日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

クリスマス記念礼拝説教

「言葉は肉となった」
イザヤ書 52章7~10節
ヨハネによる福音書 1章1~14節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
御子の御降誕を覚えてクリスマス記念礼拝を捧げています。コロナ禍ということで、密を避けて午前と午後に分けての礼拝となりました。祝会もありませんし、久しぶりに顔を会わせた方との語らいの時を十分に持つことも出来ません。このようなクリスマスは初めてだろうと思います。しかし、そのような中にあって今、私共はクリスマスの出来事、主イエス・キリストの誕生という出来事に眼差しを向け、心と思いを集中したいと思います。

2.言は肉となった
 クリスマスの出来事はまことに喜ばしい出来事です。世界中の人々が喜び祝います。確かに赤ちゃんの誕生というのは文句なしに嬉しい、喜ばしいことです。しかし、クリスマスの喜びは、単に赤ちゃんイエス様が生まれたから嬉しい、喜ばしいということではありません。クリスマスの出来事は、何よりも驚くべき出来事、ただただ圧倒される畏るべき神様の御業でした。クリスマスは実に圧倒的です。私共の想像力さえも及ばない出来事です。この驚くべき出来事を何にたとえることが出来るだろうかと色々考えましたけれど、思いつきませんでした。どれもこれも、私の想像の範囲内のことでしかないからです。クリスマスの出来事は全く圧倒的な、私共の思いを越えた驚くべき出来事です。
 今朝、私共に与えられている御言葉、しっかり心に刻みたい御言葉は、ヨハネによる福音書1章14節の言葉です。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」これがヨハネによる福音書が告げるクリスマスの出来事です。ここには、私共がクリスマスと言って思い浮かべる天使も博士も羊飼いも出てきません。マリアとヨセフさえ出てきません。しかし、クリスマスの出来事がどれ程驚くべき出来事であったのか、クリスマスの出来事とは一体何だったのか、そのことをはっきり記しています。それは「言が肉となった」という出来事です。
 聖書は、口語訳も新共同訳も「言」という一文字で「ことば」と読ませています。普通「ことば」と書くならば、この「言」に葉っぱの「葉」という字を繋げて「言葉」と二文字で表すところでしょう。しかし、聖書は「言」の「葉」ではなくて、「言」一文字で「ことば」と読ませています。新改訳聖書では「ことば」と平仮名で表記しています。ここには翻訳者の工夫が表れています。元々のギリシャ語では「ロゴス」です。この「ロゴス」という言葉は、文字通り「言葉」という意味の他に、実に様々な意味を持っています。真理、理性、法則、秩序、原理、精神、知性などなど。当時のギリシャの哲学者たちもよく用いた言葉です。翻訳者たちは、何とかこの「ロゴス」のニュアンスを伝えようとして頭をひねりました。その結果が、一文字で表す「言」であり、平仮名で表記する「ことば」でした。どうして、「言」の「葉」の「言葉」と表記せずに、「言」の一文字で、或いは平仮名で、「ことば」と表記したのか。それは、日本語の「言」の「葉」と書く「言葉」の意味・ニュアンスでは、聖書の語る「ロゴス」の意味・ニュアンスを伝えられないと考えたからです。葉っぱのついた「言葉」は、文字通り木の葉のようにヒラヒラと舞い落ちるような軽さがあります。音として発すればすぐに消えていってしまう、それが言の葉と表記している日本語の「言葉」です。しかし、この「ロゴス」はそんな軽い言葉ではありません。ヨハネによる福音書は、その書き出しをとても印象深い言葉で始めました。1章1~4節「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」とあります。聖書のこの箇所を初めて読んだ時、すぐにこの「言」が何なのか分かったという人はまずいないと思います。実に難解です。この「言」は天地が造られる前からあり、神様と共にあり、神様そのものであり、すべてのものがこの言によって造られ、この言には命があり、その命が人間の光である。そういう「ロゴス」、「ことば」。そのようなものは日本の文化の中にはありません。ですから、確かに「ロゴス」は言葉であるには違いないのですけれど、葉っぱのついた「言葉」ではなく、「言」という一文字で表記したのです。
 この「ロゴス」は神の独り子であるキリストを意味しています。これを、先にあったキリストという意味で「先在のキリスト」とも言います。このキリストが肉となった。私共と同じ人間となった。イエス・キリストとして誕生した。それがクリスマスの出来事です。このロゴス・言は、イエス・キリストがまことの神であられることを示しています。そして、このロゴスが肉体を取ってイエス様として生まれました。イエス様が生まれてからは、もうロゴス・言という言い方はヨハネによる福音書には出てきません。けれども、イエス様が神の御子であられ、神そのものであられることに違いはありません。そのことをヨハネは、イエス様の言葉と業を記す福音書の冒頭に記して、これから語られることはすべて、まことの神である神の御子の言葉であり業であることを示したのです。実に、父なる神様と共に天地を造られる前からおられ、すべてを造られ、命そのものであられるロゴスであるキリストが人間となられた。イエス様として誕生した。それがクリスマスの出来事です。

3.神が貧しくなられた
 神の独り子であるキリストが肉をとり、人となってお生まれになった。この出来事の何よりも驚くべき点は、「神様が貧しくなられた」ということです。「小さくなられた」「低くなられた」と言っても良いでしょう。天の高きにおられた方が、人間になられた。それは、神様から見れば、徹底的に貧しくなられたということ、徹底的に小さくなられた、徹底的に低きに下られたということです。命も力も栄光も圧倒的にお持ちのお方、並ぶべきものは何もない程に高きにおられた方、全宇宙さえも入れることが出来ない程に大いなる方、永遠から永遠に生きたもうお方、そのお方が、小さな赤ちゃんイエス様として生まれたのです。イエス様は生まれてすぐに歩いて、知恵のある言葉を語った。そんなことはありません。キリストが肉を取ったということは、私共と全く同じ人間、弱く小さな人間になったということだからです。クリスマスにお生まれになったイエス様が、他の赤ちゃんとは全く違っていて、マリアやヨセフに守られる必要が全くなかったというようなことではありません。罪を持っていないという以外、完全に私共と同じ人間となられた。だから凄いのです。だから圧倒的なのです。天地を造られた方、永遠に生きたもう神の独り子。そのお方が人間の赤ちゃんとしてお生まれになった。どうしてそんなことがあり得るだろうかと思います。無限のお方がどうして人間という有限な、小さな存在になったのか。私共の頭の中で捉えることはとても出来ません。
 使徒パウロは、この出来事によって何が起きたのか、なぜこの出来事が起きたのか、それをこう告げています。コリントの信徒への手紙二8章9節です。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」なぜ永遠の神の御子が弱く小さな赤ちゃんとして生まれたのか、それは私共が豊かになるためであった、とパウロは語るのです。元々は「主は豊かであった」のです。神の御子として、父なる神様と共におられ、永遠に生き、すべてを造り、支配し、導くことが出来る力をお持ちでした。その神の御子が人となられた。そして、十字架の上で裁かれて死ぬほどに弱く小さくなられた。そしてその結果、何が起きたのか。私共が赦されたのです。本来神様に裁かれて、滅びるしかなかった私共の一切の罪が赦されたのです。永遠の命の御子が死なれ、私共に永遠の命が与えられました。それはちょうど、シーソーのような関係です。シーソーの一方に神の御子が天から降られ、そのシーソーの反対にいる私共が天に上げられる。神の御子が人となり、私共が神の子とされる。神の御子が死なれ、私共が生きることになる。それはまことに畏れ多いことです。ありがたいことです。

4.わたしたちはその栄光を見た
 私共は自分が貧しくなるのは嫌です。それが栄光に満ちたことだなどとは考えることも出来ません。栄光に満ちるとは、限りなく豊かになることだと私共は考えます。自分が大きくなり、高くなり、豊かになることだと考えます。しかし、神様はそのようにはお考えにならなかった。神の御子であるキリストは人間として、イエス様として生まれ、地上の歩みをなされ、十字架に架けられて死なれた。それはどこまでも低く低く、徹底して低きに下られた歩みでした。どこまでも貧しくなられた、どこまでも小さくなられたキリストの姿です。しかし、そこにこそ神の独り子としての栄光があったと聖書は告げているのです。どうしてでしょうか。それは、そこにこそ父なる神様の御心があったからです。そこにこそ父なる神様の私共への愛が現れたからです。ロゴスである神の言葉は、何よりも神様の意思を表しています。御心そのものです。イエス様は神のロゴスであられたが故に、神様の意思を表し、御心そのものでした。神様は、永遠の独り子を低きに下らせて人間にしてまで、しかも十字架の上で人間の身代わりにしてまでも、人間を救おうとされた。それが神様の御意志であり、御心であり、愛でした。ですから、キリストはどこまでも低く、どこまでも貧しく、どこまでも小さくなられた。罪人である私共を救うためにです。私共が豊かになるためです。そこに神様のロゴスである、神様の御心を現された神の独り子としての栄光がありました。生まれたばかりのイエス様が飼い葉桶に寝かされたのも、そういう意味です。イエス様が生まれた馬小屋や飼い葉桶が、光り輝くことなどありませんでした。イエス様の生まれた馬小屋にはバラの香りがしたなどということもありません。そうではなくて、誰から見ても貧しい、どうしようもなく貧しい、そこまで下られたことにこそ、神様の愛、神様の私共を救おうとする意思、御心が現れた。だから、そこに神様の栄光が現れたのです。
 ヨハネは14節「わたしたちはその栄光を見た。」と言います。それは、イエス・キリストいう目に見える人格を持ったお方が、目に見える様々な業を行い、様々な教えをお語りくださった。そのすべてに、私共を救わんとする神様の御意思が、御心が、神様の愛が現れていたからです。その究極に十字架がありました。これを抜きにして、神の栄光も恵みも真理もありません。ですからヨハネは10~11節ではっきり「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」と言って、十字架のことを告げるのです。ロゴスが人間となったイエス様は、自分の民の所に来た。でも受け入れられずに十字架に架けられ、殺されました。しかし、その事によって私共は救われました。クリスマスの出来事は、十字架への歩みの始まりなのです。この十字架は、自分を造ってくださった神様を知らず、神様から遠く離れ、自分の欲に引きずられ、自分の思いを第一とする私共の一切の罪を赦し、神様の子どもとして、神様との交わりに生きることが出来るようにするためでした。ですから、それは「恵みと真理とに満ちていた」とヨハネは告げたのです。イエス様の誕生から十字架そして復活に至るまで、そこには神様の御心が、愛が、真理がどこをとっても現れ出ているし、それが神の独り子としての栄光でした。ですから、それは恵みと真理とに満ちていたのです。

5.わたしたちの間に宿られた
 イエス様はおとめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで十字架に付けられ、陰府に降られました。イエス様は、流れ星のようにスーッとこの世界の歴史を一瞬、通り過ぎたのではありません。ヨハネは「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」と告げています。イエス様はまずおとめマリアのお腹の中に「聖霊によって」宿られました。そしてイエス様として生まれ、人間として歩まれました。弟子たちと語り合い、人々に教えられ、様々な奇跡をされました。そのすべてを見て、聞いて、触れた者たちによってイエス様の福音は伝えられてきました。イエス様は三日目に復活され、四十日後に天に昇られました。それでイエス様が「わたしたちの間に宿られる」ことは終わったのでしょうか。確かに、目に見える姿でのイエス様は天に昇られ、私共は見たり触れたりすることは出来ません。しかし、イエス様はペンテコステにおいて聖霊を弟子たちに与えてくださいました。その事によって、キリストの体である教会が建ちました。この教会において、イエス様は御言葉を与え続けてくださっています。聖餐によって、キリストの体と血に与らせてくださいます。教会というあり方で、主イエス・キリストは今も私共の間に宿ってくださっています。私が、「イエス様は、流れ星のようにスーッとこの世界の歴史を一瞬、通り過ぎたのではありません。」と申し上げたのは、そういうことです。イエス様がただの人間であるならば、多くの歴史上の人物と同じように、歴史の一コマにおいて輝いたとしても、私共の間に宿り続けることは出来ません。私共と共に生きることなどあり得ません。しかし、イエス様は神のロゴスであられますから、見えなくても共におられ、私共の交わりのただ中に宿り続けてくださっているのです。今も、この時もです。

6.光は暗闇の中で輝いている
 私共はコロナ禍の中でクリスマスを迎えています。そのことを思いますと、どうしても4~5節に触れないわけにはいかないでしょう。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。」とヨハネは告げます。「言の内に命があった。」とは、神様と共にあるキリストの命です。これは永遠の命であり、私共に命を与えることが出来る命の源としての命でしょう。この命が私共に光を与えます。肉体の死を超えた命を与えることが出来るからです。復活の命に私共も与ることになるからです。ここに私共の希望があり、光があります。
 この光は、さして困難もなく日常の生活を送れている時には、あまり意識しないかもしれません。しかし、光は闇の中で輝きます。クリスマスは夜の出来事です。イエス様は闇の世界に来られた。それは、この世界を照らすため、この世界に生きる私共を命の光、そして希望の光で照らすためです。毎日毎日、コロナの情報に溺れてしまいそうになる私共です。また実際、この影響で経済的に困窮している人、店をたたむ人、学業を続けられなくなった人もたくさん出ています。本当に、早く何とかならないものかと誰もが思っています。私もそう願って毎日祈っています。先のことは分かりません。でも、私共には分かっていることがあります。それは、このコロナ禍によって世界が終わることもないし、私共の命が終わることもないということです。今しばらくの間、厳しい状況は続くでしょう。様々な対応もしなければならないでしょう。でも、これで終わることはありません。それははっきりしていることです。しかし、このはっきりしていることが分からなくなってしまう。そういうことがあるのです。私共は目の前のことがすべてであるかのように思い込んでしまうからです。このクリスマスの時、「光は暗闇の中で輝いている」ことを心に刻みましょう。このキリストの光が届かないほどに濃い闇などありません。9節「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」と告げられています。どんなに厳しい状況の中であえいでいる人にも、このキリストの光は届きます。キリストの光はすべての人を照らすからです。あなたは神様に愛されている。この神様の愛の光から漏れる人はいません。
 キリストが貧しく、小さくなられたのは、私の救いのためです。あなたのためです。クリスマスの驚くべき出来事は、方向を持っています。方向のボンヤリした出来事ではなく、明確に「すべての人のため」という方向を持っている。つまり、その方向はあなたに真っ直ぐに向かっています。困難の中であえいでいるあなたに向かって、クリスマスの出来事は起きました。クリスマスの出来事は、あなたのための、私のための、驚くべき奇跡なのです。主イエス・キリストが来られたのですから、私共は新しい命に生きる者となるのです。

 私共はこれから聖餐に与ります。イエス様は、このパンと杯をもって「我が肉を食べよ」「我が血を飲め」「あなたの罪は赦された」「我と一つとなり、神の子として歩め」と告げられます。そのイエス様の御声をしっかり心に刻みましょう。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝、イエス様の御降誕を共々に喜び祝うことが出来ますことを、心から感謝いたします。神のロゴスが人となり、私共のために低きに下り、私共のために、私共に代わって十字架に架かり、一切の罪の贖いとなってくださいました。その事によって、神の子として新しい命に生きる者とされましたこと、まことにありがたく感謝いたします。どうか、私共がこの恵みに生き切ることが出来ますように、聖霊を注ぎ、信仰を与え、御国への歩みを健やかに整えてください。困難の中にある一人一人が、キリストの光に照らされますように。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2020年12月20日]