日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「エルサレムさえも」
エレミヤ書 6章6~8節
マタイによる福音書 23章37節~24章2節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 先週、九州を中心に大雨が降りまして、亡くなる方が何十人も出るという大変な水害が発生しました。今日もまだ予断を許さない状況にある地域がたくさんあります。今回の水害は「令和2年7月豪雨」と名付けられました。広い範囲に深刻な被害をもたらしたからです。九州の福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、鹿児島県をはじめ、岐阜県・長野県・愛知県にも大きな被害が出ました。もし飛騨・高山地方に降った雨がほんの少し北にずれていたら、その水は南に流れず北に流れて、神通川が氾濫していたかもしれません。皆さんもテレビの映像を見られたかと思いますが、見ていると私も何とも辛い思いになりました。家や職場が水没した方、土砂に流されてしまった方、畑や田んぼが水につかってしまった方、家族を亡くされた方。本当にこれからどうしていけば良いのか途方に暮れながら、それでも片付けをしておられる。そのようなニュースを見ながら、何度もため息が出ました。主の慰めと支えを祈るばかりです。
 しかし同時に、この水害に遭った地域も、一年、二年とかかるかもしれませんけれど、必ず復興する。きっと復興する。私はそうも思いました。どうしてそう思ったのかよく分からないのですけれど、そう思いました。それは、「これで終わりではない」という感覚なのだと思います。どんなに厳しい状況に直面しても、「これで終わりではない」と思う感覚。それはイエス様を信じる信仰によって与えられた、新しい感覚なのではないかと思います。信仰によって私共は新しい命に生きる者となりました。新しい人間になりました。それは、感覚さえも新しくされたということなのではないかと思います。この「これで終わりではない」という感覚は、「希望の感覚」と言っても良いかもしれません。私共は生きていく中で、とても辛く、しんどい出来事に何度も出遭っていきます。そういう時私共は、信仰が有ろうが無かろうが、辛く、しんどいのです。ですけれど、それにもかかわらず、私共はその状況や出来事に100%、完全に飲み込まれてしまうことはありません。本当に辛くてしんどいのです。けれど、そこでなお「これで終わりではない」と思っているもう一人の自分がいるわけです。私は、若い時にはこの感覚があまりはっきりしていませんでした。逆に、若い時はいつも何となく不安でした。良いことがあっても、このまま上手く行くわけがない。そう思っているところがありました。そして、上手く行かないと、「やっぱり。そうなると思った。」などと思っている自分がいました。何とも暗い青春時代であったかと思います。しかし今は、この「将来への漠然とした不安」というものは、ほとんど感じません。娘に言わせれば、「もうちょっと不安を感じて、老後の備えをしなさい。」ということなのかもしれません。

2.23章の「まとめ」と24章への「つなぎ」
 今朝与えられております御言葉は、23章の最後と24章の最初の所です。ですから、ここは23章のまとめと同時に、24章への橋渡しという意味合いがあります。24章・25章は終末についてのイエス様の言葉が続いています。マタイによる福音書は、奇跡とかたとえ話とか、同じ系統のものをまとめて記述するという特徴があります。24章・25章はずっと終末についての教えです。ですから、来週から9月までずっと、終末についての御言葉を受けていくことになります。その冒頭、とっかかりとして24章1~2節で、イエス様はエルサレム神殿が崩壊することを預言されました。
 エルサレム神殿の崩壊。それは当時のユダヤ人にとっては、とても考えられないような出来事でした。彼らの目の前にあったエルサレム神殿は、実に壮大で豪華絢爛な建物でした。バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民が再建した神殿。これを第二神殿と言います。この神殿の改修を、ヘロデ大王は紀元前19年から始めました。そして、イエス様がこの言葉を告げた時は、既に50年が経っているのですけれど、まだ工事が続いていました。金をふんだんに使った、豪華な改修でした。この神殿が崩壊する時が来るなど、ユダヤ人には考えられないことでした。そもそも、この神殿には神様が御臨在されているのだから、神様が守ってくださるに違いないと思っていました。このエルサレム神殿はユダヤ人の自慢であり、誇りでした。これが崩壊するのは、この世が終わる時だと思っておりました。しかし、このエルサレム神殿が崩壊するのは、イエス様がこのことをお語りになった約40年後、紀元後70年のことでした。ローマとの戦争の結果、エルサレムの町もエルサレム神殿もローマ軍によって破壊されたのです。しかし、それはこの世の終わりではありませんでした。イエス様は、このエルサレム神殿崩壊の預言によって、終末についての教えのきっかけとしたのです。
 そして、このエルサレム神殿崩壊の予言は、23章の最後のところ、エルサレムが捨てられる、神様に裁かれるとの預言を受けて語られました。エルサレムは神様の愛と憐れみを受け続けながら、この悔い改めの招きに応えなかった。だからエルサレムは神様に捨てられ、荒れ果てるとイエス様は告げられたのです。

3.エルサレム、エルサレム
さて、イエス様は37節で「エルサレム、エルサレム」と呼びかけます。エルサレムは町の名前ですから、エルサレムが応えることはありません。これはエルサレムを擬人化しているわけですが、エルサレムは何よりも神の民、ユダヤ民族の象徴という意味で用いられています。それは、エルサレムは都であるだけではなくて、エルサレム神殿がありました。ですから信仰の中心でもあったわけです。ここで、まずイエス様が「エルサレム、エルサレム」と二度繰り返し呼ばれたことに注目しましょう。口語訳では「ああ、エルサレム、エルサレム」と訳されておりました。しかし、ギリシャ語本文には「ああ」という言葉はありませんので、新共同訳では「ああ」は無くなり「エルサレム、エルサレム」と訳されています。ただ、口語訳聖書を翻訳した方が「ああ」という言葉を加えた思いは分かります。これはイエス様が嘆いて語っている言葉だと理解した。だから「ああ」と加えたのでしょう。この理解は正しいと思います。イエス様はこの言葉を告げながら、嘆いていおられる。
 皆さんは自分の子ども、或いは妻や夫の名前を二度繰り返して呼んで、それから語ったことがあるでしょうか。一回呼んでも聞こえないようなのでもう一回呼んだというのなら、しょっちゅうあるでしょう。しかし、最初からその人の名を二度呼んでから語り始める。それは、何としてもこのことを分かって欲しい、その思いをもって、かき口説くように語りかける時なのではないでしょうか。イエス様はこの時、何としてもこのことを分かって欲しい。このままではエルサレムか滅びる。なぜ分からないのか。そういう思いをもって語られたが故に、イエス様は「エルサレム、エルサレム」と繰り返し、その名を口にされたのではないでしょうか。

4.めん鳥が雛を羽の下に集めるように
 イエス様は、神の民に対しての神様の今までの取り扱いについて告げます。「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。」とイエス様は言われます。神様は神の民を愛し、何度も何度も神様の御心を伝える者たちを送られました。それは、旧約聖書の中でイザヤ書、エレミヤ書というように〇〇書という形でその名が残されている者たちだけではありません。大勢の名も無き預言者たちが遣わされては、偶像の許に走った神の民に対して、再び神様の御許に立ち返ることを伝え続けてきました。それは、「めん鳥が雛を羽の下に集めるよう」であったと言います。詩編91編4節に「神は羽根をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。」とあります。他にもたくさん使われています。この表現は、旧約以来、神様がどれ程までに神の民を愛しているか、守ろうとしてくださっているかを示す、ユダヤ人にはなじみ深い言葉でした。あの出エジプトの旅を思い起こすだけでも、神様は本当にめん鳥がその雛を慈しむようにイスラエルの民を慈しみ、めん鳥がその雛を危険から守るように守り続けてくださったことが分かります。
 しかし、イスラエルは偶像に走ります。神様は繰り返し繰り返し、自分の許に立ち返るように神様の御心を示す預言者を送り続けてこられました。それが旧約の歴史です。今、私共は毎月の最後の主の日は旧約から御言葉を受けています。今年は士師記です。この士師記などは、そのような神様の御心が表れた代表的な書だろうと思います。繰り返し繰り返し、神様は御許に立ち返ることを求め、他の民族を用いて懲らしめも与えます。そして、神様はイスラエルを守るために、その度に士師と呼ばれる神様に遣わされたリーダーを遣わします。しかし、それでも懲りない。これが何度も何度も繰り返されます。イスラエルの民はその士師の言葉に耳を傾け、悔い改めるということをしなかった。イエス様が、「だが、お前たちは応じようとしなかった。」と続いて告げられている通りです。
 イエス様は、「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者」と言います。これは前回見ました35節の「ゼカルヤの血」を思い起こせば分かるでしょう。神の都でありながら神様に従おうとせず、神様から遣わされてきた者たちを退け続けてきたエルサレム。これがどうして神様の裁きを受けずに済むだろうか。38節「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」とイエス様は言われます。これは、先ほどエレミヤ書6章6~8節をお読みしましたが、ここでエレミヤは「エルサレムに対して攻城の土塁を築け。彼女は罰せられるべき都」と告げ、「エルサレムよ、懲らしめを受け入れよ。さもないと、わたしはお前を見捨て、荒れ果てて人の住まない地とする。」と告げたことと重なります。このエレミヤの預言通り、エルサレムはバビロンによって滅ぼされました。紀元前587年のことです。イエス様は、あのバビロン捕囚の時と同じようにエルサレムは滅びてしまう、と預言されたのです。そして、このイエス様の預言は、紀元後70年にエルサレムがローマによって滅びることによって成就されることになります。イエス様はそのことを知っているが故に、「エルサレム、エルサレム。なぜ分からないのだ。」と言って嘆かれたのです。これが23章において、イエス様が律法学者たちとファリサイ派の人々に対して語られたことのまとめです。

5.目に見えるものは滅びる。
律法学者たちやファリサイ派の人々にとって、エルサレムとエルサレム神殿は、決して破壊されることなく未来永劫栄え続けるはずのものでした。そうでなければならないものでした。なぜなら、神様がそこに御臨在されているはずだからです。しかし、そんなことはないのです。どんなに立派であっても、どんなに荘厳で豪華絢爛なものであっても、それが未来永劫栄え続けるなどいうことはあり得ないことです。未来永劫栄え続けるのは神様だけなのであって、目に見える如何なるものもこの神様と同じにはなり得ないからです。まして、自分たちが律法を守り、いけにえを捧げているのだから、神様はこの神殿におられ、エルサレムを守ってくださるなどということは、神様を自分たちを守る道具にしてしまっているだけでありましょう。神様は天におられ、まことに自由なお方です。
 エルサレム神殿を最初に建てたソロモンはそのことをよく弁えておりました。少し長いのですが、ソロモンが神殿を建築したときに捧げた祈りの一部を読んでみましょう。列王記上8章27節以下です。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。」(列王記上8章27~30節)神様は天におられて、エルサレム神殿で捧げられた祈りを聞いてくださるのです。エルサレム神殿に住んでおられるわけではありません。ソロモンはそのことをはっきりと弁えておりました。ところが、いつの間にかエルサレムの人々は、神殿があるからエルサレムは大丈夫だ、神様は神殿におられるから自分たちは守られる、滅ぼされることはないと思い始めてしまった。これは人間の「目に見えるものを頼る」という罪がついつい頭をもたげてきたということでしょう。
 このことは、預言者エレミヤがバビロン捕囚の前に、ユダの人々に対して「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。」(エレミヤ書7章4節)と告げたことを思い起こさせます。バビロン捕囚の前、エレミヤは悔い改めを求めましたけれど、エルサレムの人々はそのエレミヤの言葉を聞かず、「自分たちにはエルサレム神殿があるから大丈夫だ。」そう言って、はばからなかったのです。しかし、エレミヤは、それはむなしい言葉だ、偽りの言葉だ、こんな言葉を頼りにしてはいけない、と告げた。それは生ける神様を信頼するのではなく、目に見える神殿を頼りにすることだからです。
 神殿を頼るということは、神様の御前においてさえ「自分は正しい」という所に立つ罪と同じように根が深い。いや、根っこは同じではないかと思います。イエス様はそれではダメなのだと告げられたのです。頼るべきお方は、ただ神様だけ。私共が救われるのは、ただ神様の憐れみによるだけ。私共がどんなに立派な神殿を建てようと、それが私共の救いを保証することには全くなりません。それは、教会とて同じことです。世界遺産になろうと、世界の人々がどんなに賞賛しようと、目に見えるものはやがて朽ちていくのです。例外はありません。誤解のないように申し上げますが、私は「目に見える礼拝堂などどうでも良い」と言っているわけではありません。地上に生きる以上、私共は目に見えるものを必要としていますし、大切にしていかなければなりません。しかし、それを誇り、それを頼りとするとなれば、それは違うということです。
 永遠に滅びることなく栄え続けるのは、父なる神様と子なるイエス様と聖霊なる神様だけです。そして、「唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会」、キリストの体である教会も滅びることはありません。目に見える礼拝堂は朽ちていくでしょう。歴史的な制度としての教会は無くなったり、合同したり、分裂したりしていくでしょう。そして私共の肉体もやがては朽ちていくでしょう。しかし、キリストの体である教会は朽ちることも滅びることもなく、建ち続けます。なぜなら、本当の終わりの時を迎えるために、新しい神の民として建てられているのが「キリストの体なる教会」だからです。

6.これでは終わらない
さて、イエス様はエルサレムの町、エルサレム神殿が滅び、荒廃していくことを預言されました。確かに、その預言は実現されました。しかしここで、もっと大切なことをイエス様は告げられました。39節です。「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」と告げられました。この「『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うとき」とは、いったい何時のことなのか。どう見ても、エルサレムがイエス様を「主の名によってこられる方」、つまり救い主、メシアと信じ、この方のために祝福を願うということなど、とても起きそうに無いと思われるでしょう。しかし、そのような時が来るのです。それは、イエス様が再び来られる時です。終末の時です。その時にはエルサレムに代表されるユダヤ人もイエス様を信じる者とされ、再び来られたイエス様と相まみえることとなるのです。イエス様はエルサレムの滅びだけを見ているのではありません。エルサレムに代表されるユダヤ人たちにも救いに与る日が来ることを見ておられ、預言しておられるのです。神の民イスラエルの象徴であるエルサレムの滅びは、神様の懲らしめのためであって、永遠に滅ぼす為ではないからです。これは、とても大切な点です。目に見えるものがすべてではありません。確かに、目に見えるものは滅び、朽ち果てていきます。しかし、それは本当の終わりではありません。エルサレムは紀元後70年に陥落し、瓦礫の山となり、廃墟と化しました。しかし、それが終わりではありませんでした。今もエルサレムはあります。エルサレムはその後も何度も滅ぼされましたけれど、再建され、今も建っています。

7.本当の終わりに向かって
 イエス様が、エルサレムが滅ぼされること、エルサレム神殿が崩壊することを告げられた理由は何よりも、もう少しでエルサレムにおいてイエス様が十字架に架けられて殺されることになるからです。神様が遣わされた決定的に重大なお方、神様の独り子である主イエス・キリスト。この神の御子であるお方を受け入れず、どうして神様の赦しに与ることが出来るのか。この方を愛することなく、どうして神様との愛の交わりを持つことが出来るのかということなのです。
 キリスト者は他の人に比べて立派だとか、信仰深いとか、愛があるとか、人格者であるとか、そんなことは全くありません。そんなことを思っているのは、教会の外の人たちだけではないかと思います。キリスト者とそうでない人の違いは、キリスト者は自分が赦されなければならない罪人であるということを知っているということです。知っているから、神様に赦しを求めるのです。そして、そこで十字架のイエス様と出会い、神様とのお交わりに与ります。神様に赦しを求めることなく、十字架のイエス様に出会うことはありません。イエス様に出会うことなく、イエス様をわが主、わが神と拝むことも起きません。そして、この方を信頼して歩むことなくして、この方が一切の悪しき力から自分を守ってくださってきたし、守ってくださっているし、これからも守ってくださるということは分かりません。しかし、私共は知っています。だから、この方に委ねるということを学びます。私共はこの方の守りの御手の中にあるから、たとえ嘆きの川を渡ることがあったとしても、これですべてが終わるわけではないということを知っています。そして、やがて本当の終わりが来るということも知っています。だから、私共から希望の光が消え去ることはありません。私共はその日を待ち望みつつ、今為すべきことを、出来るように、精一杯神様の御前に為していきたいと思うのです。

祈ります。

 恵みに満ち給う全能の父なる神様。
あなた様は今朝、私共を御前に集わしめ、永遠から永遠まで変わることなくすべてを御支配され、本当の終わりに向かって導いておられることを教えてくださいました。私共もそこに向けて、一日一日をあなた様の御前に歩む者です。どうか、私共が目に見える事柄を越えて、あなた様の変わることなき愛と恵みとに信頼し、主が再び来られる日を目指して歩むことが出来ますように。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン

[2020年7月12日]