日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「神の御前に生きる」
イザヤ書 1章10~17節
マタイによる福音書 23章1~12節

小堀 康彦牧師

1.神の御前に
 私共は先週の主の日、ペンテコステの記念礼拝を御前に捧げ、聖霊なる神様のお働きの中で生かされていることを改めて知らされました。聖霊なる神様が弟子たちに降り、「イエスは主なり」との信仰を与えてくださり、イエス様の福音を宣べ伝える者としてくださいました。そして、それぞれに様々な賜物を与え、教会を建て、神様の救いの御業に仕える者としてくださっています。この聖霊なる神様の導きの中で生かされ、一日一日を歩む私共でありますが、この私共の信仰の歩みを今朝与えられている御言葉との関連で言い表すならば、「神の御前に生きる」ということになろうかと思います。
 「神の御前に」、ラテン語では「コーラム・デオ(Coram Deo)」と言います。Coram=前で、Deo=神、という言葉です。今までも何度も、説教の中で、また家庭集会などの話の中で語ってきたことです。この「コーラム・デオ」、「神の御前で」という信仰の在り方、信仰の姿勢こそ、聖霊なる神様によって信仰を与えられ、新しい命に生きる者とされた私共の根本、これが無ければ信仰の歩みにならないというものです。この言葉は、宗教改革者カルヴァンも大切にしていました。また、改革派・長老派教会の特徴を言い表す時にもよく使われる言葉です。
 皆さんは、「神の御前で」という言葉を聞いて、最初に何を連想されるでしょうか。「礼拝の場」を連想するという人がいるかと思います。その通りです。私共は今、何よりも神様の御前に集っています。これはまことに畏れ多いことでありますが、また神の国を先取りしている喜びの時でもあります。この場こそ「神の御前で」ということを具体的に経験させられる所です。或いは、「神の御前で」という言葉を聞いて「お祈り」を連想するという人もいるでしょう。その通りです。私共の祈りというものは、決まった言葉を口にすればそれで良いというようなものではありません。神様の御前に額づき、神様の言葉を受け、神様の語り掛けを聞き、神様に祈る。神様との交わりの時です。或いは、「神の御前で」という言葉を聞いて、信仰告白を連想する人もいるでしょう。その通りです。私共が信仰を言い表すのは、何よりも神様に対して告白するのです。そして、神様と契約する。一対一で約束するわけです。私はこれからあなた様の子・僕として、あなた様と共に、あなた様の御心に従って歩んでまいります。そう約束する。これは「神の御前で」為されなければ意味がありません。ここから、神様の御前における様々な誓約、結婚式とか洗礼式とか牧師就任式とか、そのようなこともすべて「神の御前で」為されなければ意味がないことは明らかでしょう。

2.先日の牧師就任式にて
 先月の17日(日)の午後、富山新庄教会の牧師就任式がありました。中部教区から遣わされて、私が司式をしました。毎年、私は何か所かの教会の牧師就任式に行きますけれど、今回は新型コロナウイルスのことがあり、教会員と司式者である私だけが出席して行われました。牧師就任式というのは、通常は近隣の教会から大勢の人が訪れまして、会堂に入りきらないほどの人が集まる、大変賑やかなものです。そして、就任式の後には記念写真の撮影があり、茶話会が行われる。しかし、今回は就任式だけ。しかも、教会員だけの出席という異例ずくめの就任式でした。でも私は、牧師就任式とは本当は何なのか、そのことがはっきり現れた良い式だったと思っています。結婚式をイメージしていただければ良いかと思うのですけれど、結婚式というものは神様の御前で結婚する二人が誓約する、このことが中心にあるわけです。これが無ければ結婚式になりません。しかし、ややもすると、披露宴の方が中心といいますか、そちらの方に心が持って行かれているところがあるのではないかと思います。誰を呼ぼうか、料理はどうしようか、引き出物は何にするか等々。牧師就任式も、式の後の茶話会や記念写真の撮影に心が奪われるといいますか、その準備・段取りに時間もエネルギーも割かれる。そういうことがあるのではないかと思います。しかし、今回の牧師就任式においては、そういうものが一切ありませんでした。そのことによって、ただ神様の御前に、この教会の牧師として就任する者とその教会の教会員とがそれぞれ誓約する、それが牧師就任式なのだということが、はっきりしたものになりました。勿論、みんなが集まって祝う、お披露目する。それも良いことだと思います。でも、決して疎かにされてはならない中心は何か。それは、神様の御前における誓約です。このことは、いつでもはっきりしていなければならないことです。

3.偽善① ~モーセの座~
 さて、今朝与えられております御言葉において、イエス様は律法学者やファリサイ派の人々に対して大変厳しい批判をされています。イエス様は、彼らの具体的な行動を幾つも挙げながら批判されました。その批判の中心にあるのは偽善です。偽善というのは、文字通り「偽(ニセ)の善」ということですから、見せかけの善、見えるところだけを取り繕った善ということです。どうしてイエス様はそのことを批判したかといえば、信仰というものは「神様の御前に生きる」ということなのに、律法学者やファリサイ派の人々のしていることは、神様にどう見られるかということではなくて、人の目に正しい人であるふりをする、信仰深い敬虔な人に見えるように振る舞い、そのような人として扱われたいということではないか。はっきり言えば、神様の御前でということが忘れられている。イエス様は、そう律法学者やファリサイ派の人々を批判されたのです。
 順に見ていきますが、2節に「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。」とあります。ここで「モーセの座に着いている」という言葉ですが、この意味は、律法学者は「律法の解釈やそれの実際の生活における適用」などについて専門家として認められており、みんなにそれを教えていましたので、そのことを指していると考えて良いでしょう。ただ、イエス様の時代には「モーセの座」と呼ばれる石の椅子が実際にあったようです。「モーセの座」と彫られている石の椅子が発掘されています。当時の村や町の門を入りますと、そこは必ず広場になっていました。この広場に「モーセの座」が置かれていた。この広場で何が行われたかといいますと、裁判です。訴える者と訴えられた者が来て、その裁判の証人として村人たちが集まり、モーセの座に着いた者が裁いたのです。律法についての専門家として認められていた律法学者がその座に座ることになっていました。イエス様は、続けて3節で「だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」と告げられました。言うことは正しい。しかし、することは間違っている。彼らは言うだけ、口だけだという批判です。これは大変厳しい批判です。私は律法学者でもファリサイ派の人々でもないから、このイエス様の言葉は関係ない。そんな風に聞き流すことは出来ないでしょう。
 この批判に耐えられるような人は一人もいないだろうと思います。牧師だってそうです。牧師だけではありません。教会学校の教師だってそうですし、キリスト者の親にしても同じです。子どもに「聖書に従って、こうしなさい、ああしなさい。」と言うわけです。しかし、言ったように自分が生きているかと問われるならば、なかなか辛いものがあると思います。更にイエス様は、4節「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」と告げられます。これは、こうしなさい、ああしなさいとは言うけれど、実際にそれが出来るようには何の手助けもしてくれないということでしょう。このイエス様の言葉を聞きながら、私の説教がそのようなものになっていないかどうか、本当に反省させられるのです。親が子供にこうしなさいと言う場合だって同じです。
 ここで思い起こさなければならないのは、イエス様が最も大切だと言われた二つの掟、今朝の御言葉の少し前に記されていた言葉です。22章37~40節「イエスは言われた。『「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。』」この「神様を愛することと隣人を愛すること」、このことを横において、安息日にはこれはしてはいけない、あれはしてはいけない、そんなことばかり言っていたのが律法学者やファリサイ派の人々です。彼らはたくさんの口伝律法によって、人々の日常生活をがんじがらめにしていました。そして、自分たちは正しいことをしている、正しいことを教えていると思っていた。しかし、イエス様はそれを「言うことは正しいが、やることは間違っている。」と言われました。それは、そこには愛がないからです。神様に対しても、隣人に対しても愛がない。
 これは、「自分が正しい」という所に立つと、人は相手を裁くけれど、愛することに疎くなるということではないかと思うのです。律法学者やファリサイ派の人々の思いの中で決定的に重要だったのは、「自分は正しい」ということでした。これもやっている、あれもやっている、だから自分は正しい。しかし、自分は正しいという所に立ちますと、自分と考えが違う、やることが違う、そういう人に対して「あれは間違っている」という思い、或いはその人を排除しようという思いに囚われてしまう。そして、そのことに気が付かない。イエス様はここで、そのような心の在りようを批判されたのではないでしょうか。

4.偽善② ~ティフリンとタリート~
 当時、ユダヤ人たちは祈るための小道具を持っていました。それがここに記されている「聖句の入った小箱」、これをティフリンと言います。また、四隅に房のついたショールのようなものを肩から掛けて祈りました。これをタリートと言います。私共はあまりこのようなものを身に付けた人を見たことがないかもしれませんけれど、イスラエルの嘆きの壁の前で祈っている人の多くは、この二つを身に付けています。
 ティフリンというのは、聖書の言葉を書いた小箱です。これを額と左腕に巻いて祈るのです。この小箱に入れてある聖書の言葉も決まっています。出エジプト記13章1~10節、13章11~16節、申命記6章4~9節、11章13~21節の4箇所です。すべて読むことはしませんが、その一部を読んでみます。出エジプト記 13章9節「あなたは、この言葉を自分の腕と額に付けて記憶のしるしとし、主の教えを口ずさまねばならない。」出エジプト記13章16節「あなたはこの言葉を腕に付けてしるしとし、額に付けて覚えとしなさい。主が力強い御手をもって、我々をエジプトから導き出されたからである。」申命記6章4節以下はシェマーの祈りと言われ、ユダヤ人が毎日口ずさんでいたものです。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」とあります。申命記11章18~20節「あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」この4つの箇所を小さな紙に書いてそれを小箱に入れ、額と左腕に付けて祈った。この小箱がティフリンです。額に付けるというのは、山伏が額に付けているのをイメージしていただければ良いかと思います。このティフリンを大きくする。みんなに見えるようにするわけです。
 またタリートですが、これも民数記15章38~39節「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせなさい。それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。」とあるので、四隅に房のついたショールのようなものを羽織る。そして、この房を長くして目立たせていたわけです。
 彼らはそれを身に付けて町を歩くわけです。私はこんなにも忠実に聖書の言葉に従っていますよ、私は敬虔な、信仰深いユダヤ人ですよということをアッピールしているわけです。イエス様は、それは人に見せるためのものでしょ。神様に見せるものではないでしょう。そう言われているわけです。確かに聖書には、御言葉を額に付け、手に結ぶようにと記されておりますし、衣服の四隅に房を付けるようにとも記されておりますけれど、それは文字通りにそうしなさいということではなくて、「いつでも、どこでも、神様の御言葉を思い起こし、これに従って生きなさい。」ということ、私共の言葉でいえば「神の御前に生きなさい」ということを聖書は告げているのでしょう。実際にそういうものを作って、いつも身に付けていれば良いということでは全くありません。まして、それを大きくしてみんなに見せて、私は敬虔な者ですよ、信仰深い者ですよとアッピールするなんて、全く御心から離れている。イエス様はそう言われたのです。そんなことをすれば、神の御前ではなくて、人目を気にして生きるということになってしまうからです。それは神様の御心と全く違います。
 しかし、私共はこの「人の目」というものに本当に弱いのです。人にどう思われているかをいつも気にして、人に良く思われたい。人に重んじられたい。そのような思いが全く無い人もいないでしょう。でも、そこに誘惑が生まれるわけです。神様の栄光ではなくて、自分の栄光を求めるということが起きてきてしまう。イエス様は、そのことを戒められたのです。

5.偽善③ ~上座・上席を好む~
  6節に記されているのは、まさにその事です。「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、」とは、まさに人に重んじられたい、そういう心の動きが最も露わに現れた場面としてイエス様はお語りになられました。
 富山で法事などがありますと、なかなかみんな座らない。上座に座るのを遠慮して、親戚の人たちが「あなたがこちらに。」「いや、あなたがこちらに。」と譲り合って、5分、10分とかかることも良くあるようです。牧師は上座に座らせられることが多いのですけれど、私は別に上座に座りたいわけではありません。でも、私が「いやいや、あなたがこちらに。」なんて言い始めますと、いよいよ皆さんが座らないということになりますので、私はとっとと座ることにしています。それは、上座も下座も無いと思っているからです。
 そもそも、キリスト教においては上座も下座もありません。講壇の近くが上座で、出口に近い方が下座。そんな感覚は全くありません。ここは神様の御前に集う所ですから、神様の御前においては、牧師も含めてみんなただの罪人です。社会的な立場も地位も、ここでは何の意味も持ちません。

  6.偽善④ ~先生、父、教師は一人だけ~
さて、次にイエス様は「先生」「父」「教師」と呼ばれるな、呼ぶなと言われました。これは今申しましたティフリンやタリートを付けたユダヤ人のように、文字通りこのイエス様の言葉に従って、先生・父・教師とは呼ばない、また呼ばれないようにしようということではありません。教会学校では教師は生徒に「〇〇さん」と呼んでもらおう。牧師に対しても先生ではなく、小堀さんにしよう。そういうことではないのです。そうするのなら、それでも良いですけれども、そうすることがこの御言葉に従っているということではないのです。
 この先生・父・教師というのは、当時、権威があったもの、この人に言われたら逆らえない、そういう存在としてこの三つが挙げられたのです。分かりやすいのは「父」でしょうか。家族の中における「父」の権威というものは当時は絶対的なものでした。今では考えられないほどに権威がありました。子どもが結婚する。何か仕事をする。そういう時に、父が「こうしなさい」と言ったら、それは絶対でした。父の反対を押し切って何かをするなんてことは考えられない。そういう時代でした。先生と訳されているのはラビという言葉です。聖書の先生ですね。「教師」と訳されている言葉は、今で言えば教授といった感じでしょうか。この当時、絶対的に権威がある、権威が認められている、この人が言ったのだから絶対に正しい、そう思われていたのが先生・父・教師だったのです。しかし、イエス様は「あなたがたの師は一人だけである」「あなたがたの父は天の父おひとりだけである」「あなたがたの教師はキリスト一人だけである」と言われました。つまり、神様・イエス様だけが本当に正しく、本当に権威がある方であって、それ以外の人間にはそんな権威は無いのだ。それをまるで、それがあるかのように崇めたり、またそのように扱われることを求めたりしてはいけない。そう、イエス様は告げられました。それは神様の権威をないがしろにすることだからです。
 勿論、イエス様は、一切の権威を認めないと言われているわけではありません。この世の秩序が保たれるためには、ある程度の権威というものは必要でしょう。私共の教会では、長老会が権威の場とされています。しかし、長老会は絶対に正しく、神様のような権威があるなどとは考えてはなりません。長老たちも牧師も人間なのであって、間違うこともあるし、分からないこともあるし、どっちが正しいのか判断出来ないことだってあります。人間とはそういうものです。間違えたら訂正したら良い。ただ、長老会は、御心に適うためにはどうすれば良いのか、そのことを一生懸命考え、祈り、決議しているので、それは尊重されなければなりません。長老会の権威とは、その意味では相対的な権威です。絶対的なものではありません。絶対的な権威は、神様・イエス様にしかありません。

7.新型コロナウイルス感染という事態の中で
 今回の新型コロナウイルス感染という事態において、私は本当にそう思いました。3月31日(月)に最初の感染確認者が富山に出て以来、一週ごとにどんどん状況が違っていく。ですから、先週はこう決めたけれども、やっぱりこうしよう。迷いながらも、どうすることが一番御心にかなっているのかを考えて、毎週臨時長老会を開いてきました。こんなことをしたのは、初めてのことです。私共の教会は、少ない人数ではあっても主の日の礼拝と夕拝を行うために、教会の扉を閉じることはしませんでした。しかし、数名で礼拝を守って公開はしない、礼拝はインターネットで配信する。そういう教会もあります。今日もそのようにしている教会もあります。それぞれ置かれている状況が違いますから、こうするのが正解なんて誰も言えません。ただ、それぞれの教会が神様の御心に一番適うのはどうすることなのかを祈り求めて決断したことです。私は、そのことを尊重しなければならないと思うのです。

8.仕える者になりなさい
イエス様は、今日の御言葉の最後にこう告げられました。11~12節「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」イエス様は、律法学者やファリサイ派の人々に対して、「彼らは言うだけで、実行しない。」「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」と批判されました。もし、イエ様が「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」と言うだけだったならば、律法学者やファリサイ派の人々とどこが違うかということになりましょう。
 しかしイエス様は、実に自ら十字架にお架かりになられることによって、徹底的に仕える者となられました。誰よりも低い所にまで降られました。イエス様は口だけの人、言うだけの人ではありませんでした。そして、イエス様は復活されて、天に昇り、聖霊を弟子たちに注いでくださいました。この聖霊なる神様によって、私共は「イエスは主なり」との信仰を与えられ、神様を愛し、隣り人を愛し、神様に仕え、隣り人に仕える者へと導かれています。私共は「神の御前に生きる」者としていただきました。この神様の御前において、私共は自分が正しい者ではないということを知らされます。神様の御前に出て、なおも自分の正しさを主張出来る者がどこにおりましょう。誰も出来ません。しかし、それでも私共は「神様の子・僕」として、何とか神様の御心に適う歩みを為していきたいと心から願うのです。
 そのことを願いながら語る言葉は、牧師にせよ、教会学校の教師にせよ、父や母にせよ、「自分は正しいがあなたは間違っている。あなたは何も分かっていない。」という所に立ってのものではなくなるのでしょう。「私も出来なかった、分からなかった。でも、神様はこうしなさいと言っているから、聖書にはこう書いてあるから、こうやっていこう。そう出来るように、私も祈っていくから、あなたも祈ろう。神様が力を与えてくださり、導いてくださるから、きっと大丈夫だ。だから諦めないで。」そんな言葉になるのでしょう。それは上から有無を言わせずに命令するような言葉ではなくて、その人を愛しているが故に、その人を慰め、励まし、支えていこうとする言葉になるのではないかと思うのです。私の言葉が、そのような言葉になっているかどうかは自信がありません。しかし、そのような言葉を告げる者として私は召され、立たされている。皆さんも、そのような者として、それぞれが遣わされている場において立たされているのです。それが神の御前に生きる者とされた私共の歩みなのでしょう。

祈ります。

 主イエス・キリストの父なる神様。
あなた様は今朝、「仕える者になりなさい」との御言葉を与えてくださいました。どうか、私共が高ぶらず、人からの賞賛を求めることなく、あなた様が命じられた、仕える者としての道を、あなた様の御前にしっかり歩んでいけますよう、聖霊なる神様の導きを心から願います。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2020年6月7日]