日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

総員礼拝説教

「自分を裁くな」
ゼカリヤ書 11章13節
マタイによる福音書 27章1~10節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 マタイによる福音書を読み進めています。現在の日付けの考え方では木曜日の夜、日没から一日が始まるとする当時のユダヤの数え方では金曜日の夜、イエス様が十字架に架けられる日です。イエス様はゲツセマネの園で捕らえられて、大祭司カイアファの屋敷に連れて行かれ、最高法院の面々によって死刑にされることが決められました。ゲツセマネでイエス様が捕らえられる時に手引きをしたのが、十二弟子の一人であったイスカリオテのユダでした。そして、大祭司の屋敷でイエス様が最高法院の面々に裁かれていた時、その屋敷の中庭まで入ってきていたペトロは、鶏が鳴く前に三度イエス様を知らないと言ってしまいました。
 そして、夜が明けます。今朝与えられております御言葉、マタイによる福音書27章は「夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。」(1~2節)と告げています。イエス様を殺すことは決めていたのです。しかし、どうやって殺すか。そのことを彼らは相談したのでしょう。制度上、最高法院には政治的・宗教的な自治が認められておりましたから、自分たちが直接イエス様を殺すことも出来たと思います。しかし、その場合は石打ちの刑ということになったでしょう。彼らは、そのやり方を用いずに、イエス様をローマによって殺させるということを考えました。こうすれば、イエス様を支持する民衆の反感は自分たちに向かわず、ローマに向かうからです。しかし、イエス様をローマに訴えて、ローマによって殺させるためには罪状が要ります。「メシアと言っている」という罪状では、無理です。これはユダヤ教内部の宗教問題ですから、ローマはこの手の問題には介入しません。そこで彼らは、どうしてもローマが無視出来ない、死刑にするしかない罪状を考え、相談しました。それが「ユダヤ人の王と称している」というものでした。「メシア」には確かに「ユダヤ人の王」という意味もありますけれど、それは信仰の世界においてです。実際の政治の世界のことではありません。しかし、それを敢えて彼らはイエス様が「ユダヤ人の王と称している」と言い、反乱を計画している者のように総督ピラトに訴えました。更に、ルカによる福音書によれば「税金を納めるのを禁じている」(23章2節)と訴えたのです。ローマは自分たちが支配している国や民族に対して、大変寛容でした。けれど、反乱と税金に対してだけは決して容赦しませんでした。このイエス様の罪状は明らかに偽りでしたけれど、これでローマは無視することが出来なくなりました。この罪状をイエス様に付けて、彼らはイエス様をローマの総督ピラトのもとに引っ張っていったのです。

2.ユダの裏切りの顛末がここに記されている理由
 このピラトによる裁判は27章11節から始まります。今朝与えられている御言葉はその前の10節までです。ここには、イスカリオテのユダが自殺したということが記されています。その経緯もかなり丁寧に記されています。この記事は4つの福音書の中では、マタイによる福音書にしか記されておりません。使徒言行録の1章にも記されてはいますが、これほど丁寧には記されておりません。マタイがこの箇所にイスカリオテのユダの自殺の記事を記したのには、二つの理由があります。一つは、総督ピラトによる裁判が始まる前に、イエス様は全く無実であったということを示し、このピラトによる裁判がいかに不当なものであったかを示そうとした。もう一つは、読み手である私共に、ユダとこの直前にあるペトロとの比較をさせるためだったのではないかと思います。同じくイエス様を裏切ったペトロとユダ。この二人の記事が続けて記されていれば、二人を比較するということが自然と起きます。そこに福音書記者マタイの意図があったのだと思います。

3.イエス様の無実の証し
まず、ユダと祭司長たちとのやり取りを見てみましょう。ここに、イエス様の無実が明らかに示されています。ユダについてはこうあります。3~4節「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った。」ユダはここではっきりと「わたしは罪の無い人の血を売り渡し、罪を犯しました。」と言っています。イエス様が「罪の無い人」であったことをユダは明言しました。
 この時、祭司長たちは「『我々の知ったことではない。お前の問題だ』と言った。」のです。ひどい話です。祭司というのは、本来、人々の罪を執り成すことが役目です。彼らは、ユダに対してその役割を放棄しました。そして、ユダはイエス様を逮捕させるために手引きした報酬、銀貨30枚を神殿に投げ込んで立ち去ります。祭司長たちはこの銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない。」と言います。これは、元々自分たちがユダに与えたお金です。多分、神殿の会計から出ていたのでしょう。ところが、ユダがそれを神殿に投げ入れると「これは血の代金だ」つまり、「汚れている金だ」と言ったのです。本来、殺されるはずのないイエス様が殺されることになる。その為に使われたお金だから汚れているし、神殿の収入として入れることは出来ないというのです。虫のいい話です。汚れているのはこのお金ではなくて、無実のイエス様を殺そうとしている自分たちなのに、そんな自覚は全くありません。しかし、このやり取りによって、イエス様が全く無罪であるということが明らかにされています。

4.ユダの後悔
 それにしてもユダは、どうして祭司長たちの所に行ったのでしょう。ユダは3節「イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとし」たのです。どこでユダがイエス様の有罪判決を知ったのかは分かりません。しかし、ユダはそれを知って「後悔した」のです。「何ということをしてしまったのか」と後悔した。そして、彼はもらった銀貨30枚を祭司長たちに返そうとして来たのです。「これを返すから、イエス様を解放してくれ。イエス様は何も悪いことをしていない。」そうも言いたかったでしょう。自分は何ということをしたのかと、彼は後悔したのです。本気で後悔した。しかし「後悔先に立たず」とは、こういうことなのでしょう。後悔しても、時間を元に戻すことは出来ません。彼は、銀貨30枚を神殿に投げ入れ、その場を去りました。そして、首をつって死んでしまったのです。何と痛ましいことかと思います。自殺することはなかったのにとも思います。しかし、ユダにしてみれば、そうするしかなかったのでしょう。
 このユダの自殺に対して、祭司長たちの責任も大きいと思います。後悔したユダに対して、彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ。」と突き放してしまったからです。神様の御前に人間の罪を執り成すのが祭司の職務です。彼らは職務を放棄したのです。この時、ユダを行き場のない者にしてしまったのは祭司たちでした。もっとも、ユダと共犯関係にあった彼らに、どのような執り成しが出来たかは分かりません。
 これは、ユダだけの問題ではありません。深刻な罪を犯してしまい、それが言い逃れ出来ないほどにはっきりと自分のせいだということが分かっている時、人はどうすれば良いのでしょうか。どうしてその罪責感から逃れることが出来るでしょうか。どこに解決の糸口があるのでしょうか。
 私が幼稚園に行っていた4歳か5歳の時、いつも私の家に寄って一緒に幼稚園に行く友達がいました。ある時、いつものように、私が玄関に出てその子を待っていると、向こうからその子がやってきました。私の家の前には、旧国道4号線が通っていました。私はその子が来たのが嬉しくて、通りを挟んで「おいで、おいで」と声を上げながら手を振りました。そしてその子が道路を渡り始めた時、車が来て、その子は事故に遭いました。私はびっくりして、恐ろしくて、その場に居られなくて、「ぼくのせいだ。ぼくのせいだ。」と思って、幼稚園に向かって走りました。それは幸いなことにひどい事故ではなく、すぐにその子もまた幼稚園に来るようになりました。でも、私はその子と以前のように話したり、遊んだりすることは出来ませんでした。その子を見ると、あの事故の事を思い出し、あの時自分が「おいで、おいで」と声を掛け、手招きをしたからその子は事故に遭ってしまった。自分のせいだ、とずっと思っていました。親に責められたわけでも、その子に責められたわけでもありません。でも、自分のせいだと思っていました。それなのに、その子に謝ることも出来ず、ずっとその子を避けていました。もう60年も前の、子どもの頃の思い出です。でも、今でも忘れることは出来ません。
 しかし、このような「私のせいだ」と思う出来事に、私共は年を重ねるほどに何度も何度も人生の中で出遭ってきたのではないでしょうか。あの時、あの人にあんな事をしていなければ。あんな事を言わなければ。思い出せば胸が痛む出来事を、私共は幾つも経験しているのだと思います。この「自分のせいだ」という罪責感を私共はどこに持って行けば良いのでしょうか。ユダは、イエス様を裏切ったことを後悔しました。真剣に後悔しました。しかし、その思いをどこにも持って行くことが出来ず、ユダは自分で自分を処分して、自殺してしまったわけです。本当につらく、痛ましい出来事です。

5.自殺について
 牧師をしていますと、唐突に「キリスト教は自殺はいけないんでしょ。」と聞かれることがあります。私は、この人はどういうつもりで聞いているのだろうと、まず思います。家族や友人に「死にたい」と思っている人がいるのだろうか。或いは、この人本人がそんな思いになっているのだろうか。もしそうならば、具体的に丁寧に話を聞かなければいけないと思います。しかし、興味本位のような、「自殺をした人は天国に行けないのか。」というような問いには、「色んなケースがあるから、一概には言えないと思います。」と答えます。この問題は、簡単に答えることが出来るような問題ではないからです。
 日本の2020年の自殺者は約2万人でした。その約半数は、鬱病で自分の命を絶ってしまった人です。これは、ほとんど病死と言うべきものだと私は思っています。そして、一人一人に重い、深い事情があります。軽い気持で自殺する人なんていません。ですから、十把一絡げで言うことなどとても出来ません。このユダの出来事をもって、キリスト教では自殺は禁じられている、自殺はダメだ、と言えば済むことではありません。
前任地で教会員が一人、病院で自殺しました。鬱病でした。その一週間前に私は見舞いに行っていました。あの時、もっときちんと話を聞くべきだったのではないか。もっとこんなことを言ってあげれば良かったのではないか。牧師としての力不足を思わされ、随分苦しみました。その後、ご主人が教会に来られるようになって、洗礼を受け、長老にもなりました。この方も、もう既に天に召されました。

6.ペトロとユダ
ここでペトロとユダを比べてみますと、二人ともイエス様を裏切ったという点においては同じです。ペトロはイエス様を三度知らないと言いました。三度言ったということは、完全に、言い逃れが出来ないほどに、イエス様との関係を否定したということです。その時、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。」と言われたイエス様の言葉を思い出し、ペトロは泣きました。一方、ユダはイエス様を銀貨30枚で売ったことを後悔し、首をつって死んでしまいました。ペトロとユダを比べるならば、ユダの方が真剣というか、自分のせいでこんなことになってしまったということを真剣に受け止め、自分の命で責任を取ったと見ることが出来ると思います。ペトロは泣いただけです。日本人の伝統的な責任の取り方、潔さ、美意識から言えば、ユダの方がきちんと責任を取ったとも言えるでしょう。
 でも、聖書は何と言っているのでしょうか。結論ははっきりしていると思います。聖書は、「ユダになってはならない。ペトロになりなさい。」と言っています。これははっきりしています。それは、ユダとペトロ、どっちが真剣にイエス様を裏切った自分の罪を受け止めて責任を取ったかということではありません。勿論、自らの罪を自覚的に、しっかり受け止めることは大切です。しかし、どれだけ真剣に自らの罪を受け止めても、それだけではダメなのです。それだけでは、出口がない。光がありません。聖書が「ユダになってはならない」と言う意味は、イエス様を裏切ってはならない、ということだけではありません。もう一つ大切なことがあるのです。それは、自分の罪の解決を自分でつけてはいけない、ということです。自分の罪の解決は、自分では出来ないからです。自分で犯した罪の責任を自分で取ることなど出来ないのです。自分が死んでも、過去は変わりません。私共がしてしまったことの責任を取ることなど、私共には出来ないのです。それが出来るのは、イエス様ただ一人です。イエス様はユダのために、ユダに代わって、十字架の上で裁きを受けて死なれた。だから、ユダは死ななくて良いんです。死んではいけないんです。イエス様の弟子として、イエス様に完全に罪を赦していただいた者として、新しい命に生きる者として、生きていくことが出来たはずだったからです。聖書がユダになってはいけないと言う、一番の理由はそこにあります。ペトロもイエス様を裏切ったのです。しかし、ペトロは復活のイエス様と出会って、新しくやり直しました。聖書が求めているのは、このことです。ユダは自分のしたことを後悔しました。しかし、自分で自分を処罰してしまいました。残念なことに、イエス様の御前で悔い改めに至ることはありませんでした。悔い改めは、後悔することではありません。イエス様との出会い、神様の御前で、自らの罪を認めて赦しを求めることです。彼がもう少し待っていれば。イエス様が復活されて、そのイエス様と出会うことが出来れば、きっと彼は自殺しないで済んだと思います。しかし、歴史に「もし」と言っても仕方がありません。
 人は「何故ユダはイエス様を裏切ったのか」ということに興味を持ちます。でも、本能寺の変において、何故、明智光秀は織田信長を討ったのかという問いと同じように、本当のことは分かりません。はっきりしていることは、聖書は「ユダになってはいけない」と告げているということです。

7.裁いてはならない
イエス様はマタイによる福音書7章1節以下において、「人を裁くな」と教えられました。人は、他人のことは分かったつもりで裁いても、自分のことは中々分からないものです。そして、自分のことさえ良く分からないのですから、本当は他人のことなど分かるはずもないのです。ですから、イエス様は「人を裁くな」と言われました。それは「あなたは人を裁くことは出来ない」ということなのでしょう。私共はその人の心の中のことも、置かれている状況も、ほんの表面のことしか知らないからです。すべてを知っておられるのは神様だけです。ですから、正しく裁けるのは神様だけです。それに、私共が誰かを裁いたとして、その結果がどうなるのか。その結果に対しての責任など、私共は取りようがない。勿論、これは信仰の事柄であって、裁判所は要らないと言っているわけではありません。そして、何よりも、イエス様はその人のためにも十字架にお架かりになりました。つまり、その人の罪の裁きはもうイエス様が代わってお受けになった。だから、私共が為すべきことは、その人を裁くことではなくて、赦すことしかないのです。
 そして、このことは他の人に対してだけではなくて、自分自身に対しても同じことです。イエス様は私共の犯した罪の一切の裁きを十字架の上でお受けになってくださいました。ですから、私共は自分自身をも裁いてはならないのです。自分のしたことを後悔して自分を裁くのではなくて、イエス様の御前において悔い改めることです。悔い改めて罪の赦しに与り、新しい命に生きることです。それが私共を造り、独り子であるイエス様を与えるほどに私共を愛しておられる神様が、私共に求めておられることです。

8.銀貨30枚で買われた陶器職人の畑
 最後に、ユダの銀貨30枚によって「陶器職人の畑」が買われたことについて触れて終わります。祭司長たちは、ユダの銀貨30枚を汚れた金として、神殿の収入には出来ないということで、それで「陶器職人の畑」を買うことにしました。この「陶器職人の畑」というのは、陶器を作る職人が不良品を捨てる場所として使われていた畑です。ですから、陶器の破片が山のようにあって、何かの作物を作るための畑としては使うことなどとても出来ない。二束三文の価値しかない畑です。この畑は結局「外国人の墓地」となりました。外国人とは、ユダヤ人以外の人、異邦人、ユダヤ教においては救われることのない者とされていた人たち、汚れた者と考えられていた人たちです。この人たちのための墓地となった。これは、イエス様の十字架によって救いに与ることとなる外国人、異邦人の墓地のさきがけとなったということです。ユダの裏切りに対して支払われた銀貨30枚。これは奴隷一人分の値段で、現在の価格に換算するのは難しいのですけれど、数千円ぐらいのものです。イエス様はまことに安い値を付けられた。ユダの裏切りは酷いことですし、何も良いことなんて無いように見えます。しかし、それが外国人の墓地となることによって、イエス様の救いの御業を指し示すことになりました。すべてが神様の御手の中の出来事だったということです。それをマタイは「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。」(9節)という書き方で示しました。何も意味が無い、無駄な、良いことなんて何も無いように見えることであったとしても、私共はこの神様の御手の中で生かされています。そのことを信頼して、この一週も健やかに、御国に向かっての歩みをなしてまいりたいと思います。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝あなた様は、イスカリオテのユダの自殺という痛ましい出来事を通して、私共がイエス様の十字架の赦しの中に生かされていることを改めて知らせてくださいました。それ故、私共は人を裁かず、自分をも裁かず、ただあなた様の御前に悔い改め、あなた様の赦しに与り、互いに赦し合って歩んで行く者でありたく思います。今から聖餐にも与ります。この赦しの恵みを、聖餐を通しても、いよいよしっかりと心に刻んで、ここから新しい一週へと歩み出させてください。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年2月7日]