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礼拝説教

「最も小さな者に」
箴言 14章31~35節
マタイによる福音書 25章31~46節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 マタイによる福音書を読み進めて来まして、今日の御言葉で25章が終わります。24章・25章はオリーブ山の説教とも呼ばれ、終末についてイエス様がお語りになったことが記されています。ほぼ2ヶ月にわたって、私共は終末についてのイエス様の御言葉を受けてきたわけです。今、その一つ一つを振り返ることはいたしませんけれど、終末において何が起きるのかということは、はっきりしたと思います。勿論、映像で見るように具体的に知らされているわけではありません。しかし、イエス様が栄光と権威をもって再び来られること。すべての者に対しての裁きが行われること。神の国の完成・私共の救いの完成がもたらされること。そのことは、はっきり心に刻まれたことと思います。私共はこの地上の生涯を、やがてイエス様が再び来られることを前提として、その日を待ち望みつつ、その日に向かって生きる。これがキリスト者の生き方を特徴付けるものなのです。

2.イエス様は再び来て裁かれる
さて、今朝与えられている御言葉は「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。」(31節)と始まっています。「人の子」というのは、イエス様が御自身のことを言われる場合に用いられる言葉です。つまり、イエス様御自身が「わたしは栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る」と言われたわけです。神様の栄光、神の御子の栄光をもって来る。その時には天使たちを皆従えて来ると言われました。イエス様が天使たちを従えて来ると言われたのは、それは5人10人の天使ではありません。「皆従えて来る」のですから、それはすべての天使を従えて来るということです。ですから、それは天を埋め尽くすような、数えることなど出来ないほどのおびただしい数の天使たちを従えて来られるということです。その光景は想像するだけでワクワクいたします。
 そして、再臨されたイエス様は「栄光の座」に着かれるというのです。この栄光の座というのは、神様がお座りになる玉座のことでしょう。また、すべての人間を裁かれる方がお座りになる裁きの座ということでありましょう。イエス様は、34節で自らを「王」としてお語りになります。栄光に輝く玉座に座られる王です。そして、イエス様はすべての国の民を「羊飼いが羊と山羊を分けるように、… 羊を右に、山羊を左に置く。」というのです。ここで裁かれるのは「すべての国の民」です。ですから、イエス様によって裁かれるのは、キリスト者だけではないと考えて良いでしょう。すべての民、すべての人です。
 ちなみに、羊飼いが羊と山羊を分ける光景は、当時のユダヤ人たちには馴染みのある光景でした。羊と山羊は、昼間は一緒に放牧されているのですが、夕方になりますと、それぞれ別の小屋に入れられます。その時、羊と山羊とが分けられるわけです。人々はその光景を思い起こしながら、このイエス様の話を聞いたに違いありません。
 この話では、羊を右、山羊を左に分けられます。右に分けられた羊は、神様の御国を受け継ぎ、救いに与る人たちです。王様はこの人たちに、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」(34節)と言われます。一方、左に分けられた人たちは、永遠の罰を受けることになります。王様は彼らに、「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。」(41節)と言われるというのです。そうすると、右の人たちはキリスト者で、左の人たちはキリスト者ではない人、そういうことであれば話は簡単なのですが、イエス様はそのようにお語りになったのではありません。
 どういう人が右に分けられ、どういう人が左に分けられるのか、それが今朝与えられた御言葉の一番大切なポイントです。

3.イエス様の裁きの基準
イエス様は右に分けられた人たちにこう告げました。35~36節「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」逆に、左に分けられた人たちにはこう告げました。42~43節「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。」
 これを読めば、イエス様の裁きの基準ははっきりしています。イエス様は「わたし」に何をしてくれたか、何をしてくれなかったかと言われるわけです。イエス様に対してどうしたのか、イエス様とどう関わって生きてきたのか、それが問題なのだということです。ところが、話はそれ程簡単ではありません。なぜなら、右に分けられた人、すなわち永遠の救いに与る人も、左に分けられた人、すなわち永遠の罰を受ける人も、自分たちがイエス様にそのようなことをしたという自覚が全く無いからです。
 右に分けられた人は、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」と主に言われても、「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」と言います。つまり、私にはさっぱり身に覚えがありません、と言うのです。イエス様が栄光に輝く姿で来られたのなら、間違いなく覚えていたでしょうし、その時イエス様に何をしたかも覚えていたはずです。
 左に分けられた人も同じです。主に「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。」そう言われても、こちらもやっぱり身に覚えがありません。ですから、「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。」と言うのです。身に覚えがないのです。「第一、会ってもいないではありませんか。」と言いたかったのだと思います。
 それに対してイエス様は、右に分けられた人たちには「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と言い、左に分けられた人たちには「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」そう言われるのです。この「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」というのは、「飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢に入れられていた人」のことなのでしょう。

4.最も小さい人と一つになられたイエス様
ここでイエス様が言われた「飢えていた人、渇いていた人、旅をしていた人、裸の人、病気の人、牢に入れられていた人」というのは、とにかく困り果てた状態にいる人です。助けを必要とする人であり、弱り果てた人です。イエス様は、「このような人にしたことはわたしにしたことだ。」と言われました。逆に、「このような人にしなかったのはわたしにしなかったことだ。」と言われた。つまり、「このような最も小さい人がわたしなのだ。」と言われたのです。イエス様は、「わたしとの関わりは、この最も小さい人に手を伸ばしたかどうか、そこに表れる。そして、この事だけが終末における審判の場において問われることなのだ。」と言われたのです。
 確かに、「飢えていた人、渇いていた人、旅をしていた人、裸の人、病気の人、牢に入れられていた人」そのような人がイエス様御自身ということではないでしょう。しかしイエス様は、そのような人たちとわたしは一つなのだ、と言われる。それがイエス様です。これが福音なのです。
 イエス様はどういうお方だったでしょうか。天の父なる神様の御許におられたのに、人間として地に降って来られました。それも馬小屋で、大工の子としてお生まれになりました。そして、私共のために、私共に代わって一切の罪の裁きをお受けになるために犯罪人として十字架にお架かりになり、死なれました。天の高きから、地の最も低いところに下られた。それは、どんな低きに生きる者とも一つになられるためでした。どんな小さい者よりも小さくなって、その者とも一つになるためでした。私共が洗礼を受けたということは、このイエス様と一つにされたということです。それが救われたということです。このイエス様と一つにされたことを最もはっきり表しているのが、キリストの体と血とに与る聖餐です。イエス様は誰よりも低きに下り、誰よりも小さくなられ、どんな人とも一つになろうとされました。それは、罪の泥沼の中であえいでいる一人ひとりを御自分の両手で抱き取り、その罪の泥沼から救い出すためでした。
 ここで私共は、この「最も小さい者」が私自身であるということをきちんと受け取らなければなりません。確かに、私共は今、誰かの助けの手を必要としている状態にいるわけではないかもしれません。しかし、今までも困り果てた時はありましたし、これからもあるでしょう。その時私共は、誰かに声を掛けてもらったり、手を伸ばしてもらったり、必要な助けを与えられてきたのではないでしょうか。そして、誰よりも、イエス様御自身が、私共に必要なすべてを備えてくださり、支えてくださり、守ってくださり、私共は一日一日を歩んで来たのでしょう。この困り果てた人、助けを必要とする人、最も小さい人、これがイエス様に助けていただいた、救っていただいた自分自身であるということが分からなければ、このイエス様の言葉がよく分からないのではないかと思います。そして、このことさえ分かれば、イエス様はここで、単純に、「わたしがあなたにしたように、あなたもそのようにしなさい。」そう言われていることが分かると思います。このたとえ話に限らず、イエス様は善きサマリア人のたとえ話(ルカによる福音書10章25節以下)でもそう言われましたし、ヨハネによる福音書15章12節では「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」とも言われました。どうして、右に分けられた人は、弱り果て、困り果てている人に手を差し伸べるのか。それは、自分がイエス様にそのようにしていただいたからです。
 この困り果て、弱り果て、助けを必要とする人、最も小さい人の中に、イエス様を見る。そして自分自身をもその人の中に見る。この眼差しをもって生きるということが、イエス様と共に生きるということなのです。私共の信仰の歩みは、このイエス様と共に生きるということと離れたところにはありません。こう言っても良い。この困り果て、弱り果て、助けを必要とする人、最も小さい人と一つになられたイエス様、そのイエス様の眼差しをもって生きる。それがイエス様と共に生きる、イエス様の福音に生きるということなのです。そして、その歩みだけが最後の審判の時に私共に問われることなのです。

5.小さなことさえ覚えてくださるイエス様
この右に分けられた人たちは、イエス様に、お前たちはわたしに良くしてくれたと言われても、何のことか分かりませんでした。イエス様がその栄光の御姿をもってその人たちの前に現れたならば、彼らは驚き、畏れ、最大限の賛美を捧げたことでしょう。しかし、イエス様は困り果て、弱り果て、助けを必要とする人、最も小さい人として現れました。というよりも、そのような人々を御自分と一つにされた者として見られました。ですから、彼らがしたことは、この最も小さい人に対して行った、ありふれた、日々の小さな業でしかありませんでした。それは本当に些細なことであり、自分の記憶にも残らないほどに少しも特別なことではない、日常的なことでした。
 それは、左に分けられた人たちにとっても同じでした。イエス様がその栄光の御姿のままに自分たちの前に現れたならば、彼らは豪勢な食事を出し、素敵な飲み物を出し、立派な家に泊まっていただき、素晴らしい着物を用意したことでしょう。しかし、イエス様は困り果て、弱り果て、助けを必要とする人、最も小さい人、つまり社会的にも、経済的にも、肉体的にも弱く、誰にも相手されないような人として現れました。その人たちに食べさせず、のどが渇いた時に飲ませず、宿を貸さず、着物をあげず、病気の時や牢にいた時に訪ねなかったとしても、彼らは特に悪いことをしたとは思っていなかった。そう、彼らは悪いことをしたわけではありません。ただ無視しただけです。そのような人たちに、目も心も向けなかっただけです。見ても見えなかった。興味がなかったからです。ですから、そのような人たちに何もしないとしても、それは彼らにとって当たり前のことであり、覚えているはずのない、実に些細なことだったのです。勿論、特に悪いことをしたとは思ってもいません。しかし、このことこそが、終末においてイエス様の御前において永遠の救いに与るか、永遠の罰を受けるかの違いなのだとイエス様は言われるのです。
 ただここで弁えておかなければならないことは、「右に分けられた人は善い行いをした人で、左に分けられた人は善い行いをしなかった人だ。善い行いをした人は永遠の救いに与るが、それをしなかった者は永遠の罰を受ける。」ここでイエス様が言おうとされたのは、そういうことではないということです。それはどちらの人も、自分がやったことを覚えてもいないほどの些細なことなのです。そもそも、右に分けられた人は、いつもこうしていたのでしょうか。飢えている人がいればいつも食べさせていたのでしょうか。旅人をいつも泊めていたのでしょうか。着る物がない人がいれば、いつも着る物をあげていたのでしょうか。いつも病人を見舞っていたのでしょうか。逆に左に分けられた人は、飢えた人に食べさせたことは一度もなかったのでしょうか。旅人を泊めたことが一度もなかったのでしょうか。病人を見舞ったことなどなかったのでしょうか。イエス様はここで、この最も小さい者に対して慈しみの業を為したことと、逆にそういう人を無視したことと、どっちが多いかを天秤にかけて、私共を右か左かに分けられると言われたのではありません。もしそうであるならば、私共の誰が、右に分けていただけると自信を持って言えるでしょうか。それではイエス様と閻魔様とはあまり違わないことになってしまうでしょう。それは福音ではありません。  イエス様がここで言おうとされているのは、私共が最も小さい者に行った、自分でさえも覚えてもいない、忘れてしまうような些細な業、日常的な、取り立てて言うほどのこともない小さな業をイエス様は覚えてくださり、それをもって「祝福された人たち」と言ってくださるということなのです。私共は神様の御前に胸を張って、「私は善人です。いつも困った者、弱った者に手を差し伸べています。」そんな風に言い切れるような者ではありません。しかし、病人を見舞ったことはありますし、喉が渇いた人に水を上げたことぐらいはあります。困った人の相談にのって話を聞いたことはあります。イエス様はそのような小さなことをも覚えてくださり、良くやったと言ってくださる。そういうお方なのです。

6.違いはどこに
 では、この右と左に別れた人の違いは何だったのでしょうか。それは、弱い人、小さい人に対しての見方が全く違っていたということでしょう。そして、そこに「イエス様との関わり」「信仰」というものが大きく関わっているということなのではないのかと私には思われるのです。
 左に分けられた人にとって、目の前のその人が価値があるかどうかは、その人がどんな立場か、社会的な地位があるかどうか、富があるかどうか、教養があるかどう、社会的評判はどうか、そういったもので決まってしまう。だから、それを持たない人は、価値の無い人という感覚だったのではないでしょうか。これは珍しくも何ともない。何時の時代でも、どの国においても、それはほとんど常識のように、人々の間に蔓延している、人に対しての見方です。だから人は、その目に見えて価値のあるものを手に入れようと努力もするし、それを手に入れることが人生の目的であるかのように思っている。それが神様を知らない人間の眼差しです。そして、その眼差しで自分をも見てしまう。だから、そのようなものを持っていなければ、自分さえも価値ある者と認めることが出来ない。自分を愛せない、大切な者と思えない、そういうことにさえなります。それでは、生きるのが辛くなります。
 しかし、イエス様と出会って、私共は全く違った眼差しに出会いました。イエス様の眼差しです。地位もなく、富もなく、人に自慢出来る特技もなく、何も出来ないような私共を、イエス様はそれでも愛してくださり、価値ある者として見てくださり、私共と一つになってくださった。そして父なる神様は、それ故に私共を「我が子よ」と呼んでくださった。イエス様は私共が神の子とされる道を開いてくださいました。そして私共は、神様の子、神様の僕として生きる、新しい命に生きる者となりました。その時から、私共は「自らを誇る」という傲慢から自由にされ、「主を誇る」者となりました。何を持ち、何を手に入れたかではなく、ただ神様の愛の御手の中、神様の愛の眼差しの中に生かされていることを喜びとし、誇りとする者にされました。だから、私共は自分が出会う「いと小さい者」に対して、上から見下ろすような視線ではなく、共に神様に愛されている者として出会っていくのです。この眼差しをもって生きることにより、私共は「いと小さい者」に対して、イエス様が求められることを当たり前のこととして為していく日常の営みを為す者とされたのでしょう。

7.イエス様の眼差しをもって
 私は毎月2回、教誨師として刑務所に行っています。もう10年になるでしょうか。個人教誨は、8畳くらいの部屋で、小さなテーブルを挟んで受刑者の方と2人だけで、小一時間お話しします。初めは、正直なところ怖かったです。私の人生の中で、刑務所に入った人に友人はいなかったからです。しかし、受刑者の方の話を聞いていきますと、本当に私が想像することも出来ないような環境で育った方が少なくありません。そして、「こんな自分が変われるだろうか。」と言われるわけです。私ははっきり「あなたは神様に愛されています。イエス様はあなたのために十字架にお架かりになりました。だから、大丈夫。変われます。」そう言って、一緒にお祈りするのです。イエス様の眼差しをもって受刑者の方と出会っていく。そのことを学ばせていただいています。

8.世界は変わる
 先ほど、地位とか富とか目に見える価値を持たない人は、価値がないように思われ、扱われるのがこの世の常だと申しました。それは、程度の差こそあれ、何時の時代でも、どの国においてもそうなのだと思います。この日本においても同じでしょう。しかし、このイエス様の眼差しが多くの者が与えられていくことによって、世界は変わっていく。私は、そう信じています。人間の欲がすべてであるかのようなこの世界が、この眼差しによって変えられていく。二千年前に比べて、既に随分変わったと思います。社会福祉の制度も、このイエス様の眼差しの中で変えられ、整えられてきたものです。この世界が変えられていく先頭に、キリストの教会があり、その先頭にイエス様がおられます。
 教会の常識とこの世の常識とは違います。同じであるはずがありません。違っていなければ意味がありません。教会の常識は、イエス様によって与えられたこの新しい眼差しに基づいて形成されてきたし、これからも形成されていくからです。ですから、教会の常識は、世間の常識を越えていきます。小さい者、弱い者が価値ある者とされ、大切にされます。困った者に手を差し伸べることが、当然のこととされます。キリストの教会は、終末において完成される神の国の写し絵、先駆けとして立てられているからです。勿論、教会もこの世にありますから、完全に神の御心を現すことは出来ません。欠けがあります。でも、イエス様が再び来られることを知っており、その時裁きの座に立つことになることを知っています。それ故、その日に備えつつ、この地上の生涯を歩んでいます。この一週も、イエス様が再び来られる日を待ち望みつつ、それぞれ遣わされた場において、御国に向かっての足取りを確かにされて歩んでまいりましょう。目の前のいと小さい者に目を向け、心を向けて、歩んでまいりましょう。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
 今朝、あなた様は私共に、イエス様が再び来られること、そしてすべての者を裁かれることを教えてくださいました。私共がその時、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」と言っていただけるように、弱い者、小さい者、困っている者に心を向けて、手を差し伸べて、この一週も歩んでいけますよう、聖霊を注いでいただき、信仰を与え、愛を与え、勇気を与えてください。
 私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2020年9月13日]