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礼拝説教

「ユダの裏切り」
出エジプト記 12章43~50節
マタイによる福音書 26章14~25節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今朝与えられている御言葉は、イスカリオテのユダがイエス様を裏切った場面です。イスカリオテのユダは十二弟子の一人でした。ちなみに、十二弟子の中にはもう一人、タダイと呼ばれたユダがおります。新約聖書の中に収められている「ユダの手紙」(ヨハネの黙示録の前にあります)は、もう一人のユダが記したものとも言われ、勿論イスカリオテのユダが記したものではありません。イスカリオテのユダは、一般にはイエス様を裏切った悪者という風に考えられています。彼はイエス様の弟子として選ばれ、一番近いところでイエス様の言葉を聞き、御業を見、その人柄に触れていた人です。そのような人がどうしてイエス様を裏切ったのか、と私共は思います。様々なことが考えられますし、昔から色々な説があります。聖書では、ヨハネによる福音書は、彼が会計を預かっていながら「その中身をごまかしていた」(ヨハネによる福音書12章6節)と語り、暗にそのためであったということを匂わせています。しかし、イエス様を裏切る時には、「サタンが彼の中に入った」(ヨハネによる福音書13章27節)としか告げていません。ルカによる福音書も同じです。「ユダの中に、サタンが入った。」(ルカによる福音書22章3節)と告げています。マタイとマルコはその事については何も語りません。色々な理由が考えられるのでしょうが、私は、この聖書が告げる「サタンが入った」、それ以上のことは推測に過ぎないのだろうと思います。たとえは悪いかもしれませんが、明智光秀は、どうして本能寺の変で主君織田信長を討ったのか。これも、色々な説があっても、本当のところは分からないのと同じでしょう。確かに、「どうしてユダはイエス様を裏切ったのか」という問いは、私共の想像をかき立てますし、興味深いことであるに違いありません。しかし、このユダの裏切りについては、40年も前になりますが、私に洗礼を授けてくれた牧師からこう言われました。「小堀君、聖書を読む時には、ユダに興味を持つよりもイエス様に興味を持ちなさい。悪魔や悪霊に興味を持つよりも聖霊に興味を持ちなさい。」この言葉は忘れられません。とても良い指導を受けたと思っています。そして、これは本当にそうだと、今も思っています。今日もユダについては聖書に記されていることに限定し、想像を逞しくして色々と詮索することはなるべく抑制したいと思います。そして、イエス様はここで何を為されたのか、何を語られたのか、それはどういうことなのか、そこに思いを集中していきたいと思います。

2.引き渡す=裏切る
 14節の冒頭、「そのとき、」と聖書は語り始めます。直前には、イエス様が一人の女性から高価な香油を頭に注がれたという出来事が記されています。この時弟子たちは憤慨して、「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」と言いました。しかしイエス様は、「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。…この人は…わたしを葬る準備をしてくれた。」と告げられました。「そのとき」というのは、この出来事があってすぐに、ということでしょう。ヨハネによる福音書は、この時に女性を叱責したのはユダであったと告げています。この出来事がユダの裏切りのきっかけとなったことは十分考えらます。イエス様が見ているところと弟子たちの見ているところが、全く違っていることが明らかになった出来事だったからです。弟子たちの言うことはもっともなことです。でも、この時弟子たちは、イエス様がもうすぐ十字架にお架かりになるということを少しも見ていません。それは、救いについても言えることです。弟子たちにとって救いとは、この世における力や富を手に入れて、平和と安寧を手に入れることだったのではないでしょうか。しかし、イエス様は違いました。イエス様が見ていたのは、御自身の十字架とその後の復活です。それによってすべての罪人に罪の赦しを与え、神様との交わりを回復させ、神様の国・神様の御支配に生きる者となるというものでした。
 ここでイエス様を引き渡してユダが手にしたお金は、銀貨30枚であったと聖書は告げます。旧約の出エジプト記21章32節には、「牛が男奴隷あるいは女奴隷を突いた場合は、銀三十シェケルをその主人に支払い、その牛は石で打ち殺されねばならない。」と記されており、イエス様を裏切るのに支払われる銀貨30枚というのは、男の奴隷の値段です。これを現代に換算しますと3万円~5万円程度となります。「たったそれだけか?!」という感じでしょう。この程度の金額で、ユダがイエス様を裏切ったのは「お金のため」というのは、少し考えづらいのではないかと思います。ここで15節「支払うことにした」と訳されている言葉は、直訳すれば「置いた」です。ですから、ユダはこの時お金を手にしたのです。成功したら貰えるということではなく、この時ユダはたとえわずかであってもお金を手にしてしまったのです。ここで「引き渡す」と訳されている言葉は、他の所で「裏切る」と訳されている言葉と全く同じ言葉です。もうここでユダは裏切ってしまった。もうやるしかない。ユダは良い機会をうかがうことにしました。

   3.イエス様が備えた過越の食事
 そして、除酵祭の第一日が始まります。この除酵祭というは、イスラエルが過越の出来事によってエジプトを脱出する時に、イースト菌が発酵するのを待つ時間がなかったことから、過越の祭の時にはイースト菌の入っていないパンを七日間食べる。また、家中からすべての発酵食品を取り除く。味噌も醤油も納豆も全部ダメです。日本食は全滅ですね。どうして酵母や発酵食品をすべて家から取り除くのかピンとこないところがありますが、過越の祭というのは過越の出来事を思い起こすと共に、罪を取り除き、清めて神様の御前に新しく歩み始めるという祭でした。酵母は罪の象徴と考えられていたのでしょう。酵母を取り除く大掃除がなされ、イースト菌の入っていないパンを食べるのが除酵祭です。これは過越の祭の一環と考えて良いと思います。そして、この過越の祭のメインは、それぞれが家族単位に「過越の食事」をすることでした。この過越の食事は、先ほどお読みいたしました出エジプト記に記されておりましたように、様々な規定がありました。今日はこのことについてはあまり触れる暇がありませんが、これはただの食事ではなくて、神の民だけが参加することの出来る宗教的食事であったということです。
 この時、弟子たちはイエス様に「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか。」と尋ねます。過越の祭のために多くの巡礼者たちがエルサレムに来ています。巡礼者たちは多くの場合、親戚や友人の家を頼って過越の食事をします。そうしないと食事をする場所を確保することが出来なかったからです。エルサレムはいつもの何倍もの人たちで溢れているからです。イエス様たちも人数が多いのです。イエス様と弟子たちで、成人男子が13人です。弟子たちは、どうやって過越の食事の場所を確保すれば良いのか全く見当がつきませんでした。イエス様はこう答えられました。18~19節「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。」とあります。他の福音書はこの経緯についてもっと詳しく記していますけれど、マタイは淡々と、イエス様が「都のあの人のところ」に行けば過越の食事の準備は整うようにしておいたと告げているだけです。イエス様が既に過越の食事を備える手はずを整えてくださっていたのです。大切なことはこのことです。この過越の食事は、多くの画家たちが描いているいわゆる「最後の晩餐」です。もっとも、この時イエス様たちは、椅子に座ってテーブルでこの食事をしたわけではありません。当時のユダヤの食事は横になって食べるスタイルです。
 この時に、私共がこの後、共に与る聖餐が制定されました。聖餐が制定された場面については来週御言葉を受けることになりますが、この最後の晩餐は、キリストの教会にとって、聖餐に与る度に思い起こす本当に大切な食事でした。聖書は、その備えがすべてイエス様によって為されたと告げています。それは私共が聖餐に与る場合も同じです。実際にパンを切ったりして準備をしてくれるのは執事の方たちですけれど、この聖餐をキリストの体・キリストの血として与ることが出来るためには、神様・イエス様がすべてを備えてくださったからです。イエス様が私共に代わって十字架の上で裁きを受けられました。そして、神様が私共に御言葉を与えてくださり、私共がその御言葉を受け取ることが出来るようにしてくださり、信仰を与えてくださいました。そして、私共を洗礼に与らせ、私共と契約を結んでくださいました。私共はただその招きに応えるだけです。

4.わたしの時が近づいた
さて、この時イエス様が言われた言葉の中で、マタイによる福音書だけが伝えている言葉があります。それが「わたしの時が近づいた」という言葉です。「わたしの時」、それはイエス様が十字架にお架かりになる時のことです。これが近づいた。この過越の食事の用意をしていたときは、まだ日没前で木曜日でした。しかし、過越の食事をするのは日没後で、それは当時のユダヤの日の数え方で言えば金曜日です。十字架の上で死なれるのはもうすぐです。イエス様はすべてを御存知でした。しかし、弟子たちは知りません。確かに、イエス様は何度も弟子たちに言ってきました。実際、26章2節でイエス様は弟子たちに、「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。(=裏切られる)」と告げています。でも、彼らがそのイエス様の言葉を本気で受け止めていたとは思えないのです。この最後の晩餐となる過越の食事の用意をする時も、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか。」とイエス様に尋ねるのですが、ここには少しも緊迫感がありません。まるで、今までも過越の食事をしていたし、来年もするだろうけれど、今回はどこにしましょうか、そんな感じです。イエス様との過越の食事は、これが最後なのです。イエス様と一緒に食事をするということ自体が、これで最後になるのです。イエス様はそのことをはっきり知っておられた。そして、もう一人いたとすれば、イスカリオテのユダだけでした。
イエス様が十字架にお架かりになる時、それがイエス様の「わたしの時」でした。イエス様が天から降り、人としてマリアから生まれ、大工のヨセフの子として成長し、洗礼者ヨハネから洗礼を受け、弟子たちを召し出し、共に歩んで来た。そのすべての歩みが、ここに向かってのものでした。イエス様がお生まれになったのも、様々な教えを語られたのも、奇跡をされたのも、みんなこの「わたしの時」である十字架に向かってのものでした。遂にその時が来た。神様の救いの御計画、天地が造られた時からの御計画が成就する、神の御子としてのイエス様の「わたしの時」が来たのです。

5.あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている
この食事の席で、イエス様はとんでもないことを語り始めました。21節「一同が食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』」と告げたのです。普通の食事の席で語られるようなことではありません。私共はこの「あなたがたのうちの一人」とはイスカリオテのユダであることを知っています。しかしこの時、弟子たちは知りません。弟子たちの間に緊張が走ったと思います。一体誰がイエス様を裏切ろうとしているのか、そんな思いが弟子たちの心に浮かんだことでしょう。ただ、ユダだけはそれが自分であると知っていました。
 弟子たちは代わる代わる「主よ、まさかわたしのことでは」と言い始めました。イエス様に「お前ではない。」そう言ってもらわなければ、自分の疑いが晴れない。イエス様は自分を疑っているのだろうか?それはないだろう。私じゃないと言ってください。確かに、この時裏切ったのはユダですから、それ以外の11人の弟子たちには身に覚えのないこと、考えたこともないことだったことでしょう。しかし、イエス様はここで「イスカリオテのユダがわたしを裏切ろうとしている。」とは言われませんでした。他の11人を不安にさせてまで、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」と言われたイエス様の意図は何だったのでしょうか。
 私は二つあったと思います。一つは、イエス様を裏切るのはユダだけではなく、すべての者の中に可能性があることを示すためです。事実、この後イエス様が捕らえられた時には弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまいます。そして、ペトロがイエス様との関係を三回否認するという出来事が起きます。イエス様を裏切るのは、イスカリオテのユダだけではなかったのです。イエス様はその事も御存知でした。
 もう一つは、ユダと断定しないことによって、イエス様はなおもユダが悔い改め、方向転換する余地を残されたということではないかと思うのです。イエス様は最後までユダを愛された。ユダに裏切られて捕らえられる時も、イエス様はユダを「友よ」と呼んでいます。確かに24節でイエス様は「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」と言われていますが、これはイエス様の嘆きの言葉です。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」との言葉を見ますと、まるで自分を裏切る者を呪っているかのように聞こえますけれど、そうではありません。「不幸だ」と訳されている言葉は、「ああ」という嘆きや悲しみの間投詞です。23章13節以下にイエス様が律法学者たちとファリサイ派の人々に対して、何度もこの言葉を語った時にも申し上げました。あの時も、イエス様は律法学者たちとファリサイ派の人々を呪ったのではありません。そうではなくて、心を頑なにして悔い改めようとしない彼らのことを憐れに思い、悲しみ、嘆かれたのです。ここでも、イエス様はユダを呪ったのではなく、彼のために嘆いている。わたしと共に生活し、わたしの言葉を聞き、わたしの業を見続けてきたあなたが、どうしてわたしを裏切り、わたしから離れ、わたしの救いから出て行こうとするのか。イエス様はユダを愛するが故に、嘆き、悲しんでいるのです。

6.あなたが言ったこと
イエス様が「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」と語られた言葉を聞くと、それを遮るように、すぐにユダは「先生、まさかわたしのことでは。」と言うのです。他の弟子たちが言った言葉と同じです。ユダは他の11人の弟子たちの手前、自分が裏切る者であることを悟られたくなかったのでしょう。それに対してのイエス様の言葉は、「それはあなたの言ったことだ。」でした。これは不思議な言葉です。ここの口語訳聖書の訳は「いや、あなただ。」です。新改訳聖書では「いや、そうだ。」です。ここの訳は、新共同訳で大きく変わりました。元々、「いや、あなただ。」も「いや、そうだ。」も意訳です。直訳すれば「あなたは言った」です。英語の訳を見ても、「あなたはそう言った。」と訳しています。口語訳などが意訳してきたのは、直訳して「あなたは言った」では意味が通じないと思ったからでしょう。しかし、新共同訳は、ほとんど直訳に近い「それはあなたの言ったことだ。」にしました。それは、イエス様はここで「いや、あなただ。」というような強い言葉でユダと断定しているのではない。そうではなくて、色々なニュアンスを読み取れる、敢えて言えば曖昧な言い方をしている。そのイエス様の思いを読み取って欲しいということで、こういう訳にしたのでしょう。この訳にはイエス様の「先生、まさか私のことでは」というユダに対して、「あなたがそう言うのならば、そうしなさい。止めたら良いが、それはあなたが決めることだ。」そのように、イエス様はユダに語りかけられたのではないか。そう読めるのです。勿論、イエス様はユダが裏切ることを知っています。しかし、まだ実行していない。お金はもらってしまったかもしれないけれど、まだ止めることが出来る。そのことをイエス様はユダに対して期待されたのではないでしょうか。
イエス様は24節「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。」と言われました。確かに、イエス様は数時間後には、ユダの裏切りによって捉えられ、そして十字架に架けられることになります。しかし、それは「聖書に書いてあるとおりに」そのようになるということであって、神様の御心、神様の御計画によってそうなるのだとイエス様は弁えていました。だから、自分を裏切るユダを恨んだり責めたりしているわけではないのです。イエス様はユダのために悲しみ、嘆いているのです。その嘆きは、その悲しみは、イエス様を裏切るからというだけではないと思います。まして、自分を裏切る者に対して「生まなかった方がよかった。」と呪いの言葉を告げているのではないのです。イエス様の愛は、そんな小さな、そんな不徹底なものではありません。この後27章3節以下に記されているように、ユダは首をつって自殺してしまいます。イエス様のユダに対しての悲しみと嘆きは、イエス様を裏切るということだけではなくて、そのことによって引き起こされるユダの自殺、そこまで見越しておられるが故の嘆きであり、悲しみだったのではないかと私は思うのです。

7.ユダにはならないように
ペトロをはじめ、ユダ以外の弟子たちもみんなイエス様を裏切りました。しかし、ユダ以外の弟子たちは、復活されたイエス様と出会い、もう一度召命を受け、イエス様の弟子として全世界に福音を宣べ伝える働きに用いられました。要するに、彼らはやり直すことが出来たわけです。しかしユダは、イエス様が十字架にお架かりになる前に、復活されたイエス様と出会う前に、首をつって死んでしまいました。これではやり直せないのです。
 聖書は私共に、ユダにならないように告げています。それは、ただイエス様を裏切ることがないようにというだけではなくて、たとえ裏切ったとしても、そのような自分を追い詰め、自分で裁いてはならない。私共を裁くことが出来るのは神様だけです。私共は自分自身を裁くことも許されていません。そこには救いが無いからです。そうではなくて、たとえ裏切っても、イエス様の御前から離れず、イエス様の赦しに与って、何度でもやり直しなさい。そう告げているのです。
 私共は長い人生において、神様を裏切る、或いは愛する者を裏切る、そういうことと無縁に生きられる人ばかりではないでしょう。親子であれ、兄弟であれ、夫婦であれ、友人であれ、相手の信頼を裏切ってしまう。人間の罪がもっとも露わに現れるのが、この裏切りというものです。この出来事は、私共の心の奥底に深い傷となって残ります。そして、そのような罪を犯せば、私共は自分の姿に唖然とし、自分に失望し、自分が生きている値打ちがない者であるかのようにさえ思うかもしれません。しかし、イエス様の赦しは、その自分自身を赦せない私共さえも赦してくださるのです。イエス様の赦しは徹底的です。イエス様はすべての罪人を赦し、愛し、新しい歩みを与えてくださるために来られたのです。勿論、赦されるのだから何をしても良いということではありません。裏切らないで生きていくに越したことはない。しかし、たとえ裏切ってしまったとしても、イエス様の赦しに与り、ペトロのように新しく歩み出すのです。ペトロもイエス様を裏切ったことを生涯忘れることはありませんでした。しかしそれは、「それでも赦していただいた。」という喜びと一つになりました。私共はユダになってはならないのです。自分の罪を自分で裁いて、自分を価値のない者と見なすようなことをしてはならないのです。イエス様は、私共を徹底的に愛し、徹底的に赦してくださっているからです。このことをはっきり弁えて、イエス様を裏切らない。愛する者を裏切らない。そして、たとえ裏切ったとしても、イエス様の御前を離れない。イエス様の赦しを受けて、何度でも新しく歩み直すのです。
 私共は今から聖餐に与ります。私共はこの聖餐に与る度に、イエス様と結んだ契約を思い起こします。イエス様が私共の一切の罪を赦してくださるという約束です。そして、私共がイエス様を我が主・我が神として信じ、愛し、従っていくという約束です。この約束は、永遠の約束です。この約束によって、イエス様はこの聖餐を通して私共の中に宿り、私共と一つになって歩んでくださるのです。そのことをしっかり心に刻んで、新しい歩みを、それぞれ遣わされた所において為してまいりましょう。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
 今朝、あなた様はユダの裏切りの出来事から、私共がユダにならないようにとの御言葉を与えてくださいました。私共はまことに愚かで弱く、あなた様を、また愛する者を、裏切ってしまうような者です。しかし、あなた様はそのような私共をも見捨てることなく、完全な赦しを与えてくださり、あなた様の子として生きるようにと召し出してくださいました。まことにありがたく感謝いたします。どうか、私共がこのあなた様との愛の交わりの中に生き切ることが出来ますよう導いてください。
 私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2020年10月4日]