日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「神よ、あなたを求めます」
詩編 42編1~12節
ヘブライ人への手紙 10章1~10節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今朝は詩編42編から御言葉を受けます。この詩編は次の43編と一繋がりのものであったと考えられています。ですから、新共同訳では「42(-43)」という書き方をしています。理由はいくつもあります。例えば、42編の6節や12節と43編の5節の言葉は同じであるとか、43編には表題がないとか、42編の10節と43編の2節がほとんど同じであるとか、そして何より内容が重なっているということがあるわけです。勿論、そのように読むことも出来ます。しかし、今朝は詩編の42編に集中して御言葉を受けたいと思っています。
 この詩編は一読すれば分かりますように、嘆きの詩です。何を嘆いているのか、具体的には分かりません。具体的に分かった方がこの詩人の嘆きを良く理解することが出来るということはあるでしょう。しかし、詩編というのは、この詩を作った詩人だけの詩ではありません。聖書の中に収められているということは、神の民、代々の聖徒たちが自分の祈りとして祈る「祈りの詩」だということです。時代を超えて、何千年と祈られ続けてきたのが詩編の祈りなのです。勿論、この詩人がどのような状況の中でこの歌を歌ったのか、幾つか想像出来るところはあります。しかし、それを超えて、信仰者が信仰の歩みをしていく中で、必ず出会っていく「嘆きの時」の詩として、この詩編を受け止めていくのが良いと思います。

2.涸れた谷
 新共同訳の詩編を翻訳されたのは、東京神学大学の学長であった左近淑(きよし)先生です。学長という激務とこの新共同訳聖書の翻訳が重なり、学長の在任中に持病の喘息が悪化して天に召されました。この新共同訳聖書の詩編が、左近先生の遺作と言っても良いかもしれません。そういうこともあり、私は新共同訳聖書の詩編を読むとどうしても、左近淑先生が独特の甲高い声でなされた、旧約の講義を思い出してしまいます。
 この詩編42編は大変有名な詩編ですけれど、新共同訳において今までと違う訳がなされているところがあります。冒頭の「涸れた谷に鹿が水を求めるように」の「涸れた谷」というところです。口語訳では「しかが谷川を慕いあえぐように」でしたし、新改訳聖書は「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように」でした。口語訳は「谷川」、新改訳は「谷川の流れ」と訳しておりました。ここで「谷川」や「谷川の流れ」と訳すか、それとも「涸れた谷」と訳すかでは、全くイメージが変わってきます。左近先生は、この「谷川」という訳は全く誤解を与える訳だと言われました。皆さんは口語訳の「鹿が谷川を慕いあえぐように」という言葉で、どんな情景を思い浮かべるでしょうか。緑濃き山、その山をえぐるようにして流れる谷川、そこに鹿が水を求めて降りてくる。そんな情景をイメージされるのではないでしょうか。しかし、詩編の詩人が歌っているのは、そんなのどかな情景ではないのです。イスラエルに四季はありません。雨期と乾期があるだけです。夏が乾期、冬が雨期です。そして、乾期の時には多くの川は涸れるのです。その水が涸れた川の川底に鹿が水を求めてやって来る。水はない。鹿は水を求めて、喘ぎながら、前足でその涸れた川底を叩いて、掘る。10分も20分も掘る。そうすると、その掘った穴の下の方に水が染み出してくる。それを鹿は飲むんです。まさに命の水です。この水なければ死んでしまう、そういう水です。
 そのように、この詩編の詩人は神様を求めている。神様がおられなければもう生きていくことが出来ない、そういうぎりぎりのところで神様を求めている。3節で「神に、命の神に、わたしの魂は乾く。」と詩人は歌います。神様に渇いているのです。命の神に渇いている。この渇きは、神様を礼拝することが出来ない渇きです。神様の御声を聞くことが出来ない渇きです。愛する者たちと共に神様を賛美することが出来ない渇きです。神様が共にいてくださることを確信することが出来ない渇きです。
 私は、イエス様が十字架の上で「渇く」と言われた(ヨハネによる福音書19章28節)ことを思い起こします。

3.お前の神はどこにいる
 どうして、そこまでこの詩人は追い詰められているのでしょう。具体的には分かりません。ただはっきりしているのは、周りの者に「お前の神はどこにいる」と言われるような状態だったということです。つまり、神様から見放され、神様に捨てられたと見なされるような惨めな状態だったということです。経済的に困窮していたのかもしれませんし、重い病に冒されていたのかもしれません。社会的に虐げられた状態であったのかもしれません。誰も助けてくれる者がいないほどに、独りぼっちだったのかもしれません。
 彼は以前はエルサレムに住んでいました。エルサレム神殿において、礼拝の中で役割を持っていたのかもしれません。1節に「コラの子の詩」とありますが、「コラ」というのはレビ人の中の家系です。ですから、レビ人としてエルサレム神殿に仕えていた、そう考えて良いと思います。しかし、今はエルサレムから遠く離れた、ヘルモン山のふもと、ヨルダンの地にいます。異教の地です。同じ神様を信じる者が周りにいないのです。彼は追放されたのかもしれません。戦火を逃れてきたのかもしれません。彼は昼も夜も祈るのだけれど、自分を囲む異邦人たちは「お前の神はどこにいる」とあざ笑うのです。「絶え間なく」です。「そんな役にも立たない信仰など捨ててしまえ。神様がおられるなら、助けてくれるだろう。しかし、お前の神はちっとも助けに来てくれないではないか。どこにお前の神様はいるんだ。」そのように言われるのです。詩人は、悔しくて、悲しくて、涙が止まらない。昼も夜も泣いてばかり。「昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。」なのです。

4.礼拝を思い起こす
 その嘆きの中で、詩人は思い起こすのです。大勢の者たちと共に、主なる神様に向かって喜び、歌い、感謝し、礼拝を捧げた日のことを。それは祭の日のこと。エルサレム神殿に向かう人の波は絶えることがありませんでした。それは神様の御顔を仰いだ時であり、神様の御臨在の中で、心からなる賛美をみんなで捧げた時でした。その時のことを思い起こすと、詩人は自分の心に光が灯るような思いがしたことでしょう。私共にしてみれば、クリスマスの礼拝で、満堂の人たちと讃美歌を歌った日を思い起こすようなことかもしれません。
 そして、彼は自分を奮い立たせるように、自分にこう言い聞かせるのです。6節「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう、『御顔こそ、わたしの救い』と。」彼の心はうなだれているのです。呻いているのです。しかし、その自分に向かって告げるのです。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう、『御顔こそ、わたしの救い』と。」この詩人には、困難な現実の前でうなだれている自分と、それを力づけようとする自分がいます。分裂しているわけではありません。信仰を持つ、信仰が与えられるということは、このうなだれている自分に向かって「なぜうなだれるのか。なぜ呻くのか。主を待ち望め。」と告げるもう一人の自分が与えられるということです。もう一人の自分。信仰と共に生まれたもう一人の自分です。このもう一人の自分は知っているのです。どんなに困窮した状況の中にあっても「主を待ち望む」こと、神様の御臨在のもとですべてが変わることを知っているのです。それは、多くの人たちと捧げた礼拝において告げられた言葉だったのかもしれません。或いは、彼らと共に捧げた賛美の言葉だったのかもしれません。神殿で礼拝するたびに、彼の心の中に刻まれ続けた信仰の言葉です。「御顔こそ、わたしの救い」とは、礼拝のたびごとに心に刻まれた、神様の御臨在のもとにある祝福です。神様の御顔そのものを見ることは、誰にも出来ません。「御顔こそ、わたしの救い」とは、礼拝のたびごとに神様の御臨在に触れ、そのたびに受け取ってきた神様と共にある祝福、幸い、喜び、救いそのものです。彼は、この困窮した状況の中で、みんなと礼拝した日々を思い起こし、「主を待ち望め」と心に告げ、「御顔こそ、わたしの救い」と神様に告白し、信仰に立ち続けようとするのです。
 私共にとって、この礼拝体験こそ、私共の信仰を支えるものなのです。私共にとって、それは御言葉体験と言っても良いでしょう。聖霊なる神様の御臨在のもとで、御名を誉め讃え、賛美を捧げ、祈りを捧げているこの主の日の礼拝。この体験が、ここで告げられた神の言葉が、私共の中に宿り、困り果てた時でも神様の御前に私共を立たせ続けるのです。私共は高齢になりますと、中々若い時のように、主の日のたびごとに礼拝に集えないという状況を迎えます。特に今年は新型コロナウイルスの感染という問題が起きまして、施設や病院から主の日の礼拝に集うことは出来なくなりました。この礼拝もライブ配信していますし、週報と説教の原稿も郵送していますけれど、これは緊急避難的なものです。ここに共に集って礼拝を捧げる幸いに比べれば、何とも、靴の上から痒いところを掻いているようなもどかしさがあるのではないかと思います。何よりも、聖餐に与ることが出来ません。このコロナ騒ぎの中で、私は改めて「主の日に共に集い、御前に礼拝を捧げることの幸い」を知らされました。力一杯、兄弟姉妹と共に賛美を捧げることが、どんなに幸いなことかと思わされました。このただ中に、主がおられるからです。コロナ禍の中で礼拝に集えない、愛する兄弟姉妹たちが、また一緒に主の御前に集って礼拝を捧げる日を、私は心から待ち望んでいます。

5.なぜうななだれるのか、わたしの魂よ
 しかし、どんなに自分に「主を待ち望め」と告げてもなお、自分が置かれている困難な状況は変わりません。 7~8節「わたしの神よ。わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から、あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて、深淵は深淵に呼ばわり、砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。」ここでも水が出てきます。しかし、この水はわたしを飲み込みそうな激流です。ノアの洪水を思い起こさせる荒れ狂った水です。自分をバラバラしてしまいそうなほどに激しい波が、わたしを越えて行く。ヘルモン山に降った雨が、濁流となって流れてくる。ゴーゴーと恐ろしい音を立てて、谷を下る。その激流は岩に当たり、砕け散る。この濁流に呑み込まれたら、命はありません。詩人は命の危険を感じています。しかもこの激流、この大波は、「あなたの激流」「あなたの波」です。つまり神様が与えたものです。どうして、こんなに危険な状況に立たねばならないのか、詩人は分かりません。彼はエルサレムから遠く、ヘルモン山のふもとにいます。自分で好き好んでこの地に来たわけではないのでしょう。私共の出遭う困難は、その理由が分からないものがほとんどではないでしょうか。病気や事故にしたって、なんで自分なのか、どうして自分の愛する者なのか、私共には分かりません。

6.それでも祈る
詩人は、それでも祈るのです。そして、日常のささやかな出来事の中に神様の憐れみを見出し、エルサレムの神殿で歌った詩を思い起こし、歌うのです。「わたしの命の神」に向かって祈るのです。乾期が終わり、雨期になり、一斉に花をつける木々を見たのかもしれません。あるいは、今日も食事をすることが出来た、そのことを感謝したのかもしれません。もっとぎりぎりの所で、今日も命が繋がった、そのことに神様の慈しみを覚えたのかもしれません。でも、自分の困窮した状況は何も変わっていない。
 だから、詩人は再びこう言わざるを得ないのです。10~11節「わたしの岩、わたしの神に言おう。『なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ嘆きつつ歩くのか。』わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き、絶え間なく嘲って言う、『お前の神はどこにいる』と。」
 詩人は、自分は神様に忘れ去られたと感じている。自分を痛めつける者たちが、嘲笑い、「お前の神はどこにいる」と言うのです。彼は骨を砕かれたように、自分で立つことが出来ないほどに、弱り果てています。心も体も、もうボロボロです。うなだれるしかない。神様を見上げる気力さえ無くなるほどに、弱り果てています。彼は囚われの身になっていたのかもしれません。嘆くしかない。しかし、それでも彼にとって神様は「わたしの岩、わたしの神」なのです。どんなに苦しくても、どんなに涙しか出てこないほどに打ちのめされても、神様だけが頼りであり、自分を救ってくださる方だ。詩人は神様の御前から離れません。彼は何度も繰り返すのです、「わたしの神」と。「わたしの神」なのです。

7.二組の「なぜ、なぜ」
 ここで私共は、二組の「なぜ」を聞きます。一つは10節にある、自分の困窮した状態を神様に訴える「なぜ」です。「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ嘆きつつ歩くのか。」神様に訴え、神様に問うこの「なぜ」を私共は知っています。今まで何度も神様に向かって、この「なぜ」を投げかけてきたことでしょうか。理由が分からない、理不尽な苦しみの中で、私共はこの「なぜ」をどれほど神様に投げかけてきたでしょうか。信仰者なら誰でも知っている「なぜ」です。いや、明確に神様を知らない者であっても、人は悲しみの中で、嘆きの中で、泣きながらこの「なぜ」をどれだけ口にしてきたことでしょう。理由の分からない、理不尽と思える悲しみの中で、人はこの「なぜ」を口にしてきました。この「なぜ」は、「神様はどこにいる」という問いと結ばれています。神様なんていない。いるなら、どうして自分はこんな目に遭わなければならないのか。「お前の神はどこにいる」との問いは、私の心の奥の暗い闇から聞こえてくる声でもある。だから、この声に詩人はさいなまれます。この声を聞いているのは肉の自分、罪の自分です。
 しかし、この詩人にもう一つの「なぜ」が聞こえてきます。6節と12節で繰り返される「なぜ」です。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか。」この「なぜ」は、信仰によって生まれたもう一人の自分、霊の自分から発せられるものです。神様とつながれた自分、霊の自分、神の子とされた自分が告げる「なぜ」です。もっとはっきり言えば、神様のもとからやって来る「なぜ」です。苦しみ、呻いている詩人に、なぜうなだれるのか、なぜ呻くのか、と告げる。それは、詩人に語りかける神様の御声です。「わたしはここにいるではないか。あなたのそばに、いや、あなたの中に。わたしはあなたを離れたことなど、一度もない。あなたが悔しくて、苦しくて、ただただ泣いた時、泣くことしか出来なかった時、わたしはそこにいた。誰も自分を助けてくれる者がいないと嘆いた時、わたしは共にいた。そして、今もあなたと共にいる。分かるか。あなたは、わたしの御手の中にいる。『お前の神はどこにいる』と誰が言っても、その闇の声に耳を貸してはいけない。わたしはここにいる。お前は聞いてきたはずだ。教えられてきたはずだ。経験してきたはずだ。わたしが共にいることこそ、御顔こそ、自分の救いと。わたしの手からあなたを奪う者は、この世界のどこにもいない。あなたは、わたしのもの。わたしの愛する子。わたしの僕、イスラエル。」詩人はこの御声を聞いたのです。私共もこの御声を聞く。十字架の上から告げられるイエス様の御声として聞くのです。

8.主を待ち望む
聖書は「主を待ち望め」と告げます。それは、主がなされる御業を待ち望めということです。主は共におられる。その神様が事を起こされるのです。いつなのか、どのようにしてなのか、私共には分かりません。神様の御業は、いつでも私共の思いを超えているからです。しかし、主は必ず事を起こされます。私共はそれを待ち望むのです。イエス様の十字架は、十字架では終わりませんでした。復活された。私共も神様の御業によって、全く新しい展開を与えられるのです。誰も想像することさえ出来ない明日が、私共には備えられています。主が事を起こされるからです。
 イザヤは告げました。「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」(口語訳、イザヤ書40章30~31節)このイザヤの言葉を聞いたのは、バビロン捕囚のただ中にいた者たちでした。国を失い、祖国から何千キロも離れたところに連れてこられた者たち。将来への希望も、神の民としての喜びも、誇りも、失いかけていた民に向かって、イザヤは告げたのです。神の言葉を告げたのです。それが、「主を待ち望む者は新たなる力を得る」でした。
 神の民イスラエルは、紀元後70年にローマによって国を失って以来、流浪の民となりました。祖国を持たず、それ故どんなにひどい目に遭わされても、誰も守ってくれない民となりました。その彼らの新年の挨拶は「来年はエルサレムで。」でした。彼らは待ち続けます。神の民だからです。私共も待ち続けています。イエス様が再び来られることを。この世界に全き平和が訪れる日を。この主を待ち望む者には、「御顔こそ、わたしの救い」なのです。つまり、神様の御臨在に触れることこそ、私の救い、私の平和、私の希望、私の喜びなのです。私共は、この主の日のたびごとにここに集って、主の御臨在に触れている。何という幸い。何という喜びでしょう。これを私共から奪うことは、誰にも出来ません。私は神の民であり、神は私の神だからです。イエス様の尊い血潮によって、神様の子とされた者だからです。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝、あなた様は詩編42編の御言葉を与えて、あなた様が私の神であられ、どのような時でもあなた様が共にいてくださり、あなた様が事を起こしてくださることを信じて待ち望むことを教えてくださいました。私共は弱く、困り果てた時には自分があなた様の御手の中にある事実も分からなくなってしまいます。あなた様の愛も、真実も、御力も分からなくなってしまいます。どうか主よ、そのような時にもあなた様と共にあることを御言葉と出来事をもって私共に示してくださり、あなた様の御顔を仰がせてください。あなた様と共に、あなた様の平安の中を歩ませてください。どうか、主が早く来てくださいますように。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2020年11月22日]