日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「士師ギデオン ~驕らぬために~」
士師記 7章1~15節
コリントの信徒への手紙一 1章26~31節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
神様はその救いの御業を為される時、必ず誰かを選び、立て、用いられます。神の民イスラエルを生み出される時にはアブラハムが選ばれました。イスラエルをエジプトから導き出される時にはモーセが選ばれました。その民が約束の地に入る時には、ヨシュアが選ばれました。イスラエルが国として立っていく時にはダビデが選ばれました。イスラエルが神様から離れてしまう時には、その時々に預言者が選ばれ、立てられました。そして、イエス様の福音を宣べ伝えるためには十二弟子やパウロが選ばれました。その時その時に適った者が選ばれ、立てられ、神様の御業は為されていきます。勿論、そのような有名な者たちばかりではなく、神様の御業に仕える者は皆、神様によって選ばれ、立てられ、用いられる者たちです。私共もそうです。私共が神様を選んだのではなくて、神様が私共を選んでくださり、キリスト者として召し出してくださいました。まことに、ありがたいことです。
 神様によって選ばれ、立てられた者にとって、それはまことにありがたく、誇りに思うことですけれど、そこではっきりしておかなければならないことは、神様に選ばれた理由は「それに相応しい何かがその人に備わっていたから」ではないということです。選ばれた者には、相応しいところなど何もありません。ところが、神様はなぜか選ばれました。理由は私共には分からないのです。ですから、選ばれた者が弁えておかなければならないことは、神様に選ばれたことにおいて自らを誇ることは誰も出来ないということです。自らを誇るならば、それは自分を選んでくださった神様に栄光を帰すことにならないからです。ただ自分を選んでくださった神様を誇る。このことをパウロは、「誇る者は主を誇れ」(コリントの信徒への手紙一1章31節、コリントの信徒への手紙二10章17節)と言いました。私共は、その本性において「自らを誇る」ということがあります。どんな小さな事であっても、それを根拠に「自分は大したものだ」と思いたい。そうでないと、自分が生きている価値がある者だとは思えない、自信を持って生きられない、平安でいられないからです。その思いは良く分かります。しかしそれは、決して私共をまことの平安に導くことはありません。なぜなら、自分は大したものだと思うその根拠は、あっという間に奪われてしまう、失ってしまうということがしばしば起きるからです。決して奪われることのない平安は、私共自身を誇るのではなく、私を愛し、私を愛してくださる神様を誇る、「主を誇る」というところに備えられます。私共は、この失われることのない平安へと導かれているのです。

2.ギデオンが選ばれる
 今朝与えられております御言葉は、今日は9月の最後の主の日ですので、旧約からです。士師記の7章です。8月は士師記の6章から御言葉を受けました。士師の中でも最も有名な士師の一人、ギデオンが神様によって召し出された場面でした。少し思い起こしてみましょう。6章1節に「イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された。」とあります。「主の目に悪とされること」とは「偶像を拝む」ことです。イスラエルは、元々カナンの地において拝まれていたバアルの神、これは雨を降らせる雷の神、農作物の収穫を与える神ですが、これを拝み、自分たちをエジプトから導いてくださった天地の造り主なる神様を離れてしまった。そこで、神様はイスラエルを懲らしめるために、ミディアン人の手にイスラエルを渡されたのです。ミディアン人というのはアラビア半島に住んでいた遊牧民ですが、当時はヨルダン川の東側までその勢力を伸ばしていたようです。彼らはイスラエルが収穫する季節になると襲ってきて、それを奪っていきました。イスラエルは主なる神様に助けを求めて叫びました。神様はイスラエルを救うためにギデオンを士師として選び、立てられました。ギデオンが神様に召し出されたのは、酒ぶねの中で小麦を脱穀している時でした。彼はミディアン人に見つからないように、酒ぶねの中で隠れて、収穫した小麦を脱穀していたのです。その時、主の使いがギデオンに現れ、「勇者よ、主はあなたと共におられます。」(6章12節)と告げます。ギデオンはミディアン人を恐れ、隠れて小麦を打っていたのですから、少しも勇者ではありませんでした。しかし、神様が共にいてくださるが故に、彼は勇者となるのです。神様によって勇者となるのです。そのギデオンに率いられたイスラエルが遂にミディアン人と戦ったことが記されているのが、今朝与えられている御言葉です。

3.驕らぬように
 7章1節を見てみましょう。「エルバアル、つまりギデオンと彼の率いるすべての民は朝早く起き、エン・ハロドのほとりに陣を敷いた。ミディアンの陣営はその北側、平野にあるモレの丘のふもとにあった。」とあります。ギデオンに率いられたイスラエルはエン・ハロド(ハロドの泉:これはガリラヤ湖から南西に30kmの所にあります)のほとりに陣を敷きました。この時のイスラエルのイスラエル軍は3万2千人でした(3節)。一方ミディアン人たちはその北にあるモレの丘のふもとに陣を敷きます。ミディアン人たちの軍勢には、ミディアン人の他にアマレク人や東方の諸民族が結集していました。その数は13万5千人でした(8章10節)。圧倒的にミディアン人たちの方が人数が多い。単純に計算するとイスラエルの約4倍から5倍です。ギデオンは何とかかき集めて3万2千にしたのだと思います。一方ミディアン人たちも、この一戦でイスラエルを滅ぼしてしまおうというくらいの勢いで上ってきたのだと思います。13万5千人というのは大変な軍勢です。普通に考えますと、これは戦いにはなりません。この数字だけを見ますと、規模は違いますが4千の織田軍と2万5千の今川軍が桶狭間で戦った時に似ているかもしれません。5分の1の織田軍が今川軍に勝ちましたけれど、この戦いは主の戦いです。桶狭間の戦いとは、根本的に違います。
 それが2節にはっきり現れます。「主はギデオンに言われた。『あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。』」神様は何とギデオンに、3万2千は多すぎるというのです。相手は13万5千なのに減らしてどうするのかと思うでしょう。神様がそのように言われた理由ははっきりしています。もし、この3万2千で13万5千のミディアン人に勝利したら、「イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう」ということです。織田の人々が、今川に勝った桶狭間の戦いの勝利を後々まで語り伝えて、織田信長の戦闘能力の高さを誇ったように、ここでミディアン人に対して勝利したら、イスラエルは「ギデオンはすごい。自分たちはすごい。大したものだ。我々は自分たちの手でこの勝利を掴んだ。」と自らを誇るようになるだろう。人とはそういうものです。しかし、それではダメだと神様は言われるのです。それでは主の戦いにはならないからです。ただの人間の戦いになってしまいます。人間の戦いでほめ讃えられるのは英雄であり、勇者です。しかし、主の戦いにおいてほめ讃えられるのは、主なる神様だけなのです。主の戦いは、神様が本当に生きて働いてくださり、自分たちに先立って戦い、勝利を与えてくださる方であることが明らかにされる戦いだからです。その主の戦いをするために神様はギデオンを士師として選び、立て、ミディアン人たちと戦おうとされているのです。そこで、神様はどうされたかというと、イスラエルの兵を減らすのです。

4.兵を減らす
3節を見て見ましょう。「『それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と。』こうして民の中から二万二千人が帰り、一万人が残った。」神様は、「恐れおののいている者は皆帰れ」と言うのです。今から戦闘が始まるのです。相手は自分たちの4~5倍の兵力。しかも、7年もの間自分たちを苦しめてきたミディアン人です。強さも怖さも知っている。イスラエルの人々が恐れても当然でしょう。神様は、しかしそのように恐れている者は帰れと言われました。理由ははっきりしていると思います。この戦いは主の戦いです。主が戦ってくださり、必ず勝利を与えてくださいます。しかし、それが信じられないなら、恐れおののいて当然です。この主の戦いは、信仰の戦いなのです。その結果、帰った者は2万2千人でした。3万2千の内、2万2千人が帰った。約3分の2が恐れていたわけです。皆さんはどう思われるでしょうか。「3分の2も恐れていた。3分の1しか残らなかった。」と思われるでしょうか。私は、よく3分の1も残ったものだと思います。これで兵力は13万5千対1万となりました。
 しかし、神様はこれでもまだ多いと言われるのです。4節「主はギデオンに言われた。『民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきではないと告げる者は行かせてはならない。』」1万人でもまだ多い。これではまだ、ミディアン人たちに勝利すれば、自分たちは大したものだと言うだろう。もっと減らさなければならないと言うのです。そして、この1万人を水辺に連れて行きます。彼らは水を飲みます。そして、その時の水を飲む時の姿勢によって、この1万人を3百人にまで減らしたのです。7節「主はギデオンに言われた。『手から水をすすった三百人をもって、わたしはあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞれ自分の所に帰しなさい。』」遂に3百人にまで減りました。相手は13万5千人です。どうやったら勝てるというのでしょうか。人間同士の戦いと考えたなら、この戦いに勝つなどということはあり得ません。そもそも戦いなど成立しない数です。しかし、これは主の戦いなのです。主が戦い、主が勝利を与えてくださる。もう、それしかありません。

5.選びの基準
 ここで300人が残され、9千7百人が帰されました。その基準は何だったかと言いますと、水を飲む時の姿勢だったというのです。膝をついてかがんで飲んだ者が9千7百人、手ですくって飲んだ者が3百人。ここで、手ですくった者は武器を離さず、いつ敵が来てもいいように備えていたが、膝をついてかがんで飲んだ者は敵に襲われたら対応出来ない。油断がある。だから、神様はこの9千7百人を帰されたのだという説明がされます。皆さんも、そのように聞いたことがあるかと思います。しかし、私はそういう事ではないと思います。もしそうであるならば、この残された3百人には最後まで残されるだけの注意深さという資質があったということになるでしょう。選ばれる理由があったということになるでしょう。私共はいつでも、選ばれるには理由があると考えてしまうのです。それはどこまでも自分を誇るというところから離れられないからです。しかし、ここで神様がギデオンと共に戦う者が3百人に減らされたというのは、ギデオンたちが自らを誇ることがないようにするためでした。つまり、人数を減らすことが目的であって、理由など何でも良かったのです。残された3百人の水の飲み方には、特に何の意味もなかったと思います。ただこのような分け方をすれば、3百人という少人数になる。それだけの意味だったと思います。大切なのは、神様が3百人にまで人数を減らしたということです。この3百人は確かに3万2千人から選ばれた人たちです。しかし、エリート軍団、精鋭たちということではないと思います。ただの3百人です。
 13万5千対3百。ミディアン人の軍勢に対してイスラエルは約0.2%です。千人対2人です。これはもう、戦うということ自体が成立しない差です。ここまで減れば、もう神様の御業によって勝利するしかあり得ません。神様はそのことをはっきりさせるために、ここまで兵士の数を減らされたのです。これはアブラハムの子、イサクの誕生にしてもそうです。どうして神様はアブラハムが100歳、妻サラが90歳になるまでイサクを与えなかったのか。それはもう絶対子どもなんて産めない、絶対に不可能。それまで神様は待たれた。それは、与えられた息子イサクが、ただ神様によって与えられたのだということをはっきりさせるためです。
 神様の選びの基準とは、その人を選ぶことによって、神様の御業が、神様の力が、神様の愛が明らかになる。そのようにして神様は御業に用いられる者をお選びになるのです。しかし、私共は「神様に選ばれるには、それに相応しい何かが無ければならない。何かがあるはずだ。」そう考えます。その結果、神様に選ばれたことさえも、自分の手柄にしてしまい、自らを誇ってしまうのです。しかし、これは何と御心から離れていることでしょうか。神様がその御業に用いるために誰かを選ばれたとしたら、その理由はその人が「相応しいところなど何一つ無いから」ということしかありません。これが福音です。これが神様の愛に基づく選びというものです。私共が選ばれたのもそういうことです。何一つ神の子とされるに相応しいところなど無いからです。
 例えば、使徒パウロが伝道者として選ばれ、立てられたのは、彼がキリスト者を迫害していた者だったからです。イエス・キリストと敵対していた者だったからです。そのような者がイエス様によって救われるとするならば、救われない者など一人も居ない。そのことが明らかになるからです。そのような者さえも神様の御業の為に働き、生かされることが出来るとするならば、神様に用いられない人など一人もないということが明らかになるからです。神様の愛、神様の救い、神様の御業というものが明らかになるからです。ですからパウロは コリントの信徒への手紙一1章26~29節でこう告げたのです。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」コリントの教会の人々は勘違いしていたのです。自分たちがイエス様の救いに与ったのは、自分の中にそれに相応しい何かがあると考え、互いに自分を誇るという過ちを犯していたからです。その結果、コリントの教会は内部において互いにいがみ合い、争うようなことになってしまっていたのです。自分を誇ろうとすれば、そこでは互いに相手より自分が上に立とうとします。そこに仕え合う交わりは生まれません。ただ神様だけを誇り、この方をほめ讃えるところにおいてのみ、互いに仕え合う交わりが形成されていきます。実に、自分を誇ろうとするところに、偶像礼拝の根っこがあるのです。

6.ミディアン人との戦い
さて、このミディアン人との戦いはどうなったでしょうか。実際に3百人でどう戦ったのでしょうか。9節からこうあります。「その夜、主は彼に言われた。『起きて敵陣に下って行け。わたしは彼らをあなたの手に渡す。もし下って行くのが恐ろしいなら、従者プラを連れて敵陣に下り、彼らが何を話し合っているかを聞け。そうすればあなたの手に力が加わり、敵陣の中に下って行くことができる。』彼は従者プラを連れて、敵陣の武装兵のいる前線に下って行った。」ギデオンは夜、敵陣に行って様子をうかがったのです。神様にそのようにしなさいと言われたからです。そして、行ってみるとミディアン人の一人の男が仲間に夢の話をしているのが聞こえました。13~14節「『わたしは夢を見た。大麦の丸いパンがミディアンの陣営に転がり込み、天幕まで達して一撃を与え、これを倒し、ひっくり返した。こうして天幕は倒れてしまった。』 仲間は答えた。『それは、イスラエルの者ヨアシュの子ギデオンの剣にちがいない。神は、ミディアン人とその陣営を、すべて彼の手に渡されたのだ。』」夢は神様のお告げという意味があります。この夢の話とそれを解釈する言葉を聞いて、ギデオンは、既に神様は働いてくださり、ミディアン人たちに夢を見させ、それを解釈させ、ミディアン人たちが負けることを思わせ、自分を、イスラエルを、主なる神様を恐れさせていることを知らされました。神様の働きを知らされたのです。これを聞いて、ギデオンは「ひれ伏し」て神様を拝みました。そして、イスラエルの陣営に戻ると、「立て。主はミディアン人の陣営をあなたたちの手に渡してくださった。」と3百人の兵士たちに告げたのです。「あなたたちの手に渡してくださった」です。「渡してくださるだろう」でもなく、「渡してくれるかもしれない」でもありません。もう、既に神様の御手の中で「渡してくださった」。彼は確信しました。そして、ミディアン人を攻撃する手はずを整えました。
 ギデオンは夜、3百人の兵を百人ずつに分け、全員に角笛と空の水がめを持たせ、松明をその中に隠し、ミディアン人の陣営に近づきました。空の水がめに松明を隠したのは、灯りをせないためです。そして、一斉に角笛を吹き、水がめを割ると、松明を掲げ、「主のために、ギデオンのために」と叫んだのです。水がめが割れる大きな音、角笛、そして「主のために、ギデオンのために」という叫び声、周りには松明が灯っている。既に神様とギデオンを恐れていたミディアン人たちは、イスラエルの大軍に囲まれたと思って、浮き足立ち、同士討ちをして、敗走したのです。そして、敗走したミディアン人たちをイスラエルは追走して討ち取り、勝利したのでした。
 ギデオンたちは、戦いらしい戦いは何もしていません。角笛を吹いて、空の水がめをたたき割り、松明をかざして、「主のために、ギデオンのために」と叫んだだけです。これはヨシュアに率いられたイスラエルが、エリコの町を落とした時を思い起こさせます。高い、堅固な城壁で囲まれたエリコの町。イスラエルの民は角笛を吹いて、一日に一度エリコの町の周りを回ります。そして、七日目には七回エリコの町を回り、鬨の声を上げると城壁は崩れ落ちたのです。イスラエルがモーセに率いられて前は海、後ろはエジプト軍に迫られたときもそうでした。イスラエルは何もしていません。神様がモーセを用いて、海の水を左右に分けられて道を作り、イスラエルはその道を通って逃げただけです。エジプト軍はそのイスラエルを追って海の道に入り、神様が左右の水を戻されたのでエジプト軍は溺れてしまいました。主の戦いとはそういうものです。主が戦い、主が勝利を与えられるのです。

7.私たちも選ばれている
私共も神様に選ばれ、神の子・神の民とされ、神様の救いに与り、神様の御業に仕える者とされました。その為に、神様は罪と死と戦い、勝利され、その勝利を私共に与えてくださいました。私共は何もしていません。イエス様が私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになり、復活させられ、私共の救いの道を開いてくださいました。私共はただ、招きに応えただけです。私共の中に、神の子とされるに相応しいところなど、何もありません。何は無くても信仰があるということでもありません。私共の信仰は、有るか無きかの、頼りないものでしょう。それでも選ばれたのです。いや、それだからこそ、選ばれたのです。ありがたいことです。そして、神様は私共を神の民として訓練し、相応しい者へと変え続けてくださっています。主の戦いは私共の人生を舞台として、今も続いています。この世界を舞台として、今も続いています。私共は、その主の戦いの証人として、それをしっかり見て、証言し、主をほめ讃える。それが私共の為すべきことです。
 ですから、自らの力のなさに嘆くのでもなく、また自らの力を誇るのでもなく、ただ神様に愛され、選ばれたことに感謝し、喜び、誇るのです。何も無くて良いのです。自分をどう評価するかでもなく、人からどう評価されるかでもなく、私共を愛してくださり、選んでくださった神様を愛し、信頼し、従っていく。そこに私共の失われることのない喜びと誇りがあるのです。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
 あなた様は今朝、3百人のイスラエル人がギデオンに率いられて13万5千人のミディアン人たちに勝利した出来事を通して、主が働いてくださり、私共に勝利を与えてくださることを教えてくださいました。ありがとうございます。私共には富も力も知恵もありません。しかし、あなた様はそのような私共を召し出してくださり、あなた様の御業に仕える者としてくださいます。どうか、ただあなた様の力と愛を信頼し、あなた様が先立ってくださいますから安んじて、為すべきことをあなた様の御前に為す者であらしめてください。
 私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2020年9月27日]