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礼拝説教

「なぜわたしをお見捨てになるのか」
詩編 22編1~32節
ヘブライ人への手紙 4章14~16節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今朝も旧約の詩編から御言葉を受けます。詩編の22編です。前回、前々回と、詩編は祈りの詩ですが、父なる神様・子なるイエス様の霊である聖霊なる神様に導かれて歌われたものですから、キリスト預言ともなるし、このように祈りなさい、こう祈って良いのだという、イエス様の祈りの世界への招きにもなっていると申しました。詩編が神様・イエス様の霊によって導かれた詩であることを最もはっきりした形で示しているのが、この詩編22編です。それは冒頭の「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」を読めばすぐに分かります。これはイエス様の十字架上の言葉です。イエス様の、十字架上での神様への叫び、最後の祈りです。十字架上におけるイエス様と神様との交わりを示している言葉です。イエス様の十字架の出来事を抜きに、この詩編を読むことは出来ません。しかしながら、この詩編の作者は、イエス様の十字架を預言するつもりでこれを歌ったのではないでしょう。ここには、激しい苦しみの中、絶望的な嘆きの中で、それでも神様を呼び求める信仰者の姿があります。この嘆きの極みで歌われた祈りが、イエス様の十字架上での祈りと重なり、そして、私の祈りとなる。私共も「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」そう祈って良い。そう祈ることが出来る者へと招かれているのです。

2.詩編の構造
この詩編は明らかに1節~22節までの前半と23節~31節の後半とに分かれます。前半は、全く絶望的な嘆きの中で神様を呼び求める祈りです。しかし後半は、打って変わって神様への賛美が歌われるのです。一体この22節と23節の間に何があったのか、それは分かりません。しかし、はっきりしていることは、嘆きの極みの中で神様を呼び求める祈りは、嘆きのままでは終わらないということです。嘆きは賛美へと変えられる時を迎えることになるということです。また、イエス様との関わりで受け止めるならば、22節までの嘆きは十字架に至る嘆きであり、十字架上での嘆きと読んで良いでしょう。そして、23節以降に記されているのは、イエス様の復活によって開かれる世界、終末への確かな希望の中での祈りと読むことも出来ましょう。
 順に見てまいります。

3.嘆きの極みからの祈り(1)「わたしの神よ」
 この詩編は「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」と始まります。この詩編を歌った人は、具体的状況は分かりませんけれど、自分は神様に捨てられた、神様は自分から遠く離れている、神様は私の祈りも聞いてくれない、そういう思いの中で、それにも拘わらず神様に向かって祈っています。ここにこの詩人の信仰、聖書が示す信仰、そしてイエス様の信仰があります。この詩人は「自分はこういう悪いことをした。だから、こういう目に遭っても仕方がない。」そのようには思っていません。なぜ、自分がこのような目に遭うのか分からないのです。皆目見当がつかないのです。なぜ自分が? なぜこんな目に? 私共の嘆きの深いところには、この思いがいつもあるのではないでしょうか。この詩人がどんな辛い状況にあるのか、具体的には分かりません。でも、自分の落ち度じゃないのに、とんでもなくひどい状況に陥っている。しかし、それは珍しいことではありません。世の中によくあることです。例えば自然災害です。台風や地震の被害に遭った人が、被害に遭わなかった人たちよりも罪深かったなどいうことはあり得ません。手塩にかけて育てた作物が、収穫を目前にして洪水で流されてしまう。何とか立ち直り、次の年こそは思って励んできたのに、またもや水に流されてしまう。どうやって再建していけば良いのか、どうやって生活していけば良いのか。途方に暮れて、生きる気力も湧いてこない。そういうことがあるでしょう。また、先天的な病気や障害ということだってある。戦争での被災、或いは今回のコロナ禍のような突然の経済的困窮、中々治らない病気、色々ある。その幾つもが重なるということだってあるかもしれません。絶望的状況です。  この詩人は信仰者なのです。神様を信頼して生きてきたのです。にも拘わらず、どうしてこんな状況にならなければならないのか。神様に捨てられた。神様は遠い。神様は救ってくれない。神様は、私の嘆きも祈りの言葉も聞いてくれない。そう思うしかない状況に陥っている。ところが、それにも拘わらず、この詩人は神様に向かってこう呼びかけるのです。2節「わたしの神よ、わたしの神よ」3節「わたしの神よ」そう神様に呼びかけるのです。この詩人は神様の御前から離れないのです。神様に捨てられた。神様は遠い。神様は私の祈りも嘆きの声も聞いてくれない。たとえそう思っても、それでも「わたしの神よ」なのです。他に神様はいない。

4.嘆きの極みからの祈り(2)「なぜ、なぜ」
 この神様に捨てられたと思う状況は、3節に「わたしの神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。」とあるように、詩人は昼も夜も祈っているのです。でも、ちっとも神様は答えてくださらない。祈っても祈っても、少しも状況が良くならないのです。この詩人は、祈っていないのではありません。祈っているのです。祈っても祈っても、何も変わらない。その中で神様に「なぜ」「なぜ」と繰り返し問うのです。この問いは重く、深いものです。この「なぜ」に答えることが出来る人がいるでしょうか。
 両親が事故で亡くなってしまった子どもから「どうして、お父さんとお母さんは死んじゃったの。どうして。どうして。」と問われて、それに答えることが出来る人などいません。いや、そもそも、この子どもは「どうして、どうして」と言っていても、理由が知りたいんじゃありません。この現実を受け入れられないのです。受け入れたくないのです。この詩人の二度繰り返される「なぜ」も同じです。理由を知りたいのではないのです。理由が知りたいのではなくて、「あなたは私の神ではないか。私と共にいてくれ。私を捨てないでくれ。あなたを失うことなど考えられない。」そういう思いを告げているのでしょう。神様との愛の交わりが無くなってしまったかのように思える現実に対する拒否です。そんなことは受け入れられないんです。

5.嘆きの極みからの祈り(3)揺れる心
 詩人の心は揺れるのです。神様に信頼しようとする心と、自分の置かれている厳しい状況の中でもうダメではないかと思う思いの間を揺れるのです。
 それは、3節で「わたしの神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。」と歌うとすぐに、イスラエルの歴史を思い起こして、5~6節「わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。」と言って、だから大丈夫だ、そう自分に言い聞かせる。しかし、自分の置かれている状況は、7節「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。」と言うような状況なのです。人間として生きる意味も値打ちもない者のようにしか、自分を見ることが出来ない。それは、8~9節「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう。』」とあるように、周りの者が私を嘲り、馬鹿にして笑うから、自分は虫けら同然だ、とても人間とは思えないほどに価値がなくつまらない者だとしか思えないようになってしまっているのかもしれません。神様に依り頼んでいるのに、周りの者たちはその信仰をさえ笑うのです。
 でも、詩人は自分がこの世に生を受けた時からのことを思い起こして、10~11節「 わたしを母の胎から取り出し、その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。母がわたしをみごもったときからわたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神」と、もう一度神様への信頼を奮い立たせようとする。しかし、置かれている状況は、12~14節「わたしを遠く離れないでください、苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。雄牛が群がってわたしを囲み、バシャンの猛牛がわたしに迫る。餌食を前にした獅子のようにうなり、牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。」というように、みんなが寄ってたかって自分を痛めつける。詩人は孤独なのです。誰も助けてくれないのです。何と辛いことでしょう。自分の苦労を、悲しみを、分かち合う者もいない。自分の嘆きを聞いてくれる人もいない。そして、自分を取り囲む者たちは、雄牛、猛牛、獅子のように、とても太刀打ち出来ないほどに力がある。経済的に、社会的に、肉体的に私を痛めつける。自分は何も出来ずに、うずくまるだけ。
 さらに18~19節「骨が数えられる程になったわたしのからだを彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」みんなが、自分をさらし者にするのです。そして、着物さえも取り上げられる。この時代、「着物」は貧しい者にとっては唯一の財産です。一着しかない。それは寝具でもあります。それさえも取り上げられたら、下着で過ごすしかありません。詩人は着物さえも失い、もう何もありません。今日、明日、食べるものも無くなった。もう、死があるだけ。この詩人を痛めつけているのは国家権力かもしれません。もうどうにもならないという無力感。15節「わたしは水となって注ぎ出され、骨はことごとくはずれ、心は胸の中で蝋のように溶ける。」気力も体力も無くなり、自分は水のように、溶けた蝋のようになってしまう。しかし、そのような中でなお、詩人は祈るのです。20節「主よ、あなただけはわたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ今すぐにわたしを助けてください。」と。それでも詩人は「わたしの力の神よ」と訴え続けるのです。詩人にとって、神様はどこまでも「わたしの神」なのです。
この祈りに自分を重ねて、どれ程多くの者たちが祈ってきたことだろうかと思います。いつまでも治らない病の中で、次々と襲いかかる自然災害の中で、飢えと寒さに凍えながら、不当な圧迫を加える国家の力で押しつぶされそうになりながら、天然痘やコレラが蔓延していく中で、仕事を失い路頭に迷いながら、戦火を逃れて難民キャンプに身を寄せながら、どれ程多くの者たちが、この祈りを自分の祈りとして祈ってきたことだろうかと思うのです。それは今も変わりません。

6.十字架の上で
しかし、ここで私共はこの祈りを自分の祈りとして祈られた方に目を向けさせられます。主イエス・キリストです。イエス様は、誰よりもこの祈りを自分の祈りとして祈られました。それも十字架の上においてです。もう死ぬしかない。その時、イエス様は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と叫ばれました。この詩編22編を自分の祈りとして祈らなければならない困窮の極みにの中にいる多くの者たちの先頭に立って、イエス様はこの祈りを祈られたのです。この祈りを祈らなければならない者たち、弱り果て、困り果て、もう死しか無いのではないかとまで思っている者たち、その者たちと共に、その先頭に立って、この祈りを祈られたのです。それは、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」と祈るすべての者に、「否、あなたは神様に見捨てられてはいない。神様はあなたから遠く離れてはいない。あなたの呻きは、あなたの祈りは、神様に聞かれている。届いている。わたしはあなたの呻きを、嘆きを、痛みを、怒りを、悲しみを、祈りを知っている。わたしがいる。ここにいる。わたしもあなたの祈りを十字架の上で祈った。わたしはあなたと一緒に祈ろう。あなたは独りで祈っているのではない。わたしが、そして、わたしと共に祈った代々の聖徒たちが、あなたと共にいる。」そう、イエス様は十字架の上から、私共に語りかけ続けておられるのです。

7.十字架・復活の預言
この詩編22編が、イエス様の十字架の預言となっていることは、すぐにお分かりになったと思います。2節の言葉「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」はイエス様の十字架上での最後の言葉ですし、8~9節「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう。』」はイエス様が十字架に架けられた時に、人々がイエス様を嘲ったことを描いています。16節「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。」は、イエス様が十字架の上で「乾く」と言われたことに対応しています。18節「骨が数えられる程になったわたしのからだを彼らはさらしものにして眺め」は、まさにイエス様が十字架に架けられた時の姿そのものです。そして、19節「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」は、イエス様が十字架の上で苦しまれていた時に、兵士たちがイエス様の服をくじ引きした場面を指しています。そう読みますと、雄牛や猛牛や獅子や犬というのは、ファリサイ派の人々や律法学者、祭司長、総督ピラトやローマ兵、そして群衆たちを指しているとも読むことが出来るでしょう。
 そして、22節までの前半がイエス様の十字架を預言しているとするならば、23節以下の後半はイエス様の復活を預言し、復活によって広がっていく神様の救いの御業を指し示している。そう読むことが出来ますし、そう読んで良いのです。23~25節「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します。主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。」なんという変化、なんという展開でしょう。この変化は25節に秘密があります。「助けを求める叫びを聞いてくださいます。」と訳されているのですが、これは「助けを求める叫びを聞いてくださった。」と訳すことも出来ます。その方が良いと思います。2年前に出た聖書協会共同訳では「叫びを聞いた。」と訳されています。神様が聞いてくださったのです。事態が変わったのです。イエス様は十字架の死では終わらなかった。復活されたのです。貧しさの極みに降りられたキリスト。その十字架の苦しみを神様は侮らず、さげすむことなく、その叫びを聞いてくださった。そして、復活の命へと甦らされたのです。
 復活から始まる新しい福音の世界。詩人はそれを28~30節「地の果てまですべての人が主を認め、御もとに立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます。命に溢れてこの地に住む者はことごとく主にひれ伏し、塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得」と告げます。すべての人が主なる神様の御もとに立ち帰るのです。すべての人々が神様の御前にひれ伏すのです。主の御支配がすべての国々に及ぶのです。主なる神様が王となる。神様の御心が完全に行われる世界です。そこは死さえも力を持ちません。「塵に下った者」というのは、死んだ者という意味です。死んで終わりではない。死んだ者さえ、神様の御前に身を屈め、礼拝する。これは終末において実現される神の国の姿です。
 そして、31~32節「子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう。」と歌って終わります。この福音は代々に伝えられ、広がっていくのです。私共は、ちょうどそのただ中にいます。まだ、嘆きや悲しみがすべてこの地上から拭い去られたわけではありません。しかし、確かに福音は伝えられ続け、世界中に広がり続けています。この言葉は私共の上に実現しています。私共はその完成をこの地上にあって見ることは出来ないかもしれません。しかし、私共は確実にそこに向かって歩んでいますし、やがてそこで復活の命に生きることにされています。

8.希望
 ここに私共の希望があります。希望です。希望は私共の心の中から湧き上がってくるものではありません。「こうなりたい」「ああなりたい」というのは、自分の欲が投影された夢です。それは自分の中から出てくるでしょう。それは淡く、頼りない、シャボン玉のようなものです。しかし、希望は違います。すべての夢が消え去っても、希望は神様から、イエス様からやって来ます。希望は、神様が私共に与えてくださる最強のアイテムなのです。これさえあれば生きていける。そう言えるほどのものです。私共は、イエス様の復活によって、この希望に生きる者とされているのです。神様との交わりの中に生かされている希望です。死で終わることのない命の希望です。 ヘブライ人への手紙は、この希望に生きる者の姿をこう言いました。14~16節「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」イエス様は大祭司として、私共の一切の罪を赦し、神の国に生きる者にしてくださいます。そして、イエス様は肉体を取って、十字架の上で死なれることによって、「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」ですから、イエス様が私共の嘆きの祈りを聞き捨てることなど、あり得ないことです。聞き捨てるどころか、私共と共に祈ってくださるのです。
 イエス様を知らず、それ故、自分一人で「なぜわたしはこんな目に遭わなければならないのか。」と祈る人は多いでしょう。神様に向かって「わたしの神よ」とまだ言えない。イエス様を知らないからです。しかし、その人もまた、イエス様の祈りと一つにされている。私はそう信じます。自分では気付かなくても、その人の祈りは、イエス様の祈りと一つとされて、既に神様に聞かれている。だから、その嘆きは、賛美へと変えられることになるのです。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝、あなた様は私共に詩編22編を通して、私共の祈りがイエス様の祈りと一つにされて、あなた様に届いていることを知らされました。私共は本当に辛く苦しい時、あなた様のみ顔が見えず、あなた様から遠く離れ、あなた様に見捨てられてしまったかのように思います。しかし、あなた様は御言葉を通して、「そうではない」と告げられます。十字架のイエス様の祈りと一つにされていることを教えてくださいました。ありがとうございます。どうか、私共がどのような時も「わたしの神よ」とあなた様に祈りつつ、あなた様が与えてくださる希望の中を、あなた様の御前を歩んで行くことが出来ますように。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2020年11月15日]