日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「あなたは誰か」
詩編 62編2~7節
マタイによる福音書 27章11~26節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
イエス様はゲツセマネの園で捕らえられ、大祭司カイアファの屋敷において、最高法院のメンバーによって死刑を宣告されました。罪状は冒涜罪ということでした。大祭司による「お前は神の子、メシアなのか。」という問いを、イエス様は否定しませんでした。イエス様は「それは、あなたが言ったことです。」と答え、更に「わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」と告げました。これはダニエル書を引用して、間接的に自らが神の御子・メシアであるということを表明したに等しかったからです。これを神様への冒涜、メシアへの冒涜と、大祭司や最高法院の人たちは受け取りました。これは当時のユダヤ社会においては死罪に当たる冒涜罪でした。
 この冒涜罪というのは、調べてみて驚いたのですが現在でも、世界中の色んな国にあるのです。皆さんが御承知のように、イスラム教の国、ここでは「ある国」としておきますが、そこでは「イスラム教あるいはその預言者への冒涜に対しては死刑、コーランへの冒涜・破損あるいは神聖を汚す場合は終身刑、他人の宗教的(イスラム教的)感情への侮辱は十年の禁固」と定めています。しかし、この冒涜罪というのはイスラム教の国だけではなくて、冒涜が罰せられる国はドイツ、イタリア、スペイン、ギリシャ、オーストリア、ポーランド、ロシアなど、たくさんのキリスト教の国にも現在でもあります。フランス、英国、オランダ、アイルランドでは冒涜罪は廃止されました。スイスはこれを止めようという動きがあるようです。ということは、今はまだあるということでしょう。フランスでムハマンドを茶化すような風刺漫画を書いた人が殺されるという事件が起きるのは、フランスでは冒涜罪はありませんが、イスラムの文化圏ではしっかり残っているので、このようなことになってしまうということなのでしょう。日本では不敬罪というものが戦前までありました。これは「皇室ニ対スル罪」で、天皇や皇族ならびに神宮および皇陵に対する「不敬ノ行為」が処罰の対象とされていました。勿論、今はありません。
 最高法院でイエス様に下された罪状は「冒涜罪」ですが、しかしこれではローマの手によってイエス様を十字架に架けさせることは出来ませんでした。冒涜罪というのは、あくまで宗教的なもので、ローマはこのような宗教問題には中立の立場だったからです。このような問題には首を突っ込まない。それが広大な地域において多種多様な民族を支配するローマの立場であり、知恵でした。そこで、大祭司たちは一計を案じます。それは、イエス様を宗教的な「メシアと称する者」から、「王と称している者」という反乱を企てている社会的な犯罪者に仕立て上げたのです。そうして、ローマの総督ピラトに引き渡しました。それは、11節において総督ピラトがイエス様に「お前がユダヤ人の王なのか。」と問いただしていることから分かります。「ユダヤ人の王と称している者」というのが、大祭司たちがイエス様をピラトに引き渡した時の罪状だったからです。だから、ピラトはこのようにイエス様に問うたのです。しかし、ピラトはその罪状を全く信用していませんでした。自分の目の前の、縄で縛られたみすぼらしい男が、ユダヤの王であるわけがない。どうせユダヤ人の宗教問題だとピラトは思っておりました。

2.それはあなたが言っていること
このピラトの問いに対して、イエス様は「それは、あなたが言っていることです。」と答えました。この答え方は、26章63節において大祭司から「お前は神の子、メシアなのか。」と問われた時に答えられた言葉と同じです。この言葉については1月24日の礼拝においてお話ししましたが、少し振り返ってみましょう。口語訳ではイエス様は、この大祭司の問いに対して「あなたの言うとおりである。」と答え、総督ピラトに対しては「そのとおりである。」と答えたと訳されておりました。しかし、ギリシャ語の本文では二つの単語だけ、直訳すれば「あなたは言った」としか記されていません。何とも訳しにくい言葉です。意味内容としては口語訳のように「そのとおりである。」とイエス様は肯定されたと理解して良いと思います。しかし、新共同訳において「それは、あなたが言っていることです。」という風に、ちょっと読んだだけでは否定したのか肯定したのか分からないような訳にしたのは、イエス様が誰であるかということは、イエス様が答えることではなくて、イエス様に出会った者が答えるべきことだからです。もっとはっきり言えば、この時総督ピラトはイエス様に「お前がユダヤ人の王なのか。」と問いましたけれど、イエス様はそれに対して、「あなたはどう言うのか?」と問い返されているということなのでしょう。
 イエス様に対して「あなたは誰か」と問う者は「あなたは誰だと言うのか?」と問い返される。それに対して「あなたは生ける神の子、キリストです。」と私共はイエス様に答えました。これが信仰告白です。この信仰告白と共に、私共とイエス様の信仰による交わり、愛の交わりが生まれました。そして、この信仰告白の上に教会は建っています。しかし残念なことに、この時イエス様と大祭司たちとの間にも、イエス様と総督ピラトとの間にも、そのような関係が生まれることはありませんでした。

3.裁く者と裁かれる者
 何故、大祭司や最高法院の議員たち、そして総督ピラトとイエス様の間には、愛と信頼の交わりが生まれなかったのでしょうか。理由ははっきりしていると思います。それは、裁く者と裁かれる者の関係が逆転していたからです。大祭司も総督ピラトも自分は裁く者であり、目の前のイエス様のことは裁かれる者だと思っていました。自分にはその権威と力があると思っておりました。実際、彼らの目の前に居るイエス様は、縄で縛られ、粗末な服を着た、ただの男でした。しかし、イエス様は神の御子であり、メシア、キリストでした。ですから、本来ならば、大祭司であろうと、ローマの総督どころか、ローマの皇帝であっても、すべての人間はこの方の前で跪き、自らの罪を悔い、赦しを求めなければならないはずなのです。しかし、この時その関係性は完全に逆転していました。ここに、この裁判の根本的な倒錯、完全な誤りがありました。
 しかし、何時の時代でも多くの人は、この時の大祭司や総督ピラトのように、イエス様の上に立ちます。そして、「あなたは何者か?」と問います。この時イエス様は、ピラトが不思議に思うほどに何もお答えになりませんでした。それと同じように、イエス様の上に立ち、イエス様に対して「お前は誰であるのか、何者なのか、私が判断してやろう。」と言っている間は、イエス様は何もお答えになりません。イエス様は誰であるのか。それは、イエス様が語られたこと、為されたことを思い起こせば明らかなことです。或いは、「御言葉をください。」とイエス様にお願いすれば良いのです。そうすれば、イエス様は求める者に必ず御言葉を与えてくださいます。その時の私共の立ち位置は、イエス様の御前に跪き、へりくだっているはずです。この位置が、この関係が、大切なのです。
 しかし、こうも思います。もし私がこの場にいたとして、縄で縛られた、みすぼらしい姿のイエス様に私は跪くことが出来ただろうか。きっと出来なかったと思うのです。イエス様が、神の御子としての栄光に輝く姿をもって、天の軍勢を従え、権威と力をもって来られたのならば、私もきっとイエス様の御前に跪くだろうと思います。しかし、ただの罪人として、縛られ、引っ立てられてきたイエス様に対して跪くことが出来るだろうかと思うと、きっと無理だったと思うのです。そう思うと、「ああ、今の時で良かった。」としみじみ思うのです。今の時だから、聖書があります。そして、教会に来て、イエス様が語られた言葉を知ることが出来ます。イエス様の御業も知ることが出来ます。何よりも十字架と復活の出来事を知ることが出来ます。そして、聖霊なる神様の導きによって、それが「私のため」であったことを知ることが出来る。だから私共は、イエス様に向かって「我が主、我が神」と告白し、額ずくことが出来るわけです。イエス様の御前に、イエス様を裁く者としてではなく、イエス様に赦しを求め、御言葉を求める者として立ち、御名を誉め讃えることが出来るわけです。まことにありがたいことです。

4.試みの時に
 しかし、それでもなお、イエス様を裁くようなことは全く自分には無いと言い切れるかと言いますと、いささか心許ないところがあります。それは、私共がとても辛く、苦しい時です。私がこんなに祈っているのに、こんなに助けを求めているのに、どうしてイエス様は何もしてくれないのだろうという思いが湧いてくる時です。「あなたは神の独り子、キリストなのではないですか。わたしを救ってくださる方ではないのですか。すべてを支配されておられる方ではないのですか。私を愛しておられるのではないのですか。なのに、どうして私はこのような目に遭わなければならないのですか。どうして私の祈りを聞いてくれないのですか。どうして、どうして。」そのように、イエス様に問うことがありましょう。それは当然のことです。当たり前のことです。それは、不信仰でも何でもありません。良いですか皆さん。そのような時、私共はどこにいるでしょうか。大祭司のように、或いは総督ピラトのように、イエス様の上に立っているのでしょうか。もしそうであるならば、私共はイエス様から何の言葉も受けることは出来ないでしょう。しかし、そのようなイエス様への問いかけは、祈りの中でなされるのではありませんか。その時私共は大祭司や総督ピラトが立っていたところではなく、十字架のイエス様の下にいて、十字架のイエス様を見上げつつ、このような問いをイエス様にするのでしょう。ここで大切なことは、私共が立つのは十字架のイエス様の御前であるということです。このことをはっきり意識することです。何となく、ボヤーッと「神様」と祈るのではありません。十字架のイエス様の御前で祈ることです。
 そうすれば、イエス様は必ず言葉を与えてくださいます。困難の中、苦しみの中、痛みの中にある私共に、十字架のイエス様は言葉を与えてくださいます。十字架の上から、私共の祈りを聞き、嘆きを聞き、そして告げられます。「わたしはお前の祈りを聞いた。お前の嘆きを聞いた。苦しかろう。辛かろう。わたしもその痛みを知っている。しかし、お前はわたしの愛する者。わたしの十字架はお前のため。だから、わたしの十字架が復活へと繋がったように、お前の嘆きも喜びへと繋がっている。復活の勝利へと繋がっている。今、お前はそれが見えないかもしれない。信じられないかもしれない。しかし、わたしは知っている。だから、勇気を出しなさい。わたしはあなたと共にいる。いつでも、どこでも、いつまでも。」

5.御心に従う御子の姿
 イエス様は、祭司長や長老たちが訴えている間、何もお答えになりませんでした。ピラトはその姿に驚き、非常に不思議に思いました。ピラトは今まで多くの罪人を裁いてきました。ピラトは紀元26~36年までユダヤの総督を務めたと伝えられています。ピラトは仕事上、多くの罪人を裁いてきました。彼が今まで見て来た罪人たちは、自分への不利な証言がなされれば、声を荒げながら、大声で反論し、言い訳したのでしょう。或いは、打ちひしがれて、心ここにあらずという人もいたかもしれません。しかし、イエス様はそのどれとも違いました。イエス様は一切反論せず、しかし、目には力があり、しかしその目は自分を訴える者たちをにらみ付けているわけではない。ピラトは非常に不思議に思いました。それは、今まさに自分のこの地上での命が終わろうとしているにも拘わらず、それですべてが終わるわけではないということを知っている者の姿でした。ピラトはそのような者に出会ったことがありませんでした。ですから、非常に不思議に思ったのです。この時イエス様は、ピラトの前でもなく、自分を訴える者たちの前でもなく、神様の御前にいたのです。神様の御心として、十字架への道を受け入れておられたからです。
 その姿は、イザヤ書53章7節で「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」と預言されていた苦難の僕の姿そのものでした。また、先ほどお読みいたしました詩編62編2~3節と6~7節で繰り返されている「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。」と歌われた、神様を信頼し、すべてを委ねた者の姿でした。

6.ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け
ピラトはイエス様が死刑に当たる罪を犯していないことを承知していました。ですから、何とかイエス様が十字架に架けられないように進めました。ピラトはまず、祭の度ごとに民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた慣習を用いて、バラバ・イエスという「評判の囚人」か、メシアといわれるイエスか、どちらを釈放して欲しいかと、集まって来た人々に問いました。この「バラバ・イエス」は、口語訳ではただの「バラバ」でした。彼については来週、御言葉を受けたいと思っています。18節に「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」とあります。ピラトは、特に罪を犯しているわけではないイエス様の方が釈放されるだろうと思ったし、そうしたいと思ったのです。彼はローマから遣わされている総督です。ですから、ローマの法に忠実に裁判する。それが彼がやろうとしたことであり、やりたかったことであり、やらなければいけないことでした。ところが、そうはいかなかった。20節に「祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。」とあります。結局、「イエスはどうしたらよいか。」というピラトの問いに対して、民衆は「十字架につけろ」「十字架につけろ」と叫ぶわけです。この叫び声に負けて、ピラトはイエス様の十字架刑を決定してしまいました。彼は民衆による騒動が起きるのを恐れたのです。騒動が起きれば、そのことはローマに報告され、総督としての統治能力に欠けているとの評価を受けかねません。そして結局の所、彼は祭司長・長老たちの言いなりになってしまったわけです。彼は悔しかったし、腹も立ったと思います。ローマから遣わされているのに、自分の支配している町で、自分の思い通りにならなかったからです。そして、その結果彼は、あれから二千年経っても、使徒信条の中で「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け…」と、世界中で毎週何億、何十億という人々に名前を呼ばれることになってしまいました。
 彼はイエス様を十字架につけたくないと思っていたのです。それなのに、何とも不名誉な形での名前の残り方となってしまいました。使徒信条には、イエス様とイエス様の母マリア、そしてピラトの三人の名前しか出てきません。どうして、彼の名前はこのような形で残ることになってしまったのでしょうか。理由は大きく二つあります。
 (1)日付けとして
 一つは、日付けとしての役割です。イエス様の十字架と復活の出来事が歴史上の日付けをもった出来事であることを示す、その為に彼の名前が用いられたということがあると思います。時代を経ると、イエス様の存在そのものが、そして十字架・復活の出来事が、本当にあった出来事なのかどうか良く分からない。そういう世代が出てきます。歴史上の実際の出来事でなければ、イエス様の十字架と復活の出来事はまことに観念的なものになってしまいます。それに対して使徒信条は、イエス様は歴史の中で生まれ、生き、そして本当に十字架に架かり、死んだのだ。そして、本当に三日目に甦られた。それは歴史上に起きた本当の出来事だ。そのことを示す日付けの役割、歴史の証人として、ユダヤの総督であったピラトの名前が残されたということです。ピラトの名前はローマ帝国の公の文書に残っていますから、歴史の証人として大変都合が良かったわけです。
 (2)責任者として
 第二に、責任の所在の問題があると思います。彼はローマの総督として、イエス様の十字架を止めようと思えば出来た立場にいました。彼がイエス様を十字架につけるという最終決定をしました。それは確かなことです。彼以外に、この決定を下すことが出来る者はおりませんでした。本音をいえば、彼はやりたくはなかったでしょう。しかし、騒動が起きないようにするためには、仕方がなかった。ローマから遣わされた総督という官僚、またユダヤを統治する政治家としては、これが最善の選択だったのかもしれません。しかし、彼の立場がどのようなものであれ、心の中でどのように思っていたとしても、最終的に決定したのは彼なのです。キリスト教は、神様の御前における責任ということを曖昧にしません。使徒信条の中にピラトの名が残ることによって、神様の御前に責任ある者として生きるということを教えてきたのです。政治家に限らず、それぞれの仕事や遣わされている場において、誰でも責任というものが付いて回ります。そして、その責任は神様の御前における責任です。使徒信条は、ピラトのような形で名を残してはならない、そのことを教えているのでしょう。個人的には、ピラトに対して心から同情します。彼はそんなに悪い人ではなかったでしょうし、イエス様の十字架は彼の発案ではありませんでした。どちらかといえば、祭司長や長老たちに利用されただけとも言えます。しかし、残された名前はピラトでした。最終的にイエス様を十字架につけることを決めたのは彼なのであり、この責任から逃れることは出来ないということでしょう。
 私も牧師として様々なことを決めてきました。また、教区や教団、連合長老会においても様々な務めに関わり、責任を担ってきました。改めて思わされますことは、責任者となった者の名前は残るということです。その残り方が、ピラトのような残り方でないようにとは願いますが、どうなるかは分かりません。ピラトもこのような形で歴史に名を留めるなどとは、思ってもいなかったでしょう。何しろ、ローマの皇帝の名前より広く、良い形ではないにしろ長く名を留めたのですから。私共の名がどのように残るのかは、誰も分かりません。私共としては、神様の御前に立って決断し、事を為すということに心を向けていくしかありません。人間のやることですから欠けもあり、間違いもあるでしょう。しかし、それはイエス様の憐れみと十字架の赦しを信じ、委ねるしかありません。そして、何よりも私共の名は、この地上においてではなく、神様の御許にある「命の書」(フィリピの信徒への手紙4章3節等)に残されるのだということを、しっかり心に刻んでおきたいと思います。このことを忘れてしまいますと、結局、私共は人の目や人の声に従うしかなくなってしまうからです。この「命の書」から名前が消されることがないように、神の子・僕としての歩みを、神様の御前に為してまいりたいと心から願うのです。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝私共は、イエス様がポンテオ・ピラトによって裁判を受けた場面の御言葉から、神様を裁くという過ちを犯してはならないこと、イエス様の十字架の許で祈りつつ歩んで行くこと、神様の「命の書」に名が記されている者としてあなた様の御前に責任をもって歩むことを教えていただきました。どうか、私共がそのことをしっかり心に刻んで、為すべきことを誠実にあなた様の御前に為していくことが出来ますよう、聖霊なる神様の導きを心から願います。私共は弱く、愚かで、人目や人の声にばかり気持が向いてしまいがちです。どうか、私共を一切の誘惑から守り、ただあなた様の御心に従う者として歩ませてください。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年2月14日]