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礼拝説教

「内側を清めよ」
エゼキエル書 24章9~14節
マタイによる福音書 23章25~36節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 マタイによる福音書を共々に読み進めております。今朝与えられております23章は、イエス様が律法学者たちとファリサイ派の人々を大変厳しく批判された所です。特に、13節から始まります「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。」という言葉が何度も繰り返される所は、福音書の中でイエス様が律法学者たちとファリサイ派の人々に対して最も厳しく激しく批判された所だと言って良いでしょう。しかし、前回も申し上げましたように、この「不幸だ」と訳されております言葉は、直訳すれば「ああ」或いは「おお」とでも訳すべき感嘆詞です。「わざわいなるかな」とか「わざわいだ」「不幸だ」と訳されておりますので、イエス様が彼らを呪っていると読む人もいるかもしれません。しかし、私はそうではないと思います。もしそうだとすれば、律法学者たちやファリサイ派の人々は決して救われないということになってしまうでしょう。神の御子が呪えば、必ずそうなるからです。しかし、使徒パウロは元々ファリサイ派の人でした。そもそもイエス様が、この人たちは救われない、滅びて良い、そんなことを言われるはずがありません。もっと言えば、もしここで告げられたイエス様の言葉が「呪い」であったとするならば、私共とて皆イエス様に呪われる者であり、決して救われない者になってしまうのではないでしょうか。なぜなら、ここに記されているイエス様の言葉に、自分には全く心当たりがないと言えるような人はいないからです。私もそうです。ここに記された御言葉を読む時、このことは決定的に大切な点です。イエス様はここで「ああ」と言って嘆いておられる。「ああ、あなたたち律法学者たち、ファリサイ派の人々、偽善者たちよ。」と言って嘆いているのです。なぜなら、彼らはこのままでは救われない、滅んでしまうからです。イエス様は、そうならないようにと、この激しい言葉をもって彼らを立ち返らせようと招かれたのです。実際、イエス様は彼らによって十字架に架けられてしまうわけで、これはまさに命懸けの招きでした。今朝与えられている御言葉である25節以下は、その後半の部分になります。

2.偽善者
 イエス様はここで、律法学者たちとファリサイ派の人々に対して「偽善者だ」と言って批判されています。偽善者というのは、外に現れている言葉や行動は愛に満ち、柔和で優しいのだけれど、その心はそれとは全く裏腹で、恨みや怒りで満ち、相手を侮蔑し、陥れようとしている、そういう人のことでしょう。元々この偽善者という言葉は、役者や俳優が役を演じるという言葉から生まれました。当時の演劇は仮面をかぶって演じたと言われています。ですから、イエス様はここで、あなたたちは本当の自分とは別の自分、敬虔で信仰深く、神様を愛し信頼している仮面を付けているだけだ。そう言って律法学者たちとファリサイ派の人々を批判されたわけです。
 この相手を「偽善者」呼ばわりする批判は、百発百中です。この批判にさらされて自分の胸に手を当てた時に、私はそうではないと言い切れる人はいなからです。牧師などはその典型です。あなたは牧師を演じているだけではないかと言われれば、反論出来ない所はどの牧師だって持っています。しかし、この批判はもろ刃の刀でして、逆に「お前はどうなんだ。」と反論されれば、これもまた反論出来ない。その意味では、この批判はまことの神の御子であるイエス様にしか出来ない批判であったとも言えると思います。「偽善者」という批判は、確かに百発百中の批判です。誰しも心当たりがある。しかし、イエス様がここで言おうとしていることは、本当にそういうことなのでしょうか。
 そもそも、人の心の奥底には黒い罪の塊のようなものがありますから、人が互いに心にあることをすべて表に出して生きていけば、とても社会は成り立ちません。夫婦だって、親子だって、兄弟だってそうです。家族の交わりが成り立たないことになってしまうでしょう。私共はお互い、言いたいことを全部口にしているわけではないし、心にあることをすべて態度で表しているわけではないでしょう。それを偽善者と言われれば、どう生きていけば良いのかと反論したくもなります。

3.内側をきれいに
このことは、もう少し丁寧に見てみましょう。イエス様は「偽善者」と告げた直後に25節b以下で、あなたがたは「杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。」と言われました。ここで、人間を杯や皿といった器にたとえていることは明らかです。そして、外側をきれいにしても内側は強欲と放縦に満ちている。だから、内側をきれいにせよ、そうすれば外側もきれいになる、と言われたわけです。これをどう理解するかですが、素直に読めば「外から見える言葉や行いは信仰的だけれど、心は違う。だから、心をまず信仰的にすれば、表に現れる言葉や行いは自ずと信仰的なものになろう。」とイエス様は言われたということでしょう。その通りだと思います。イエス様は、何も難しいことを言われたわけではありません。
 イエス様が律法学者たちとファリサイ派の人々に対して、第一に問題にされたのは、その信仰のありようでした。彼らは、何をするか、しているかだけを問題にしていました。もっとはっきり言えば、彼らにとっては律法を守るかどうかだけが問題なのであって、それをどういう思いで行うのかということは一切問わないというのが、その信仰の有りようでした。神様に対しての愛も信頼も問わない。とにかく律法に従えば良い。その律法も、聖書に記されていない、口伝で伝えられたものを含めて、日常生活の一挙手一投足までこまごまと決められていました。これを守るかどうかがすべてでした。それが唯一自分の救いを保証するものだと考えていました。しかしイエス様は、そうではないと言われたのです。神様が求めるものは、神の民との間の「愛と信頼の交わり」だからです。
 ここで大切なのは、イエス様が「内側をきれいにせよ」と言われた、この「きれいにせよ」という言葉は何を意味しているのかということです。ここでは器をきれいにするという意味で使われているのですから、磨いてピカピカにするというイメージを持たれると思います。しかし、そうすると私共の内側がそんなにきれいなのか、ピカピカなのか。或いは、私共はそんなにきれいになり得るのか、きれいになっているのかということが問われるでしょう。「あなたの心はきれいですか。」と問われて、「はい、きれいです。」と言える人がいるでしょうか。
 問題はこの「きれい」という言葉です。この言葉は、マタイによる福音書5章の山上の説教の冒頭、「幸いなるかな」とイエス様が告げられた8つの祝福の6番目の祝福、「心の清い人々は、幸いである」とイエス様が言われた「心の清い人々」の「清い」と同じ言葉です。そして、この「清い」とは「二心がない」という意味なのです。旧約において「心が清い」と言われる場合も同じです。神様に対して二心がない。それが清い心ということです。私共が「清い心」という言葉に対して、一切の欲を捨て、敵意を捨て、愛に満ちた心というイメージを持つならば、いったい私共の誰が「私は清い心を持っている。」と言えるでしょうか。しかし、ここで問われているのは、神様に対して二心がないということです。そしてそれは、イエス様を神の御子として、わが主、わが神として信じ、受け入れることにおいて二心がないということなのです。イエス様が律法学者やファリサイ派の人たちに対して求められたのは、この信仰だけです。そして、私共に求められているのも同じです。ただこの二心なき信仰だけです。イエス様をわが主、わが神として私共の心に迎える時、私共は聖霊なる神様のお働きの中で、罪の奴隷の状態から解き放たれます。それは罪の支配の下での強欲と放縦から解き放たれるということでもありましょう。勿論、私共が一切の欲を持たなくなるということではありません。しかし、それも神の子・僕としての新しい私が形造られていく中で、変えられていきます。神様に対しての二心なき信仰によって、私共は清められ、聖霊なる神様の導きの中で、言葉も行いも態度も変えられていく。実に大切なのは、この二心なき信仰だけなのです。

4.白く塗った墓
 イエス様は27~28節で、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。」と言われ、律法学者たちとファリサイ派の人々を「白く塗った墓」にたとえられました。これも強烈なたとえです。墓には墓標があります。当時これが白く塗られていました。それは、墓に触れると汚れると考えられていましたので、間違って人々がこれに触れないようにと白く塗られていたのです。どんなに綺麗に白く塗ろうと、墓は墓です。イエス様は、この白い墓と同じように「外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」と言われました。これは、律法学者たちとファリサイ派の人々の心が、今見ました「二心なき清い心」ではなく、「偽善と不法に満ちている」。つまり、神様に対して真っ直ぐな心ではない、神様に対してさえも嘘をついているということです。
 神様は私共以上に私共のことを御存知です。神様は私共の表に現れた言葉や行動や態度だけではなくて、その心までもお見通しです。神様ですから、当たり前です。イエス様はその神様の御子ですから、イエス様もお見通しでした。しかし、律法学者たちとファリサイ派の人々は、心は問題にしませんでした。人間には他人の心は分かりませんから、そんなことで判断はしないというのは、ある意味正しいと思います。しかし、神様の御前において問われるのは、この神様の御前に立っての二心なき信仰です。信仰は人に見せるものではなくて、神様の御前に立つ者の心の有りようです。神様はすべてをお見通しなのですから、神様をごまかすことは出来ません。そもそも信仰があれば、神様をごまかそうなどとは思いもしないはずです。しかし、イエス様の見られた彼らの心の中はそうではありませんでした。心の中まで神様が主人となっていないものですから、罪の心が伸び放題になっていたのです。
 イエス様は神の御子ですから、それが分かったし、それを指摘されました。しかし、指摘された彼らは、それを受け入れることは出来なかった。人間は他人の心の中を知ることなど出来るはずがありません。ですから、心の中のことをどのように指摘されようと、「そんなことはありません。」と言えばそれでおしまいです。このイエス様の言葉を受け入れるということは、イエス様が自分の心をしっかり見抜いておられるということを認めなければなりません。そしてそれは、イエス様が神の御子であることを認めることに他なりませんでした。心の中まですべて御存知なのは神様だけだからです。彼らにはそれは出来ませんでした。彼らが特に強情だったということではありません。自らの罪を認めようとはしないということにおいて、人は例外なく本当に強情なのです。
 そしてそれは、悔い改めるということがどんなに人間には難しいかということです。律法学者たちとファリサイ派の人々は、自分は正しいと思っているわけです。そう思っている人が、他の人に間違いを指摘されたからといって、それを受け入れることなど出来るはずがありません。その事を思いますと、私共がイエス様を神の御子と信じ、わが主、わが神として受け入れ、罪の赦しを求める者としていただいたということは、奇跡としか言いようのない、本当にありがたいこと、神様の恵み以外の何ものでもないと思わされるのです。

5.命をかけた招き
 29節以下は、少し分かりにくいかもしれません。ユダヤ人たちは、預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を建てたりしていました。これは日本でも行われています。万国共通に行われていることなのでしょう。律法学者たちやファリサイ派の人たちは、それを行うことによって、30節「『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言」っていたというのです。
 多くの預言者は、神様の御心として、神様の裁き、悔い改めを求めることを告げました。先ほどお読みいたしましたエゼキエル書にも記されているとおりです。しかし、神様の言葉を告げたが故に、悔い改めを求めたが故に、彼らは人々に嫌われ、石を投げられました。代表的なのはエレミヤです。彼は「悲しみの預言者」と呼ばれています。彼はユダの人々に悔い改めを求めました。また、バビロンによって滅びることも告げました。彼が神様の言葉を語れば語るほど、彼は人々に嫌われ、恨まれ、疎んじられました。しかし、やがて彼の預言通り、南ユダ王国はバビロンによって滅ぼされます。南ユダ王国の主だった人々は、遥かに遠いバビロンに連れていかれ、捕囚の民となりました。しかし、その捕囚の民が祖国から遠く離れたバビロンにおいて信仰を失わなかったのは、エレミヤの預言があったからでした。彼らが拠り所にしたのは、エレミヤによる「七十年の後に解放される」(エレミヤ書29章10節以下)という預言でした。これはいつまでも続くのではない。神様が再び約束の地へと戻してくださる。そのことを信じ、彼らは耐えた。エレミヤは神の民に恨まれ、疎まれました。しかし、彼は語り続けました。そして、自分がこの世を去った後も、彼を通して告げられた神の言葉は、神の民を支え、導き続けた。預言者とはそういうものです。
 イエス様の時代の律法学者たちとファリサイ派の人々は、自分たちがエレミヤの時代にいたのならば、彼に石を投げたりはしなかったと言うのです。本当に自分の正しさに自信がある人々だったのです。私などイエス様の時代に生きていたら、きっとイエス様を十字架に架ける側の人間になっていただろうと思うのですが、皆さんはどうでしょうか。しかし、律法学者たちとファリサイ派の人々はそうは思わなかった。なぜなら、自分たちは正しいからです。しかし、この「自分たちは正しい」という思いこそが、預言者たちの悔い改めを求める言葉を受け入れさせず、預言者たちに石を投げたのでしょう。皮肉なことに、「預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったり」することによって、律法学者たちとファリサイ派の人々は、預言者たちが求めた「悔い改め」に導かれるのではありませんでした。そうではなくて、彼らの血を流す側と同じ、「私は正しい」というところに立つ者になっていることを、自ら証明しているとイエス様は言われたのです。
 そして、もっと大切なことは、今もそれと同じことが起きようとしている。いや、ここに起きている。イエス様を受け入れず、イエス様を十字架に架けるということによって、昔のユダヤ人たちが預言者や正しい人の血を流したのと同じことをしようとしている。そうイエス様は、律法学者たちとファリサイ派の人々に告げているのです。32節の「先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。」とはそういう意味です。イエス様は、この時はっきりと御自分の十字架による死を見ておられました。実に、イエス様はこの時、自らの命をかけて律法学者たちとファリサイ派の人々を悔い改めさせて、救いへと導こうと激しく彼らに迫っていたのです。激しく迫れば迫るほど、自らの十字架の死が近くなることをイエス様は知っていたでしょう。しかし、イエス様は激しく、厳しく、彼らに迫り続けました。悔い改めさせるためです。それが33節以下のイエス様の言葉です。

6.蝮の子らよ
 33節「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。」とイエス様は告げられました。墓のたとえもひどいものですが、「蛇よ、蝮の子らよ」というのは最悪です。蛇は創世記3章に出てきて、アダムとエバに罪を犯させるようにと誘惑したものです。当然、蛇はユダヤにおいて最も忌み嫌われていた生き物でした。しかも、毒のある蝮です。このイエス様の言葉は、洗礼者ヨハネが告げていた言葉(マタイによる福音書3章7節以下)と同じです。洗礼者ヨハネはこの言葉の後に、「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。」と続けました。洗礼者ヨハネもイエス様も、求めたのは悔い改めでした。「自らの正しさ」を手放すことでした。自らの正しさを手放すことがなければ、悔い改めて神様に赦しを求めることが出来ないからです。
 しかし、そうはならないこともイエス様は御存知でした。34節「だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。」とあるのは、イエス様の弟子たち、或いは初代教会の人々がユダヤ人たちに迫害されることを預言している言葉でしょう。
 そして、35節においては、旧約における正しい者たちの不当に流されたすべての血についてあなたがたに責任がある、とイエス様は告げるのです。「正しい人アベルの血」というのは創世記4章に記されている、アダムとエバの子、カインとアベルの兄弟において、アベルがカインに殺されたことを指しています。そして、「バラキアの子ゼカルヤの血」というのは、歴代誌下24章17節以下に記されています。ユダの人々がアシェラ像に仕えた時、神様が次々に預言者を遣わして、悔い改めることを求めたにもかかわらず、王も高官も人々もこれに従わず、神の言葉を告げたゼカルヤは神殿の庭で殺されたのです。ちなみに、ここでアベルとゼカルヤが出てくるのは、アベルは聖書の最初に記されている殺人であり、ゼカルヤの殺人は聖書の最後に出てくる、神様に遣わされた者に対しての殺人だからです。イエス様の時代の聖書の配列は現在と違っていて、歴代誌下が一番最後の書でした。つまり、この二人を出すことによって、旧約におけるすべての正しい者の死と預言者の死を言い表しているわけです。最も聖なる、神様の御前に立つべき祭壇、そして神殿において、正しい人や預言者が殺された。この罪を神様はどう処理されるのか。すべては「今の時代の者たちにふりかかってくる」(36節)とイエス様は告げられました。しかし、過去の罪も、今の罪も、将来の罪も、その裁きがすべてイエス様の時代の人々に降りかかってくるというのは、どう考えても理不尽です。イエス様がここで言おうとしているのは、そういうことではありません。
 イエス様はここで、過去の神様に従わなかったすべての罪、将来起こる神様に従わない罪、そして、今起きている神様に従わない罪。そのすべての罪はどのように処理されるのか。それは、今にかかっている。イエス様に対する態度にかかっている。イエス様を神の御子として信じ、この方をわが主、わが神として受け入れるかどうか。その一点にかかっている。それは、何時の時代でも、誰であっても同じことです。人は誰でも罪を犯してきましたし、犯していますし、これからも犯すでしょう。しかし、自らの正しさにしがみつくことを止め、神様の御前に悔い改めて、赦しを求め、二心なき思いを持ってイエス様を神の御子として信じ、この方をわが主、わが神として受け入れるならば、すべてが赦され、神の子とされ、永遠の命に生きる者とされるのです。この福音に生きよ。そうイエス様は律法学者たちとファリサイ派の人々を招かれました。その御心は、今も少しも変わりません。

7.結
 人は誰でも自分の正しさにしがみつき、悔い改めようとしません。それが罪というものです。しかし神様は、そのような私共をなおも愛し、滅びに至らせるのではなくて命に至る道へと、私共を導き続けてくださっています。その憐れみの満ちた導きの中で、このように主の日の礼拝へと導かれた私共です。ここに、既に私共が神様の憐れみの中に生かされている、確かな「しるし」があります。
 私共は今から聖餐に与ろうとしています。これはイエス様が信仰の弱い私共のために備えてくださった恵みです。キリストの体と血とに与り、キリストと一つとされている救いの現実を共に味わいましょう。私共は白く塗られた墓ではありません。イエス様が、聖霊として御言葉と共に私共の中に宿り、御支配してくださり、造り変えてくださり、御国への確かな歩みを備えてくださるからです。

祈ります。

 恵みに満ち給う全能の父なる神様。
 あなた様は今朝も私共をそれぞれの場より召し出してくださり、イエス様によって示されたあなた様の御心を新しく、心に刻ませてくださいました。感謝します。私共はまことに弱く、罪に満ちた者でありますが、あなた様の救いの御手は私共を捕らえて離しません。どうか、自らの正しさでなく、ただあなた様の憐れみを頼って、あなた様の子・僕としての歩みを、この一週間も健やかに為していくことが出来ますように、どうぞ導いてください。
 この祈りを、私共の救い主、イエス・キリストの御名によってお祈りします。 アーメン

[2020年7月5日]