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礼拝説教

「士師ギデオン ~偶像を倒して~」
士師記 6章1~32節
コリントの信徒への手紙一 10章13~14節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
8月最後の主の日を迎えています。月の最後の主の日は旧約から御言葉を受けていて、今年は士師記から御言葉を受けています。士師記には12人の士師が記されておりますが、その中でもギデオンとサムソンの二人の士師は、割かれている分量も多く、最も有名な士師です。今日はそのうちの士師ギデオンの召命の出来事から御言葉を受けてまいりたいと思います。
 士師ギデオンについては、士師記の中で唯一、神様に召し出された出来事から記されています。勿論、他の士師たちも神様に召し出されて士師として立てられたに違いないのですけれど、これほど丁寧に神様からの召命の出来事が記されているのは、ギデオンだけです。この召命という出来事はその人固有の出来事であって、同じものは二つとありません。けれども、神様の御業に用いられるために神様によって選ばれ、召し出され、立てられるという召命の本質は変わらないわけですから、そこにおいては、ギデオンの召命の出来事もモーセやイザヤやエレミヤといった人々の召命の出来事と多くが重なることになります。神様が御自分の御業の為に用いる者を選び、召し出し、立てる。そこには聖書の神様ならではの、特別な神様のなさり方というものがあるからです。今朝、その神様のなさり方に注目しながら、私共にも与えられている神様の選び、神様の御心・御計画、そして召命ということに対して、改めて気付きを与えられたいと願っています。

2.ギデオンが立てられるまで
 士師記には、①神の民イスラエルの主なる神様に対しての裏切り→②神様の裁きとして他民族によって支配される→③イスラエルの悔い改め・神様に助けを求める→④神様が士師を立てられる→⑤士師によって異民族が退けられる→⑥平和となる。このサイクルが繰り返し記されています。今朝与えられております6章には、ギデオンが士師として立てられるまでのことが記されています。そして、1~6節にはその一連のサイクルの①~③までが記されています。
 まず1節の「イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。」というのは、イスラエルの人々が、自分たちをエジプトから導き上った神様ではない、バアルやアシェラという神を拝んだということです。このバアルやアシェラの神というのは、メソポタミアからシリアの地域一帯で広く信じられていた豊穣・多産を約束する自然神です。バアルは男の神で、嵐と雨の神です。アシェラは女性の神で、多産・豊穣の神、地母神と考えて良いでしょう。イスラエルの民はカナンの地に定着して農耕民となっていく中で、その土地の神をも受け入れていってしまったのです。
 その結果、1節b「主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された。」ということになってしまいました。ミディアン人というのは、聖書の巻末の地図1を見ますと分かりますように、アラビア半島の付け根、アカバ湾を挟んでシナイ半島の対岸あたりにいた人々です。彼らは遊牧民でした。イスラエルの民も元は遊牧民でしたけれど、この頃には家畜は飼いますがすっかり土地に根付いて、土地を耕して生計を立てる農耕の民になっていました。ミディアン人は遊牧民ですから、イスラエルの人々の土地を占領するということはしません。遊牧民は土地には興味がないのです。ではどうしたかといいますと、収穫の時期になりますとやって来て、収穫された農産物を略奪していくわけです。また、羊や牛やろばといった家畜も奪っていきます。或いは、イスラエルの民が畑に種を蒔くのは作物が成長して実りがなるのを待つわけですが、遊牧民にとっては種が芽を出し緑になりますと、それは絶好の牧草地に見えるわけです。彼らは羊や牛の群れをイスラエルの人々の畑に放つわけです。こうして、イスラエルの民は自分の命をつなぐことさえ大変になり、山の中の洞窟や洞穴にしか住めなくなってしまいました。平地には安心して住めないという状態になってしまった。それが2~5節に記されていることです。
 そして6節、遂に「イスラエルは、ミディアン人のために甚だしく衰えたので、イスラエルの人々は主に助けを求めて叫んだ。」ということになりました。「主に助けを求めて叫んだ」とは「主に祈った」ということでしょう。やっとです。彼らはすぐには気付かなかったのです。これがイスラエルの罪であり、愚かさです。しかし、この罪と愚かさはこの時のイスラエルの民だけのことではありません。私共はみんな、この自らの罪に気付き悔い改めるのにまことに鈍いという、罪と愚かさを持っているのでしょう。
神様はこのイスラエルの祈りに応えて、まず預言者を送られました。預言者は、なぜイスラエルがこのようなことになってしまったのかを、神様の言葉として伝えます。それが8節b~10節「預言者は語った。『イスラエルの神、主はこう言われる。わたしはエジプトからあなたたちを導き上り、奴隷の家から導き出した。わたしはあなたたちをエジプトの手からだけでなく、あらゆる抑圧者の手から救い出し、あなたたちの赴く前に彼らを追い払って、その地をあなたたちに与えた。わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちはアモリ人の国に住んでいても、アモリ人の神を畏れ敬ってはならない、とわたしは告げておいた。だがあなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。』」これが預言者によってイスラエルに告げられた神様の言葉です。なぜイスラエルはミディアン人に脅えながら暮らさなければならなくなったのか。その理由ははっきりしています。自分たちをエジプトから導き出された主なる神様を裏切り、アモリ人の神を畏れ敬い、礼拝し、信仰したからです。主なる神様の言葉に従わず、裏切ったからです。神様はそのことをはっきりさせます。それはイスラエルの民が悔い改めるため、主なる神様の御許に立ち帰らせるためです。
 神様はイスラエルの民を見捨てたのではありません。どんな時でも、神様は御自分の民であるイスラエルを愛しています。それはいつも変わりません。私共は新しい神の民です。神様の私共への愛は、どんな時でも変わることはありません。私共が順風満帆に歩んでいるときだけ、私共は神様に愛されているのではありません。どんな時でも愛されています。ただ、私共はしばしばその事が分からなくなります。それが問題です。士師記が問題にしているのは、まさにそのことなのです。

3.ギデオンの召命① ~勇者よ~
 そして、ギデオンが士師として召し出されることとなります。「主の御使い」がギデオンに遣わされます。この時ギデオンは何をしていたかといいますと、「酒ぶねの中で小麦を打って」いました。この「酒ぶね」というのは、ブドウの実を足で踏んで汁を取り出す場所です。深さが1メートル弱で2メートル四方程度の窪みを想像していただけば良いかと思います。ギデオンはどうして「酒ぶね」の中で小麦を脱穀していたのでしょう。それは、「ミディアン人に奪われるのを免れるため」(11節)でした。小麦の脱穀というのは、籾殻を風に飛ばして実だけを下に落とすために、風通しの良い広々とした所でやるのが普通です。しかし、ギデオンはそうしませんでした。狭く小さな酒ぶねの中で小麦の脱穀作業をしていた。それは、ここで脱穀すれば姿が隠れて遠目には見えないからです。小麦が収穫されたこの時期、ミディアン人がいつやって来るか分からなかった。見つかれば小麦を奪われてしまいます。
 主の御使いは酒ぶねの中で小麦を打っていたギデオンに向かって、いきなり「勇者よ、主はあなたと共におられます。」(12節)と告げました。ギデオンはこの時、勇者でも何でもありません。ミディアン人に見つかるのを恐れて、酒ぶねで小麦を打っている者です。ところが主の御使いは、「勇者よ」と呼びかけるのです。呼ばれたギデオンは「はぁ?」という感じだったと思います。彼は自分のことを、勇者だなどとは考えたこともなかったと思います。しかし、主の御使いは「勇者よ」と呼びかけた。それは、神様はギデオンがやがてイスラエルを導く士師として、敵と勇敢に戦い、それに勝利する者、まさに勇者であることを知っていたからです。しかし、この時のギデオンはまだ勇者でも何でもありません。ギデオンも家族の人も、周りの人も、誰もギデオンが勇者であるなどとは思っていません。しかし、神様は御存知でした。それ故「勇者よ」と呼びかけたのです。
 それは私共とて同じことです。私共は自分たちが勇者であるなどと考えてはいないでしょう。私共は、自分の明日を知りません。しかし、神様は御存知です。私共も勇者と呼ばれたなら、「何を言っているんですか。私はただの弱虫です。」と答えるでしょう。しかし、神様が私共を「勇者よ」と呼ばれるとすれば、正しいのはどちらなのでしょうか。自分で自分を評価した姿、あるいは周りの人が私のことを評価した姿、それが本当の私の姿なのでしょうか。それとも、神様だけが知っている、神様の御手の中にある明日の私の姿。どちらが正しいのでしょうか。
 主の御使いがギデオンに対して「勇者よ」と告げたのは、将来そのようになるからであるに違いありませんが、それはギデオンが誰よりも勇気があり、知恵に満ち、人々を統率する才能に溢れた者だったからではありません。主の御使いははっきり、「主はあなたと共におられます。」と告げるのです。ギデオンが勇者と呼ばれるのは、主が共にいてくださり、事を起こしていってくださるからです。それ以外に理由はありません。実は、私共も勇者なのです。主が私共と共にいてくださるからです。私共が自分をどう評価していようと、そんなことは関係ありません。主が共にいてくださるが故に、私共は勇者なのであり、勇者となっていくのです。キリスト者とは皆、信仰における勇者なのです。

4.ギデオンの召命② ~ギデオンの問い~
さて、ギデオンは主の御使いに「勇者よ、主はあなたと共におられます。」と告げられて、すぐに「はい、分かりました。」と主の言葉を受け入れたでしょうか。そうはなりませんでした。ギデオンはまず、神様に疑問をぶつけるのです。13節b以下に記されていますが、要するにこういうことです。「主なる神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜミディアン人からこんな目に遭わせられているのか。神様が先祖をエジプトから導き上ったとしても、それは遠い昔のことで、今は何もしてくださらない。神様は私共を見捨てたのではないか。だからミディアン人からこんな目に遭わせられているのではないか。」というものでした。このような問いを私共は誰でも知っています。人生の中で困難な状況に陥る時、私共はこの時のギデオンと同じ問いを持つからです。「神様なんているのか。」「神様が愛してくださっているというのは本当なのか。」「本当なら、どうして自分はこんな目に遭うのか。」ギデオンが特に不信仰な者であったというのではありません。彼の置かれていた状況がそれほどまでに厳しいものであったということでしょう。
 しかし、この問いに対して神様はお答えになりません。それどころか「あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(14節)とお告げになります。これは、神様がギデオンに対して、「神様は自分たちを見捨てたのではないか、神様が共におられるなんて嘘ではないかというあなたの問いは、あなた自身がミディアン人と戦い、わたしに遣わされた者として勝利し、イスラエルをミディアン人の手から救う、それを実際にやることによってしか確かめることは出来ない。」そうお答えになったということなのではないでしょうか。神様の愛、神様の真実、神様の力、それを私共が確認するには、実際に神様の御言葉に従って、神様の御業に仕えてやってみるしかないのです。そこで確認するしかない。
 これは、「祈ることは私共の信仰の力となります。」とか「主の日の礼拝に繋がることが神様との交わりには必要です。」と幾ら言われても、実際に自分でやってみなければいつまで経っても分からないのと同じです。信仰とはそういうものです。

5.ギデオンの召命③ ~わたしは弱く小さいのです~
 ギデオンはこの神様の御言葉に対して、弱音を吐きます。弱音と言うよりも、ギデオンの正直な思いでしょう。「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」(15節)「あなたはイスラエルを救い出す。」と神様に言われても、「そんな力はわたしにはありません。自分の一族だってマナセ族の中で最も貧弱だし、わたしは家族の中でいちばん年下の者です。どうして、そんな大それたことが出来ましょう。」そうギデオンは言うのです。このギデオンと神様とのやり取りは、モーセが神様に召し出された場面と重なります。モーセは「わたしが神様に遣わされたと言っても、誰も信じないでしょう。」とか、「わたしは口が重い者です。」とか、色々理由をつけてはイスラエルをエジプトから導き出すという大役から逃れようとします。エレミヤもそうでした。神様から預言者としての召しを受けた時、エレミヤは「ああ、我が主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」(エレミヤ書1章6節)と言いました。主の御使いはギデオンに「勇者よ」と呼びかけましたけれど、ギデオンは少しも勇者なんかではなかったのです。神様が用いられる人で、最初から勇者である人なんていません。神様の御業に用いられることから、出来れば逃げたいと思う。みんなそうなのです。自分の中にそんな力は無いからです。
 しかし、このギデオンに対して神様は「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる。」(16節)と告げるのです。ミディアン人は何万人もいるのです。しかし、一人の人を倒すように倒せると神様は言われます。それは、「わたしが共にいるから」です。主が共にいてくださり、事を起こしてくださり、道を開いていってくださるからです。ここに立たなければ、神様の御業に仕える者として立つことは出来ません。自分の中には知恵も力も勇気も自信もない。それで良いのです。逆に「自分には力がある。自分は出来る。」と思う人は、思い上がっているに過ぎません。このような人は、神様の栄光ではなく、自分の栄光を求めるでしょう。神様の御業に仕えるのではなく、自分の業をするだけでしょう。私共は弱く小さくて良いのです。主が共にいてくださり、事を起こしてくださる。それがすべてなのです。

6.ギデオンの召命④ ~神を試みる~
 ギデオンはここで神様を試みます。主の御使いが本物であるかどうかを試すために、パンと肉と肉汁を捧げます。御使いは、肉とパンを岩の上に置かせ、肉汁をそれに注がせます。そして、御使いは持っていた杖の先を差し伸べ、肉とパンに触れると、岩から火が燃え上がり、パンと肉を焼き尽くし、主の御使いは消えてしまいました。このことにより、ギデオンは、今までのやり取りが主の御使いとなされたものであることを悟りました。
実は、今日お読みした箇所の後で、いざミディアン人たちと戦うという段になって、ギデオンは神様に二つの徴を求めます。本当に神様が自分を用いてイスラエルを救おうとされているならばこの徴を与えてください、と神様に願ったのです。一つの徴は、「羊一匹分の毛を置きますから、羊の毛にだけ露を置き、土は全く乾いているようにしてください。」というものでした。神様はその通りにしてくださいました。それで終わりではありません。ギデオンは、次にその逆のこと、「羊の毛だけが乾いていて、土は一面露で濡れるようにしてください。」という徴をも神様に求めたのです。神様は、ギデオンが求めたように徴を与えてくださいました。
 ここには、ギデオンが神様を試み、徴を求め、神様はそれを受け入れてくださったことが記されています。「こんな風に神様を試みて良いのか。」そう思われる方もおられるのではないかと思います。私も正直なところ、どうかと思います。この時、神様は「思い上がるな。お前は自分が何者だと思っているのか。」そうギデオンに怒りを発せられても仕方がないと思います。しかし、神様はそうはされませんでした。ギデオンの求めに応えてくださいました。モーセの召命の時もそうでした。しかしだからといって、「神様をこのように試みても良いのです。」とは言えないでしょう。イエス様は悪魔によって荒野で試みを受けた時、「あなたの神である主を試してはならない。」とお答えになって、悪魔の誘惑を退けられました。このような「○○をしてくれたら信じる」という信仰のあり方は、とても危険なのです。悪しき霊は、私共の魂を捕らえるためならば、奇跡であろうと為すでしょう。「○○をしてくれたら信じる」というのは、私が主人であり、私の願いを叶える神様は僕ということになってしまうでしょう。このような信仰のあり方を、偶像礼拝というのです。偶像礼拝の本質は、自分の願いを神様に叶えてもらうために信じるということです。どこまでも大切なのは「自分の願い」であって、神様ではない。自分の願いを叶えてくれるならば、それが神様であろうと悪魔であろうとかまわない。それが偶像礼拝です。
 私共は神様を試みません。徴を求めません。なぜなら、私共はイエス様の十字架と復活を知っているからです。イエス様の十字架と復活を知っているということは、神様の愛、神様の力、神様の真実を試す必要はなくなったということだからです。「イエス様の十字架と復活」以上の徴なんてないからです。旧約を読む場合、神様に選ばれた人がやっていることだから、彼らの行ったことはすべて正しい、と考えることは間違いです。そもそも、旧約に「完全に正しい人」なんて一人も出て来ません。神様に選ばれた人を用いて神様がなさったこと。それが正しいことなのであって、人がやることはいつでも欠けがあり、問題があるのです。

7.バアルの祭壇を壊す
さて、このようにして神様に召し出されたギデオンに対して神様が最初に求めたことは、「あなたの父のものであるバアルの祭壇を壊し、アシェラ像を切り倒し、その像を薪にして、主なる神様に雄牛を犠牲として献げよ。」というものでした。バアルの祭壇はギデオンの父のものであったというのですから、バアル信仰はそれほどまでにイスラエルの人々の間に浸透していたということでしょう。ギデオンは神様の御命令に従います。しかし、彼はまだ勇者ではありませんので、父の家族と町の人々を恐れて、夜中にこれを行いました(27節)。次の日、町の人々が起きると、バアルの祭壇が壊されており、アシェラ像も切り倒されていました。当然、町の人々は「一体誰がこんなことをしたのか。」と騒ぎます。小さな町での出来事ですから、すぐに犯人は分かりました。そこで町の人々は、ギデオンの父ヨアシュに「息子を出せ。息子は殺さねばならない。」(30節)そう迫ります。ここでギデオンの父ヨアシュはどうしたでしょうか。
 ヨアシュは自分の家にバアルの祭壇を築いていたほどでした。彼は、主なる神様のみを我が神とするという、十戒の第一戒を破っていた者でした。しかし、彼はこの時、我が子ギデオンの行為により、バアルを取るのか、主なる神を取るのかを迫られました。バアルを取るならば、息子を町の人々に引き渡さなければなりません。当然、息子は殺されることになる。しかし、主なる神様に立ち帰るならば、息子ギデオンを守ることが出来る。彼はこの時、決定的な決断を迫られて、やっと主なる神への信仰に立ち帰ることが出来たのです。ヨアシュは町の人々に向かって言いました。「あなたたちはバアルをかばって争うのか、バアルを救おうとでもいうのか。」(31節)これは、「お前たちは、バアルの民なのか、主なる神の民なのか。思い出せ。我々は、先祖をエジプトから導き出された主なる神の民ではないか。バアルをかばうのか。バアルを救うのか。それは本末転倒ではないか。バアルが神なら、バアルが我々を守るのであって、我々がバアルを守るものではない。」ということでした。更にヨアシュは、「もしバアルが神なら、自分の祭壇が壊されたのだから、自分で争うだろう。」と告げます。これは「バアルが神なら、どうしてお前たちに守ってもらわなければならないのか。バアルが神なら、バアルの神自身が戦い、ギデオンを打つだろう。」ということです。ヨアシュは、このように町の人々に宣言し、息子ギデオンを守ったのです。彼は息子ギデオンを守っただけではありません。息子の命懸けのこの行為によって、彼自身が主なる神様への信仰へと立ち帰らせていただいたのです。きっとこのことを機会に、ヨアシュの妻も、ギデオン以外の子どもたちも、ヨアシュと同じように主なる神様への信仰に立ち返ったことでしょう。これが、ギデオンが士師として召し出されて、最初に起きた出来事でした。
 ギデオンはこれからイスラエルの民を導いて、勇者ギデオンとしてミディアン人と戦うことになっていきます。そして、イスラエルを神の民へと連れ戻すことになります。神様はその最初に、ギデオンの父を、また家族を、神様の御許に取り戻させたのです。信仰の歩みにおいて、家族はとても大切です。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒言行録16章31節)との御言葉があります。私共はイエス様の救いに与りました。この救いはもっと大きな救い、すべての者の救い、日本の救い、富山の救い、そして私の家族の救いという御計画の中で与えられたものだということなのです。私の救いは、私だけの救いで終わりません。それが神様の御心です。私共が神様に召し出され、神様の民としての歩みを為していくならば、きっと神様は私共の家族もまた救いへと導いてくださるでしょう。そのことを私共は信じて良いのです。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
 今朝、あなた様はギデオンの召命の出来事を通して、私共もあなた様によって召し出され、あなた様の御業に仕える者とされていることを、改めて教えてくださいました。あなた様は取るに足らない私共を愛してくださり、御子イエス・キリストを与えてくださいました。感謝します。どうか私共があなた様が共にいてくださるが故に、信仰の勇者として歩んでいけますよう、どうか私共を強くしてくださり、あなた様の御心のままに用いてください。
 私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2020年8月30日]