいものであるはずです。それは、こう言い換えても良いでしょう。私共は復活して、キリストのように愛し、キリストのように考え、キリストのように仕え、キリストのように神様に従う者になるということです。お互いにです。何故なら、復活は私共に与えられる救いの完成だからです。

5.アブラハム、イサク、ヤコブの神
更にイエス様は、サドカイ派の人々に、このような問いを持ってくるのは「聖書を知らず、思い違いをしているからだ。」と言われました。サドカイ派の人々は主に祭司たちなのですから、「自分たちは聖書のプロだ」という思いもあったでしょう。イエス様に「聖書を知らない」と言われて、「何を、こしゃくな。」と思ったでしょう。イエス様はここで、サドカイ派の人々ならずともユダヤ人ならば誰でも知っている聖書の言葉を引いて、今まで誰一人としてこの聖書の言葉をこのように読んだことがない、全く新しい読み方を披露しました。聖書は神様が御心を示した書でありますけれど、御心が分からない者にはちんぷんかんぷんなものです。しかし、イエス様は神様の御子ですから、神様の御心を良く御存知であり、そこからこのように読んでみせることがお出来なったのです。
 32節でイエス様が引かれた聖書の言葉は、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」という、出エジプト記3章6節或いは15節において、神様がモーセに御自身をお示しになった時に告げられた言葉です。神様の自己紹介の言葉です。どうしてこれが「死者の復活」を告げている神様の言葉になるのか。ちょっと読んだだけでは分かりにくいかと思います。神様はモーセに、御自身のことを「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と自己紹介されたわけですが、この時既にアブラハムもイサクもヤコブも何百年か前にこの地上での生涯を閉じていました。ところが、神様は「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった。」とは言われずに「である」と現在形で語られた。イエス様は、これはおかしいではないか。どうして神様は「である」と言われたのか。それは、アブラハムとの関係、イサクとの関係、ヤコブとの関係が、たとえアブラハムもイサクもヤコブも死んだとしても終わっていない、過去のものになってはいないからだ。つまり、アブラハムもイサクもヤコブも死んで終わりになんかなっていない。それは、神様との関係が終わっていないからだ。神様は忘れていない。何百年たっても、神様は御自分が契約した者をしっかり覚えている。アブラハムとの契約を覚えているから、神様はモーセを立ててイスラエルをエジプトの地から救い出されたのだ。そして、そのことこそ、彼らが復活することを示しているのだ、と告げられるのです。
 そしてイエス様は、32節b「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」と宣言された。それは、私共の神様は「契約される神である」ということ、そして「生きている者と共に生きる神」ということです。契約は死んだ者と結ぶことは出来ません。また、神様はアブラハム・イサク・ヤコブと共に生きられたように、私共と共に、今、生きておられます。神様との契約は永遠の契約であり、私共が死んでも神様はその契約を覚え続け、守り続けられる。神様は永遠に生き給うお方ですから、この方と共に生きる私共は、たとえ肉体において死んでも、それですべてが終わるようなことは決してない。神様が共におられるからです。神様は私共の肉体の死を超えて、私の神であり続けてくださるからです。今もなお「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられるように、これから後も、神様は「私の父」であり続けてくださるのです。たとえ私が死んでも、神様は私の父であり続けてくださるのです。そして、やがて時が来れば、全能の父なる神様は、その全能の御力をもって、私共を復活させ、この世界を新しくし、救いの御業を完成してくださるのです。それがイエス様によって私共に与えられた神様との約束です。神様は真実な方ですから、この約束が反故にされることはありません。

6.愛する者の死を超えて
 キリストの教会は、この復活の約束を信じて二千年の間歩み続けてまいりました。愛する者の死をいつも近くに覚えながら歩んで来ました。時には、その恐れと不安に飲み込まれそうになりながら、それでもこの復活の希望を頼りに歩んでまいりました。それは今でも変わりません。
 私共の想像力というものは、この全能なる神様による復活の御業、再創造の御業の前では、全く貧しいものでしかありません。この復活によって開かれる新しい世界について、私共はほとんどよく分からないことばかりです。サドカイ派の人々がこのような馬鹿馬鹿しい話を作ったのも、復活という神様の救いの御業について、全く想像することさえ出来なかったからです。しかし、イエス様が私共の初穂として復活してくださいました。私共もこの救いの完成、復活、終末ということについて、多くのことを知っているとは言えません。けれども、私共の救いに必要なこと、信じるべき事柄については知らされています。知らされていること以上のことについては、私共は知る必要がないか、知ることが許されていないからでしょう。何故なら、私共は知ることによってしばしば傲慢になるからです。ですから、私共は聖書が教えてくれる所に留まるしかありません。
 私共が生かされている現代の日本には、サドカイ派の人々のような者が多くおります。合理的で、現世主義で、見えるものしか信じない。しかし、そういう人でさえ、自分の愛する者の死を前にして、或いは自分の死と向かい合って、「死んだらどうなるのか」と問わないではいられない。或いは、私共は幼子から、「おじいちゃんは(おばあちゃんは)死んで、どうなっちゃたの?」と聞かれもするでしょう。その時私共は、どう答えるのか。確かに、神の国を絵に描くように、見て来たように話すことは出来ません。イエス様はそこまでは私共に教えてはおられないからです。しかし、はっきり、きっぱり、こう答えることは出来ます。「おじいちゃんは(おばあちゃんは) 復活するんだよ。おじいちゃんは(おばあちゃんは)死んでしまったけど、それで終わりなんてことはないからね。天使のようになって、また会えるよ。その時には、お前も天使のようになっている。でも、それがいつかは分からない。」そう答えることは出来るし、答えなければなりません。何故なら、私共は復活の証人として立てられている者だからです。

祈ります。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。今朝、私共に復活の希望を新しくしてくださり、感謝いたします。私共は例外なく、この地上の生涯を閉じなければなりません。しかし、それで終わりではありません。あなた様が肉体の死を超えて、共にいてくださるからです。私共の父であり続けてくださるからです。やがて時が来て、共々に御前に復活し、御名を誉め讃える日を心から待ち望みます。どうか、私共の眼差しをしっかりその日に向けさせ、新型コロナウイルスの感染への不安や恐れを乗り越えさせていってください。
 この祈りを私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン

[2020年5月3日]