日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

伝道記念礼拝説教

「人の子は再び来る」
ダニエル書 7章9~14節
マタイによる福音書 24章15~31節  

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今朝は伝道開始記念礼拝です。週報に記してありますように、139年前、1881年(明治14年)8月12日~14日の三日間、トマス・ウィン宣教師の一行が旅籠町の山吹屋という家で説教会を開いたのが私共の教会の伝道開始の時です。このことを記念して、私共は8月の第一の主の日を伝道開始記念礼拝として守ることにしています。今日の礼拝では、信仰告白を「日本基督教会 信仰の告白」(1890年)を用います。
 伝道開始は1881年なのですが、教会創立となりますと、いつの時点を起点とするか幾つかの理解の仕方があるかと思います。伝道開始の3年後、1884年(明治17年)の惣曲輪講義所の開設を起点とするのか、この場合は創立136年となります。また、伝道開始から31年後、1912年(明治45年)の伝道教会となった時を起点とするのか、この場合は創立108年となります。旧日本基督教会時代、つまり1941年(昭和16年)に日本基督教団が成立するまでですが、それまで私共の教会は残念ながら独立教会になることは出来ませんでした。旧日本基督教会において講義所というのは、定期的に集会が開かれ、定住の伝道者もいるけれど自前の会堂を持たない、開拓伝道の最初の段階です。講義所から伝道教会になるのは、自前の会堂があり、信徒の数もある程度あり、教会として組織出来る段階です。しかし、まだ中会などから援助受けなければ立ちゆかない教会のことです。ですから、私共の教会は、属していた浪花中会から派遣される伝道者たちによって伝道が続けられておりました。

2.北陸伝道の一環として
 今朝、私共が覚えたいことは、私共の教会の始まりは私共の教会単独で為されたのではなかったということです。最初がトマス・ウィン宣教師一行による説教会から始まったことからも分かりますように、富山の人たちがある時キリストの教会を建てようと決心して、みんなで力を合わせて建てたということではありませんでした。139年前、この富山には一人のキリスト者もいなかったのですから、教会を建てて伝道していこうなどいうことが、富山人の中から生まれてくるはずがありません。
 トマス・ウィン宣教師は米国北長老教会の宣教師でした。つまり、米国北長老教会の人たちが日本伝道のために献金をし、宣教師を立て、そしてトマス・ウィン宣教師を送ってきたのです。彼は1878年1月にサンフランシスコから32日間の船旅をして、妻イライザと共に横浜に着きました。そして、在日長老教会宣教師団の指導者であったジェームス・ヘボン(この人がヘボン式ローマ字を作った人であり、英和辞典・和英辞典を作った人であり、明治学院を作った人であり、横浜指路教会を設立するのに大きな役割を果たした人でした)、彼に日本伝道のための研修を受け、来日してから1年半後の1879年(明治12年)10月に金沢に来ました。石川県中学師範学校(後の第四高等学校)の英語と理科の教師として招かれて来たのです。一人で来たのではありません。妻のイライザ、そしてツルー婦人(この人は女性宣教師で、やはり石川県中学師範学校で1年間英語を教えました)、それと二人の日本人が一緒でした。一人は林清吉、彼は明治学院で学んでいた「伝道見習い」でしたが、通訳として一緒に来ました。彼は、私共の教会の2代目の定住伝道者となりました。彼は富山・高岡そして福井・敦賀においても伝道した、北陸伝道において忘れることの出来ない伝道者の一人です。それともう一人、出口清子です。彼女はこの時はツルー婦人の通訳として来たのだと思いますが、後に婦人伝道者となりました。
 私共にとってトマス・ウィン宣教師は忘れることの出来ない伝道者ですけれど、彼は一人で伝道したのではありません。トマス・ウィン一行が金沢に来てから5年後の1884年(明治17年)にはメリー・ヘッセルが遣わされて、翌年に金沢女学校(現在の北陸学院)が創設されました。イライザ夫人は孤児院を開きました。彼自身は2年ほど石川県中学師範学校で教えましたが、それを辞してすぐ1882年(明治15年)に愛真学校という私立男子中学校を開きました。そこにはジェームス・ポーター宣教師が遣わされました。さらに、その妹フランシナ・ポーターが遣わされ、彼女は1886年(明治19年)に英和幼稚園(現在の北陸学院第一幼稚園)を開校しました。次々と宣教師が送られ、伝道が展開されました。
 しかし、彼らは金沢での伝道だけを考えていたわけではありません。トマス・ウィンが思い描いていたのは、この北陸地方全体を視野に置いた伝道でした。その一環として、この富山での伝道も開始されたのです。このことを私共はよく心に刻んでおかなければなりません。そして、この志をきちんと受け継いでいかなければならないのです。トマス・ウィンは金沢に着くと、石川県中学師範学校の教師をしながら伝道をし、1880年(明治13年)に金沢教会が設立されました。金沢に来てから1年ほどです。そして、翌年、富山での伝道が為されたわけです。この時の伝道は、富山だけで行われたものではありません。七尾、伏木、高岡、小松などでも行われました。トマス・ウィンはパウロの伝道旅行と自分たちを重ねていたのではないかと思います。
 彼らが講義所を建てていった年代を見てみますと、1884年(明治17年)惣曲輪講義所(私共の教会ですね。最初の伝道者は長尾巻です)。次の年1885年(明治18年)に金屋講義所(現在の金沢元町教会です)、同年小松講義所(現在の小松教会です)、5年後の1890年(明治23年)福井講義所(現在の日本キリスト教会福井宝永教会)、次の年の1891年(明治24年)敦賀津内講義所(現在の敦賀教会)、同年大聖寺講義所(これは廃止されました)、そして次の年1892年(明治25年)高岡伝道館(現在の高岡教会です)。こうして毎年のように次々と講義所を開設し、富山・石川・福井に伝道を展開したのです。福井ではフルトン宣教師が遣わされて、先ほどお話ししました林清吉と共に伝道を展開しました。私共の教会の出発は、このような北陸伝道という視野の中で展開されたのであり、それは更に日本伝道、アジア伝道という視野の中で為されたものでありました。ですから、私共はこの富山鹿島町教会の事だけ考えて歩むなどということは出来ないのです。

3.福音は全世界へ
 私共の教会の伝道が開始された19世紀。それはキリスト教の伝道の歴史において、実に大いなる時代でした。文字通りの世界伝道が展開された時だったからです。それはアメリカにおいて起きたリバイバル運動の延長と見ることが出来ます。今、リバイバル運動についてお話しする暇はありませんけれど、西部開拓時代、東部13州で始まったアメリカ合衆国は西へ西へと開拓されていきます。それに伴い、教会も西へ西へと伝道を展開していきました。西部開拓時代は太平洋に達することで終わりを告げます。しかし、西へ西へと展開されていった伝道への熱は太平洋を越えて、アジアへと向かいました。この伝道の一環として私共の伝道は開始されました。
 その伝道へと導いた御言葉は、勿論、イエス様が復活されて弟子たちにお告げになったあの伝道命令、マタイによる福音書28章18~20節「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この御言葉であることは間違いありません。皆が、この復活のイエス様の言葉を自分に告げられた言葉として聞いたのです。若者は宣教師となり、年老いた者たちは献金をもって彼らを送り出しました。そして、もう一つの御言葉がありました。先週受けました御言葉の最後の言葉、24章14節「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」です。この御言葉は、人々を伝道へと導くと共に、その眼差しを「終わり」へと向けさせました。この「終わり」とは、終末のことです。救いの完成の時、イエス様が再び来られる時のことです。終末信仰がしっかりと受け止められ、人々はこの地上での栄誉よりももっと輝きに満ちた栄光を求めて、世界伝道へと導かれていったのです。この終末信仰がはっきりしませんと、私共はこの地上における、目に見える幸いから、或いは将来の現実的な不安から、離れることは出来ません。まして、神様の御業にお仕えすることを何よりの喜びとする者として生きることは出来ないでしょう。
 この伝道開始記念礼拝の備えのために、私はトマス・ウィン宣教師の説教を少し読み返しました。そして、そのことがはっきり分かりました。イエス様が神の独り子であること、イエス様が私のために十字架に架かってくださったこと、復活されたこと、私の主であること、生きて働いておられること、聖書の言葉を完全に信頼していること、そのような信仰の骨格が明確であることは勿論のことですが、終末に向けて自分に与えられた時を用いていく、この健やかな終末信仰が明確であることが分かりました。

4.健やかな終末信仰
では、私共を生かす健やかな終末信仰の大切な点はどこにあるのでしょうか。それは、イエス様が再び来られるということです。マタイによる福音書の24~25章は小黙示録と呼ばれ、終末についてイエス様がお語りになったことが記されている所です。終わりの時とか終末の時と言いますと、何かとんでもなく恐ろしいことが起こる、世界が滅びる、そんなイメージを持っている方もおられるかもしれません。しかし、このようなイメージでは、私共を生かし、支え、導く、希望に満ちた、健やかな終末信仰は成りません。今朝与えられている御言葉には、30節b「 人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」と記されています。イエス様が再び来られる。これが私共の終末信仰の大切な所です。核戦争によって、或いは隕石が地球に衝突して、終末が来るのではありません。終末はイエス様と共に来るのです。
 イエス様が再び来られる。それは神の国を完成させるためです。イエス様がすべての者の主となられるためです。神様に対しても、隣り人に対しても、自然に対しても、この世界もそこに生きる人も完全に罪から解き放たれ、神様の御心を完全に行うことが出来る世界とするためです。人は神様に対しても、隣り人に対しても、自然に対しても罪を犯しています。自分が主人であるかのように思い違いをしているからです。しかし、イエス様が再び来られる時、すべてが変わります。私も、世界も、すべてが変わる。全く新しくされます。そして、私共は完全な神様との交わりを回復するのです。アダム以来失われていた神様との完全な交わりです。罪を犯す前、アダムは神様と相見えることが出来ました。しかし、罪を犯し、エデンの園から追い出された人間は、神様を見ることも出来ず、神様から離れ、自分が自分の主人、世界の主人であるかのように思い違いをしてしまったのです。そのような私共のために、神様は独り子イエス様を与えてくださいました。イエス様は、そのような私共のために御自ら十字架の上で犠牲となられ、私共の身代わりとして罪の裁きを受けられ、神様との交わりを回復する道を拓いてくださいました。しかし、この地上にあって、私共と神様との交わりは完全なものとされていません。隣り人との関わりにおいても、完全に罪を犯さなくなったわけでもありません。私共は救われましたけれど、その救いはまだ完成されてはいません。イエス様が再び来られる時、その救いが完成するのです。神様との交わりが、完全なものとなるのです。隣り人との間にも、完全な愛の交わりが完成するのです。互いに愛し合い、支え合い、仕え合う交わりが完成するのです。互いに相手を重んじ、敬意をもって相対し、決して人を見下したりするようなことはない、そのような交わりになるのです。
 使徒パウロは、その時のことをコリントの信徒への手紙一13章12節でこう記しました。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」顔と顔とを合わせて何を見るのか。それは神様、イエス様です。私共は今は神様を一部しか知りませんけれど、その時には神様が私共をはっきり知っておられるように、私共も知るようになる。隣り人との交わりにおいてもそうです。今は私共は他の人の心の中など分かりません。しかし、その時にはお互いに何も隠すことなく、心を開いて、仕え合うことが出来る。何という祝福、何という喜びでありましょう。その祝福が与えられることを信じるが故に、使徒パウロはこうも告げました。フィリピの信徒への手紙3章13節b~14節「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」まさに、イエス様の救いに与り、健やかな終末信仰によって新しく生きる者となった者の姿がここにはあります。トマス・ウィン宣教師をはじめ、この教会の139年の歩みを支えてきた者たちの姿がここにあります。

5.イエス様の再臨はどのように
先ほど申しましたように、このマタイによる福音書24章は小黙示録と呼ばれています。「黙示」とは、隠されている秘密を明らかにするということです。その隠された秘密とは世の終わりに関する秘密です。それはこの地上の世界の延長ではなく、全く新しい世界ですから、表現しようがない。それを何とか語ろうということで、これを表現するためには、空想的とも言える表象を豊かに用いられることになります。ですから、ここに記されていることが文字通り、そのままに起きるということではありません。しかし、はっきりしていることはあります。イエス様が来られることについては、27節に「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。」とあり、30節には「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」とあります。それは、イエス様が再び来られる時、それは世界中の誰もが否定出来ないほどの力と栄光を持って来られるということです。再臨のイエス様によって何が起こるかといえば、この世界が新しくなり、私共の救いが完成し、キリストに似た者とされ、復活の命が与えられるということです。私共が想像する不思議な業とか、奇跡とか、そんな小さなことではないのです。天地がひっくり返る。天と地とが新しくなるのです。アメリカと中国が仲良くなるなどというようなことでもありません。確かに、それは世界史的には大きなことでしょう。しかし、イエス様が来られることによって与えられる新しさとは、そのような現在の世界が少し良くなるという程度のことではないのです。私共に与えられている約束は、イエス様が再び来られる時、私共自身がこの世界と共に全く新しい者になってしまうということなのです。
 このことを弁えていれば、どんな偽メシアや偽預言者が現れても、騙されることはありません。 24節には「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。」とあります。偽メシアや偽預言者は「大きなしるしや不思議な業を行う」のです。でも、それは再臨のイエス様ではありません。再臨のイエス様によって為されることは、人間の想像の範囲内の「大きなしるし」や「不思議な業」といった小さな、つまらないことではありません。稲妻の光は、人が見ようとしなくても、誰にも明らかなように光るでしょう。何か不思議な業が為されて、その評判がどんどん広がって、みんなが認めるようになるということではないのです。あっという間に、一瞬にしてすべての者が悟る。そのようにイエス様は来られます。イエス様と共に、天の御国が来るということです。そして、これが私共に与えられることになっているとするならば、私共は何を恐れることがあるかということです。

6.苦難があっても
 しかし、それでも私共は恐れます。だから、イエス様はイエス様が再び来る前に、「大きな苦難」が来るとも告げて、私共が恐れないように教えてくださったのです。この「大きな苦難」については、少し説明が必要でしょう。
 今朝与えられた御言葉の最初は、「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」と告げられました。これについては、「聖なる場所」とはエルサレム神殿を指し、「憎むべき破壊者が立つ」とは異教の神々が立つということです。つまり、エルサレム神殿に異教の神の偶像が建てられ、これを拝ませられるようなことが起きるというのです。実は、このダニエルの預言はイエス様の時代より200年ほど前、アンティオコス4世エピファネスによって起きました。皆さんも御存知のように、アレキサンダー大王によってギリシア、メソポタミア、エジプト、ペルシア、インドに至る広大な地域が征服されました。しかし、アレクサンダー大王の死後、これは4つの国に分裂します。その一つがセレウコス朝シリアでした。この国にユダヤは支配されます。そして、この国の王様がアンティオコス4世エピファネスでした。彼は自分が支配する地域全体でギリシャ化を強硬に推し進めます。そして、こともあろうかエルサレム神殿にゼウスの像を建てたのです。安息日も禁じられます。当然、ユダヤ人たちは怒り狂います。そこで起きたのがユダ・マカベアによる反乱でした。長い戦いの末、ユダヤは自治が認められるようになりました。
 しかし、イエス様の時代より200年前のことをイエス様が言っているとすれば、変な気がします。それで、これはそうではなくて、イエス様がこのことを語られた40年後、紀元後70年にローマによってエルサレム神殿が破壊され、瓦礫の山となる時のことが言われているのだと言う人もいます。確かにあの時の戦いは熾烈を極めました。ローマ軍はエルサレムを包囲し、半年に及ぶ兵糧攻めをしました。多くのユダヤ人がエルサレムに立て籠もりました。エルサレム神殿があるから大丈夫だと言って、立て籠もったのです。エルサレムの町の中は飢えた人たちで満ち、多くの餓死者が出ました。そして、多くの者が殺されました。エルサレムの町は焼かれました。この時、キリスト者たちはエルサレムを捨てて逃げました。この時のイエス様の言葉、「その時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」との言葉に従ったからだとも言われています。逃げて良いのです。そこで玉砕覚悟で戦わなくていいのです。しかし、このマタイによる福音書が記されたのは、このエルサレム陥落より10年以上後ですから、イエス様が40年後のことだけを指して、このことを告げられたのではないと思います。もしそうであるならば、このイエス様の言葉は私共にとっては過去のことであり、意味が無いことになるでしょう。
 私はこう考えています。教会は、そして人類は、このような「大きな苦難」、つまり22節にあります「神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない」ような苦難を、何度も経験してきたのではないでしょうか。そして、今も経験している。先の大戦もそうですし、その前の大戦もそう。今も世界の各地で続いている戦争や内戦もそう。広島・長崎の原爆もそう。沖縄戦もそう。富山の空襲もそう。「神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。」そういう苦難の時を何度も経験してきた。これからもする。イエス様は「しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。」と告げられました。大きな苦難の時は来る。今までも来たし、これからも来る。しかし、それで終わりではない。本当の終わりは、イエス様が再び来られる時。そして、その時私共の救いが完成し、喜びと祝福に満ちた新しい世界が始まる。その日を信じて、待ち望みつつ、今の時を生き抜け。そうイエス様は言われたのです。

7.私共の教会は建ち続けている
 先の大戦の時、日本中の教会は「もうダメだ。」と思いました。礼拝に来るだけで非国民と呼ばれ、白い目で見られる。礼拝は牧師と家族だけという教会も少なくなかった。私共の教会は1945年(昭和20年)8月2日の富山の大空襲で、会堂を焼失し、戦前の記録はみんな無くなりました。あれからちょうど今日で75年です。でも教会は無くなりませんでした。そして、あの1952年(昭和27年)7月に開かれました7人の出席による伝説の教会総会。3名は二番町教会との合併に賛成し、4名が総曲輪教会として歩んで行くとしたあの時から、私共の戦後の歩みは始まりました。あれから68年。鷲山林蔵牧師、山倉芳治牧師、大久保照牧師、藤掛順一牧師、そして私の、5人の牧師が遣わされてきました。多くの者がここで洗礼を受け、また多くの者がここで葬式をしました。皆、主の日の礼拝のたびごとに御国を仰ぎ望み、主が再び来たり給うを待ち望みつつ、歩み続けてきました。それは、今も、これからも変わりません。私共の歩みが、右にも左にも逸れることなく、雄々しく、御国への歩みを為してくことが出来ますよう、共に祈りを合わせたいと思います。

祈ります。

 恵みに満ち給う全能の父なる神様。
 あなた様は今朝、私共の139年の歩みを思い起こさせ、あなた様の愛と救いの御計画によって、私共の教会が建てられ、建ち続けてきたことを教えてくださいました。ありがとうございます。私共もそのあなた様の北陸伝道、日本伝道、世界伝道の御心を受け止め、イエス様が再び来られる日を待ち望みつつ、為すべき業に励んでまいりとうございます。どうか私共に聖霊を注いでくださり、いよいよ、主の御栄光を現していく教会として、キリスト者として強めてください。信仰と愛と希望と勇気と力を与えてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2020年8月2日]