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礼拝説教

「士師ギデオン ~過ちを犯す~」
士師記 8章22~28節
ガラテヤの信徒への手紙 6章1~10節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」(ガラテヤの信徒への手紙6章1節)と聖書は告げています。「不注意にも陥ってしまう罪」というのは、具体的には様々なことが考えられますが、私共が信仰の歩みをしていく中で、わざとではないのですけれど、罪を犯してしまう。人を傷つけてしまうこともあるでしょうし、神様の御心に適わないことを言ったり、してしまったりする。それは誰にでもあることです。わざとではないのですから、なかなか自分では気が付きません。私はそんなことはしていませんなどと言える人はおりません。ですから聖書は続けて、「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。」と告げています。誰でも不注意に罪を犯すことがあるのです。それをしなかった人、それはただ一人しかおりません。主イエス・キリストです。イエス様以外の人間は皆、気付かないうちに罪を犯してしまうのです。
 聖書の中にはたくさんの人が出てきますけれど、信仰の父と言われるアブラハムにしても、ダビデにしても、モーセにしても、ペトロやパウロにしても、罪を犯さずに歩んだ人は一人もおりません。ですから、誰でもイエス様が必要なのです。皆、自分の罪を赦していただかなければならないからです。聖書には信仰の偉人と言われる人たちがたくさん出てくるのですけれど、聖書はその人たちの光の面だけではなくて、闇の面もちゃんと記しています。「あの人は本当に素晴らしかった」では終わらないのです。そんな人は一人もいないからです。それが聖書のリアリズムです。そしてそれは同時に、神様の眼差しでもあります。神様は健やかな信仰者の歩みを御覧になっていますが、同時にその人の過ち、自分でも気付いていない過ちをも見ておられます。神様は、そのすべてを知った上で愛してくださり、救いへと導いてくださるお方だからです。
 今日は10月の第三の主の日です。毎月最後の主の日には旧約から御言葉をいただいていますが、10月最後の主の日である来週は召天者記念礼拝ですので、一週早いのですが、今日の礼拝において旧約から御言葉をいただきます。

2.士師ギデオン ~召命・ミディアンとの戦い~
 今朝は士師記の8章です。8月は、6章のギデオンが召命を受けた場面から御言葉を受けました。ギデオンは元々「勇者」であったわけではありません。ミディアン人に見つからないように酒ぶねに隠れて小麦を打っていたギデオンです。ミディアン人を恐れていたのです。ところがその時、主の御使いがギデオンに現れて、「勇者よ、主はあなたと共におられます。」と声を掛け、イスラエルを救う者、士師として召し出されました。そして、9月は、7章の13万5千人のミディアンの大軍に対し、ギデオンがたった300人で勝利した場面から御言葉を受けました。勿論、この戦いはギデオンがどんなに優れた者であったかを示す出来事ではありません。3万2千人いたイスラエルの軍勢を、神様が減らしに減らして300人にする。そのことによって、人間的に言えば全く不可能な勝利を神様が与えてくださったという、神様の力を示す出来事でした。
 ギデオンは旧約においてとても有名な人ですし、士師の中でもサムソンと並んで皆さんが良く知っている士師です。しかし、多くの人はギデオンと言っても8月、9月に見て来ました聖書の箇所、ギデオンの召命の場面と300人でミディアンの大軍を破った場面くらいしか思い起こさないかもしれません。教会学校などで話されるのも大抵その場面です。それはギデオンの光の面と言っても良いでしょう。しかし、今朝与えられている御言葉はその後のことです。ギデオンの闇の部分と言っても良い所です。聖書は、光の部分だけを書いて、その人があたかも欠けの無い見事な信仰者であったかのような書き方はしないのです。なぜなら、誉め讃えられるべきは、ただ父・子・聖霊なる神様だけだからです。そしてまた、そのような闇の部分を持つ者こそ、その闇の部分を含めて、イエス様の赦しに与る者だからです。

3.誘惑
今朝与えられている御言葉を見てみましょう。8章22節「イスラエルの人はギデオンに言った。『ミディアン人の手から我々を救ってくれたのはあなたですから、あなたはもとより、御子息、そのまた御子息が、我々を治めてください。』」とあります。イスラエルの人々は、ミディアン人の支配から自分たちを解放してくれたギデオンに心から感謝し、頼りにしたのです。イスラエルの人々はギデオンに「このまま、私たちを治めてください。そして、あなたの子や孫がこれからもずっと、私たちを治めてください。」と言ったのです。これは、要するにギデオンに「自分たちの王になってください」と言ったということです。
 士師と王とは、似ているのですけれど違います。第一に、王は常備軍を持ちます。これを維持していくのはなかなか大変ですし、経済的裏付けというものが必要になってきます。士師というのは、緊急時に立てられたリーダーですから、士師の時代にイスラエルには常備軍はありません。つまり、軍人・軍隊というものが存在しなかったのです。戦があるという時には、士師が各部族に招集をかけまして、軍勢を整えるわけです。いつも軍隊がいたわけではありませんでした。第二に、士師は決して世襲ではありません。二代続いた士師はいません。しかし、王様というのは基本的には世襲です。この時、イスラエルの人々がギデオンに「王になってください」と明確に言っていると理解すべきかどうかは、議論があるところです。常備軍には全く触れていないからです。多分、この時イスラエルの人々は明確な「王のイメージ」を持ってはいなかったのではないかと思います。何しろ経験したことがないのですから。しかし「あなたはもとより、御子息、そのまた御子息が、我々を治めてください。」という言い方には、明らかに世襲の考え方が表れています。しかし、これは神様がその時その時に相応しい者を選んで立てるというあり方と対立するものです。
 ミディアン人には王がいる。自分たちにはいない。だから、今まで7年間彼らに支配されるばかりで、何も出来なかった。しかし、今はギデオンがいる。彼なら我らの王に相応しいし、彼ならこれからもずっと自分たちを守ってくれるだろう。イスラエルの人々がそう思っても不思議はありません。イスラエルの人々に悪気はなかったでしょう。しかし、これはギデオンに対しての大きな誘惑になりました。ちなみに、イスラエルにおいて初めて王として立てられたのはサウル王でした。サウル王の息子ヨナタンが死んでしまい、二代目の王はダビデでした。そこからダビデ王朝が続くのですが、サウルが王として立てられる時、神様は喜んでこれを立てたのではありませんでした。神の民イスラエルの王は神様だからです。しかし、イスラエルの民は他の国のように「自分たちにも王が欲しい」「王が必要だ」と言います。「我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」(サムエル記上8章20節)と言うのです。イスラエルは「他のすべての民と同じように」なってはいけない民です。神の民だからです。しかし、イスラエルの人々は「他のすべての民と同じように」なりたいと言う。だから神様は仕方なく、サウル王を立てたのです。ギデオンの時から100年以上後のことです。
この時、ギデオンはこの誘惑にすぐに陥ることはありませんでした。彼はこう答えました。23節「ギデオンは彼らに答えた。『わたしはあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる。』」そうなのです。神の民を治めるのは主なる神様だけなのです。ギデオンはよく弁えています。さすが士師と言うべきでしょう。「このたびの勝利は神様が私を選び、神様が働いてくださって、あり得ない勝利を与えてくださっただけです。私が勝利をもたらしたのではありません。士師は神様に選ばれて士師とされただけであって、自分の力や能力でその立場を手に入れたのではありません。まして、自分の子、自分の孫が神様に選ばれて士師になるかどうか、それは神様が決めることであって、私たちが決めることではない。」そう、ギデオンは告げたのです。
 イスラエルの人々は、どうして王のような存在を必要と思ったのでしょうか。はっきり言えば、神様は見えないし、頼りにならないと思ったからでしょう。ここに、このギデオンに対する誘惑の本質があります。神様を頼るのではなく、ギデオンを頼る。もし、ギデオンがこの誘惑に負けたのならば、彼は神様を頼るのではなくて、自分を頼ることを良しとする者になってしまいます。これが偶像礼拝の本質です。ギデオンはこの時、その罪を犯すことはありませんでした。しかしです。まことに残念なことに、彼はこの誘惑を完全に退けることが出来ませんでした。いったんは退けるのです。しかし、彼の心の中で何が起きたのか分かりませんが、彼は罪を犯してしまうのです。

4.堕罪:金のエフォド
それが24節以下に記されていることです。24~27節a「ギデオンは更に、彼らに言った。『あなたたちにお願いしたいことがある。各自戦利品として手に入れた耳輪をわたしに渡してほしい。』敵はイシュマエル人であったから金の耳輪をつけていた。人々は、『喜んで差し上げます』と答え、衣を広げて、そこに各自戦利品の耳輪を投げ入れた。彼の求めに応じて集まった金の耳輪の目方は、金千七百シェケルで、そのほかに三日月形の飾り、垂れ飾り、ミディアンの王たちがまとっていた紫布の衣服、らくだの首に巻きつけてあった飾り物があった。ギデオンはそれを用いてエフォドを作り、自分の町オフラに置いた。」と記されています。ギデオンは王になることを拒みました。そこまでは良いのです。ところが、彼はイスラエルの人々に戦利品の耳輪を拠出して欲しいというのです。何のためかと言いますと、金のエフォドを作るためでした。そして、それを自分の町オフラに置いたのです。使われた金は1700シュケル、約20kgです。この「エフォド」というのは、祭司の衣装の一つでエプロンのようなものですが、これを20kgもの金で作ったら重くて全く使い物になりません。だからこれは、像のように立てられたのだと思います。着る人がいないエフォド。当時、聖所はシロにありました。そこには祭司がいました。ところが、祭司のいないギデオンの町オフラにこの金のエフォドが置かれました。人々はギデオンを王にしたいと願っていたほどですから、ギデオンが作ったこの金のエフォドは神の像としての役割を果たすようになってしまったのです。27節b「すべてのイスラエルが、そこで彼に従って姦淫にふけることになり、それはギデオンとその一族にとって罠となった。」と言われているのはそういうことです。「彼に従って姦淫にふける」とは「彼に従って偶像礼拝にふける」ということです。「姦淫する」と「偶像礼拝する」は全く同じ言葉だからです。つまり、ギデオンはこの金のエフォドを拝み、イスラエルの人々もそれに倣ったということです。しかし、この場合の「姦淫にふける」には文字通り姦淫ふけったという意味もあるかもしれませんが、その事は後で触れます。
 ギデオンは何ということをしてしまったのかと思います。偶像礼拝をしたから、神様の懲らしめによってミディアン人に苦しめられ支配されてしまったイスラエルでした。そして、神様に助けを求め、与えられたのが士師ギデオンです。そして、ギデオンは神様の導きの中で、イスラエルをミディアン人の手から解放しました。それはすべて神様のお陰でした。ですから、イスラエルはこの後、偶像礼拝と決別し、ただ主なる神様のみを愛し、これに信頼し、これに従って生きるようになった。そういう結論になってくれないと、一体ギデオンは何をしたのか、これでは元の木阿弥ではないかということになってしまいます。そうなのです。ギデオンが生きている間、40年間はまだ良かったのです。しかし、その後イスラエルは内乱・内戦状態になっていってしまいます。その原因がこの金のエフォドにあったと聖書は告げているのです。

  5.偽善だったのか? 
ギデオンは23節で、「わたしはあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる。」と語りました。ところが、24節以下では「金のエフォド」を作り、これを拝むという行動をとった。何かすんなり繋がりません。皆さんはどうでしょうか。ギデオンの何ともよく分からない、筋が通らない、奇々怪々な心の動きです。これが人間というものだとも言えるかもしれませんが、これを偽善だと言うことも出来るでしょう。つまり、23節の「わたしはあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる。」との言葉は、まことに立派で、信仰的にも全く正しい。しかし、ギデオンは本気でそう言っていたのではないということです。表向きは正しい言葉を語ったけれど、それと裏腹の心があったのだ。それは、神に栄光ではなく、自分に栄光をという心です。
 この心は、「金のエフォド」にだけ現れたのではありません。今日与えられた御言葉のすぐ後の所、30節に「ギデオンには多くの妻がいたので、その腰から出た息子は七十人を数えた。」とあるのです。息子だけが生まれるということはありませんから、娘もいたはずです。そうすると、100人とか150人という子がいたということになります。これは尋常な数ではありません。20人、30人くらいの側女がいたはずです。これを指して「姦淫にふけった」と言っているのかもしれません。何十人もの側女を持ち、70人の息子を育てる。普通の人にはこんなことは出来ません。ギデオンは、口では「王にはならない」と言っていても、実際には王様のような生活をしていたということではないでしょうか。
 更に、31節には「シケムにいた側女も一人の息子を産み、彼はその子をアビメレクと名付けた。」とあります。70人もいる息子の中でこのアビメレクの名が記されているのは、彼が9章においてとんでもないことをするからです。彼は自分の70人の兄弟を殺してしまうのです。このアビメレクという名前が問題なのです。これは「父は王である」という意味の言葉です。ギデオンは口では王にはならないと言いつつ、心の中では「自分がイスラエルの王だ」と思っていた。だから、子にこのような名前をつけたのではないか。そして何十人もの側女を置いたのではないか。そのように読むことが出来るのです。つまり、ギデオンは偽善者だった。彼は偽善という罪を犯し、それは必然的に偶像礼拝へと繋がっていったという理解です。

6.不注意からの罪か?
 しかし、このように理解することも出来るのです。ギデオンはイスラエルの人々から王となってくれるように願われるほどに、信頼も人気も最高潮に達した。お金も集まってきたことでしょう。そういう中で、近隣の諸国・諸民族から、或いはイスラエルの中から、お近づきになりたいと願い出て、側女を連れて来る。ギデオン自身が求めたわけではないが、そうなってしまう。そういうことも十分に考えられます。ソロモンの晩年がまさにそうでした。ソロモンには「七百人の王妃と三百人の側室がいた」と列王記上11章3節に記されています。とんでもない数です。この外国から来た王妃、側室たちが王宮に様々な神々を持ち込んできました。そして、ソロモンも「主の目に悪とされること(偶像礼拝)を行った」のです。勿論、ギデオンの時とイスラエルが最も繁栄したソロモンの時代とは、そのスケールにおいて比べものにはならないでしょう。しかし、神様に選ばれ、神様の祝福を受け、神様の御業に仕えることにおいて、大いなる成果が与えられた場合、このような誘惑が襲い、人は有頂天となり、自分が偉い者であるかのように勘違いして、罪を犯す。そういうことはいつでも、誰にでもあるのではないかと思います。いわゆる「調子に乗る」ということです。そして、気付かないうちに道を踏み外し、気が付けばもう戻ることが出来ないほどに、神様から遠く離れてしまう。自分の成功が神様の御業によるものではなく、自分の能力や才能によるものだと思い、自分は大した者だと思う。実は、これが知恵のある悪しき霊のたくらみなのです。しかし、それに気付く人は多くありません。本人に気付かせない。それが悪しき霊の知恵の見せ所だからです。

7.私はどうか?
ギデオンの話を見て来ました。この話を聞きながら、何時の時代も同じだと思われた方も多いと思います。ビジネスの世界でも、政治の世界でも、学問の世界でも、芸術の世界でも、牧師の世界であってさえも、同じことは起こりますし、現に起きています。私共はこの誘惑に本当に弱いのです。自覚的にこれと戦える人は本当に少ない。逆に自らの力を誇示し、逆らう者を悪し様に言って引きずり下ろす、徹底的に叩く。これは、どこででも起きていることです。皆さんも具体的な人を思い起こしたかもしれません。しかし、ここで個人名をいくら出しても全く意味はありません。問題は、私はどうかということです。勿論、私は別に人にチヤホヤされるほどに成功したわけではないので関係ない、そう思われるかもしれません。しかし、ギデオンを王にしようとした人たちは一般の人たちだったのです。彼らがチヤホヤしたから、ギデオンも勘違いしてしまったのでしょう。その意味では、彼らもまた、悪しき霊に利用され、操られていたのではないでしょうか。
 私はイエス様の裁判の場面を思い起こすのです。総督ピラトが、死刑にあたるような罪をイエス様に見いだせず、釈放しようと思います。そして、バラバという囚人かイエス様か、どちらを釈放して欲しいかと問うと、人々は「バラバを」と叫び、イエス様の方はどうしたらよいかと問うと、人々は「十字架につけろ」と叫んだのです。群衆は、自分たちが「神の子殺し」という恐ろしい罪に荷担しているとは思っていなかったでしょう。しかし、ここに悪しき霊が働いていたことは明らかです。いつの間にか操られてしまう。私共の中に、この悪しき霊の囁きに答えてしまう罪があるからです。それが、神様にではなく、自分に栄光をという罪なのです。しかし、イエス様はそのような者のために十字架にお架かりになったのです。
 前任地の教会学校で育った青年が、こんな話をしてくれたことがあります。教会員であったお母さんは、僕が頑張って良い結果が出たら、「神様のお陰」と言い、僕が失敗すると、「あなたが悪い」といつも言う。「これが本当に嫌だった。」自分の手柄を神様に横取りされるような感じだったのでしょう。ご安心ください。彼は信仰告白をし、今は社会人キリスト者として生きています。お母さんとしては、調子に乗らないこと、自惚れないこと、神様に感謝すること、自分の怠惰と戦うことを教えたかったのでしょう。しかし、幼い時から私共の中には「神様ではなく、自分は大した者だと思いたい」という心があるのです。もっとも、お母さんももう少し言い方があったのかもしれません。

 説教の最初にお読みしました聖書は、調子に乗っている人がいたら「柔和な心で正しい道に立ち帰らせること」そして「自分に気を付けること」を勧めています。どちらもなかなか難しいことですけれど、キリストにあるこの交わりの中で、それを為していくことによって互いに訓練を受け、御心に適う者へと変えられていきたいと思うのです。
 私共はただ神様の守りと支えと導きの中で、為すべきことを為しているに過ぎません。誉め讃えられるのはただ父・子・聖霊の神様だけです。このことだけは、いつもはっきりさせ、徹底していきたいと思うのです。

  祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
 今朝、あなた様はギデオンが過ちを犯してしまったことを通して、私共があなた様の御前に謙遜に、あなた様を誉め讃える者として歩んでいくようにと教えられました。どうか、私共が自らの弱さを知り、悪しき霊の策略に踊らされることなく、落ちついて、ただあなた様にお仕えする者として歩んでいくことが出来ますよう、右にも左にも逸れることがありませんよう、聖霊なる神様の導きを心からお願い申し上げます。
 私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2020年10月18日]