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礼拝説教

「わざわいなるかな」
ハバクク書 2章9~16節
マタイによる福音書 23章13~24節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
今日の説教の題は「わざわいなるかな」です。これは5月に用意したものです。現在、1ヶ月前に聖書箇所と讃美歌の番号と説教題を決めまして、それぞれの奉仕者に知らせています。正直なところ、こんな題で良いのかと思いました。教会の外の案内板に、次の説教の題として掲げられるわけです。この説教題を見て、礼拝に来てみようと思う人はいないだろうなと思いました。他にも「ああ」とか考えましたけれど、「ああ」では意味が分かりません。結局、この「わざわいなるかな」にしてしまいました。

2.「わざわいなるかな」と「幸いなるかな」
 マタイによる福音書を共々に読み進めておりますけれど、23章にはイエス様が律法学者やファリサイ派の人々に対して大変厳しい批判をされたことが記されています。特に今朝与えられました御言葉、またその後の36節まで続くイエス様の言葉において、大変特徴的な言葉が繰り返して出てまいります。それは13節の「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。」という言葉です。13節、15節、23節、25節、27節、29節と6回出てきます。また、新共同訳では後に加えられたものと考えて抜けている14節にも、同じ言葉が繰り返されています。16節だけ「ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。」となっています。しかし、「ものの見えない案内人」というのも、具体的には「律法学者たちとファリサイ派の人々」を指しているのは明らかなので、合計8回となります。
 この新共同訳において「不幸だ」と訳されている言葉ですが、口語訳では「わざわいである」と訳されておりました。そして、文語訳では「わざわいなるかな」と訳されておりました。「禍害なるかな、僞善なる學者、パリサイ人よ、」でした。この文語訳を聞きますと、皆さんもイエス様の別の言葉を思い起こされるのではないかと思います。正反対の「幸いなるかな」です。同じようにイエス様によって繰り返し告げられた言葉です。マタイによる福音書5章の、山上の説教の冒頭の言葉です。そこでイエス様は「幸いなるかな」「幸いなるかな」と8回続けて告げられました。イエス様が公の生涯を始めた時に告げられた「幸いなるかな」。そして、イエス様が十字架の上で公の生涯を閉じる前に告げられた「わざわいなるかな」。ここには、どんな関係があるのでしょうか。

3.イエス様を受け入れるか、拒むか
 この「幸いなるかな」と「わざわいなるかな」とでは、言葉を告げられた者たちが全く違うのです。「幸いなるかな」と告げられた人々は、「群衆」です。しかも、イエス様のもとに救いを求めて来た群衆。病気に苦しみ、悪霊に取り憑かれて悩む者、中風の者、様々な病気に冒されイエス様にいやしていただいた者。或いは、いやしていただきたいと願って来た者、その家族。そういう者たちに対して、イエス様は「幸いなるかな」と告げられました。彼らは、客観的条件から見れば少しも幸いではない者たちでした。貧しかったり、悲しんでいた人たちです。しかし、イエス様は「幸いなるかな」と祝福されました。そして、イエス様の祝福は、「そうなったらいいね」ということではなくて「そのようになる」、「必ずそうなる」、「出来事となる」のです。何故なら、彼らはイエス様を頼り、イエス様に救いを求めてきたからです。このイエス様に対しての信頼は、決して裏切られることはありません。イエス様のもとに来た人々は、自らの努力で幸いになれない、幸いから遠く離れ、幸いへの希望を失っていた人々です。しかし、イエス様は「幸いなるかな」と告げられた。天地を造られた言葉、無からすべてを生み出した全能の父なる神様の言葉と同じ力と権威を持った言葉で、「幸いなるかな」とイエス様は告げられたのです。そして、そう告げられた者はそのようになる。イエス様の祝福とはそういうものです。
 私共の礼拝の最後は「祝福」で終わります。これを「祝福」と言わずに、「祝祷」(祝福を祈ると書きます)と言っている教会も多くあります。翻訳の問題ですから、どっちが正しいと言うわけではありませんけれど、これはベネディクション(benediction)の訳であり、この言葉に「祈る」という意味はありません。祝福は与えるもの、受けるものであって、祈るものではありません。祈るのならば、「そうなればいいな」ということになってしまうでしょう。イエス様の祝福は、与えられたらそうなるものなのです。
 一方、ここで「わざわいなるかな」と告げられたのは「律法学者たちとファリサイ派の人々」でした。彼らはイエス様に様々な意地悪な質問をして、言葉尻を捕らえてイエス様を訴えようとしました。自分の救いのために、イエス様を頼ろうなどとは微塵も考えませんでした。何故なら、彼らは自分たちのことを「神様の前に正しい者だ」と思っていたからです。自分たちは正しいのですから、イエス様に救いを求める必要なんてなかった。だから、イエス様は彼らに「幸いなるかな」と告げることは出来なかったのです。自分の力で神様の御前に正しい者になるなんて、誰にも出来ません。しかし、彼らは正しい者だと思っていた。とても残念なことですが、ここに彼らが「わざわいなるかな」と言われなければならなかった理由があります。
 イエス様が与えてくださる幸いとは、罪人である私共が罪を赦され、神の子・僕とされ、神様との交わりを与えられるということです。滅びるしかなかった私共が、肉体の死を超えた永遠の命に与る者にされたということです。この幸いに私共も招かれています。今朝もこのようにイエス様の御許に来たからです。イエス様をわが主、わが神と告白し、この方を信頼し、愛しているからです。

  4.「わざわいなるかな」は呪いではない
 では、イエス様に「わざわいなるかな」と告げられた「律法学者たちとファリサイ派の人々」は、祝福の反対、つまり呪いを受けたのでしょうか。もし彼らがイエス様に呪われたのならば、それはもう、何をやっても救われない、滅びるしかありません。「幸いなるかな」の祝福が出来事となるならば、「わざわいなるかな」の呪いもまた、必ずそうなるということでなければなりません。祝福が確実にそうなるならば、呪いもまた、逃れようもなく、確実にそうなるはずです。しかし、そうすると「律法学者たちとファリサイ派の人々」には救いはない。滅びるしかないということになります。
 しかし、この文語訳において「わざわいなるかな」の訳された言葉は「ウーアイ」という、直訳すれば「ああ」とか「おお」といった嘆きの感嘆詞なのです。積極的に「呪う」という言葉ではありません。イエス様は「ああ」「おお」と嘆いているのです。このままでは、律法学者たちとファリサイ派の人々が滅んでしまうからです。救われないからです。幸いになれないからです。「ああ」何ということだと嘆いているのです。これは呪っているのではないと思います。もし、イエス様がここで呪われたのならば、律法学者たちとファリサイ派の人々はすべて滅んだはずです。しかし、そうではありませんでした。代表的な人がパウロです。彼はファリサイ派の人でした。彼は滅んだでしょうか。イエス様の救いに与らなかったでしょうか。そんなことはありませんでした。彼はイエス様によって救われ、使徒として立てられ、イエス様の救いの御業に仕える者として大いに用いられました。実に幸いな者とされました。
 確かに、今朝与えられているイエス様の御言葉は、山上の説教と対を成していると考えて良いと思います。しかし、イエス様は、御自分のもとに来た者は祝福されたが、イエス様を受け入れず、イエス様を拒んだ人たちに対しては呪われた、そういうことではないのです。ここでイエス様は嘆いている。このままでは彼らが滅んでしまうからです。イエス様はそのことを嘆いているのです。どうして嘆くのか。それは、律法学者たちとファリサイ派の人々のこともイエス様は愛しておられるからです。彼らもまた救われて欲しい、幸いな者になって欲しいからです。神様との親しい交わりを回復して欲しいからです。とするならば、このイエス様の言葉は律法学者たちとファリサイ派の人々に対しての、「気付け!悔い改めよ!幸いな者となれ!このままではダメなのだ!」という、強烈な招きの言葉ということなのではないかと思うのです。
 人の過ちをただすというのは、本当に難しいことです。具体的に「これは違うのではないか。」「これは間違っている。」「こうした方が良い。」と指摘しても、本人がそれが正しいと思っているときには、決してそのような忠告を受け入れることはありません。反感を買うだけです。この時も、イエス様は律法学者たちとファリサイ派の人々に対して、具体的にこれは間違っていると指摘しましたけれど、それを聞いて彼らが悔い改めるということはありませんでした。それは何時の時代でも、相手が誰でも同じです。私共はそのような場合、大抵、沈黙してしまうのだろうと思います。どうせ、何を言っても無駄だ。反感を買うだけ損だ。そう思って黙ってしまう。しかし、イエス様はそうではありませんでした。黙って、無視をする。そんなことはされませんでした。何故なら、それは彼らを見捨てることになるからです。たとえ相手が受け入れることがないとしても、イエス様は言わずにはおられなかった。何故なら、イエス様は彼らを愛していたからです。彼らをも救いたかったからです。
 その結果、イエス様は彼らに憎まれ、恨みを買い、十字架に付けられることになってしまいました。ですから、このイエス様の非難、忠告、招きは、文字通り命懸けのものだったのです。命懸けで何とかしたかった。何としても救いたかったのです。

5.偽善① ~天国を閉ざす~
では、イエス様が律法学者たちとファリサイ派の人々の中に見ていた、「ああ」と嘆かねばならなかったものとは何だったのでしょうか。これが偽善であることは、前回見ました。今朝与えられているところでは、5つの偽善が記されております。順に見てまいりましょう。
最初に、13節「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。」とあります。これが、イエス様が彼らの偽善の最も根っこにあると考えられていたものではないかと思います。彼らは、人にどう見られるか、どう評価されるか、そのことばかりに心を奪われていました。これが「天の国」と相容れないことなのです。そもそも、天の国とは神の国、神様の御支配ということです。天の国に入るとは、神様の御支配に入る、神様の御支配の中に生きる者となるということです。そこで大切なことは、神様がどう見るかです。人にどう見られるか、そんなことは全く意味がありません。しかし、彼らはそのことばかりに心を奪われていた。これでは天の国に入ることは出来ません。自分がどれほど正しいかを誇る者に対して、天の門は閉ざされます。ただ自らの罪を悔いて神様の憐れみを求める者に対して、天の国の門は開かれるからです。それが、ただ恵みによって救われるということです。これが福音です。しかし、律法学者たちとファリサイ派の人々は自分の業に頼り、神様を頼らず、自らを誇り、神様を誇りとしなかった。これは、神様の御支配に生きる者の姿ではありません。ですから、「人々の前で天の国を閉ざす」とイエス様は言われたのです。
 また、そのように自分の善き業によって天の国に入るのだと人に教えるものですから、せっかく天の国に入ろうとしている人さえも、自分と同じように天の国からは遠いところに導いてしまう。自分が天の国に入らないばかりでなく、他の人も巻き添えにして天の国に入れないようにしてしまう。これは、本当に罪深いことです。自分だけじゃない。他の人もみんな巻き込んで、神様の御心から遠いところに連れて行ってしまうらです。イエス様が、「ああ」何ということか、と嘆かなければならなかった理由です。

6.偽善② ~見せかけの長い祈り~
14節は、新共同訳では本文から駆除されて、マタイによる福音書の最後に記されています。こうあります。「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」これも同じです。長い祈りは「見せかけ」だというのです。祈りとは、最も神様の御前に出る時、神様と一対一の時でしょう。しかし、その時でさえも人の目を気にしているわけです。そして、長い祈りをすれば敬虔に見える。何と神様を馬鹿にした話でしょう。神様は私共の心の中までお見通しです。人前に見せかけの祈りをしても、神様はお見通しです。実に、信仰の堕落は最も敬虔な所において起きる。これは覚えておかなければなりません。
 更に、「やもめの家を食い物にする」というのです。やもめというのは、社会福祉なんていうものがない時代にあっては、社会における弱い者、小さい者、貧しい者の代表です。そして、頼る者がないから、神様を頼る。信仰においては純粋なのです。これを騙して、食事や金銭を受け取る。イエス様はこのようなあり方を、本当にお嫌いになりました。ですから、「人一倍厳しい裁きを受ける」とまで言われたのです。宗教とお金の関係は、いつの時代でもこの危険と隣り合わせにあります。信仰はお金との関係において堕落するのです。これも良く覚えておかなければなりません。
 弱い者、小さい者、貧しい者を自分のために利用する。これは神様の御心から最も遠いことです。旧約の預言者たちが、最も神様が忌み嫌われることとして挙げたのは二つです。一つは偶像礼拝。そしてもう一つは社会的不正義。弱い者を虐げることでした。これが神様の御心から最も遠いことなのです。

7.偽善③ ~熱心が救いのしるしではない~
 次にイエス様が挙げられたのは、熱心ということです。15節に「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。」とあります。「改宗者」というのは、異邦人からユダヤ教徒に改宗する人のことです。「改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩く」と言うのですから、律法学者たちとファリサイ派の人々は、大変熱心に伝道したのです。伝道することは良いことです。しかし、何を伝道するかが問題です。異端と呼ばれるキリスト教は、どれも極めて伝道に熱心です。一軒一軒訪ねて歩いたり、何日間もの合宿に参加させたり、色々行っています。日本でキリスト教というと、そういう人たちのことを連想させてしまうということさえあるほどです。伝道は良いことです。でも、熱心に伝道しているキリスト教が良いキリスト教ということにはならないのです。何を伝えるのか。何を信じているのか。これが大事です。イエス様の救いではない、間違ったことをどんなに熱心に伝えようとも、神様は少しもお喜びにはなりません。
 イエス様は「改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまう」と言われました。どうしてそうなるかと言えば、改宗者は改宗して救われたわけですから、もう後戻りしないようにと熱心になるものなのです。たとえが良くないかもしれませんが、二代目、三代目のキリスト者より、初代のキリスト者の方が、熱心な人が多いのではないかと思います。どこか、熱心でないと救われないような気がするからでしょう。正直なところ、私も洗礼を受けて10年、15年と、そんな感覚があったと思います。神学校に行くと、何とも頼りない神学生たちと出会いました。大抵、牧師の子でした。彼らは、熱心でなければなんて、少しも思っていない。生まれた時から教会ですから、本当に自由です。私のような「熱心でなければ」と思っている人の信仰を「猿型信仰」と言っていました。小猿は必死に母親にしがみついていないと落ちてしまいます。一方、牧師の子どもたちの信仰を「猫型信仰」と言っていました。母猫は子猫の首の後ろを口でくわえて運びます。子猫の手も足も自由です。
熱心が悪いと言っているのではないのです。ただ、熱心よりも大切なことがある。それは、神様を信頼すること、神様を愛すること、神様の恵みの中に生きることです。どうして異端と呼ばれるキリスト教の人たちは熱心に伝道するのか。理由はとても簡単です。そうしないと救われないと教えられ、そう信じているからです。これを聞いただけで、この人たちが生きているところは福音によっていない、伝えているものは福音ではない、とはっきり分かりますね。

8.偽善④ ~自分の気持より大切なこと~
 16~22節は少し長く、ややこしく思われるかもしれませんけれど、言われていることはとても単純なことです。ここでは「ものの見えない案内人」と言われています。しかし、意味しているのは「律法学者たちとファリサイ派の人々」のことです。
 どうして「ものの見えない案内人」と言われているかと申しますと、神殿と神殿の黄金、祭壇と供え物、どっちが大切かということにおいて全く見当外れなことを教えていたからなのです。16節b~19節「あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。」とイエス様は言われました。何が問題になっているか、お分かりでしょうか。律法学者たちとファリサイ派の人々は、神殿にかけて誓ってもそれは無効、しかし神殿の黄金にかけて誓えば果たさなければならない、と教えていたわけです。また、祭壇にかけて誓えば無効、しかし祭壇に捧げた供え物にかけて誓えば果たさなければならない、と教えていた。これはどういうことかと言いますと、神殿の黄金とか供え物は見えるわけです。もっと言えば、自分はこれだけ捧げましたと人から見えるわけです。そして、そのように捧げたものというのは、自分の真剣さ・真面目さが形になって表れたものです。だから、それには嘘があってはならないということなのです。神殿といい祭壇といい、それは神様の御臨在を示す場であり、神様を拝み、神様との交わりが与えられるところです。そこに対して誓うということは、神様の御前で、神様に誓うということです。ところが、神様に誓うということよりも、自分の献身の気持ち、志、真剣さ、真面目さに嘘があってはならないと教えていたということです。自分の真面目さ、自分の熱心、これが何より大事だということです。こうなりますと、誓うということがいったい何なのか、さっぱり分からなくなってしまいます。
 誓うということは、神様の御前に誓うということであって、何にかけて誓うかなどということは、本来意味が無いことです。ところが、神様の御前ということが忘れられてしまいますと、誓うということさえもよく分からなくなってしまう。神様に誓うのに、自分が捧げたものを指して誓うならば果たさなければならない。つまり、自分の本気度、真面目さ、それは裏切ってはダメだということなのです。しかし、本来裏切ってはならないのは、神様でしょう。神様を裏切ってはならないはずなのです。しかし、それさえ分からなくなってしまっていたということです。真面目さ、熱心さ、本気であるというようなことは、信仰において大切なものです。しかし、私共が救われるのは、それによってではありません。ただ信仰、ただ恵みによります。私共が頼るのは、その自分の真面目さ、熱心さ、本気さ、そういったものではなくて、ただ神様の恵み、神様の憐れみ、神様の愛なのです。そこを外してしまうと、どんなに真面目で熱心であったとしても、その信仰は的を外しています。このことは、私共もしっかり心に刻んでおかなければなりません。

9.偽善⑤ ~正義、慈悲、誠実をないがしろにしている~
 今日の最後の偽善は、23~24節「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。」とあります。これは要するに、本当に大切にしなければならないことをないがしろにして、どうでも良いような小さなことにばかり心を遣っているということです。「薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう)」というのは、ハーブ、香辛料、薬草のたぐいです。これは小麦やぶどうのようにたくさん収穫されるものではありません。しかし、こういったものまでも10分の1を捧げるということはきちんとやっていた。それが律法学者たちとファリサイ派の人々でした。真面目なのです。それは良いことです。しかし肝心の、神様が大切にしなければいけないと教えてきた「正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」、大切にしていないとイエス様は言われました。つまり、愛がないということです。これでは本末転倒ではないかとイエス様は言われたのです。神様を愛し、隣り人を愛する。このことを横に置いて、様々なこまごまとした決まり事を守ったところで、神様の御心からは離れている。そうイエス様は言われたのです。
 ここでイエス様は10分の1の献げ物はどうでも良い、しなくても良い、と言われたわけではありません。「もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならない」とイエス様は言われました。私共の教会は10分の1献金ということをそれほど言うことはありません。でも勿論、献金は大切な業です。献身のしるしだからです。捧げることは大切です。真面目であることも良いことです。しかし、それ以上に大切なことがある。それは「愛すること」です。神様を愛し、隣り人を愛することです。ここに聖霊なる神様によって信仰を与えられ、新しい命に生きる者とされた私共の、天の国への道があります。

祈ります。

 主イエス・キリストの父なる神様。
今朝、あなた様は私共を、滅びへの道ではなく、救いへの道へと導き、招いてくださいました。ありがたく感謝いたします。私共も目に見える成果や人々の賞賛を求めてしまうことがあります。しかし、大切なのはあなた様との交わり、永遠の交わりです。どうか、私共に聖霊を注ぎ、信仰を与え、御国への道を雄々しく歩んで行くことが出来ますように。
 この祈り、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2020年6月14日]