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礼拝説教

「士師サムソンの誕生」
士師記 13章1~25節
ルカによる福音書 1章5~17節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 2月最後の主の日ですので、旧約の士師記から御言葉を受けます。今日は士師記13章、士師サムソンの誕生の場面です。サムソンは士師記に記されている12人の士師の中で最後に出てくる士師です。そして、その誕生から記されている唯一の士師です。一人の士師について記すのに4章も用いられているのはサムソンだけです。皆さんも、士師と言えばギデオンとサムソンの名前がすぐに思い浮かぶことでしょう。士師の中でも最も有名な士師です。年配の方は「サムソンとデリラ」という映画を見たことがあるでしょう。70年も前の映画ですけれど、私もテレビで何度か見ました。音楽の好きな方は、サン=サーンスのオペラ「サムソンとデリラ」を思い起こすかもしれません。この士師サムソンですけれど、士師と言えば、神様に仕える者として、神様の御業に用いられる者として、真面目な信仰深い人をイメージされると思いますが、どうもサムソンはそのイメージとはちょっと違うと言いますか、破天荒と言いますか、規格外の人です。逆にその辺も人々に愛されてきた理由なのかもしれません。その辺のことは次回以降に見たいと思います。今日はサムソンの誕生の場面です。

2.対ペリシテ
 サムソンの物語はこう始まっています。1節「イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行ったので、主は彼らを四十年間、ペリシテ人の手に渡された。」この「イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行ったので、云々」というのは士師記で繰り返されている言葉です。ここで、サムソンの時代の敵は「ペリシテ人」であったこと、しかも40年という長きにわたってイスラエルはペリシテに支配され、圧迫されていたということが分かります。40年というのは、士師記の中で一番長く他の民族に支配された期間です。この前の大士師エフタが出てきた時は支配されていた期間は18年であり、敵はアンモン人でした。その前の大士師ギデオンが出てきた時はイスラエルが支配されていた期間は7年間で、敵はミディアン人でした。40年というのは長いです。生まれた時からずっとペリシテの支配を受けている、それしか知らない、そういう人がイスラエル人のほとんどになってしまう、それほどの長さです。イスラエルの民にとって自分たちがペリシテに圧迫されているのが当たり前になってしまう、それほどの長さです。
 士師エフタの時のアンモン人や士師ギデオンの時のミディアン人というのは、イスラエルの東や南の地域の人たちです。イスラエルの地図を思い浮かべて頂きたいのですけれど、イスラエルの東や南は基本的には砂漠です。アンモン人やミディアン人は砂漠の民です。砂漠の民の支配というのは、略奪が主なものです。その場所に居座って、その土地を支配し、人々を奴隷にするようなことはありません。しかし、ペリシテは砂漠の民ではありません。彼らは地中海沿岸部から内陸にかけて支配している民です。彼らは城壁で囲まれた町を造り、ギリシャ文明と同じ高い文明を持っていました。彼らは海の民で、元々はギリシャから来たのではないかと考えられています。古代ギリシャ文明を背景としている民です。そして何よりペリシテ人たちは、既に鉄を持っていました。イスラエルはこの時まだ鉄を持っていません。ペリシテ人たちは「五つの星」と呼ばれる、アシュドド、アシュケロン、エクロン、ガザ、ガトといった城壁に囲まれた大きな自治都市、これは都市国家と言っても良いもので、それぞれの町に王がいる都市です。これを作っていました。皆さんも中東のニュースの中で「ガザ地区」という言葉を耳にされると思いますが、このガザの町はペリシテの五つの星の一つです。ペリシテ人の町として、既にこの士師記の時代にはありました。ですから、三千年以上の歴史を持っているわけです。他の町も今に続いています。ちなみに、現在のパレスチナという言葉は「ペリシテ」という言葉がなまったと考えられています。このペリシテ人との戦いは、長く厳しいものでした。ペリシテとの戦いは、士師の時代には決着がつきませんでした。この戦いが終わるのは、士師記の次の時代。サムエル記の時代のダビデ王の時です。士師記の後、サムエルの時代となります。そして、イスラエルにおける最初の王サウルがサムエルによって立てられます。これが士師の時代の終わりです。そして、次の王であるダビデの時になって、イスラエルはやっとペリシテを打ち破ることがやっと出来たのです。サムソンの物語を終わるに当たって16章の最後に「彼は二十年間、士師としてイスラエルを裁いた。」と記して終わっています。他の士師の場合は、この期間は他の民族の支配から解放されたことを意味するのですが、サムソンの場合はそうではなかったと考えられます。この20年間イスラエルはペリシテの支配から解放されたのではなく、40年にわたるペリシテの支配の中での20年間だったと考えて良いと思います。

3.不妊の女性の子として
 サムソンはどのような両親の元に生まれたのか。両親の職業とかは何も記されておりません。畑を耕しつつ家畜を飼うといった、イスラエルのごく普通の農民であったと考えて良いと思います。しかし、決定的な言葉が2節に記されています。「その名をマノアという一人の男がいた。彼はダンの氏族に属し、ツォルアの出身であった。彼の妻は不妊の女で、子を産んだことがなかった。」とあります。何が決定的かと申しますと「不妊の女」という言葉です。当時の女性は10代半ばで結婚し、40代まで子供を産みます。5人、10人と生むわけです。ですから、30歳になって子供が出来なければ、それは「不妊の女」と考えられていました。現代ならば、子供が出来ない場合、女性ではなくて男性のほうに原因があることもあると考えますけれど、当時は「不妊の女」と呼ばれました。何故これが決定的かと言いますと、聖書では「不妊の女」に子が与えられるというあり方で神様の御業が為されるからです。不妊の女というのはネガティブな言葉です。日本でも戦前くらいまでは、子どもが出来なければ、それは離縁の正当な理由になりました。イスラエルでもそうでした。しかし、神様はそのような女性を用いて御業を為されるのです。
 「不妊の女」ということですぐに思い出すのは、アブラハムの妻サラでしょう。彼女は90歳でイサクを生みました。そして、そのイサクの妻リベカも子が出来ないので、イサクが神様に祈り、やっとヤコブとエサウの双子が与えられました。リベカに与えられた子はこの二人だけです。そして、ヤコブの妻ラケルも中々子が与えられませんでした。そして、やっと与えられたのが年寄り子のヨセフとベニヤミンでした。この二人はヤコブの12人の息子たちの一番下と下から二番目の子です。更に見ますと、サムエルを生んだハンナ。彼女も子が出来ないので、子が出来るようにと心を注いで神様に祈ります。そして与えられたのがサムエルです。そして、先ほどお読みしました新約聖書の、イエス様の直前に神様によって遣わされた洗礼者ヨハネ。彼の父・祭司ザカリアと妻エリサベトは、もう高齢になっていましたけれど子がおりませんでした。そして、ザカリアに主の天使が現れ、ヨハネが与えられました。ヨハネはイエス様の道を備える者として神様に遣わされた者となります。

4.先駆者として
 このように見ていきますと、聖書において不妊の女に子が与えられるのは、神様がその夫婦を選んで、神様の御業を行う者を子として与える時だということです。では、いったいサムソンには神様から与えられたどんな役割があったのでしょうか。それが告げられているのが、5節d「彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう。」という言葉です。サムソンには「先駆者」という役割が神様によって与えられていたのです。何の先駆者かと言えば「ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救い」、その先駆者です。先ほど申し上げましたように、サムソンによってすべてのペリシテが退けられるということはありませんでした。これが為されるのは、ダビデ王の時代です。つまり、サムソンはダビデ王によって与えられるペリシテ人からの解放の先駆者、その救いの出来事の始まりを切り開く者として神様によって遣わされた者だということです。
 これは中々意味深いものがあると思います。私共は自分の人生の意味や目的を、自分が生きている間に成し遂げることが出来たことの中に見出そうとします。勿論、それはそれで大切であり、意味があるのですけれど、しかし、神様が私共に与えられている人生の目的、与えられた命の意味は、この自分の人生だけでは本当は分からないということでしょう。それは自分の地上での生涯が終わった後で、サムソンの場合であったならば、ダビデによってペリシテが退けられた時に、サムソンの存在の意味、為した業の目的がはっきりと分かるということです。それは、私共も同じでありましょう。私共の人生は、私共の人生だけで完結しません。続きがある。子や孫に受け継がれることもありましょうし、この教会の業として受け継がれていくこともありましょう。或いは、私共が出会った人々によって受け継がれていくこともありましょう。いずれにしても、私共に与えられたこの人生は、次へのバトンを繋いでいくところに大切な意味があり、責任があり、御心があるということです。そして、それはやがて明らかにされていくということです。
 それは先程挙げました他の不妊の女たち、不妊だったけれども神様によって子が与えられたサラにしてもリベカにしてもラケルにしてもハンナにしてもエリサベトにしても同じです。また、彼女たちが生んだイサクにしてもヤコブにしてもヨセフにしてもサムエルにしても洗礼者ヨハネにしても同じです。それぞれの人生には色んなことがありましたけれど、神様の御心、御計画というものは、その先までずっと神の民の歴史として続いていく。この神様の救いの御業が続いていくために、彼らの人生の本当の意味があったということです。それはやがて主イエス・キリストの誕生へと繋がります。私共の人生も、やがて再び来られるイエス様による救いの完成へと繋がっているのです。その時に向けて、今の時を歩んでいるということです。イエス様が再び来られる時に、私共の人生の意味も明らかになるということです。

5.ナジル人
 サムソンの父はマノアという人でした。その妻の名前は記されておりませんが、彼女に主の御使いが現れます。そしてこう告げました。3~5節「主の御使いが彼女に現れて言った。『あなたは不妊の女で、子を産んだことがない。だが、身ごもって男の子を産むであろう。今後、ぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べないように気をつけよ。あなたは身ごもって男の子を産む。その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう。』」
 子どもが与えられることが告げられました。そして、「その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられている」と言うのです。この「ナジル人(びと)」というのは、民族や種族ではありません。民数記の6章1~8節に記されていますが、ナジル人とは「神様に願い事をして、誓いを立て、献身した人」のことです。少し長いので引用せず、かいつまんで申し上げますと、ナジル人は①ぶどう酒も濃い酒も飲まないし、ぶどうの実も食べない。②頭にかみそりを当てない。③死体には近づかない。この三点がナジル人として為さなければならないこととして記されています。普通、ナジル人は自分でなるのですが、サムソンの場合は母の胎にいるときからナジル人、生まれた時からナジル人として歩むことが定められていた者であったということです。

6.父と母と神の御使い
 サムソンの母は、神様の御使いからナジル人としての子を産むというお告げを受けました。彼女はそのことを夫に伝えました。このような体験をすれば誰でも、自分の心の中にしまっておくなんてことは出来ません。この話を聞いた夫のマノアは神様に向かって、自分たちのところにもう一度その神の人を遣わしてください、と祈ります。この時、マノアが妻に対して「何を馬鹿なことを言っているんだ。」と言って、妻の言うことを無視しなかったのが良かったですね。この夫婦は仲が良かったのでしょう。この祈りに応えて、再び神の御使いが妻に現れます。妻は夫を呼びに走ります。そして夫マノアも来て、今度は二人でこの神の人の言葉を聞きます。告げられた言葉は前に妻に告げられた言葉と同じです。「ぶどうの木からできるものは一切食べてはならない。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物を一切食べてはならない。」というものでした。
 マノアはこの神の御使いにごちそうしたいと申し出ます。神様の使いなのですから、ちゃんとお迎えし、接待しなければいけないと思ったのでしょう。「子山羊をごちそうさせてください。」と申し出ました。子山羊を屠っての料理など、結婚式の時ぐらいしか食べられないような最高のごちそうです。ところが、御使いは「あなたが引き止めても、わたしはあなたの食べ物を食べない。もし、焼き尽くす献げ物をささげたいなら、主にささげなさい。」と告げます。マノアは主の御使いに「お名前は何とおっしゃいますか。」と尋ねます。御使いは「不思議」と答えます。聖書において名前は単なる識別記号ではありません。その本質を意味します。御使いは、人間の理解を超えた存在であるということをこの「不思議」という名によって示したのでしょう。そして、神様のなさることは、いつも不思議なのです。勿論、神様がなさる様々な奇跡は不思議に違いありません。しかし、それだけではないでしょう。私共が命を与えられ、一日一日を歩んでいる。目でものを見、耳で聞き、手を動かし、ものを食べて消化する。声を出して話す。当たり前に行っているすべてが、実はまことに不思議なことなのではないでしょうか。太陽が昇って朝が来る。そして太陽が沈んで夜が来る。私共は当たり前だと思っておりますけれど、それは実に不思議なことではないでしょうか。それは私共が、そしてこの世界が、神様に造られた存在であり、生かされ、保たれている存在だからなのでしょう。私共が知っていることなんて、ほんの僅かなことでしかありません。否、知っていると思っていることだって、本当はよく分からないことの方が多いでしょう。実に、私共は神様の不思議の中で生かされているのです。

7.天に上る
 さて、マノアは子山羊と穀物を焼き尽くす献げ物としてささげました。すると、主の御使いは祭壇の炎と共に天に上っていったのです。これには、マノアも妻も驚きました。今まで自分と話していた方が、本当に天から来られた方、主の御使いであることが分かったからです。マノアは恐ろしくなりました。聖なる方を見てしまったのだから、自分たちは死ぬしかないと思ったのです。これは聖書に一貫している感覚です。聖なる方への畏れです。まことに聖なるお方である神様を見れば、罪に汚れた人間はその聖さに耐えられず死んでしまうという感覚です。それは、太陽を直接見たら目が潰れるというのと似た感覚だと思います。神様はそれほどまでに隔絶した存在であるということです。勿論、神様の御使いは、神様の御心を伝えるためにやって来る者であって、神様そのものではありません。御使いを見た者がみんな死んでしまったら、御使いが告げた神様の御心は受け取った者がいなくなってしまうということですから、そんなことはありません。マノアは神様と御使いを混同してしまったのでしょう。
 妻の方が冷静です。神様を見てしまったから死んでしまうと恐れる夫に対して、彼女はこう言います。23節です。「だが妻は、『もし主がわたしたちを死なせようとお望みなら、わたしたちの手から焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物をお受け取りにならなかったはずです。このようなことを一切お見せにならず、今こうした事をお告げにもならなかったはずです』と答えた。」とあります。このように献げ物をささげなさいと言われたのは、あの神様の御使いなのですから、死なそうとする者にわざわざこんなことをさせるはずがありません。もし神様が私たちを死なそうとされたのならば、子が生まれるとか、その子はナジル人だからこうしなさいとか、そんなことを伝えるわけがありません、と妻は言いました。理に適っています。
 ナジル人としての我が子が与えられるというお告げを与えたのは、本当に主の御使いであることが二人にははっきり分かりましたから、御使いの言葉に従ってぶどう酒を飲まず、強い酒も飲まず、サムソンが生まれるまでの日々を過ごしたのです。そして、サムソンは生まれました。

8.生まれる前から
今朝与えられた御言葉は、サムソンがその母のお腹に宿る前の出来事です。ここではっきり示されていることは、サムソンには生まれる前から神様の御心、御計画というものがあったということです。それはペリシテからイスラエルを救う先駆者として、ナジル人として生きるというものでした。このような神様の御心、御計画というものがあるというのは、勿論、サムソンに限ったことではありません。私共みんなにあります。私共は神様の御心の中でこの地上の命を与えられたのです。そして、それはイエス様が再び来られる日に完成される救いに繋がっています。イエス様が再び来られるとき、その神様の御心、御計画というものが、私共の人生の意味と目的が、明らかにされるでしょう。私共はそこに向かって歩んでいるのです。
 そして、サムソンが生まれる前から、サムソンの父と母はぶどう酒も強い酒も飲まず、我が子サムソンが生まれるのに備え、その日を待ちました。それと同じように、私共も生まれる前から父と母の愛の中にあり、父と母は私が生まれる前から私のために心を使い、私が生まれる日を待ったに違いないのです。生まれてくる我が子のために「おしめ」を用意したり、産着を用意したりして、我が子の誕生を待ったのでしょう。我が家のリビングには、私の両親と妻の両親の写真があります。4人とも既に地上の生涯を閉じました。でもその写真を見ながら、改めて「ありがとう」と言いました。
 自分がこの両親から生まれたことも、妻と出会ったことも、子が与えられたことも、皆さんとこのように交わりが与えられていることも、みんな不思議なことです。神様が与えてくださった不思議です。どれも自分の思いを超えたことです。この神様の不思議の中で、与えられた為すべきことを精一杯為していく。それが神様によって地上の命を与えられた私共の歩みなのです。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝、私共は士師サムソンが誕生する場面の御言葉を受けました。私共には自分の人生が終わった後で明らかになる目的があります。私共には生まれる前からの神様の御計画というものがあります。そして、私共は神様の不思議の中で生かされていることを教えられました。どうか、私共の目の前にあることを超えて、あなた様の救いの御計画に思いを向け、あなた様の子・僕として、為すべきことを誠実に為して行く者であらしめてください。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年2月28日]