日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「友よ」
箴言 18章24節
マタイによる福音書 26章47~56節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
マタイによる福音書を読み進めながら御言葉を受けています。今朝与えられている御言葉の小見出しは「裏切られ、逮捕される」とあります。勿論、裏切られ、逮捕されたのはイエス様です。イエス様が捕らえられたのは夜。人間の罪が露わになる時です。しかし、その闇の中でまことの光であられるイエス様の光は輝きます。クリスマスの出来事が夜であったように、イエス様は人間の罪に覆われている闇の世界に来られました。まことの光を輝かせるためです。闇の中を歩む私共が、光の中を歩むようになるためです。
 前回見ましたように、イエス様はこの直前まで祈っておられました。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」と祈られ、その祈りの中で、イエス様は御自身が十字架に架かることが父なる神様の御心であることをはっきり受け止めておられました。そして、御自ら十字架への道へと歩み出されました。弟子たちは、イエス様が祈っている間、「目を覚まして祈っていなさい。」と言われたのに、眠りこけてしまいました。イエス様は独り祈られ、神様の裁きを引き受けて神様に捨てられるという「死の悲しみ」に独りで戦い、勝利されました。それは厳しい誘惑との戦いでもあったと思います。イエス様は誘惑を退け、敢然と十字架への道を歩み始められます。イエス様は弟子たちに「時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(45~46節)と弟子たちにお告げになりました。「立て、行こう。」です。イエス様は御自分から十字架へと向かわれたのです。そしてその時、イスカリオテのユダと、イエス様を捕らえるために祭司長たちや民の長老たちによって遣わされた大勢の群衆がやって来ました。

2.裏切りの接吻
 彼らは剣や棒を持っていました。「大勢の群衆」というのは、百人を超える人数ではなかったかと思います。手に手に剣や棒を持った人たちが、イエス様を捕らえるためにやって来た。行き当たりばったりで来た人たちではありません。イエス様を捕らえるために用意周到な準備をしてきた人たちです。街灯なんてありませんから、たいまつも持っていたことでしょう。そして、逃げられないようにと、彼らはきっとイエス様と11人の弟子たちを取り囲んだと思います。そして、イスカリオテのユダがイエス様に近づきます。そして、「先生、こんばんは。」と言ってイエス様に接吻しました。挨拶をして接吻する。それはごく親しい関係の者同士の所作です。ユダとイエス様は、先生と弟子の関係でしたから、勿論親しい間柄です。このような挨拶は、二人にとってはいつも通りのことだったのでしょう。暗闇の中、11人の弟子とイエス様、合計12人の男がそこにはいたわけです。闇夜ですから、顔だって良くは見えなかったでしょう。ですから、誰がイエス様なのか、捕らえに来た者たちには見分けがつかなかったと思います。そこで、イスカリオテのユダは「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ。」と前もって合図を決めていたのです。いつもの親しい挨拶。それが裏切りの合図でした。これは偶然そうなったわけではありません。26章16節には「ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」とあります。夜のオリーブ畑の中。イエス様と弟子たちしかいない。周りには誰もいない。何をしても誰にも気付かれない。そういう絶好の機会をユダは捉えたのです。接吻の合図も前もって考えていたことではなかったかと思います。
 夜の闇を一層濃くする、罪の闇がここに現れています。いつもの親しい挨拶。しかし、その接吻が裏切りの合図でした。親しさの下に隠された裏切り。私は、人間の罪が最も露わになるのは、裏切りと忘恩(恩を忘れる)の時だと思っていますが、このユダの裏切りの場面はその典型でしょう。ここで、なぜユダはイエス様を裏切ったのかということについては、詮索しないことにします。それこそ色々想像することは出来ます。小説にもなりましたし、色んな理解の仕方があります。でも、本当の所は分かりません。はっきりしているのは、何年も一緒に旅をしてきて、イエス様とずっと一緒にいたユダが裏切ったということです。ユダはイエス様を少し知っていた、というのではありません。ここで聖書は「十二人の一人であるユダ」(47節)と言っています。ユダは十二弟子の一人として、ずっとイエス様と一緒にいて、イエス様の言葉を聞き、イエス様の業を見て来た。それ故に、この罪の闇は深いと思います。ユダは自分がイエス様に愛されていることを知らなかったのでしょうか。そんなことはないと思います。でもユダは裏切りました。

3.逃げた弟子たち
しかし、この時イエス様を裏切ったのはイスカリオテのユダだけではありませんでした。他の弟子たちも同じでした。今朝与えられた御言葉の最後に「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」(56節)と記されています。この後、ペトロはイエス様の後を付いて大祭司の所に行き、その中庭でイエス様のことを三度知らないと言ってしまいます。ユダとペトロと他の10人の弟子。この中で誰が一番罪が重いというのでしょうか。ここで、誰が一番、誰が二番と言うことは、意味がありません。重要なことは、弟子たちは皆、イエス様を裏切ったということです。  ここでイエス様の弟子がみんな裏切ったということは、私共もそのような者だということです。私共の中には、「私はユダほどは悪くない。あれは別格だ。特別に罪深い。自分はユダとは違う。」そんな思いがあるかもしれません。しかし、私共と神様・イエス様との関係において、「ちょっと裏切る」とか「大きく裏切る」なんてことはありません。罪は白か黒かです。ちょっと黒みが強いグレーとか、それよりは白に近い薄いグレー。そんなものはありません。白か黒です。そうであるならば、私共はみんな黒です。私共はこの時イエス様を裏切った弟子たちと何も変わりません。自分の方が少しマシだ、あれほど悪くないと思うのは、神様の御前における話ではありません。そこでは程度の差は意味が無いからです。自分の方がマシだというのは、神様抜きで、ただ人と比べているだけだからです。それは「目糞(めくそ)鼻糞(はなくそ)を笑う」の類いです。聖書がここで告げているのは、弟子たちはみんな裏切ったということです。例外はなかった。そして、その先頭にユダがいたということです。
 つまり、ユダと私共との関係、イエス様を見捨てて逃げた弟子たちと私共との関係は、無関係どころか、私共の罪がはっきり現れたのがユダという存在であり、逃げた弟子たちだということです。私共は誰でも、今までの人生の中で愛する者を裏切った、或いは深く傷つけたことがあるのではないでしょうか。それは思い出したくもないことです。記憶の中に封印して、無かったことにしておきたいことかもしれません。しかし、私はこのユダの姿を見るとどうしても、自分でも見たくない自分の姿、誰にも見せていない、自分でも知りたくない、愛する者を裏切ってしまったエゴの塊のような自分の姿を見せつけられる思いがするのです。具体的なあの人に対して、また別のあの人に対して、過去を消せる消しゴムがあるならば消してしまいたい、あの日の出来事、あの言葉がある。その人はもう忘れているかもしれない。でも、神様は忘れてはおられません。だから、誰も「ユダと自分は関係ない」なんて言えないのです。

4.友よ
 しかし、ここで私共が注目しなければならないのは、ユダではありません。イエス様です。イエス様がそのユダに対して何と言われたかということです。50節「イエスは『友よ、しようとしていることをするがよい』と言われた。」と聖書は告げます。イエス様はユダが自分を捕らえに来た人々を手引きし、自分を彼らに引き渡そうとしていることを知ってます。「先生、こんばんは。」と言って接吻しながら、自分を裏切っていることを百も承知しています。しかし、その上でイエス様はユダに対して「友よ」と語りかけられました。これは驚くべきことです。ユダは裏切りました。銀貨三十枚でイエス様を売りました。しかし、イエス様はそのようなユダを「もうお前など弟子でも何でもない。」とか「お前との関係はこれで終わりだ。」などとは言われなかったのです。イエス様は最後までユダを「友よ」と呼ぶのです。それは、最後までユダに対して心を開いていた、受け入れていた、赦しておられたということです。
 残念なことに、27章でユダが首をつって死んだことが記されています。ユダはイエス様の復活を待つことなく自殺してしまいました。しかし、もしイエス様の復活の時まで彼が生きていたのなら、復活のイエス様によって全き赦しを与えられていたのではないかと私は思います。ユダは赦されず、ペトロや他の弟子たちは赦される。そんなことはあり得ないと思います。イエス様が「友よ」と呼ばれた以上、イエス様からすれば、ユダは最後までイエス様の友であり続けたのです。しかし、ユダはそれを自ら放棄しました。放棄したつもりでいました。もう、イエス様との関係が回復されることはないと思ったのでしょう。ここまで徹底的に裏切っておきながら、なおもイエス様の弟子であり続けることが出来る、赦してもらえる、イエス様との関係が崩れない、そう考えるのはあまりにも厚かましく、あまりにも図々しい話でしょう。ユダはそう思ったから自殺してしまったのです。確かにそれはあまりにも厚かましく、あまりにも図々しい話です。しかし、それが福音なのです。それが神様の愛なのです。それがイエス様による罪の赦しというものなのです。私共が救われたということは、この赦しに与ったということです。どこまでも徹底して赦し、愛してくださる。それが私共の神様なのです。神様の愛は、神様の赦しは、私共の想像を遙かに超えて、徹底的なのです。私共はこの徹底したイエス様の愛に生かされ、赦しに生かされている。ですから、何度でもイエス様の御許に立ち帰り、イエス様の友としての歩みを歩み直すのです。イエス様との関係が「もうお終い」、そんなことには決してならないからです。

5.赦し、愛する者として
 イエス様のこの「友よ」という呼びかけから、イエス様がこう言われた言葉を思い出します。ヨハネによる福音書におけるイエス様の言葉です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネによる福音書15章13節)この愛は、イエス様が十字架によって示された愛に他なりません。しかし、イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネによる福音書15章12節)とも言われました。イエス様の友として、徹底的に、命がけで愛されている私共は、そのイエス様の愛に生きる。私も赦す者として、愛する者として生きる。この愛に生きるために、教会は建てられています。
 しかし、そんなことを言われても、私にはとてもそんなことは出来ません。それが正直な私共の思いでしょう。確かに、私共には友のために命を捨てるなどということは、とても出来そうにありません。しかし、これはイエス様の掟ですから、これを無視したり、無かったことにして捨て去ることは私共には出来ません。ですから、私共は出来る限りの愛の業に励むしかありません。しかし、それは破れます。でも破れるたびに、私共はイエス様の許に立ち返り、歩み直すのです。何度でもです。その繰り返しの中で、私共は少しずつ、少しずつ変えられていくのでしょう。私共の中には、あの人だけは「友よ」と呼べない、心を開いて受け入れることが出来ない、赦せない、そういう人がいるかもしれません。しかし、やがて「友よ」と呼べるようになります。そのように変えていってくださる神様の御業を、私共は信じて良いのです。

6.剣をさやに納めなさい
イエス様を捕らえに来た群衆に対して、剣をもって切りつけた弟子がいました。ここには名前が記されておりませんけれど、ヨハネによる福音書にはそれがペトロであったと記されています。イエス様に「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と言われた時、ペトロは「たとえ一緒に死ななければならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と言いました。この時のペトロの思いに嘘はありませんでした。ですから、この大勢の群衆に囲まれた時、彼は持っていた剣で打ちかかっていったのです。イエス様が捕らえられようとしているのに黙って見ているなんて、ペトロには出来ませんでした。どう見ても多勢に無勢で、勝てるはずがない状況です。ペトロが宮本武蔵や柳生十兵衛のように剣術の達人であったなら、人混みを切り開いていけたかもしれませんけれど、そんなことは出来るはずもありません。ペトロはこの時、イエス様と一緒に死のうとしたのではないかと思います。イエス様の弟子として、そうするしかないと思ったのではないかと思います。頭にかーっと血が上って、持っていた剣を振り回したのです。
 しかし、イエス様はそれを止められました。52節でイエス様はこう言われました。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」とても有名な言葉です。「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」これは、「剣に頼る者は、結局剣によって倒れていく。」ということでしょう。これは聖書を離れて、歴史が証明している一般的な真理だとも言えるでしょう。歴史を見れば、そのことは分かります。しかし、イエス様はここで、そのような一般的な真理を語ろうとされたのではないと思います。ここでイエス様はペトロに「あなたは何に頼っているのか。わたしを捕らえに来た者たちは、剣に頼っている。剣でわたしを捕らえようとしている。この世の権力とはそういうものだ。しかし、あなたも一緒になって剣に頼ってどうする。あなたが頼らなければならないものは何か。わたしではないか。剣に頼るな。この世の力と同じになってはいけない。」そう言われたのではないでしょうか。ここで言われている「剣」とは、この世における力を指していると考えて良いでしょう。武力・経済力・文明の力・政治力などのこの世における力すべてを指していると考えて良いでしょう。マスコミの力だってそうです。SNSが普及している現代においては、それも大きな力を持ちます。イエス様はこれに続けて53~54節「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」と言われました。イエス様は剣など頼らなくても、天使を12軍団、これはローマの軍隊の単位で、1軍団は正規兵だけで6千人ですから、7万2千の天使ということです。とんでもない数の天使によって、自分を捕らえに来た者たちを退かせ、この場を鎮めることなどは造作もないことだ。しかし、それではどうして神様の御心を果たすことが出来よう。旧約において預言されていた神様の御心は成就されなければならない。その為に、わたしは捕らえられ、十字架にかけられる。それが御心だからだ。そうイエス様は言われたのです。この世の力によって御心がなっていくのではありません。御心に従う者によって御心は為されていくのです。イエス様は、剣の力によって捕らえられたのではなくて、神様の御心に従うが故に人々に捕らえられたのです。

7.剣を取る者は剣で滅びる
 このイエス様の「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」という言葉をもって、「軍備は一切要らない」とか、「自衛隊は廃止しろ」といった乱暴なことは言えません。勿論、信仰による徹底的平和主義というものはあり得ると思います。しかしその場合は、自分が攻撃され、愛する者が殺されても、決して反撃しないということになるでしょう。しかし、この徹底的平和主義だけがキリスト教の立場とは言えません。例えばローマの信徒への手紙13章4節には「権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。」とあります。この世の秩序のために剣は必要なのであり、その権威もまた、神様によって立てられたものだと聖書は告げます。勿論、その用い方は限定的であり、愛と正義と平和を求めてということが大原則です。人々を抑圧するため、自由を奪うようなあり方で用いられてはならないことは言うまでもありません。為政者は、いつでもそのような誘惑にさらされています。ですから、私共は彼らのためにも祈らなければなりません。
 しかし、御心が天になるごとく地にならせるためには、神の国の前進のためには、剣は決して用いられてはならないのです。それは何の役にも立たないからです。それにもかかわらず、それを用いようとする誘惑があることも事実です。教会はその歴史において、しばしばその誘惑に負けたことがありました。すぐに思いつくのは十字軍です。しかし、宗教改革だってその過ちを犯さなかったとは言えません。その過ちを認めて、近代国家において「政教分離」ということが確立されてきたのです。これは本当に大切な原則です。ここに至るまで、どれ程多くの血が流されてきたことかと思います。政教分離というのは、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」というイエス様によって告げられた言葉によって導かれた、人類の知恵なのです。
 私共は剣を頼りとしません。ただ神様・イエス様だけを頼ります。その御力によってのみ、神の国は前進していくからです。イエス様の十字架の愛、徹底した赦しを受け、そこに私共が生きることによって福音は伝えられて行きます。そのような営みによって、聖霊の導きの中、神の国は前進していきます。私共は、この神の業に仕える者として召されているのです。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝あなた様は、イエス様が捕らえられる場面の御言葉から、イエス様はユダさえも愛し通されたことを知らせてくださいました。そのイエス様の愛と赦しに与らせていただいていることを心から感謝いたします。どうか、私共自身が、この愛に仕える者として、赦しの福音に生きることが出来ますように。愚かで、自惚ればかりが強く、赦すことが中々出来ない私共ですが、どうか何度でも立ち帰って、あなた様の愛に生き切ることが出来ますように。どうか私共を強め、導いてください。私共が頼るべきは、ただあなた様しかないことを肝に銘じて、すべての誘惑から私共をお守りください。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年1月17日]