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礼拝説教

「今日、わたしはお前を生んだ」
詩編 2編1~12節
コリントの信徒への手紙二 4章5~10節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今日からアドベントに入るまで、詩編から御言葉を受けてまいります。詩編は祈りの詩であり、本来はメロディーがついて歌われていたものです。ただ、メロディーを表記する方法がありませんでしたので、今ではメロディーは分からなくなり言葉だけが残っているわけです。宗教改革者カルヴァンは、何とか詩編を歌えるようにして礼拝の中で用いようとしました。それが「ジュネーブ詩編歌」として今に伝えられています。讃美歌21にはこの詩編歌が幾つも収められていますので、私もなるべくこれを礼拝の中で用いたいと思っています。
 さて私共は、詩編と言えば祈りの書と理解していると思います。それはその通りなのですけれど、それだけではありません。新約聖書は詩編から多くの言葉を引用して、イエス様についての預言として扱っています。「祈りの言葉が預言?」そう思う方もおられるかもしれません。確かに、祈りの言葉は、私共が神様に向かって紡ぎ出すものです。一方、預言は、神様がその御心を示すために与えるものです。どうしてこの二つが重なるのか。不思議と言えば不思議です。しかし、これこそが詩編の詩編たる所以なのです。詩編は聖書に収められています。つまり、神の言葉なのです。詩編を作ったのは詩編の詩人であり、多くは名も知られていない人でした。しかし、そこに聖霊なる神様が働いて、その祈りの言葉の中にも「御心」を現してくださったのです。実に、この神様のお働きがなければ、名も無き詩編の詩人の祈りの歌が、聖書に収められることはなかったでしょう。そして、新約聖書は、この詩編に神様の御心が示されていることを、聖書を記された同じ聖霊なる神様の導きによって知らされ、詩編からたくさん引用したのです。意外に思われるかもしれませんが、新約聖書に引用されている旧約の言葉の中で一番多く引用されている旧約の書は、詩編です。そして、その次がイザヤ書なのです。旧約聖書の最も正しい読み方は、新約聖書がそれをどう読んでいるか、この新約聖書の読み方、解釈の仕方だということになると思います。
 しかし、現代の詩編の注解書を読みますと、その詩編が書かれた状況とか、その言葉が意味していたことなどはよく説明されているのですが、その詩編が預言として何を指し示しているのか、どのような神様の御心が示されているかということについては、あまりはっきりとは記していません。詩編を文献として読んで分析しているからでしょう。しかし、詩編は神の言葉である聖書に収められているのですから、それでは十分とは言えません。この詩編の中に神様の御心がどのように示されているのか、そのことも明らかにされなければならないからです。

2.王の即位の歌
 この詩編第2編は、王の即位の際に歌われたものと考えられています。どの王の即位の時に作られたのかは、よく分かりません。しかし、この詩編は王が即位する度に歌われたのではないかと考えられます。神の民イスラエルの王は、即位の際に油を注がれました。この「油を注がれた者」という言葉が、へブル語では「メシア」、ギリシャ語では「キリスト」となります。
 この王に対して、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげ、この王に従おうとしない。この王が自分たちの自由を奪い、自分たちを束縛する者だと考えるからです。地上の王や支配者は、この油注がれた王、神様に選ばれ、神様によって立てられた王を認めない。しかし、神様はそのような地上の王や支配者のことを、「天の王座」から「笑う」のです。嘲り笑うのです。「何をやっているのか。お前たちに何が出来るというのか。わたしの立てた王に逆らって、何をしようというのだ。」そのように笑うのです。そして、神様は「聖なる山シオン」つまりエルサレムにおいて、神様御自身が王を即位させたと宣言される。そして、この王に対して神様は、7節「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。」と告げ、8節「求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする。」と告げられるのです。更に10節「すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。」と告げられます。
 このように読んでいきますと、この詩編がイスラエルの特定の王の即位を歌っているとは、どうも思えないのです。少なくとも、ここにおいて告げられた、8節「求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする。」とか、10節「すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。」という御言葉を成就した王はイスラエルの歴史にはおりません。確かに、神の民イスラエルの王は、神様によってエルサレムにおいて即位したのでしょう。しかし、最も繁栄したダビデ王やソロモン王の時でさえ、古代エジプトやメソポタミアの帝国を凌駕するようなものでは到底ありませんでした。まして、それ以外の王の時など、イスラエルは当時の古代オリエント世界における辺境の弱小国でしかありませんでした。地の果てまで領土とした王など一人もいません。確かに、この詩編は王の即位の時に歌われたものであるかもしれません。しかしそれは、神の民の王という存在そのものが、後に来られる「まことの王キリスト」を指し示していたからです。つまり、この詩編は、まことの王であるキリストの到来を予言する詩となっているのです。そのことを見ていきましょう。

 

3.キリスト預言(1)「油注がれた者」
まず第一に、この王が「油注がれた者」つまり「メシア」「キリスト」と呼ばれていることです。そして、このキリストに対して、いつの時代でも国々は騒ぎたち、人々は逆らい、地上の王は従わず、支配者たちは結束して逆らう。それは、自分の自由が束縛されると考えるからです。自分の自由。それは自分が、自分の思いのままに、やりたいように生きるということです。もっとはっきり言えば、自分が神となり、自分の願いや求めることを実現させるために偶像を作り、主なる神様に従わない。イエス様の十字架は、その結果として起きた出来事です。しかし、神様はそれを笑うというのです。イエス様の十字架によって、人々の反逆によって、神様の救いの御業はとん挫したでしょうか。しませんでした。イエス様は三日目に墓からよみがえり、永遠の命への道を開き、救いの御業を貫徹されました。
 そして、イエス様は天に昇られ、父なる神様の右に座し、この世界のすべてを支配しておられます。8節「求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする。」は、主イエス・キリストというまことの王の到来によって成就されたのです。確かに、そのことが既に成就しているようには見えないかもしれません。相変わらず世界は混乱し、国と国とは争い、その狭間で弱く小さな国々は狼狽え、脅えています。しかし、全能の父なる神様とイエス様の御支配、神様の救いの御業は、確実に前進しています。それは7節で「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。」と言われておりますように、神様の救いの御計画の中で既に決まっていること、定められていることなのです。それは、信仰の眼差しをもって見なければ分からないでしょう。世界は力と力のぶつかり合いで、力のある者が勝つ、そのような世界にしか見えないかもしれません。しかし、聖書は告げます。信仰の眼差しをもって見よ。この世界の主は誰か。この世界を造った者は誰か。自らが世界の王であるかのように思い違いした者で、永続した者がいたか。永続した国があったか。永続した組織があるか。何もない。なぜなら、この世界のただ独りの王は天の父なる神様であり、私共の主はその独り子主イエス・キリストだからです。そして、それが明らかになるのが、イエス様が再び来られる時です。その時イエス様はすべての民を裁かれます。9節に「お前は鉄の杖で彼らを打ち、陶工が器を砕くように砕く。」とありますように、その御力によってすべての者を裁かれるのです。代々の聖徒たちが「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。」と告白している通りです。

4.キリスト預言(2)お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ
 そして、決定的な言葉が7節bの「主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。』」です。これは新約聖書の中で何度も引用されています。少し思い起こしてみましょう。
 マタイによる福音書3章16~17節、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた場面です。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」とあります。神様がイエス様に対して「わたしの愛する子」と告げられました。
 また、同じマタイによる福音書17章5節、山上の変貌の場面です。イエス様が山の上で姿を変えられ、モーセとエリヤと語られた時のことです。「光り輝く雲が彼らを覆った。すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた。」とあります。
 更に使徒言行録13章33節で、パウロがイエス様こそ救い主メシアであることを告げるためにこの詩編第2編を引用しています。長い説教の一部です。「つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、『あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ』と書いてあるとおりです。」と記されています。
 また使徒言行録4章23~28節においては、イエス様の苦難そして使徒たちが受ける苦難を、この詩編第2編の御言葉の成就と受け止めていたことが分かります。ペトロとヨハネが議会に捕らえられて解放された後、仲間たちのところへ行った時に彼らが捧げた祈りが記されており、そこにはこうあります。「さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。『主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。「なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう。」(ここが詩編第2編の引用です。) 事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。』」とあります。イエス様が十字架に架けられたことが、この詩編の預言の成就であったと理解しているわけです。
これ以上、この詩編第2編が新約聖書において引用されている箇所を読みませんけれど、ヘブライ人の手紙でも2箇所引用されています。
 つまり、イエス様の弟子たち、そして新約聖書を記した者たちは、この詩編の第2編を主イエス・キリストの到来を預言している言葉として読んだのです。この詩編第2編を成就された方こそ主イエス・キリストである。この詩編第2編にイエス様が神の御子である確かな証拠がある。そう読んだのです。

5.いかに幸いなことか
とするならば、キリスト者はどのように歩むことが御心に適うことになるのでしょうか。詩編2編10~11節「すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。」とあります。この「目覚めよ」は口語訳では「賢くあれ」と訳され、「諭しを受けよ」は「戒めを受けよ」と訳されておりました。要するに、この世の王たち、権力者たちよ、自分が賢く正しく、自分の思い通りにやっていけばよいなどと思うな、ということです。なぜなら、この世界の主は神様であり、神様が生んだ御子・主イエス・キリストだからです。これに聞く。これに従う。これがこの世の王の為すべきことなのだというのです。この世の王は、主イエス・キリストというまことの王に聞き従う。そうでなければ、必ずこの世の王は、自分の立場が神様に与えられたことを忘れ、自らが神であるかのように思い違いをしてしまうものだからです。歴史の中での大きな悲劇は、そこから生まれました。人間は人間でしかないのです。
 これは、王でも権力者でもない私共とて同じことです。11節「畏れ敬って、主に仕え、おののきつつ、喜び躍れ。」と告げられています。主イエス・キリストを畏れ敬うのです。そして、この方に仕えるのです。何よりもこの方を信頼し、この方に依り頼むのです。この方は、自らの命を十字架の上で捨てたもうほどに、私共を愛してくださっているからです。そして、この方は全能の父なる神様の御子として、私共の思いを超えた知恵と力をお持ちだからです。この方と共に歩むならば、私共は決して滅びに至ることはないからです。辛いこと、悲しいこと、困り果ててしまうことはあるかもしれません。しかし、滅びることはありません。必ず道は開かれます。主が、必ず道を開いてくださいます。
 詩編の詩人は、12節b「いかに幸いなことか、主を避けどころとする人はすべて。」と歌っています。何と幸いなのでしょう。主を依り頼む者は神の子とされ、永遠の命に与る約束が与えられているからです。この信頼が裏切られることはないからです。

6.我が内なる宝:キリスト
この詩編第2編の御言葉がイエス様によって成就されたと信じた使徒パウロは、先ほどお読みいたしましたコリントの信徒への手紙二4章5節でこう記します。「わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるキリスト・イエスを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。」と申しました。「僕(しもべ)」と訳されている言葉は、直訳すれば「奴隷」です。パウロは、自分はキリストの奴隷であり、コリントの教会の人々に仕える奴隷だと言うのです。「会社の奴隷」とか「お金の奴隷」とか言われて、良い気持ちがする人はいないでしょう。奴隷とは、自分では何も決められない、自由を失った、主人に支配されている者だからです。少しも良い言葉ではありません。しかし、パウロはその手紙の中で何度も何度も、自分を言い表す言葉としてこの「奴隷」という言葉を使いました。彼にとって「キリストの奴隷」「人々に仕える奴隷」という言葉は、キリストに救われた者としての誇りと喜びをもって用いた言葉だったのです。イエス様を信頼し、畏れ敬うとは、「キリストの奴隷」と言い切れるほどまでにイエス様を信頼し、愛し、仕えるというということなのです。私ではなく、私ではなく、キリストが主人となってくださった。そこに、私共の喜びと誇りがあるのでしょう。
 その喜びと誇りの中で、パウロは4章8~9節でこう告げるのです。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」「四方から苦しめられること」はあるのです。「途方に暮れること」もあるのです。「虐げられること」もあるのです。「打ち倒されること」もあるのです。しかし、「行き詰まる」ことはありませんし、「失望する」ことはありませんし、「見捨てられる」ことはありませんし、何よりも「滅びること」はありません。
 それは、私共の中に宝があるからです。私共は土の器です。弱く、脆く、すぐに割れてしまうようなものです。肉体的にも、精神的にも、私共は弱いのです。しかし、この弱い素焼きの土の器のような私共の中に、神様は宝を与えてくださった。この宝、色々言い換えることが出来るでしょう。この文脈に沿って言えば、「キリストの栄光を知る知識」となるのでしょうが、キリストに対する信仰、キリストの福音、そして何よりもキリスト御自身こそが、私共の内に与えられた宝なのでありましょう。この宝の故に、私共は行き詰まることも、失望することも、見捨てられることもなく、何より滅びることもないのです。何という幸いでありましょう。詩編第2編の詩人が「いかに幸いなことか」と歌った幸いに、私共は既に与っている。ありがたいことです。

 今から私共は、聖餐に与ります。キリストの体と血とに与ります。私共の内に、どんな困難でも破壊することが出来ない宝が、与えられるのです。キリストは私共の中に、そして私共もキリストの中に、生きるのです。主を信頼し、主を愛し、主に従う者として歩んでまいりましょう。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
 あなた様は今朝、詩編第2編の御言葉を通して、あなた様がすべてを支配し、まことの救い主、主イエス・キリストを与えてくださり、その独り子によって私共が何と幸いな者とされているかを改めて教えてくださいました。ありがとうございます。どうか私共が、あなた様を畏れ敬い、イエス様を我が主・我が神として、これを愛し、これに聞き、これに仕えていくことが出来ますよう、御言葉と共に我が内に宿ってくださる聖霊なる神様の導きの中に生かしてください。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2020年11月1日]