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礼拝説教

「主に助けを求めると ~士師オトニエル~」
士師記 3章1~11節
マタイによる福音書 8章23~27節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 6月最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けてまいります。今年は士師記から御言葉を受けています。前回は5月の24日(日)で、ペンテコステ記念礼拝の前の週でした。その日の礼拝に集われていたのは50名ほどで、皆さんが少しずつ礼拝に戻り始めてきた頃でした。この一ヶ月で、新型コロナウイルスの感染状況も人々の対応も、少し変わってきたかなと思います。自粛一色ではなくなってきました。このまま収まるのかどうか分かりませんけれど、教会も少しずつ、段階的に、三密を避けながら元に戻していこうと思っています。ただ、7月から家庭集会も再開しようと思っていましたが、これはもう少し様子を見ようと思います。今の段階では、それぞれのご家庭に負担を強いるのではないかと危惧いたしました。
 さて、前回は士師記から御言葉を受ける第一回目でした。士師記全体を見て、時代状況や、士師が12人いることを見ました。そして、士師記において繰り返されるパターンも見ました。イスラエルの民が「主の目に悪とされることを行い」、神様が懲らしめるために他の民族をイスラエルに攻め込ませる。そしてイスラエルは神様に助けを求め、神様はそれに応えて士師を送る。士師はイスラエルを攻めていた他の民を追い返す。平和になる。しかし、士師が亡くなると、元の木阿弥で、イスラエルはまた「主の目に悪とされることを行い」、神様は懲らしめのために再びイスラエルを他の民に攻めさせる。これが12回繰り返し記されているのが士師記です。

2.士師オトニエル
 12人の士師には、6人の大士師と6人の小士師がいます。小士師というのは1節か2節程度で言及されている士師です。大士師というのはもう少し記されている文量が多い。大小は聖書の記述の量だけの違いです。意味や役割の違いではありません。その最初の大士師として記されているのが、今朝与えられている御言葉に記されているオトニエルです。
 9節を見て見ましょう。「イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主はイスラエルの人々のために一人の救助者を立て、彼らを救われた。これがカレブの弟ケナズの子オトニエルである。」とあります。しかし、彼の名が出てくるのはここが最初ではありません。1章12~14節に既に出てきます。ユダ族の勇者カレブ。彼は若き日に、十二部族から一人ずつ斥候として約束の地に遣わされたうちの一人です。他の斥候がその地の町の大きさや人々の大きさに気圧されて約束の地に入ることをためらった時に、ヨシュアと共に「断然攻め上るべきである。」と主張した人です。結局、その時は約束の地に入ることが出来ず、40年の荒野の旅が始まりました。カレブとヨシュアの他には、同じ世代で約束の地に入ることが出来た者はおりませんでした。そのユダ族の勇者カレブの弟ケナズの子、つまりカレブの甥がオトニエルでした。彼は叔父のカレブから、モーセによる戦いやヨシュアによる戦いについて、様々なことを聞いてきたことでしょう。その中でも決定的に大切なことだったことは、「主が戦ってくださる」ということでした。モーセもヨシュアもカレブも、主が共にいてくださり、共に戦ってくださる、それ故に勝利する。葦の海の奇跡も、過越の出来事も、何度も聞かされてきたことでしょう。オトニエルは、士師として立てられる前に、ユダ族に分け与えられていた土地のカナン人と戦い、これを破り、占領しました。彼は、主が共にいて戦ってくださることを経験したのです。そして、オトニエルはカレブの娘であるアクサを妻に迎えました。その彼が最初の士師として立てられました。でも、オトニエルはカレブの甥であり、勇敢な者であったから、武勇に優れたものであったから、士師として選ばれ立てられたわけではありません。彼は、主が共に戦ってくださるということを知らされた者だった。それが大事なことだったのではないかと思うのです。

3.主に立てられた者
 オトニエルは、神様によってイスラエルの人々の為に立てられた「救助者」でした。イスラエルを救うために、神様に立てられた士師です。しかし、オトニエルが自分で「私がイスラエルを助けます。」と言って立ち上がったのではありません。神様がオトニエルを選んでお立てになった。それ故、10節に「主の霊が彼の上に臨み、彼は士師としてイスラエルを裁いた。」とあるように、主の霊つまり聖霊が彼の上に臨んだのです。そして、戦いに出れば勝利を与えられ、士師としてイスラエルを正しく裁くことも出来たのです。
 オトニエルのどういう所が優れていたのか、そういうことについて、聖書はは何も記していません。これが一般の歴史書と聖書が決定的に違うところです。私も妻も歴史が好きで、よくテレビで歴史番組を見ます。発掘によって発見された物とか、当時のことを記した文書から、この人はこういう人であった考えられると言われます。その人物像が今までの定説と全く違う場合もあり、それを見ながら、「へえ!」「ほう!」と感心したり、この人にはそんな面もあったのかと納得したり、驚いたりします。しかし、聖書はオトニエルがどんな人であったのか、ほとんど何も記しません。そういうことには興味がないからです。それは、聖書は他の歴史書とは違って、主人公はいつも主なる神様だからです。聖書は、オトニエルがどんな人だから士師としてこんなことをしたと記しているのではなくて、神様がオトニエルをイスラエルの救助者として立て、士師として用いられた。それが聖書が告げるすべてなのです。
 私共はここで、神様の御手の中にある歴史というものに目を向けさせられます。人間の歴史は、人間の様々な思いが交錯して展開していくと人は考えます。それはその通りなのでしょう。その時代や前の時代の、一見全く関係無さそうな出来事が、影響を与えていることも少なくありません。しかし、人間はその歴史を構成しているすべての要素を知り尽くすことは出来ません。ですから、色んな解釈や理由付けが次々となされるわけです。しかし、聖書が告げているのは、人間にどんな思いがあっても力があっても、このオトニエルが士師としてイスラエルを助け、導くという出来事は、「神様が彼を士師として選んで立てた」ということがなければ起きなかったし、神様が彼を士師として選んで立てたが故に起きたことだということです。
 これは、私共の人生においても言えることなのではないでしょうか。私共がキリスト者となった。この教会でキリスト者として歩んでいる。それは、それぞれに思いがあり、ここに至る経緯があるのでしょう。親がキリスト者であったとか、富山に来るつもりはなかったけれど転勤で来たとか、それぞれに全く別の経緯があることでしょう。しかし、決定的に大切なことは、「神様が私を選んで信仰を与え、この教会での信仰の歩みを備えてくださった」ということなのです。あの時、こういう決断をしたから、現在こういうことになっているというのは、すべてを見通すことが出来ない私共が、その一部を捉えて理由付けをしているに過ぎません。私共の人生は、そんな単純なものではないと思います。私共の決断や思いによって支配されているのではなくて、神様の選びと導きの中に私共の信仰の歩みはある。これが、聖書的に、信仰的に、自分の人生を見つめ直すということなのではないかと思うのです。そして、それが出来れば、「あの時こうしていれば…」といった後悔というものから解放されることでしょう。そして、神様の御手の中にある明日に対しても、希望を持つことが出来ることになりましょう。

4.主の目に悪とされること
 さて、なぜ神の民であるイスラエルが神様の懲らしめを受けれなければならないことになってしまうのか。それはこの士師記に繰り返し繰り返し記されている言葉で、7節にも「イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、彼らの神、主を忘れ、バアルとアシェラに仕えた。」とはっきり記されています。この「主の目に悪とされること」とは、その後に続く「彼らの神、主を忘れ、バアルとアシェラに仕えた」ということです。一言で言えば偶像礼拝ということです。「バアルとアシェラ」。これはメソポタミア北部から中東一帯において古代から広く信じられていた自然神です。バアルというのは男性神で、嵐・雷の神です。沢山いる神々の中での最高神。アシェラというのはアシュトレトと同じで、女性神であり、バアルの妻と理解される場合もあり、豊穣・多産の地母神です。イスラエルの民はこれを拝み、これに仕えるという「主の目に悪とされること」をしてしまったというのです。
 どうしてこうなってしまったのか。色々な要因が考えられます。一口に説明することは難しいでしょう。ただはっきりしていることは、イスラエルは強いられてそうしたのではないということです。土着の人々と友好的関係を持っていく中で、自然とそうなったのです。イスラエルの民が積極的に十戒を与えてくださった神様を否定して、バアルとアシェラを拝むようになったということではないのではないかと私は考えています。「相異なる信仰や一見相矛盾する信仰を結合・混合すること」をシンクレティズムと言います。日本の神仏習合などは典型的なものです。現在は神社とお寺は区別されていますけれど、これは明治時代に行われた神仏分離、廃仏毀釈運動の結果です。江戸時代までは、神社とお寺が一緒なんていうのは珍しくありませんでした。立山信仰だってそうです。現代の日本の新宗教は聖書の神も取り入れて、これと同じことを今でもやり続けています。私はイスラエルにおいて、それに近いことが起きたのかもしれないと思っています。カナンの地に元々住んでいた人々の神である「バアルとアシェラ」、それとヤーウェの神を同一視して、これを拝むということが起きた。これは考えられないことではないと思います。
 しかし、これは無理なのです。なぜなら、聖書の神様は人格を持ち、生きて働き、契約を結び、これを守られるお方だからです。そして、その契約の第一条に「あなたはわたしほかに、なにものをも神としてはならない。」とある。イスラエルの民は神の民であり、神様によってエジプトの奴隷の状態から解放していただき、その出エジプトの旅の途中で十戒を与えられ、神様と契約をしました。しかし、カナンの地に定住したイスラエルの民は、いつの間にかこのことを遠い昔に先祖が経験したこととして、決定的に重大なこととは思わなくなってしまったのではないか。偶像の神は大抵、豊作であったり、子孫が多く生まれたりといった、目に見える幸を約束します。イスラエルの民は、この幸は自分たちの神が与えてくださるものと同じであり、同じ恵みが与えられるのならば、どの神でも一緒と思ったのかもしれません。イスラエルの民以外、自分たちを囲む周りのすべての民族はこの「バアルとアシェラ」を拝んでいるのですから、無理に対立することはないと思ったのかもしれません。
 ここでイスラエルの民は、決定的な過ちを犯しました。聖書の神、ヤーウェとの関係を、契約に基づく愛と信頼というものから、幸を与えてくれるなら何でも良いという、愛でも信頼でもない損得関係にしてしまったのです。たとえて言えば、夫婦の関係を、愛と信頼によって結ばれた関係ではなく、ご飯を作ってくれるなら誰でも良い、給料を持って来るなら誰でも良い、そういう関係にしてしまったということです。これは、聖書の神であるヤーウェにとって我慢のならないことでありました。アブラハム以来の関係、モーセを通して言葉を与え、様々な出来事を起こし、マナで養い続けた日々は何だったのか。モーセによって結ばれたあのシナイ山での契約は何だったのか。ヨシュアによって結ばれたシケムでの再契約は何だったのか。神様は裏切られたのです。神の民に裏切られた。偶像礼拝というのは神様に対しての裏切りなのです。
 私共が聖書から教えられる大切なことは、「裏切ってはいけない」「恩を忘れてはいけない」ということです。それは、第一には神様に対してですけれど、人に対しても同じことです。そこに愛の交わりが形造られていくことはないからです。

5.助けを求めると
 そして、神様はこの時、イスラエルを「アラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に売り渡された」のです。そして、イスラエルの民は8年間、アラム人の支配を受けることになってしまいました。そして9節「イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主はイスラエルの人々のために一人の救助者を立て、彼らを救われた。これがカレブの弟ケナズの子オトニエルである。」と続くわけです。「イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだ。」この叫びに神様は応えられました。この「主に助けを求めて叫ぶ」ということが、悔い改めであり、神様の許に立ち返るということです。主に助けを求めるということは、主なる神様なら何とかしてくださると期待し、信じるからでしょう。神様は、そのように自分を信頼してくる者を追い返されたりはしません。しっかり受け止めてくださいます。だから、オトニエルを士師として選び、立て、イスラエルを助けたのです。
 新約聖書には、この神様の御心を現された神の御子、主イエス・キリストの言葉と業がたくさん記されています。先ほど、マタイによる福音書8章23~27節をお読みいたしましたこ。イエス様と弟子たちが舟に乗っていると、激しい嵐が起こり、舟が波にのまれそうになります。イエス様は眠っています。弟子たちはイエス様を起こして、こう言いました。「主よ、助けてください。おぼれそうです。」イエス様は、この時も自分に助けを求める者の叫びを放っておかれませんでした。イエス様は弟子たちに「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」と言われました。これは「何を怖がっているのか。怖がることはない。わたしを信じなさい。信頼しなさい。大丈夫。」と言われたということでしょう。そして、イエス様は起き上がって、風と湖とをお叱りになりました。そうすると、風も波も治まって、すっかり凪になった。弟子たちは助かりました。
 その他、幾つでもイエス様の御業の場面を思い起こします。目の見えない物乞いが「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」と叫んで、イエス様にいやしていただいた場面(マルコによる福音書10章46節以下)。また、ティルスとシドンの地方において、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」と言ってイエス様に娘の癒しを求めた女性に対して、イエス様は「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない。」と言われながらも、でもやっぱりいやされた場面(マタイによる福音書15章21節以下)。挙げていけば切りがありません。助けを求めるならば、神様は必ずその声を聞いてくださり、助けてくださいます。それがイエス様において自らを現された、聖書に記されている私共の父なる神様というお方なのです。
 では「主に助けを求めて叫ぶ」ということがなければ、神様は何もしてくださらないのでしょうか。神様は愛のお方であり、自由なお方ですから、「何もしてくれません」とは誰も言えないでしょう。実際、神様の恵みと守りと導きは、私共が願う前に、求める前に与えられている現実があります。ただ、私はこう思うのです。主に助けを求めて叫んだ者は、自分が助かった時、神様の助けによるということが分かる。しかし、神様に助けを求めない者には、それが分からない。運が良かった、ラッキー、と思うだけです。神様の助けによることが分かれば、神様に感謝もしましょう。神様から離れていたことを悔いもしましょう。神様に赦しを求めることもしましょう。そして、そこに神様との新しい交わりが形造られていくことになります。神様が私共に求めておられるのは、この愛と信頼による交わりなのです。

6.信仰の戦い
 イスラエルの民は、カナンの地に住む民をすべて征服し尽くしたわけではありませんでした。それ故に、「バアルとアシェラ」に仕えるなどということも起きてしまったのですけれど、そこには神様の二つの理由があったと聖書は告げます。
 一つは、2節「そうされたのは、ただ以前に戦いを知ることがなかったということで、そのイスラエルの人々の世代に戦いを学ばせるためにほかならなかった。」つまり、イスラエルの民に「戦いを学ばせる」ためだったというのです。この神様が学ばせる「戦い」とは、単なる戦闘行為、戦争のことではありません。主と共にある戦い、主が戦ってくださる戦いのことです。神の民の戦いとは、神様が共におられて、主が勝利へと導いてくださる戦いです。ヨシュアが亡くなってしまった後の民、約束の地に入って土地を得た後のイスラエルの民は、この主と共なる戦いを知らない。しかし、これを知らないということは、主が生きて働いておられ、私と共におられることを知らないということです。それでは神の民になりません。最初に申しましたオトニエルが1章でキリヤト・セフェルを打ち破った時に学んだことは、このことだったと思います。
 これは私共にとっては、「信仰の戦い」と言い換えても良いでしょう。私共は、「信仰の戦い」を経験すること無しに、主と共に生きることを学ぶことは出来ません。困難な時、困窮した時に、神様に助けを求めて祈る。勿論、長く祈り続けなければならない時もあるでしょう。しかし、その祈りが神様に聞かれたことを知らされる出来事を経験していく中で、私共の信仰はいよいよ強められ、確かなものとされていくのでしょう。困難な時、それは祈ることを学ぶ時であり、主が共におられることを知らされる時であり、主の恵みと力を知らされる時なのです。困難な時、それは証しが立つ時です。

7.主の試み
 もう一つは、4節に「彼らはイスラエルを試みるため、主がモーセによって先祖に授けられた戒めにイスラエルが聞き従うかどうかを知るためのものであった。」とあるように、イスラエルの信仰を「試みる」ためでありました。誰でも試されるのは嫌なものです。しかし、これは避けようがありません。嫌でも向こうからやって来ます。
 この試みの時というのは、先ほど申しました「困難な時」もそれに当たるでしょう。この時、「こんな目に遭うのならば、神様なんて要らない。」と言って神様から離れてしまえば、残念ながら何も学ぶことは出来ませんし、証しは生まれません。しかしここで祈り、神様に寄り頼むならば、私共が神様の愛と力を知る時となります。ですが、この「試み」というのは、困難なことばかりとは限りません。「すべてが上手くいっている時」も試みの時です。なぜなら、そのような時私共は「別に神様に頼る必要なんてない。万事は自分の力でやっていける。」と思い違いしてしまうからです。いわゆる「調子に乗る」ということです。私共は実に調子に乗りやすい者なのです。イスラエルが「主の目に悪とされることを行った」のは、この調子に乗っていた時ではなかったかと思います。そして、神様を侮ってしまったのです。
 時が良くても悪くても、私共には試みの時、誘惑の時となります。それは、私共の心の根っこに「神様に対しての不従順という罪」が巣くっているからです。このことを忘れますと、私共はすぐに悪しき霊にそそのかされてしまいます。まことに弱く、愚かで、罪に満ちた者だからです。しかし、自らの罪を自覚的に弁えて、いつでも、どんな時でも、どんな状況の時でも、神様を愛し、信頼して生きていこうとするならば、私共は試みの時をきっと切り抜けて行くことが出来るでしょう。その為に大切なことは、主の日の礼拝において御言葉に与り続けること、その御言葉に従っていくこと、そして祈りの習慣を身に付けることです。神様は私共を愛してくださり、救いの完成へと導こうとして、聖霊なる神様を送ってくださっているのですから、この方を愛し、信頼していけば間違いありません。大丈夫です。

8.主の平和
 オトニエルは神様に士師として立てられ、アラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムと戦い、これを退けました。それから40年にわたって国は平穏であったと11節に記されています。40年に及ぶ平安。これは本当に素晴らしいことです。良き指導者の下で、主を愛し、主を信頼し、主に従っていくならば、神の民には平和が与えられるということです。これが私共に与えられている約束です。神の民は外からの力によって崩れることはないのです。崩れるとすれば、それは神の民の神様への愛と信頼が崩れる時です。私共は目に見える外の力に脅えることがありますが、聖書は、それは本当に恐れるべきものではなく、本当に畏れるべきお方はただ一人、天地を造られた主なる神様であることを告げます。この方を畏れ、敬い、愛し、信頼し、従っていくならば、私共が恐れるものは何もないのです。

祈ります。

 主イエス・キリストの父なる神様。
 今朝、私共はオトニエルが士師としてあなた様によって選ばれ、立てられた出来事から御言葉を受けました。私共は神の民です。どうか、どんな時でもあなた様の御言葉を受けて、あなた様を愛し、信頼し、従って歩んでいけますよう、聖霊なる神様の導きを心から願い求めます。神の民としての健やかな歩みを与えてください。
 私共の救い主、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。  アーメン

[2020年6月28日]