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礼拝説教

「永遠の喜びをいただく」
詩編 16編1~11節
エフェソの信徒への手紙 3章1~13節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 アドベントに入るまで、しばらくの間、旧約の詩編から御言葉を受けます。先週は詩編第2編から御言葉を受けました。そこで、詩編は祈りの詩だけれども預言でもあるということを確認しました。詩編は、新約聖書においてキリスト預言としてたくさん引用されているからです。今朝与えられております詩編16編も、その意味では預言でもあります。10節の「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」を、使徒言行録13章35節においてパウロはイエス様が復活されることを預言している言葉として引用しています。使徒言行録における引用は、七十人訳と呼ばれるギリシャ語訳聖書からの引用ですので少し言葉が違いますけれど、この詩編の16編10節の引用であることは間違いありません。
 では、祈りの詩である詩編がなぜイエス様の復活を預言しているのか、キリスト預言となっているのか。それは詩編が他の旧約の書と同じように、聖霊なる神様の導きの中で記されたものだからです。聖霊なる神様、それは父なる神様の霊であり、主イエス・キリストの霊です。ここに、詩編の決定的に重要な意味があります。詩編の詩人が祈る言葉は、神様の霊・キリストの霊の導きの中で与えられた言葉です。その意味では、詩編はイエス様の祈りと言っても良いほどなのです。このことは、詩編の祈りがどういう祈りなのかを示しています。これは主の祈りと重ねるようにして考えると分かりやすいと思います。私共はイエス様によって「主の祈り」を与えられました。この祈りによらなければ、私共は神様に対して「父よ」と呼ぶことはなかったでしょうし、こうして欲しい、ああして欲しいといった自分の願いを神様に聞いてもらうための祈りしか知らなかったでしょう。しかし、私共はイエス様から「主の祈り」を教えていただき、神様との交わりの中にあることを知らされ、神様に向かって「父よ」「父なる神様」と呼びかけて祈る者とされました。そして、神様の御名が崇められることを第一の祈りとすることを知らされました。これは私共が、父なる神様とイエス様との深い信頼に結ばれた交わり、そこで為される祈りの世界へと招いていただいたということでしょう。それと同じように、キリスト預言でもある詩編の祈りは、「このように祈りなさい」「このように祈って良いのだ」と教え、私共を父なる神様との交わり中で捧げられる祈りの世界へと招いている。詩編の祈りは、私共の唇に自然に上る祈りではなく、主の祈りと同じように私共の外からやって来る祈りです。神様に適う祈りへと私共を導く、それが詩編の祈りなのです。

1.神よ、守ってください
 この詩編は、神様との深い確かな信頼の中で歌われている祈りです。「神よ、守ってください、あなたを避け所とするわたしを。」と歌い始めます。「あなたを避け所とする」とは「あなたを寄り頼む」「あなたを信頼する」ということです。神様が、神様だけが、守ってくださることを知っているからです。神様に守っていただかなければどうにもならない。自分の力ではどうにもならない。そのことを知っているのです。一生懸命頑張ってもみた。でも八方塞がり。どうにもならない。そういうことが、私共が生きていく中で何度もあるのです。この詩編の詩人はそのようなことを経験してきたのでしょう。自分の力や能力、或いは努力や真面目さ、社会的な立場や富を用いて何とか出来ると思ってきたのかもしれません。でもダメだった。その崩れ落ちそうになる心の中で、頼るべきお方がいる。本当に信頼しなければならない方がいる。天地を造られた神様だ。この方に頼ろう。この詩編の祈りは、神様以外のものを頼っていた者が、ただ神様だけを頼ろう、神様だけを信頼しようという回心(心が回ると書く回心です。心を改めると書く改心ではありません)を与えられ、この神様への方向転換という回心によって生まれた、回心した者の祈りです。ですから、この回心という神様への全面的な方向転換がなければ、この祈りを私の祈りとして祈ることは出来ませんし、この祈りは分からないということになるでしょう。この詩編の祈りは、この神様への回心によって開かれる神様との交わりの世界、その神様との交わりにおける祈りへと私共を招いているのです。

2.主にあるわたしの幸い
 この詩編は、2節で「あなたはわたしの主。」と主なる神様に呼びかけます。これは「主に申します。」と言うのですから、神様に対しての信仰の告白です。神様が私の主である。これが根源的な私共の神様への告白であり、私共と神様との関係です。私が主ではないのです。神様に向かって回心する前、私共は自分が主でした。すべてが自分のためであり、自分の都合、自分の損得、自分の気持ちがいつも一番でした。しかし、そこに本当の幸いはありませんでした。なぜなら、私自身が些細なことで心が揺れ、気分は浮き沈みを繰り返すだけだったからです。
 主なる神様に向かって詩人は、「あなたのほかにわたしの幸いはありません。」と歌うのです。神様以外に幸いはない。神様以外のものを頼っても、そこに「わたしの幸い」はないと断言します。ここには強烈な神様との交わりが歌われています。まるで恋人が「あなた無しでは生きていけない。」と言っているかのような、神様と強く、激しく、しっかりと結びつけられた者の言葉です。神様がおられなければ、神様と一緒でなければ、他の何を手に入れても幸いではない。それほどまでに神様との交わりの中に生きている。これは愛の交わりです。この詩編を祈る者は、主なる神様を愛している。この神様との愛の交わりの中に生きる者には、他の神様に心引かれるなどということは全く考えられないことです。そこには、「わたしの幸い」はないからです。
 5節「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。」と歌います。「わたしに与えられた分」というのは、口語訳では「わたしの嗣業」と訳されていました。嗣業というのは、代々受け継いできた財産、主に土地のことです。イスラエルの民は出エジプトをしてヨシュアによって約束の地に入り、そこで部族ごとに土地が分配されました。その土地は原則として売り買いすることは出来ず、神様が与えてくださった土地、神様の嗣業として受け継いでいきました。詩編の詩人はここで、神様こそがわたしの代々受け継いできた大切な財産だと歌っているわけです。神様こそが財産だ、生きていく糧を得るところだと歌っている。神様と共に生きるならば、他に何も要らないほど自分は満足だ。これでやっていける。そう歌っているのです。神様は、私共が欲しがる、目に見える何かを与えてくれるから大切だ、ありがたくて素晴らしいというのではありません。神様こそが、神様とのこの交わりこそが何よりも大切な財産なのだ。これさえあれば生きていける。他に何が要るだろうか。そう歌うのです。
 それは、神様によって与えられたのがわたしの人生であり、わたしの置かれている環境であり、わたしの今の状況なのだ。そして、それは良い土地であり、良い人生であり、良い環境だと歌うのです。それが6節です。「測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました。」「測り縄」というのは、土地を測量するするときに用いる縄です。神様が測り縄で測って、わたしに与えてくれた土地。それが「わたしの嗣業」です。この詩人が得た嗣業が、他の人と比べて恵まれたものであったかどうかは分かりません。日当たりも良く、肥沃な土地であり、水にも困らない。そのような土地であったかは分かりません。そんなことはどうでも良いのです。神様が与えてくださったのです。だから、それは良い嗣業なのです。私共は、人と比べている限り、神様が与えてくださったものであることが分からない限り、「もっとこうだったら」「せめて人並みに」という思いから離れることは出来ないでしょう。その時私共の心には不平や不満が満ちます。それから逃れることは中々出来ません。しかし、神様が与えてくださった。そのように受け取るとき、不平と不満の対象であったものが、神様の愛のしるし、神様の恵みそのものであることに気付く。景色が変わるのです。私の才能も、私の家族も、私の体も、私の置かれている状況も、私の人生そのものが、神様に与えられたものです。神様との交わりの中で、私共はそのことに気付かされ、そのようにすべてを受け取り直すことが出来るのです。これで良い。いや、これが良い!神様が与えてくださったものだからです。
 この詩編は、そのような神様との交わり中にある喜び、平安へと私共を招いています。あなたもこう祈れる。あなたもこの神様との交わり中に生きよう。そう招いているのです。イエス様が「主の祈り」において「天にまします我らの父よ」と祈るように教えてくださったように、私共はこの詩編の祈りを自分の祈りとして祈れるようにと招かれているのです。神様は私共を愛し、私共の父となってくださったからです。イエス様によって、私共は神様の子どもとしていただいたからです。

3.わたしは常に主をわたしの前に置く
 そのような神様との交わりの中で生きる自分の姿を、この詩編はこう言い表しています。8節「わたしは絶えず主に相対しています。」これは神様と一対一で向き合っているということでしょう。口語訳では「わたしは常に主をわたしの前に置く。」と訳されていました。要するに、自分が神様の御前から離れないということです。良い時も悪い時も、わたしは神様の前から離れない。神様と向き合っている。神様から目を逸らさない、顔を逸らさないということです。神様の御前から逃げない。どんな時もです。私共はお祈りしている時だけ神様の御前に居るのではありません。いつでも、どこでも、何をしていても、神様の御前に生きているのです。
 それ故、「主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。」と続くのです。理屈っぽい人は、「あれ?神様の前に居たんじゃないの。どうして右なの?」と思うかもしれません。前とか右といっても、それは方向を言っているのではありません。そもそも、神様の前とは何なのか?前があるなら裏もあるのか?そんなものは無いでしょう。神様は全宇宙でさえも入れることが出来ないほどに大きく、しかし私共の中に入られるほどに小さくもなられ、私の正面におられ、私の上におられ、私の下におられ、私の右におられます。私と共におられ、あなたと共におられる。それが神様です。この「わたしの右」とは、私を「助ける人」「弁護する人」が居るところを示す言葉です。つまり、この詩編は「神様がわたしを助けてくださるから、わたしは揺らがない。」と歌っているのです。わたしが頑張るから揺らがないのではありません。神様が助けてくださるから揺らがないのです。しかしそうは言っても、私共は揺らぐではないか。確かに、私共の気持は揺らぎ、心が散り散りになることもあるでしょう。しかし、私共の人生が根本から揺らいでひっくり返るようなことはありません。神様がそうはされないからです。それはちょうど、イエス様が弟子たちと一緒に乗った舟が嵐に遭い、その舟は波をかぶり、強風にあおられて今にも沈みそうになったとしても、決して沈むことはないというのに似ています。神様が右に居てくださる、わたしと共に居てくださる。だから、決して沈むことはありません。それが私共です。その大安心の中に私共は生きる。この大安心の中に生きるようにと招かれているのです。この詩編の詩人と共に、「主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。」と言える者へと招かれているのです。
 この大安心に生きる者は、9節「わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。」となるのです。神様との交わりの中に生きる者は、神様の御手の中にあることを知っていますから、ちょっと脳天気なほどに「何とかなる」と思っている。ですから、キリスト者は基本的に明るいんです。私は多くの牧師に出会ってきました。皆さんもたくさんの牧師を知っているでしょう。でも、暗くて陰気な牧師というのを私は知りません。勿論、個性の違いは色々です。でも、みんな基本的に明るいのです。神様が何とかしてくれると本気で思っているからです。勿論、具体的な問題・課題に対して、何も考えずに「何とかなる」と思っているのではありません。具体的な課題に対しては、しっかり緻密な計算もし、対策もします。しかし、最後は神様が何とかしてくれる。本気でそう思っているのです。身も心も喜びに満たされ、大安心の中で憩うのです。この安心について、随分若い時ですが、水の底と書いて水底(みなぞこ)と読む、「水底の安心」という言葉を教えてもらいました。表面の水は風が吹けば波も起きますが、深い水の底は静かなものです。私共はこの「水底の安心」を与えられている。腹が立つこともあれば、イライラすることだってあるでしょう。不安になることだってあるでしょう。矛盾しているようですが、たとえそうであっても安心している。水底の安心が破られることはありません。心の底から不安になったり、希望を失ったり、もうダメだと思うことはない者とされている。主が右にいて守り、支えてくださっているからです。

4.永遠の命の喜び
 私共の人生の最後に立ちはだかる最大の敵、それは死です。何をしても、結局はこの死に飲み込まれてしまうのが人間の一生です。ところが、この詩編の詩人は、この肉体の死では終わることのない命を見るのです。この詩編の詩人は、イエス様が生まれるずっと前の人ですから、まだイエス様の復活は知りません。ところが、この詩人は10~11節「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。」と告げるのです。これが冒頭に申しました、使徒言行録においてイエス様の復活を預言している言葉として引用されている言葉です。詩編の詩人はイエス様の復活を知っていたわけではありません。しかし、まさに聖霊なる神様の導きの中で、この詩人は肉体の死によって終わることのない命があることを見ている。それは、神様との深く確かな交わりが、肉体の死によって破壊されてしまう、無くなってしまう、そんなことはあり得ない。そう確信しているからです。
 私共と天地を造られた神様との交わりは、肉体の死によって限界付けられた私共によって限界付けられるのではありません。永遠から永遠に生きたもう全能の神様によって私共の限界は打ち破られる。それは、神様が私共の主であり、神様が私共との交わりの主であられるからです。私がこの神様との交わりの主ではないからです。私共の命が、肉体の死で終わらない。それは、私共の中に死を打ち破る力、死に打ち勝つ力があるからではありません。私共の死を打ち破ってくださるのは、天地を造られた全能の父なる神様です。そして、このことが明らかにされた出来事が、イエス様の復活の出来事なのです。イエス様は十字架に架かり、死んで葬られ、三日目に死人の中から甦らされました。全能の父なる神様によってです。間違ってはいけないのは、イエス様は神の御子だから復活した、復活する力があったということではないということです。イエス様の復活の出来事は、日本語に翻訳すると「復活された」と訳されているのですが、ギリシャ語本文ではすべて受け身形「復活させられた」と記されているのです。復活させるのは、全能の父なる神様です。この神様の御力により、イエス様は復活させられたのでありますから、私共も復活させていただくことになるのです。私共は確かに肉体の死を迎えなければなりません。しかし、それで終わることはありません。復活することになるからです。それが私共に与えられ、教えられている「命の道」です。肉体の死をもって終わるのが私共の「命の道」ではありません。
 それ故に、詩編の詩人は「わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。」と歌うのです。この肉体の死を超えた神様の御前における平安。神様との交わりの中にある永遠の喜び。これを歌うことが出来た方こそ、主イエス・キリストでありましょう。詩編の詩人は、このキリストの霊である聖霊によって導かれてこの詩を歌ったということなのです。そして、私共もまたこの詩編の詩人と同じように、聖霊なる神様の導きの中で、この詩編を自分の祈りとして祈ることが出来る。このような祈りは、私共の内から湧き上がってくることはありません。私共は肉体の死によって限界付けられており、「死んだらお終いだ」という世界に生きているからです。しかし、その「死んだらお終いだ」という世界は、神無き世界です。永遠から永遠に生きたもう神様との交わりは、この神無き世界の限界を突き破り、永遠の命の道、神様からいただく永遠の喜びへと私共を導くのです。それゆえ、この祈りにおいて、私共の眼差しを終末における神の国へと向けさせられるのです。「わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。」とは、御国において完成されます。

5.主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画
 先ほどお読みいたしましたエフェソの信徒への手紙において、「秘められた計画」「キリストによって実現されるこの計画」「世の初めから隠されていた秘められた計画」「主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画」という言葉が、繰り返し出てきます。この神様の永遠の御計画こそ、主イエス・キリストの十字架と復活によって実現された神様の救いの御計画です。神様を知らず、それ故神様に敵対していた罪人が、神の御子が身代わりとなって裁かれたことによって、一切の罪を赦され、神の子とされ、神様との親しい交わりに生きる者とされ、永遠の命に与るというものです。そして、12節でこう告げるのです。「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。」そうです。神様から遠く離れていた罪人が、神様の独り子であるイエス様と一つとされることによって、イエス様と父なる神様との親しい交わりの中に生きる者とされた。神様を恐れおびえるのではありません。全能の神様は私共の父となってくださったからです。この神様との親しい交わりこそ、私共のなくてはならない財産であり、宝であり、これさえあれば満ち足りることの出来る幸いなのです。主イエス・キリスト共に、代々の聖徒と共に、この詩編の祈りを私の祈りとして祈りつつ、御国への歩みを為してまいりたと思います。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
 あなた様は今朝、詩編の16編の祈りをもって、私共が既にあなた様との親しい交わりの中に生きる者とされていること、そしてその恵みがいかに大いなるものであるかを教えてくださいました。ありがとうございます。あなた様こそ私共の主です。私共はあなた様の御前に歩んでまいります。どうか、私共の右に居てくださり、私共の歩みのすべてを守り導いてください。あなた様を信頼し、あなた様が与えてくださる喜びと平安の中を歩ませてください。死を超えた命の道に歩ませてください。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2020年11月8日]