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礼拝説教

「主イエスの死」
詩編 22編2~12節
マタイによる福音書 27章45~56節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
週報に記されておりますように、先週の木曜日、石川實兄が自宅で亡くなられました。96歳でした。先週の主の日の礼拝にも車椅子に座って、次女の薫さんと一緒に出席されていました。ご遺体が母子室にあります。明日、前夜式。明後日、葬式をここで行います。今朝の礼拝の備えをしながら、石川さんのことが私の頭から離れることはありませんでした。今朝与えられている御言葉は、イエス様が十字架の上で死なれる場面です。このイエス様の十字架の死は、私共の罪に対する神様の裁きを、私共のために、私共に代わって、イエス様がお受けになったものです。ですから、このイエス様の十字架の死に、私共すべての者の死が結ばれ、一つとされ、飲み込まれています。石川さんの死もそうです。だから、イエス様を信じ、イエス様と一つにされた者は、イエス様がこの十字架の死の後に復活されたように、やがて時が来れば復活することになります。これが聖書が私共に約束していることであり、私共の希望です。石川さんはこの希望を信じ、この地上の生涯を神様の御前に歩み通されました。私共もこの十字架のイエス様の御姿を心に刻んで、このお方の死が私のためであり、ただ信仰によってイエス様と一体となってその死の姿にあやかり、それ故復活の姿にもあやかることを感謝と喜びの中で受け止めて、石川さんのように、この地上の馳せ場を御国に向かって走り抜いて行きたいと思います。

2.エリ、エリ、レマ、サバクタニ
 聖書は、イエス様が十字架の上で息を引き取られたのは午後3時だったと告げています。マルコによる福音書には、「イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。」とあります。従いまして、イエス様は十字架の上で6時間、死に至る痛みと苦しみを味わわれたということになります。その時、「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と記します。この全地が暗くなったというのは、「まことの光」「世の光」であられるイエス様が死ぬ、光が無くなる、そのことを示しています。この日に皆既日食があったということではないでしょう。
 大切なのは、イエス様が十字架の上で「大声で叫ばれた」言葉、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」です。これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という意味です。これは聖書の中で最も謎に満ちた言葉と言われています。私もそう思います。神の御子の十字架における苦しみは、ただの人間に過ぎない私共には本当の所、分からないからです。
 しかし、そうは言っても、こういう読み方は間違っていると思います。このイエス様の言葉を、結局十字架の上で死ななければならなくなったことに対してイエス様が、神様を恨み、呪い、絶望して叫んだという理解です。イエス様の十字架の意味も、イエス様が神の御子であることも分からないのであれば、そういうことになってしまうのかもしれません。人間イエスの死ぬ前の叫びとして読むわけです。このような理解の仕方に、信仰は要りません。しかしそれでは、マタイによる福音書がここまでで記してきたこと、イエス様が神の御子であるということと一致しません。このような読み方では、イエス様の十字架の意味も意義も、少しも分かりません。そもそも、信仰抜きに「聖書が分かる」ということなどありません。聖書は信仰の書だからです。
 これは先ほどお読みしました、詩編22編の冒頭の言葉です。そして、この詩編22編は、イエス様の十字架の出来事を預言している詩編なのです。8~9節には「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう。』」とあり、18~19節には「骨が数えられる程になったわたしのからだを彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」とあります。ここを読んだだけでも、この詩編がイエス様の十字架の預言であることが分かるでしょう。ところが、この詩編は23節以下の後半になりますと、全く調べが違ってきます。後半は、実に成し遂げられる神様の救いの御業を賛美するのです。そして、最後は「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう。」で終わっています。神様の救いの御業を子々孫々伝えられていくと言うのです。そうすると、イエス様は十字架の上で、この詩編22編において預言されていた神様の救いの御業が成し遂げられた、そう大声で叫んだということになるでしょう。
 しかし、それだけではまだ十分ではありません。それは、イエス様はどうして十字架の上で息を引き取られる前に、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれたのか。その理由が、「詩編の22編がその言葉で始まっているから」だけでは十分に説得力があるとは言えないでしょう。私は、謎と言われるこの十字架上でのイエス様の言葉にこそ、イエス様の十字架とは一体何であるかということが示されているのだと思います。それは、イエス様が十字架において、神様によって見捨てられるべき罪人に下されるはずの裁きを、我が身にお受けになったということです。イエス様が私共に代わって、私共のために、神様に見捨てられたということです。そして、イエス様が私共に代わって見捨てられたが故に、私共は最早神様に見捨てられることは決してなくなったということです。
 更に言えば、この時イエス様は「わが神、わが神」と神様に向かって叫んでおられます。神様に見捨てられる十字架の死においても、イエス様の心が神様から離れることは決してなかったということです。父なる神様と子なる神様との絆が切れてしまうことはありませんでした。そして、イエス様は3日目に復活され、40日後に天に上られ、父なる神様の右に座し給いました。

3.神殿の幕が真っ二つに裂けた
 聖書は、イエス様が息を引き取られた時、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」(51節)と記しています。この「神殿の垂れ幕」とは、神殿の最も奥にありました聖所の中の幕です。ここから先は神様の足台としての最も聖なる所、至聖所です。この幕は神様と人間とを隔てる幕。決して超えることの出来ない、神様と人間との隔たりを意味していました。この幕の中に入れるのは、大贖罪日に大祭司がすべての者の罪を赦していただくために、年に一度だけでした。この神殿の中の幕は聖所の中にあったのですから、外から見えるものではありません。ですから、この出来事はそのとおりのことが起きたというよりも、イエス様の十字架の意味を私共に示そうとして聖書は記していると考えて良いでしょう。その意味とは、大贖罪日に大祭司が犠牲をささげて、動物の血によって罪を赦されることは終わった。イエス様の十字架の血によって、動物ではなくて神の御子であられるイエス様が犠牲となって、すべての者の罪が赦されたということです。更に言えば、神様との交わりを隔てていた罪の垣根が取り除かれ、神様との「父と子」という親しい交わりが与えられたということです。私共は、天地を造られた神様に対して、「父よ」と呼ぶことなど出来るはずもない存在でした。本来、神様に向かって「父」と呼べるのは、まことの神の御子である主イエス・キリストだけです。私共は神様にも人にも罪を犯し、それ故神様に裁かれ、滅ぼされなければならない者でした。しかし、イエス様が十字架にお架かりになられて、完全な犠牲となってくださったが故に、私共は神様の御前にこのように集い、神様に向かって「父よ」と呼んで祈り、聖書を通して「我が子よ」と語りかけてくださる神の言葉を受け、神様との親しい交わりに生きる者としていただいたのです。

4.復活へと繋がる
その次に、「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」(51~53節)とありますが、これもこのようなことが起きたというよりも、イエス様の十字架において何が起きるのか、そのことを告げていると理解して良いと思います。十字架の出来事を記しながら、聖書はその後の復活によって与えられる復活の命・永遠の命、そして終末における救いの完成へと、私共の眼差しを向けさせているのです。
 聖書を記したイエス様の弟子たちは、イエス様は十字架の死では終わらなかった、3日目に復活され、40日後に天に上り、50日後には聖霊を注いでくださった、ということを知っています。そして、イエス様が再び来られる日を待ち望みつつ、歩んでいた人々でした。イエス様の十字架だけに目を向けて、その後のことについては何も知らないことにして記す。そんなことは出来ないし、そうする意味もありません。イエス様の十字架は、その後の復活・昇天・聖霊降臨という一連の神様の救いの御業の中にある出来事であって、十字架だけを他と切り離して考えたり、理解するということは出来ないことでしょう。だって、既に知ってしまっているのですから。私は、毎年このレントの時を迎える時に思うのです。イエス様の十字架だけを思い起こすことは出来ない。復活・昇天・聖霊降臨へとどうしても思いは広がる。それは当然のことでしょう。アドベントの時にしてもそうです。御子の御降誕だけに思いを向けるのか。そうではなくて、このクリスマスにお生まれになったイエス様は、私のために十字架に架かってくださった方であり、復活された方であり、天に上られた方だ。だから、嬉しい。だから、喜び祝うのでしょう。そして、その方が再び来られる。そのことを待ち望む者としてクリスマスを祝うのでしょう。二千年前にイエス様がお生まれになったということにだけ思いを向けるということなど、私共には出来ないことです。それと同じです。

5.本当に、この人は神の子だった
 この十字架の場面で、決定的に重要な言葉が記されています。それは、イエス様を十字架に架けたローマ兵の百人隊長、そして一緒に見張りをしていた人たちが、「本当に、この人は神の子だった。」と言ったということです。ローマ兵の百人隊長というのは、ユダヤ人から見れば異邦人と呼ばれる人、つまり、ユダヤ人から見れば決して救われない人です。しかし聖書は、イエス様の十字架を見ていた者の中で、異邦人である百人隊長から「本当に、この人は神の子だった。」という信仰を告白する言葉が出たことを記しているわけです。この信仰告白は、16章に記されているペトロによる告白、「あなたはメシア、生ける神の子です。」に次ぐものです。ペトロに代表されるイエス様の十二弟子は、確かにイエス様に対して「あなたはメシア、生ける神の子です。」と信仰を言い表しました。しかし、イエス様が十字架に架けられたこの時、彼らはここにはいませんでした。逃げてしまっていたからです。そして、異邦人である百人隊長が、「本当に、この人は神の子であった。」と告白した。ここには、神様の深い救いの御計画が暗示されていると思います。それは、神の民であるユダヤ人だけが救われるという救いの理解が崩され、ローマ人であろうと、異邦人であろうと、イエス様の十字架の下に立って「この人は神の子だ」と告白する者、イエス様への信仰が与えられた者は救われる。そして、そこに新しいイスラエル、民族という枠ではなく、ただ信仰によって結ばれた新しい神の民、キリストの教会が誕生していくという、神様の救いの御計画が示されたということなのでしょう。
 そして、その告白をした人たちは、何よりもイエス様を「直接」十字架に架けた者たちでした。それは、自分がイエス様を十字架に架けた、このことをはっきり知る者こそが、「本当に、この人は神の子だった。」との告白に至るということです。イエス様の十字架が、自分の罪のせいだということが分からない限り、この告白に至ることはありません。イエス様の十字架の血に対する責任が自分には無いと思っている限り、イエス様の十字架は他人事であり、自分からは遠いもののままだからです。私共がイエス様を十字架に架けたのです。自らの罪を認めるということは、このことを明確に認めるということです。

6.十字架の美しさ
 それにしても、どうして百人隊長や見張りをしていた人たちがイエス様を「本当に、この人は神の子だった。」と告白したのでしょうか。結論としては、「聖霊なる神様のお働きによって」ということには違いありません。ただ、彼らは仕事上、今まで多くの人が十字架に架けられて死んでいく様を見ていたはずです。そして、イエス様の十字架上での姿は、その誰とも違っていた。十字架に架けられて処刑されなければならないようなことは何もしていない。それなのに、人を呪うことも、怨むこともなく、自らの死を受け入れていく姿。最後になっても「わが神、わが神」と祈る姿。十字架に架けられ、血を流し、どんどん衰えていく姿は悲惨でしかなかったはずです。けれどもそこには、大変おかしな言い方かもしれませんが「美しさがあった」のではないでしょうか。「神様の御前から最後まで離れず、神様にどこまでも従う者の究極の美しさ」とも言うべきものがあったのではないでしょうか。
 皆さんは、十字架を美しいと思われるでしょうか。人々にののしられ、あなどられ、あざけられ、人々に理解されず、身に覚えの無い罪状で死に至る肉体の痛みを身に受ける。これはまことに目をそむけたくなる悲惨な出来事です。しかし、イエス様がこの苦しみを我が身に負われることによって、徹底的に愛に生きる者の美しさ、徹底的に神様に従う者の美しさという、全く新しい美しさを私共は知った。人は自ら美しくありたいと思うものですが、その美しさの基準というものが、根底から全く変えられてしまった。イエス様の十字架によって私共は新しい美しさを知った。この美しさを知らされた者は、自分もこの美しさに生きようとする。そこにキリスト者の生き方が生まれたのです。

7.十字架を遠くから見守る者
イエス様の十字架を見守っていた者の最後に、婦人たちが記されています。55~56節「またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。」とあります。ガリラヤからイエス様に従っていた婦人たち。彼女たちはイエス様に従って、身の回りの世話をしていた人たちです。食事の用意をしたり、洗濯をしたり、日常のこまごましたことをしていたのでしょう。彼女たちはずっとイエス様と一緒でした。彼女たちの、十字架に架けられたイエス様についての言葉は、聖書には記されておりません。しかし、彼女たちが愛する者の死を嘆き、崩れ落ちそうになる思いの中で、「これで終わってしまった。」という絶望的思いをもってイエス様の十字架を見守っていたことは間違いないでしょう。彼女たちは、イエス様の亡骸が墓に葬られるのを見届けました。そして、28章において、復活されたイエス様と最初に出会ったのは彼女たちでした。どうして十二弟子より先に彼女たちに、復活のイエス様はその御姿を現されたのか。その理由は、彼女たちがイエス様の十字架をたとえ遠くからではあっても、直接、見守っており、イエス様の死を確認していた者たちだったからではないでしょうか。つまり、イエス様は本当に死んだということを、彼女たちは自分たちの目で確認していた。これが決定的に大事なことでした。何故なら、イエス様の復活は、本当に死んだ者の復活でなければならなかったからです。その復活の証人として、彼女たちは選ばれ、立てられたのです。イエス様の十字架の死は、復活へと続いている。そして、イエス様の死が、私のための、私に代わっての死であるならば、私の死と一つであるならば、復活もまた、私のための復活、私も復活するということになるのです。
 石川實さんが書いた『キリスト教入門』という冊子の「復活」を扱った、問101に「人間は、死んでしまえば、オシマイになるのではありませんか。」とあり、答「決してそうではありません。わたし達のこの世における死は、この世の生活の終わりですが、神は再び霊と体を与えられるので、神との完全な交わりのうちに、永遠に生きるのです。」と記しています。私共も復活する。この復活の希望を与えたのが、主イエス・キリストの復活の出来事でした。イエス様は復活されて、私共の命も死では終わらないということを明らかにし、復活の命、永遠の命への道を開いてくださったのです。イエス様の十字架の死は、そこで終わらない。復活・昇天へと繋がっています。このイエス様と一つに結ばれた私共は、死んでもオシマイにはならない。復活する。この救いの約束を信じて、神様の御心に従う者として、この地上の歩みを神様の御前に献げて歩んでまいりたいと願うのです。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
あなた様は今朝、御子イエス・キリストが十字架の上で死なれた場面の御言葉から、イエス様の死が私共の救いのためであり、イエス様は私共に代わって神様に裁かれ、捨てられたことを改めて知らされました。また、イエス様の十字架は、復活・昇天へと続く一連の神様の救いの御業であり、イエス様の死と一つにされた者は、イエス様の復活とも一つにされることを知らされました。ありがとうございます。どうか私共が、やがてイエス様が再び来られる時、共々にイエス様に似た者として、復活の恵みに与ることを信じ、その日を目指して、あなた様の御前を、あなた様と共に、この地上での歩みを為していくことが出来ますよう、聖霊なる神様の導きをお願いいたします。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年3月21日]