日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「民の堕落と神の憐れみ」
士師記 2章8~19節
ローマの信徒への手紙 5章6~9節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 毎月最後の主の日は旧約から御言葉を受けています。今日は5月の最後の主の日ではないのですが、5月最後の主の日となる来週はペンテコステ記念礼拝となりますので、今日、旧約から御言葉を受けていきます。昨年度はヨシュア記から御言葉を受けてまいりましたが、3月最後の主の日でヨシュア記が終わりました。今年度はその次の士師記から御言葉を受けてまいります。すべての箇所を順番に読み進めていくというあり方ではなくて、幾つかの代表的な士師に関するところから御言葉を受けてまいりたいと思っています。今朝与えられております箇所は、士師記全体を要約したような所です。

2.士師
 まず「士師」という言葉ですが、聖書に馴染んでいる方は勿論知っているわけですが、聖書に馴染みの無い方は、この言葉を聞いても、見ても、さっぱり分からないだろうと思います。ほとんど聖書においてしか使われていない言葉です。元々は古代中国において刑罰を与える役人を指す言葉でした。士師を意味するへブル語の言葉が、裁き人、裁く人を意味しておりましたので、この言葉が当てられたようです。ただ、士師記における士師とは、確かに平時には裁く、裁判をするということもあるわけですが、もっと大切なのは軍事的リーダー、政治的リーダーとしての役割です。私は、「士師とはどういう意味ですか。」と聞かれた時には「リーダー、指導者と考えていただけば良いでしょう。」と答えています。
 士師は一代限りです。士師の子が士師になるということはありません。士師が立てられるのは、イスラエルが近隣の他の民族に攻め込まれ、窮地に陥った時です。神様がイスラエルをその窮地から救うために立てられた軍事的、政治的リーダー。それが士師です。
 士師記には十二人の士師が出てくるのですけれど、その扱いは随分違います。3章、4章用いて記される士師もいれば、たった1節だけで語られる士師もいます。ですから、十二人の士師を「大士師」と「小士師」という言い方で分けることもあります。皆さんが知っている士師は大士師の方だと思います。大士師とされているのは、オトニエル(3章7~11節)、エフド(3章12~30節)、デボラ(4~5章)、ギデオン(6章1節~8章32節)、エフタ(11章1節~12章7節)、サムソン(13~16章)の六人です。中でもサムソンは4章、ギデオンは3章を用いて記されています。そしてエフタが2章、デボラも2章です。一方、小士師と言われるのはシャムガル(3章31節)、トラ(10章1~2節)、ヤイル(10章3~5節)、イブツァン(12章8~10節)、エロン(12章11~12節)、アブドン(12章13~15節)の6名。彼らは長くて3節、シャムガルなどは1節だけです。私共は、大士師と呼ばれる士師のことを記した御言葉を、これから順に読んでいこうと思っています。

3.士師記の時代
 では、この士師記が記している時代はどんな時代だったのでしょうか。出エジプトを果たしたイスラエルはモーセに率いられて、約束の地の目前まできました。そこでモーセは約束の地を見ることは許されましたが、約束の地に入ることは出来ませんでした。モーセの後継者として立てられたのがヨシュアです。ヨシュアに率いられたイスラエルの民は、ヨルダン川を渡り、約束の地に入ります。そして、その地に住んでいた人々と戦い、神様の力によって勝利します。イスラエルの民にはそれぞれ部族ごとに土地が分配されました。その分配のリストが、ヨシュア記の13章以下21章まで記されています。そして、ヨシュアは生涯を閉じ、士師記の時代となります。この士師記の時代の後、イスラエルには王様が立てられます。最初の王がサウル王です。その次の王がダビデ王、そしてその次の王がソロモン王です。ですから、士師記の時代というのは、出エジプトの旅の末にイスラエルの民がカナンの地にそれぞれ分配された土地を与えられ定着した、しかしまだ一人の王のもとに一つの国としてのまとまりは持てていない、そういう時代です。期間としては三百年くらいあったでしょう。
 問題は、土地の分配は終わったけれども、イスラエルはその地に住む他の民をすべて征服したわけではなかったということです。士師記の1章にはそのことが繰り返し記されています。追い出さなかったのか、追い出せなかったのか。いずれにせよ、イスラエルのそれぞれの部族は神様に与えられた土地において、その土地の様々な人々と一緒に住むことになったのです。1章21節には、「エルサレムに住むエブス人については、ベニアミンの人々が追い出さなかったので、エブス人はベニアミンの人々共に今日までエルサレムに住み続けている。」とあります。このエルサレムを征服したのはダビデです。ですから、ヨシュアの時代からダビデの時代まで数百年にわたって、エルサレムはイスラエルの民の町ではなかったということです。また、27節には「マナセは、ベト・シェアンとその周辺の村落、タナクとその周辺の村落、ドルの住民とその周辺の村落、イブレアムの住民とその周辺の村落、メギドの住民とその周辺の村落を占領しなかった。そのため、カナン人はこれらの地に住み続けた。」とあります。すべては読みませんが、エフライムもゼブルンもアシュルもナフタリも皆、自分に割り当てられた土地のすべてを占領したり、そこに住むすべての異民族を追い出したわけではなかったのです。この約束の地の分配というのは、その地に前から住んでいる民にとっては、イスラエルの民が勝手にやったことです。戦って負けた結果、追い出されるならばそこから出て行きますけれど、そうでなければ出て行くはずもありません。つまり、この段階では、約束の地はイスラエルの民とそうではない民とのまだら模様状態だったということです。

4.イスラエルの堕落
 イスラエルは元々遊牧民です。アブラハム以来、彼らはずっと遊牧民でした。しかし、この約束の地であるカナンに定住して、彼らは農耕民となっていきました。勿論、家畜は引き続き飼っていたでしょうけれども、土地が割り当てられたということは、家畜の餌である草を求めて自由に旅をしていく遊牧民ではなくなったということです。そこで何が起きたかです。彼らの近くには征服することが出来なかった元々この地に住んでいた民、農耕の民がいました。イスラエルの民は、農耕については素人です。きっと、彼らから農耕について、畑に植える作物やそれを育てるに当たっての注意とか、いつ頃種を蒔くとか、色々教えてもらったのではないかと思います。イスラエルの民は彼らと友好関係を築いていったと考えて良いでしょう。
 問題はそこで何が起きたかです。2章11~13節「イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えた」とあります。11節の「イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。」という言葉は、士師記の中で何度も繰り返される言葉です。「主の目に悪とされること」とは何よりも、主なる神様以外のものを神とする、神様として拝む、偶像礼拝をすることです。何と彼らは、自分たちをエジプトから救い出してくれた主なる神様を離れ、その土地で拝まれていたバアルの神とアシュトレトの神を拝むようになってしまったのです。
 バアルというのは男性の神、アシュトレトはその妻である女性の神です。バアルは雷や雨の神、アシュトレトは多産・豊穣の神です。イスラエルはこれらの神を拝むようになってしまったのです。これは神様が最も忌み嫌うこと、神様に対しての裏切り、神様との契約を反故にするものでした。十戒の第一戒「あなたはわたしのほかに、何ものをも神としてはならない。」に反することでした。その結果どうなったかと言いますと、14~15節「主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。出陣するごとに、主が告げて彼らに誓われたとおり、主の御手が彼らに立ち向かい、災いをくだされた。彼らは苦境に立たされた。」イスラエルは、偶像礼拝をすることによって神様の怒りに触れ、周りの異民族の侵略に遭い、これを退けることが出来ないという苦境に立たされることになってしまったのです。

5.神様の憐れみ
 そしてその時、神様によって立てられたのが士師です。16節「主は士師たちを立てて、彼らを略奪者の手から救い出された。」とある通りです。イスラエルはバアルやアシュトレトといった偶像を拝む者になってしまった。神様を裏切った。エジプトから救い出されたことも忘れて、主なる神様から離れた。神様をそれに対して知らん顔はされません。何故なら、イスラエルを愛しているからです。神様はイスラエルを懲らしめる意味で、周りの民にイスラエルを侵略させます。この箇所ではあまりはっきりしませんが、これから順に見ていく具体的に士師が立てられる時には、士師が立てられる前にイスラエルの民は「主に助けを求める」のです。それに応えて神様は士師を立て、士師が先頭に立ってイスラエルを侵略する者を退け、イスラエルに平和をもたらすのです。18節に「主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである。」とありますように、ここで士師が立てられ、敵の手からイスラエルを救われたのは、神様の憐れみの故でありました。神様はイスラエルを愛するが故に士師を立て、イスラエルを守られたのです。
 しかし、わざわざ士師を立ててイスラエルを救うくらいならば、周りの民にイスラエルを攻撃させなければ良いではないか。そう思われるかもしれません。しかし、それではイスラエルの裏切りを見過ごすことになります。神様はそれは出来ないのです。何故なら、神様はイスラエルを愛しているからです。本当に相手を愛しているのならば、自分が愛する者、自分と契約した者が自分を裏切り、自分を離れていっても平気でいることが出来るでしょうか。これは、自分の夫や妻が浮気をして平気な人がいるかということです。そんな人はいないでしょう。平気な人は、その関係をどうでもよいと思い、その人を愛していないからでしょう。神様は平気でなんておられません。それが私共と契約を結ばれた愛の神様です。愛の神とは、私共がどんなことをしても、いいよいいよと放っておかれる神のことではありません。私共との愛の交わりを徹底的に貫こうとされる神、決して見捨てたり諦めたりしない神ということです。
 或いは、イスラエルがそもそもバアルやアシュトレトを拝むことがないように、イスラエルが約束の地、カナンの地で部族ごとに土地を分配した時に、他の民をすべて滅ぼしておけば、こんなことにはならなかったのではないか。神様がそうしておけば何も問題は起きなかった。そう思われる方もおられるかもしれません。確かに、そうしておけば、こんなに簡単にイスラエルの民が主なる神を裏切り、離れることはなかったかもしれません。しかし、神様はそうはされませんでした。どうしてか。それもまた、愛の故です。神様はイスラエルを愛していた。愛は常に自由と共にあります。神様と神の民の愛の交わりは、いつでも自由の中で育まれていかなければなりません。それは、アダムとエバの時から変わりません。神様は「食べてはいけない」と言われた実のなる「善悪の知識の木」を、アダムとエバが見えない所、手の届かない所に置かれはしませんでした。神様は、アダムとエバがその木の実を食べることが出来るけれども、神様の言葉に従って食べないことを求められたからです。神様はそれと同じように、自由の中で、イスラエルの民が、そして私共が、神様を愛し、神様との約束の中に生きることを望んでおられるからです。

6.何度でも何度でも
さて、士師記には十二人の士師の名が記されていると申しました。ということは、イスラエルが神様を裏切る、周囲の民がイスラエルを侵略する、イスラエルが主なる神様に助けを求める、神様が士師を立てる、士師によって敵が退けられる、これが十二回繰り返されたということです。どうしてか。それは、士師がいる時には、イスラエルは神様に従いますが、士師が死ぬと、イスラエルは再びバアルやアシュトレトに従い、これを拝み、神様を裏切ってしまったからです。これが十二回も繰り返されたのです。皆さんはどう思われるでしょうか。回数にして十二回。時間にして三百年以上。神様は繰り返し繰り返し、士師を送り続けたのです。これが聖書の神、私共の父なる神様です。そして、イスラエルの民は十二回も繰り返し繰り返し、神様を裏切ったのです。何と学習能力がないと言いますか、懲りない民なのか。しかし、これはイスラエルの民に限ったことではありますまい。皆そうなのです。私共もそうなのです。何度も何度も同じ過ちを繰り返す。でも、私共は神の民であり続けている。それは、神様が私共を何度でも何度でも立ち帰らせ、赦し、神の民として新しく歩ませてくださるからです。
 ここで私は、イエス様が言われた「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」(マタイによる福音書18章22節)との御言葉を思い起こします。イエス様がこのようにお命じになられたのは、イエス様も父なる神様もそのようなお方だからです。神様は何度でも赦し、やり直させてくださいます。イスラエルの民に十二人もの士師を送り続けられたように、何度でもやり直させてくださいます。そして、その御心、神様の憐れみが最も徹底したあり方で示されたのが、イエス様の十字架です。繰り返し繰り返し立てられた士師たちは、イエス様の十字架を指し示しているのです。私共の信仰の歩みは、この神様の憐れみの故に続けられているし、御国に至るまで守られていくのです。
 しかし、神様は私共が神様から離れ、裏切っても、ただ見ているだけというお方ではありません。神様は嘆き、怒り、御自分のもとに引き戻すために、私共が神様の御許に立ち戻ることが出来るように、出来事をもって促されます。その出来事は、時には私共にとって辛く、悲しいこともあるでしょう。しかし、私共が再び主に助けを求める時、神様は私共は私共との愛の交わりを回復してくださり、まことの平安を与えてくださいます。これは本当のことです。代々の聖徒たちが、その信仰の歩みを通して証ししてきたことです。悲しみの中で、苦しみの中で、「主よ、助けてください。主よ、憐れんでください。」と叫び続けた者は必ず、神様が生きて働き給うお方であり、自分を愛してくださっていることをはっきりと示されることになります。

7.信仰の継承 ~戦いの中で~
しかし、そもそもどうして、イスラエルの民は偶像に仕えるようになってしまったのでしょう。8~10節を見てみましょう。「主の僕、ヌンの子ヨシュアは百十歳の生涯を閉じ、エフライムの山地にある彼の嗣業の土地ティムナト・ヘレスに葬られた。それはガアシュ山の北にある。その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。」とあります。主なる神様を離れ、バアルやアシュトレトに仕えたのは、ヨシュアが地上の生涯を閉じ、ヨシュアと共に戦ってきた世代がみんな絶えてしまった後の世代の者たちでした。彼らは出エジプトの旅を知りません。神様の大いなる御業を見たことがありません。親たちから聞いてはいたでしょう。しかし、彼らにしてみれば、物心がついた時からカナンの土地に住んでおり、土地があるのは当たり前、畑を耕すのは当たり前。イスラエル以外の民がいるのも当たり前。すべてが当たり前のことでした。それに、バアルやアシュトレトの神は、具体的な豊作をもたらし、豊かな生活を与える神なのです。十戒などという七面倒臭いことは言わない。お供えさえすれば、豊作と豊かな生活を与えるという神です。立派なバアルの像やアシュトレトの像もあったでしょう。見えない神様よりも、そっちの方が良いとなる。この時、主なる神を信じているのはイスラエルの民だけです。周りはみんなバアルとアシュトレトを拝んでいるのです。
 この時のイスラエルの民の置かれている状況は、この日本において私共が置かれている状況ととても似ています。神様の御言葉に従って生きる。神様を愛し、隣り人を愛し、御国に向かって生きる。そんなことを言っているのはキリスト者だけです。そんなことより、目の前の豊かな生活を求めよう。正しく生きるよりも、楽しくやれば良いじゃないか。そういう時代の空気の中を私共は生きている。誘惑はそこら中にあります。日曜日は礼拝よりも、趣味の日、家族の日。それで良いじゃないか。キリスト者として生きることなんか止めよう。そのような誘惑を私共は退けていかなければならない。これは戦いです。信仰の歩みから、この戦いを無くすことは出来ません。
 ヨシュアが地上の生涯を閉じた後の世代に、どうしてヨシュアたちの信仰が伝わらなかったのでしょうか。それは、彼らが出エジプトの出来事、様々な神様の御業を経験していなかったからでしょう。聞いてはいた。しかし、それは私の出来事にはなっていなかった。信仰が次の世代に継承されるということは、この当時から困難なことだったのです。日本の教会では、長く信仰の継承の大切さが言われています。大切なことは間違いありません。しかし、それが上手くいっているとは言えません。でも、それは今に限ったことではなくて、士師記の時代からそうだったのです。だったら、どうすれば良いのか。実は、神様はイスラエルに征服されない民を意図的に残しておかれたのです。22節に「彼らによってイスラエルを試し、先祖が歩み続けたように主の道を歩み続けるかどうか見るためである。」とあります。彼らとは、イスラエルによって征服されなかったカナンに住んでいた民のことです。神様は彼らを用いて、イスラエルの民の信仰を試そうとされたからです。ヨシュアに率いられたイスラエル民はカナン人と戦い、その戦いの中で主なる神様が生きて働き、自分たちを導いてくださっていることを知りました。しかし、その戦いを知らない世代は、どうやって主なる神様の力を知ることが出来るのか。どうやって主なる神様が自分と共にいてくだる方、生きて働き給うお方であることを知るのか。それは、やっぱり自分で戦わなければダメなのです。戦いの中でしか、本当に生きて働き給う神様を知ることは出来ないからです。神様はその為に彼らを残しておかれたということなのです。それは私共とて同じことです。信仰の歩みを為していく上で、様々な誘惑が襲います。それと戦う中で、私共は神様と共に生きることを学び、知っていくのです。親の話を聞くだけではダメなのです。自分で戦い、学び、知っていかなければならない。確かに、その戦いに私共は何度も負けるでしょう。しかし、戦うことを止めはしません。何故なら、この戦いを止めたなら、私共は神の民であることを止めることになってしまうからです。信仰を次の世代に伝えるということは、この信仰の戦いを次の世代にもさせる以外ないのだと思います。私も戦う。だから、君も一緒に戦おう。その信仰の戦いを共に為していくことによってしか、信仰は継承されていくことはない。そう思うのです。
 ここから始まる新しい一週もまた、神の民として、神様を愛し、信頼し、従う者として歩んでまいりましょう。誘惑を退け、ただ神様に栄光を帰す者としての戦いを、倦むことなく為してまいりたいと心から願うものです。

祈ります。

 主なる神様。今朝、私共は士師記を通して、あなた様がどんなに私共を愛され、生きて働き給うお方として、私共の歩みのすべてを導いてくださっているかを知らされました。私共はまことに愚かで、何度も何度も同じ過ちを犯してしまうものです。しかし、あなた様はそのような私共を、主の日の度毎に御前に立たせ、赦しを与え、御言葉と共に新しい歩みへと伴ってくださいます。どうか私共が、聖霊なる神様の導きの中、信仰の戦いをしっかりと為していくことが出来ますように。その歩みをもって、次の世代に信仰を伝えていくことが出来ますように。
 この祈りを私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2020年5月24日]