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礼拝説教

「香油を注ぐ」
申命記 15章7~11節
マタイによる福音書 26章1~13節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 マタイによる福音書を読み進めてまいりまして、今日から26章に入ります。24章・25章と、オリーブ山でのイエス様の説教、終末についてのイエス様の教えが記されておりました。そして、この26章からはイエス様の御受難の出来事が記されています。実に26章・27章は、イエス様が十字架の上で死なれる日の、ほとんど丸一日の出来事が記されています。当時のユダヤの一日の数え方は、日没から始まり日没で終わります。イエス様は金曜日に十字架にお架かりになったわけですが、当時の金曜日は現在の木曜日の日没から始まります。26章の17節以下にはいわゆる最後の晩餐の記事が記されておりますが、当時のユダヤの一日の数え方で言えば、これはもう金曜日のことです。この最後の晩餐の記事以降、27章の終わりまで、イエス様が十字架の上で息を引き取り、墓に葬られるまで、金曜日の一日の出来事が記されているのです。今日与えられている26章の冒頭の所は、その直前の木曜日の出来事と考えて良いでしょう。もう明日にはイエス様は十字架にお架かりなる。十字架の死が目前に迫っています。今朝与えられている御言葉は、そういう時の出来事が記されています。

  2.神様の御計画の中で
1節を見ますと「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。」と始まります。「これらの言葉をすべて語り終えると」というのは、直接的には24章・25章においてイエス様がお語りになった、終末についての教えを指しているのでしょう。しかし、それだけではなくて、「もうこれでイエス様は語るべきことはすべて語り終わった。後は十字架にお架かりになるだけ。」そのようなニュアンスもあるかと思います。
 この時イエス様は弟子たちに何と言われたかと言いますと、2節「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」と告げられたのです。二日後が過越の祭で、イエス様はその時に御自身が十字架に架けられると弟子たちに告げられました。二日後が金曜日ですから、これをお語りになったのは木曜日ということになります。ちなみに、聖書の日にちの数え方は、現在の私共と違って、その日を一日目と数えて、次の日が二日後という数え方をします。イエス様が十字架にお架かりになったのが金曜日、そして復活されたのが日曜日。金曜日を一日目と数えるのでなければ「三日目に復活」とはなりません。ここで大切なことは、イエス様は「過越の祭である金曜日に十字架に架けられる」ということを御存知だったということです。それは、イエス様が神様から既に示されていたことであり、それが神様の御計画であったということです。
 一方、3~5節を見ますと「そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。しかし彼らは、『民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう』と言っていた。」とあります。大祭司のもとに祭司長たちや民の長老たち、すなわちユダヤ教の中心にいた人たち、民の指導者たちが集まり、イエス様を捕らえて殺そうと相談しました。確かに、この人たちによってイエス様は捕らえられ、総督ピラトによって十字架に架けられることになります。しかし、大切なことは、この時彼らは「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう。」と言っていたということです。つまり、彼らは過越祭の間は、イエス様を捕らえたり、殺したりするつもりはなかったのです。イエス様は確かに、大祭司や祭司長、民の長老たちによって捕らえられ、十字架に架けられることになるのですけれど、それは彼らの計画通りにそのようになったということではなくて、彼らの計画に反して、彼らの思いに反して、イエス様は過越祭の時に十字架に架けられることになってしまったということです。それは、イエス様の十字架は、彼らの計画によって起きたのではなく、神様の御業であったということです。神様のことを考えなければ、イエス様はこの世の力によって、大祭司や祭司長、民の長老たちといった人々の策略によって十字架につけられたということになるでしょう。しかし、聖書が告げているのは、そういうことではありません。イエス様は神様の御計画によって十字架に架けられたのだ、と聖書は告げているのです。これは、決定的に大切な点です。ここを見逃してしまえば、イエス様の十字架がどうして私共の救いの根拠となるのか、全く分からないことになってしまうでしょう。
 神様は、イエス様を殺そうとする大祭司や祭司長、民の長老たち、そして、弟子であるイスカリオテのユダさえも用いて、すべての罪人を救う、神の御子の十字架という出来事を完遂されたということです。神様が全能であるとは、そういうことです。人間の悪しき思い、計画、浅知恵、そんなもので神様の御心を、神様の御計画を変えることなど出来ないのです。

3.過越の祭
 イエス様が十字架にお架かりになったのは過越の祭の時でした。それが神様の御心、御計画だったからです。では、どうしてイエス様が十字架に架けられるのが過越の祭の時でなければならなかったのか。そこには理由があるはずです。神様の御心とは何だったのでしょうか。ここで過越の祭について、少し思い起こしておきましょう。
 過越の祭というのは、モーセによってイスラエルの民が奴隷とされていたエジプトから脱出する、その時に起きた出来事を忘れないように、それを記念するために神様に命じられたものです。その出来事というのは、神様はイスラエルの民をエジプトから解放するために十の災いをエジプトにもたらしました。その最後の災いが過越の出来事でした。イスラエルの家の入り口の二本の柱と鴨居に、子羊の血を塗る。その夜、神様はエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、すべての初子を撃たれました。しかし、入り口の二本の柱と鴨居に子羊の血が塗られていたイスラエルの家は、この神様の裁きが過ぎ越して行き、イスラエルの人々は無事でした。エジプトの王は、この出来事によって遂にイスラエルにエジプトから出て行くよう命じたのです。この出来事を記念して、イスラエルは過越の祭を行ってきました。入り口の二本の柱と鴨居に血を塗るために犠牲となった子羊を食べる。そして奴隷の日々を思い起こすように苦菜を食べ、エジプトを脱出する時にパンを発酵させる暇がなかったことを思い起こして種入れぬパンをを食べる。このような特別な「過越の食事」をして、イスラエルはこの出来事を記念してきたのです。イエス様の時代まで、千年以上にわたって為されてきた祭でした。
 イエス様がこの過越の祭の時に十字架に架からなければならなかったのは、過越の出来事の時に子羊の血によって神様の裁きが過ぎ越されたように、イエス様が犠牲の子羊となり、イエス様の十字架の血によって神様の裁きが過ぎ越される、神様の裁きから救われることになるからです。実に、イエス様の十字架が新しい過越の出来事となる。この新しい過越の出来事によって、新しい神の民、新しいイスラエル、キリストの教会が誕生するためだったからです。それが神様の御計画でした。ですから、イエス様が十字架にお架かりになるのは、過越の祭の時でなければならなかったのです。

4.光と闇
さて、イエス様がいよいよ十字架にお架かりになる歩みにおいて、人間の罪、闇の思い、愚かさ、弱さといったものが次々と現れてまいります。その最初が、この大祭司や祭司長、民の長老たちによる、イエス様の暗殺計画とでも言うべきものです。そして、今朝与えられた御言葉の直後、17節からは、十二弟子の一人であったイスカリオテのユダによる裏切りが記されています。この二つの闇の出来事に挟まれるようにして、5節からの、イエス様の頭に香油が注がれたという出来事があります。ここには明るい光が差し込んでいます。これは素敵な出来事、光の出来事と言って良いのではないかと思います。
 イエス様を殺そうとする者、イエス様を裏切る者がいる。それに対して一人の女性がイエス様の頭に高価な香油を注いだ。この女性が誰であったのか、マタイによる福音書は記しません。ただ「一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。」と記すだけです。この「極めて高価な香油」というのは、マルコによる福音書では300デナリオンの価値のあるナルドの香油であったと記されています。1デナリオンが労働者の一日の賃金ですから、300デナリオンといえば、ほぼ1年分の労賃になります。現在の価格に直せば何百万円ということになりましょう。どうしてそんなことをこの女性がしたのか、本当のところは分かりません。ただ、はっきりしているのは、この女性はこれをイエス様に捧げたということです。そして、イエス様はそれを受け取られたということです。

5.無駄使い?
 この時、イエス様の弟子たちは憤慨して、この女性を責めて、こう言います。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」実に、真っ当な意見です。皆さんの中にも、この弟子たちの意見に同意する人がいるでしょう。私もこの場にいたら、弟子たちの意見に賛同したと思います。それは、単純に「もったいない」と思うからです。何百万円もするものをどうして?と思う。弟子たちのこの「高価な香油は高く売って、貧しい人々に施せば良いのに。」という意見が間違っていたということではないと思います。イエス様も11節で「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」と言われます。貧しい人はこれからもずっとあなたたちと一緒にいるのだから、いつでも、してあげたら良いではないか、と言われているわけで、弟子たちの言葉を否定しているわけではありません。先週の御言葉においても、イエス様は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(25章40節)と言われました。最も小さい者、それは貧しかったり、病気であったり、宿がなかったりと困り果てた人のことです。どんな小さなことでも、彼らにしたことはわたしにしたことだとイエス様は言われます。先ほどお読みしました旧約の申命記15章7~8節には「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。」とあります。このように、旧約・新約を通じて、小さい者、貧しい者、弱い者、それを守り、支え、助けることは、少しも疑問の余地はなく、神様の御心に全く適ったことです。ここで、弟子たちは正しいことを言っているのです。ですから、弟子たちを正しいと思われる方も、間違っているわけではありません。それは正しいのです。しかし、その正しさですべてが計れるわけではないのです。
 イエス様はこの女性を弟子たちと一緒になって責めたりなさいません。イエス様はこう言われました。10節「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」良いことをしてくれた。この「良いこと」という言葉は「美しいこと」とも訳せます。この人はわたしに良いこと、美しいことをしてくれた。この人を責めて、困らせるな。そうイエス様は言われました。相手が女性だったからでしょうか。それも全くなかったとは言えないとは思います。一人の女性に対して12人の男が憤慨し、怒って「何でこんな無駄なことをしたのか。」と口々に言ったのならば、この女性は脅えて、震え上がってしまったでしょう。今ならさしずめ、女性虐待ということになってしまうでしょう。
 確かに、食事の席で石膏の壺に入った香油を全部イエス様の頭に注いだなら、それは強烈な香りが部屋に充満して、とても食事をしていられるような状態ではなくなったかもしれません。弟子たちには、この行為は「無駄遣い」としか思えませんでした。ちなみに、当時の作法として、とても大切な人を迎える場合には、その客人の頭と足に香油を注ぐということが行われていたようです。勿論、数滴です。また、ナルドの香油のような高価なものは使われなかったでしょう。ですから、この女性のしたことは、確かに度外れています。一体、何をしようとしたのか、それもよく分かりません。しかし、イエス様はこの女性の行為を、良いこと、美しいこととして受け止められました。この女性に対しての弟子たちとイエス様の対応の違いの理由は、一体どこにあったのでしょうか。
 それを順に見ていきたいと思います。

6.値段じゃない
 第一に、弟子たちがここで着目しているのは、この香油の値段です。300デナリオンもする高価な香油だから、無駄なことをするな、もったいない、となったわけです。もし、この香油が1とか2デナリオン(5千円~1万円)くらいの価値のものであったならば、こんなことは言わなかったでしょう。売っても貧しい人に施すことが出来るほどにはならないからです。しかし、10デナリオンだったら、50デナリオンだったら(つまり5万円だったら、25万円だったら)どうだったでしょうか。「無駄だ」という線は、いったいどこに引くのが妥当なのでしょうか。一方、イエス様はどうだったでしょう。イエス様はこの香油が高価だったから、わたしに良いこと、美しいことをしたと受け止められたのではないでしょう。この香油が1とか2デナリオン(5千円~1万円)くらいの価値のものであったとしても、イエス様はきっと同じように、わたしに良いこと、美しいことをしてくれたと受け止めてくださったのではないでしょうか。
 弟子たちも私共も、イエス様に捧げるものをすぐにお金に換算して、多いだの少ないだのと思います。しかし、イエス様に捧げるのは、物にしても行為にしても、安いの高いの、立派だのそうではないだのと評価されるべきものではないのでしょう。神様の御前で、そのようなこの世の価値基準は全く意味を持たないのです。イエス様は、感謝と喜びをもって捧げられるならば、自分に捧げられたものを「良いこと」「美しいこと」として受け止めてくださるのです。イエス様は何でもお持ちのお方ですから、これが欲しい、あれが欲しい、そんなものは何もないのです。「もっと見栄えが良いもの、値段の高いものを捧げよ。」などとは決して言われません。神様・イエス様が求められる捧げ物は、何よりも「打ち砕かれ悔いる心」だからです。イエス様に捧げるという行為や物は、それ自体にどれほどの価値があるかどうかは全く問題になりません。そのような価値は人間が決めたものであって、神様には関係ないからです。なぜなら、神様はこの貨幣経済の社会の中におられる方ではないからです。捧げ物とは、そもそも、神様・イエス様に受け取っていただくことによって価値が生まれるものなのです。たとえが悪いかもしれませんが、ただの壺を千利休が銘品と言えば銘品となる。私共がイエス様・神様に捧げるものは、賛美であれ、奉仕であれ、献金であれ、人から見てどれだけの価値があるかどうかということではなくて、神様・イエス様が受け取ってくだされれば、それは尊いものとなるのです。そして、神様・イエス様は何よりもそれを捧げる者の心を、愛を、信仰を見られるのです。

7.葬りの準備として
 第二に、イエス様はこの女性の行為を、御自分の「葬りの準備」として受け止めてくださいました。12節「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。」とある通りです。最初に申しました通り、イエス様は明日、十字架にお架かりになって死なれるのです。この女性は、イエス様が弟子たちに「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」と言われた言葉を聞いていたのかもしれません。この女性は死を目前にしたイエス様に対して、何かしてあげたかった。だから、自分が大事にしていた高価な香油をイエス様の頭に注いだのでしょう。これは私共にもよく分かる心の動きではないでょうか。愛する者が明日死ぬとしたら、私共はその人のために何でもしてあげたいと思うのではないでしょうか。この女性は、イエス様に何かしてあげたい、慰めたい、そう思った。そして、自分が出来る精一杯のことをした。そういうことだったのではないでしょうか。
 一方、弟子たちは、イエス様に言われた言葉を本気で受け止めていたとは私にはあまり思えないのです。明日、イエス様が死なれるというのに、そのことをイエス様の口から直接告げられているのに、何とも緊迫感が無いのです。愛する者が明日死ぬとなったら、何でも出来ることをしてあげたいと思う、その緊迫感が無いのです。ルカによる福音書には、イエス様が最後の晩餐で聖餐を制定された直後に、「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」と議論をしたことが記されているほどです(ルカによる福音書22章24節以下)。しかし、この女性はイエス様が明日死ぬということを本気で受け止めた。そのことをイエス様は何よりも、良いこと、美しいこととされたのではないかと思うのです。イエス様の言葉を、本気で信じて、受け止める。それが何よりも良いこと、美しいことなのです。
 そして、イエス様が十字架にお架かりになって葬られる時に、金曜日の日没から安息日が始まりますので、時間がありませんでした。その結果、十字架から降ろされた遺体はそのまま亜麻布にくるんで墓に葬られました。当時の葬りの作法としては、香料を遺体に塗って、それから亜麻布に包むのです。しかし、それは出来ませんでした。イエス様は、その事も承知していたと思います。勿論、この女性はそこまでは知らなかったでしょう。しかし、香料を塗られることなく葬られるイエス様のための、葬りの備えを図らずもすることになりました。イエス様はこの時、この女性の思いを越えた意味をこの行為に与えられました。私共の為す業も、そのようにイエス様は受け止めてくださいます。イエス様は私共の思いを越えて意味を与え、良きこと、美しいこととして受け止めてくださるのです。

8.油注がれし者としての十字架
 第三に、これは第二の葬りの備えと少し重なりますけれど、イエス様は明日、十字架にお架かりになって死なれるわけです。犯罪人の一人として、三本の十字架の真ん中の十字架に架けられるわけです。勿論、イエス様は十字架に架けられるような犯罪を犯してはいません。イエス様の十字架は、すべての罪人の裁きを我が身に受けるためのものでした。それが神様の永遠の救いの御計画でした。イエス様がただの人間に過ぎないのならば、そのような神様の救いの御計画は成り立ちません。しかし、イエス様は神の独り子であり、まことの神にして、まことの人であられました。イエス様は神の子、キリストとして十字架にお架かりになりました。へブル語で「メシア」、ギリシャ語で「キリスト」、それは「油注がれた者」という意味の言葉です。イエス様はメシア、キリスト、すなわち「油注がれた者」として十字架につけられるのです。この女性は、イエス様の頭に香油を注ぎました。それは、まるでこの女性がイエス様に「油注ぎ」を行ったかのようでした。イエス様はそのようなこととして、この女性の行為を受け止められたのでしょう。
 ですから、13節「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」と言われたのです。イエス様の福音とは、「ただイエス様を信じるだけで、一切の罪を赦していただき、神の子とされ、永遠の命に与る者とされる」ということです。この福音が宣べ伝えられる時、「この人のしたことも記念として語り伝えられる」とは、このような高価な香油を捧げたように、皆さんもたくさん献金しましょうと言って語り伝えられるということでは全くありません。そうではなくて、イエス様の福音が告げられる時、イエス様はメシアとして十字架に架かり、私共の一切の裁きの身代わりとなってくださったということが必ず語り伝えられる。イエス様がメシア、キリストとして、油注がれた者として十字架にお架かりになられたのでないならば、私共の救いは成り立たず、福音は福音となり得ないからです。
 この女性は、自分がしたことがそれほどの意味があると思ってはいなかったでしょう。しかし、私共の主イエス・キリストというお方は、私共の小さな取るに足らない業も受け止めてくださり、意味を与え、大いなる業としてくださるのです。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
 今朝、あなた様は私共に、イエス様の頭に香油を注いだ女性の出来事を通して、イエス様に捧げる歩みへと私共を招いてくださいました。感謝します。どうか、私共の為す小さな業をも、あなた様が受け止めてくださり、意味を与え、祝福してくださいますように。また、私共が自分の正しさを守るために、神様を葬るような愚かな歩みをすることがありませんように。どうか、私共を御前に謙遜な者としてください。
 私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2020年9月20日]