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礼拝説教

「御心のままに」
サムエル記下 7章18~24節
マタイによる福音書 26章36~46節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 先週からマタイによる福音書に戻って御言葉を受けています。イエス様が十字架にお架かりになった日の出来事です。当時のユダヤの一日は日没から始まりますから、イエス様が十字架にお架かりになった一日の出来事は、福音書の記事においては最後の晩餐の場面からとなります。イエス様は弟子たちと過越の食事をされ、その時聖餐を制定されました。それからオリーブ山へ行く途中で、先週御言葉を受けましたペトロの三度否みや弟子たちのつまずきの予告をされました。そして、エルサレムの西にありますオリーブ山のふもとのゲツセマネという所に来ました。ゲツセマネというのは、「オリーブの油絞り」という意味がありますので、きっとオリーブの木が周りにたくさん植えられていたのだと思います。そして、ルカによる福音書には「いつものようにオリーブ山に行かれると」(22章39節)とあり、また「いつもの場所に来ると」(22章40節)とありますので、イエス様はこのゲツセマネにいつも来て祈っておられたのでしょう。これから数時間後にイエス様は捕らえられ、裁判にかけられ、夜が明けるとピラトのもとに連れて行かれ、そして十字架に架けられます。ですから、このゲツセマネがイエス様の最後の祈りの場となります。イエス様はこの最後の祈りの時に何を祈られたのか、どのように祈られたのか、そして弟子たちはその時どうであったのか。そして、イエス様はこの時をどのように用いられたのか、何を伝えようとされたのか。御言葉から順に聞いてまいりたいと思います。

2.弟子たちに祈ることを教えるために
 イエス様の最後の祈りの時であった、このゲツセマネの祈りの記事が聖書に記されておりますのは、弟子たちがそこにいたからです。多分、この時イスカリオテのユダはイエス様を捕らえるための段取りをしていた人々の所に走っておりましたので、この場にはいなかったと思います。ですから11人の弟子と共に、イエス様はゲツセマネの園に来ました。そして、弟子たちをそこに座らせ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを伴い、祈られました。
 イエス様はどうして、この三人を最後の祈りの時に伴われたのでしょう。多分、イエス様はいつもは独りで祈られていたのではないかと思います。ところが、この時にはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を伴われた。どうしてでしょう。この三人だけを伴われた時が今までもありました。イエス様が山の上でその姿を変え、モーセとエリヤとお語りになった山上の変貌の時(マタイによる福音書17章1~13節)です。そして、会堂長ヤイロの娘を「タリタ・クム」と言って甦らされた時(マルコによる福音書5章35~43節)です。どちらも、イエス様が誰なのかということか明らかになる特別な時でした。そしてそれは、やがて弟子たちがイエス様を救い主として宣べ伝えていく時の特別な備えとなるような時でした。私は、この時もそうだったのではないかと思います。イエス様はこの時弟子たちに、これから福音を宣べ伝えていく上でどうしても必要なこと、「わたしの十字架とは何なのか」「わたしは何者なのか」「祈るとはどういうことなのか」そのことを弟子たちに教えようとされたのではないかと思うのです。
 この後、イエス様は捕らえられてしまうわけですから、このゲツセマネの祈りの時は、イエス様が弟子たちと一緒にいることが出来た最後の時です。この最後の時、イエス様はどうしても弟子たちに伝えなければならないことがあった。それがここに記されているのです。

3.イエス様の悲しみ
この時イエス様は「悲しみもだえ」られました。これが第一にイエス様がどうしても弟子たちに見せなければならなかったことです。イエス様はこの日のうちに十字架にかけられます。そのことをイエス様は御存知です。それを知った上での、最後の祈りの時。この時、イエス様は「悲しみもだえ」られたと聖書は記します。イエス様は悲しみもだえつつ祈られたのです。
 イエス様はこの時、少しも超然としていませんでした。このように自分の死を目前にして「悲しみもだえる」というのは、武士道の切腹というものを知っている日本人には、何とも情けない、これが神の独り子かと思うような姿でしょう。辞世の句を詠み、超然として自ら腹を掻っ捌いて死ぬ。それが武士たる者の死に様であり、死を前にじたばたするというのは、まことに見苦しいこと。少しも褒められた死に方ではない。立派な死に様を全うした人を多く知っていた日本人にとって、この時のイエス様の姿は、何とも情けない姿ということになるのでしょう。実際、日本にキリスト教が伝えられた時、このゲツセマネの祈りにおけるイエス様の姿が嘲笑の的となりました。自分の死を前にしてこのように狼狽えている者が神の独り子などというのは、片腹痛いというわけです。もし、イエス様が人々に嘲られ、鞭打たれ、手足に釘を打たれることを思って「悲しみもだえ」ていたのなら、そのような批判も当たっているかもしれません。しかし、聖書がこの時のイエス様の姿を「苦しみもだえ」とも「恐怖にもだえ」とも「嘆きもだえ」とも記していないことに注目しなければなりません。イエス様は弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい。」(38節)と言われました。勿論、イエス様が十字架の死における肉体の痛みを問題にしていなかったとは言いません。それは本当に耐えがたい苦しみであるに違いないからです。しかし、イエス様はここで「悲しみもだえ」られた、「死ぬばかりに悲し」まれたのです。イエス様は悲しんだのです。もだえるほどに、死ぬばかりに悲しんだのです。その理由は、父なる神様によって裁かれ、殺され、呪われ、捨てられるからです。天地が造られる前から父なる神様と一つであられた神の独り子であるキリストが、父なる神様によって裁かれ、殺され、捨てられるのです。これがイエス様の「悲しみもだえ」られた理由です。
 このイエス様の「悲しみもだえ」る姿に、死を恐れる人間イエスの姿が現れている、私たちと同じだ、と受け止めるのは少し違うと私は思います。私共は、この時イエス様が味わわれた「死の悲しみ」を知りません。神様に裁かれ、捨てられるということは、肉体の苦しみに比べれば大したことはない。痛くさえなければ、死ぬことだってそんなに怖くはないとさえ思っている。しかし、それは「死」というものを知らないからです。イエス様は、本当の死というものを知っておられました。そして、本当の「死の悲しみ」を味わわれた唯独りのお方です。私共が「死ぬのは悲しい」と思うのは、地上の愛する者と別れることになるからでしょう。しかし、イエス様が味わわれた「死の悲しみ」とはそういうことではありません。アダムが罪を犯したことによって、人間は死ぬべき者となりました。それは「死とは神様の裁き」であり、「死とは神様との関係を切られること」だからです。それは永遠に父なる神様と一つであられたイエス様にとって、まことに悲しいことでした。
 イエス様が「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られたのも同じです。イエス様は、ただ「死にたくない」と祈っているのではないのです。すべての罪人の身代わりとして死ぬ。罪人として死ぬ。神様に裁かれる。神様に捨てられる。それが、これからイエス様が味わわれる十字架の死です。それは神様の独り子であるイエス様にとって、何よりも辛いこと、悲しいことでした。この本当の死の悲しみを知るお方だけが、私共を罪の裁きとしての死の暗黒から救い出してくださることが出来るのです。どんなに立派に死ぬことが出来る人でも、この死の暗闇を知らない者に、どうして私共を罪の裁きとしての死から救い出すことが出来るでしょう。イエス様は死を深い悲しみをもって味わわれました。それは、私共がその死の悲しみを味わわないようにされるためでした。私共も死にます。しかし、その死は最早、神様に裁かれ、捨てられる死ではありません。その死はイエス様が担ってくださったからです。

4.御心のままに
イエス様はこの時、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」に続けて、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈られました。イエス様が第二に弟子たちに残したかった、教えたかったのはこの祈りです。この祈りを、イエス様は「主の祈り」においても教えてくださいました。「御心が天になるごとく、地にもなさせ給え」です。
 私共は「自分の願いどおり」になることを神様に願い祈ります。イエス様に出会うまで、それ以外の祈りを私共は知りませんでした。弟子たちにしてもそうだったと思います。そのような祈りをしてはいけないとか、そのような祈りは身勝手で御心には適わないということではありません。自分の思い、願うことを、正直に祈ったら良いのです。イエス様だって、ここで「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈りました。しかし、イエス様の祈りはそれで終わりではなかったのです。イエス様のこの「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」という祈りは、自分の願いどおりになることが一番良いことなのではではなくて、神様の御心が成ることが一番良いことなのだということを知っている者の祈りです。神様の愛を、神様の御心というものを本当に信頼しなければ、この祈りは出来ません。イエス様は最後まで父なる神様を信頼しておられました。その神様への信頼、御心への信頼を、弟子たちにこの祈りの言葉をもって伝え、教えたかったのです。
 私共の願いと神様の御心が対立することがあります。私共の願いが神様の御心といつも同じならば、まことに麗しい、平和なことです。しかし、中々そうはいきません。私共は自分に得になること、自分に良いと思われることしか願いません。しかし、それが他の人にとって、この世界にとって本当に良いのかどうかなどあまり考えませんし、考えても分かりません。自分にとってもそれが後々それがどういう結果をもたらすのか、見通すことなど私共には出来ません。今こうなったら良い、こうなって欲しいということを祈り願います。それは仕方がないことです。私共は人間であり、しかも罪人だからです。しかし、神様は聖なる方、愛の方、全能の方であり、すべてを知り、すべてを支配しておられる方です。その方が、一番良いと思われることがある。それが御心です。その御心が成るのが一番良いことなのです。勿論、私共は私共が出来ること、為さなければならないことがあります。責任というものがあります。しかし、その上で御心というものがあって、それが成ることが一番良いことなのです。それは私にとっても、周りの人にとっても、この世界にとってもです。
 それが具体的にどのように一番良いことなのか、今は分かりません。しかし、私共はそれをはっきり知ることになります。このことは、あのことは、そういうことだったのかと合点がいく時が来る。本当に一番良かったことだったのだと知らされる時が来る。それは御国においてです。だから、「御心が成りますように」と、神様の御心に信頼して祈る。それがイエス様によって示された私共の祈りなのです。

5.目を覚まして祈っていなさい
イエス様はこの時、弟子たちに「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」(38節)と言われました。ところが、イエス様がしばらく祈って弟子たちのところへ来ると、弟子たちは眠っていました。そこでイエス様はペトロに「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」(40~41節)と言われました。そして、再び向こうへ行って祈られました。そして、再び戻ってみると、やはり弟子たちは眠っていました。イエス様はまた向こうへ行って、三度目も同じように祈られました。そして、三度目に弟子たちのところに戻って来た時、やっぱり弟子たちは眠っていたのです。これはひどい話でしょう。ペトロ、ヤコブ、ヨハネにしても、恥ずかしい話です。彼らはこの時のことを思い出すと、本当に恥ずかしかっただろうと思います。イエス様に「目を覚まして祈っていなさい。」と言われたのに、眠ってしまったのです。これは言い訳出来ないことです。
 41節でイエス様が「心は燃えても、肉体は弱い。」と言われたことを逆手にとって、「心は燃えているんだけれど、肉体が弱い。だから、疲れてしまって、すぐに弟子たちは寝てしまった。仕方がないよね。肉体は弱いんだから。」と言う人がいます。しかし、本当にこの時、弟子たちの心は燃えていたのでしょうか。そうではないと思います。本当に心が燃えている時、そして決して眠ってはいけないと分かっている時、人は眠らないのではないでしょうか。皆さんの親や配偶者が、お医者さんに「今日が峠です。」と言われたら、皆さんは眠らないでしょう。人は、今は寝ても良い時だと思っているから眠るんです。私は、何も説教中に寝る人を責めているのではありません。礼拝の中で安心して眠るのは仕方がないと私は思っています。私も信徒の時、よく寝ていましたから。でも、牧師になってから礼拝中に寝たことはありません。当たり前の話です。寝てはいけない時であることを弁えているからです。信徒の時は礼拝中によく寝ていましたけれど、その時「私の心は燃えていた」なんて言えません。私はボーッとしていたんです。弟子たちもそうだったと思います。この時、イエス様はもうすぐ捕らえられ、十字架につけられてしまう。これがイエス様の最後の祈りの時だ。本気でそのことを受け止めていたのなら、彼らはこの時のように眠ってしまったでしょうか。この時、弟子たちはボッーとしていたんだと思います。ペトロもヤコブもヨハネも、言い訳出来ないと思います。そして、彼らは言い訳しなかったと思います。先週のペトロの三度否みの出来事と同じように、ペトロとヤコブとヨハネが口裏を合わせて黙っていれば、こんな恥ずかしいことはこのように聖書に残されることはなかったはずです。しかし、このように残った。それは、彼らが話したからです。
 それはイエス様が告げられた言葉、弟子たちに告げられた最後の祈りについての言葉、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」このイエス様の言葉を残さなければならなかったからです。自分たちが眠ってしまっていたということを話さなければ、このイエス様の言葉は何を言っているのか分かりません。そしてこの言葉が、第三に弟子たちにどうしても残していかなければならないとイエス様が考えられていたことでした。この話を話す時、弟子たちは恥ずかしかったと思います。しかし、それと同時に「もうあの時のように、眠りこけて祈らないようなことはないようにしよう。どんな誘惑に遭っても、祈り続けよう。イエス様のように祈りの道を歩んでいこう。」そう、心に期したのです。代々の聖徒たちもそうでした。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」このイエス様の言葉によって励まされ、キリストの教会は祈り続けてきたのです。誘惑はいつでもあります。富も力も誘惑になるでしょう。病気も困難も誘惑になるでしょう。祈ったところで何になる。神様が何をしてくれる。そんな囁きも誘惑になるでしょう。でも、祈るのです。御心が成ることを信じて祈る。神様の愛が私に注がれていることを信じて祈るのです。

6.「三度」そして「共に」
 イエス様は弟子たちが眠りこけてしまうことも知っておられました。しかし、眠りこける弟子たちを放っておかれたわけではありません。イエス様は御自分の祈りを中断して、三度も弟子たちの所に来られた。そして、「目を覚まして祈っていなさい。」と励まされました。三度というのは、ペトロの三度否みの時にも申し上げましたが、完全数ですから、回数である以上に、「完全に」「徹底的に」ということを意味します。ですから、弟子たちはこの時、完全に、徹底的に眠りこけていたのです。しかし、イエス様はその弟子たちを放っておかれることなく、「誘惑に陥らないように」「目を覚ましていなさい」「祈りなさい」と、完全に、徹底的に弟子たちを励まされました。それは今も変わりません。
 今朝のここの御言葉において、「共に」という言葉が三度繰り返されています。36節「イエスは弟子たちと一緒に(「共に」と同じ言葉)ゲツセマネという所に来て」、38節「わたしと共に目を覚ましていなさい。」、40節「わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。」イエス様は弟子たちと「共に」祈り、「共に」目を覚ましていようとされました。これが第四にイエス様が弟子たちに教えたかったことです。私共が祈る時、イエス様が共にいてくださり、共に祈ってくださり、目を覚ましてくださっている。この「共におられる」イエス様によって、この方の励ましによって、代々の教会は祈り続けることが出来たし、今も祈っています。私共は、自分一人で祈っているのではありません。たとえ独りで密室で祈っている時も、実はイエス様が共に祈ってくださっている。また、祈れないでいる私共に向かって、イエス様は「わたしと共に祈ろう。わたしと共に目を覚ましていよう。心が燃えるようにわたしが聖霊を送るから、目を覚まして祈ろう。」そう励まし、支え、導いてくださっているのです。

7.立て、行こう
イエス様はこの祈りの後、イスカリオテのユダに手引きされて祭司長たちや長老たちが遣わした大勢の群衆によって捕らえられます。そして、裁判にかけられ、十字架に架けられて死ぬまで、イエス様はまことに静かに、騒ぎ立てることもなく、粛々と歩んで行かれます。それは、このゲツセマネの祈りにおいて、御自身が歩まれる道を御心として受け止めたからです。このゲツセマネの祈りの時に、十字架への道がはっきりと決定されました。ですから、イエス様はもう少しも揺らぎません。そのイエス様の心がはっきり現れているのが46節のイエス様の言葉です。「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」イエス様は、御自分を捕らえる者たちが来たのを見て、もう逃げられないことを悟って捕らえられたということではありません。イエス様の方から「立て、行こう。」と言って、彼らの方に向かって行かれたのです。十字架は、イエス様と父なる神様の間で、このゲツセマネの祈りの中で「御心として」受け止められました。ですから、この後のイエス様は、何を言われても、何をされても、怒ったり、悔しがったり、嘆いたりすることはありませんでした。これが御心であることをしっかり受け止められたからです。この御心に従ってイエス様は十字架にかけられ、私共の罪の贖いとなられました。「立て、行こう。」というイエス様の言葉には、御心をはっきり受け止めた者の平安、明るさ、潔さ、力強さが現れています。これが第五にイエス様が弟子たちにここで教えたかったことです。祈って御心だと示された道を歩みなさいということです。
 私共も、人生の中で祈って祈って決めたこと、これが神様の御心だ受け止めて一歩を踏み出すことがあるでしょう。私が牧師になる為に神学校に行くことを決めた時、結婚することが決まった時、東舞鶴教会に赴任することになった時、そしてこの富山鹿島町教会に転任することが決まった時、それらはすべて「これが御心だ。これ以外の道はない。」そう信じて一歩を踏み出した時でした。どの時も、不思議と不安は全くありませんでした。
 私共は様々な一歩を踏み出す時、祈りつつ決めるのですけれど、どこかで自分の見通しとか損得計算とかが入り込んでしまうものです。それがいけないと言うのではありません。でも、それが御心でなければ道は閉ざされるでしょう。また、よく分からないなりに自分で選んだ道であっても、祈りつつ歩み続けていくうちに、これが御心だったのだと示される時が来ることもあります。ただ、どのような道を選ぶにせよ、祈りつつ歩んで行かない限り、それが御心であるかどうかを示されることもないのだろうと思います。多分、私共の人生の中で「これが御心だ」と確信して一歩を踏み出せる時の方が稀でしょう。御心かどうか分からないなりに、選ばなければならない時の方がずっと多いでしょう。そして、その結果上手く行く時もあれば、上手く行かない時もある。でも、御心があるということを知らされた私共は、上手く行くこと以上に重要なことがあることを知らされたのです。大切なのは御心が成ることです。そして、御心は必ず誰の上にもあるのですから、上手く行っても、行かなくても、御心が成ることを祈りつつ歩んでまいりましょう。上手く行かないと思っていたことが、実は本当に良かったことだったと知らされることもあります。いつでも、一番大切なことは御心です。御心が成ることが一番良いことなのです。そこに私共の平安の源があります。その平安の中を歩むようにと、イエス様は私共を励まし、祈る者へと導き続けてくださっているのです。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
あなた様は今朝、イエス様のゲツセマネの祈りを通して、祈ることを教えてくださり、祈り続けるよう励ましてくださいました。感謝いたします。どうか、イエス様が私共と共にいてくださり、目を覚まして、誘惑に陥らないように、御心が成ることを何よりも大切なこととして祈り求める者としてください。そこにこそ私共の平安があることを確信させてください。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年1月10日]