日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

イースター記念礼拝説教

「主イエスの復活」
詩編 16編7~11節
マタイによる福音書 28章1~10節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 先週、私共は火・水・木の三日間、午前と夜、二回ずつ受難週祈祷会を行い、イエス様の御受難の出来事を心に刻みました。イエス様が私共に代わって、私共のために、私共の一切の罪の裁きをお受けくださったこと。そして、それ故に私共は一切の罪を赦され、神の子とされ、永遠の命の希望に生きる者としていただいていることを心に刻み、祈りを合わせました。水曜日の午前の祈祷会では、M・Y姉の病室とオンラインで繋がり、プロジェクターで映し出されたM・R姉の画像と共に奨励を聞き、祈りを合わせることが出来ました。主がどんな時も生きて働き、私共を守り導いてくださっていることを改めて知らされ、感謝でした。神様は、いつも私共が望むことをしてくださるわけではありません。とんでもなく嫌なことも起きます。しかし、そのような中でも、神様は私共の思いを超えたあり方で私共を導いておられます。その神様の導きの中で私共は信仰を与えられ、信仰を保持され、生かされている。ありがたいことです。
 今朝私共は、イエス様の復活を覚えてイースター記念礼拝を守っています。イースターは、十字架にお架かりになったイエス様が復活された出来事です。私共のために十字架にお架かりになったイエス様が復活された。ですから、この復活もまた、私共の救いと分かち難く結びついています。イエス様の復活は二千年前の出来事ですけれど、それは「昔々こういうことがあった」というような、いわゆる昔話ではありません。イエス様が復活された。だから、私も、私の愛する者も、やがて復活します。イエス様の復活は、この希望に私共が生きることが出来る根拠です。イエス様は復活して天に昇られました。今は、全能の父なる神様の右におられ、そこから聖霊を注いで、私共の一日一日の歩みのすべてを、御手の中に収めて導いてくださっています。復活されたイエス様は、全能の父なる神様と共に永遠に生きたもうお方です。私共は、そのお方と信仰において一つに結び合わされました。それが救われたということです。イエス様の十字架が私の十字架となり、イエス様の復活が私の復活となったのです。

2.信ずべき、本当にあったこと
 イエス様の復活。それはにわかには信じられないことです。それは、すべての人の常識を超えているからです。常識に反しているからです。死は絶対であり、今までイエス様以外に復活した者はいません。ですから、イエス様の復活を万人が納得するように証明することは出来ません。化学の実験のように再現することも出来ません。それが出来るのでしたら、イエス様の復活は奇跡でも何でもありません。証明できず、説明しようがなく、あり得ないことだから、奇跡なのです。神様の御業なのです。しかしイエス様の復活は、聖霊なる神様によって信仰を与えられた者には、本当に本当のことです。もし、これが本当のことでなかったならば、パウロが言うように、「わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄」(コリントの信徒への手紙一15章14節)となってしまい、「信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」(同15章17節)
 イエス様の復活は、イエス様を愛し信じる者に、イエス様がその復活の御姿を現された出来事でした。これは弟子たちが作り出した話ではありません。弟子たちだってにわかに信じることは出来なかったのです。しかし、信じることが出来ない弟子たちに、復活のイエス様は御姿を現され、信じる者にしてくださいました。私共もそうです。信じられなかった者が信じる者に変えられました。この信じる者と信じられない者との間には、何とも説明出来ない壁のようなものがあります。信じる者には、どうして信じられないのか、信じないのかがよく分かりません。そして、信じない者には、どうしてこんなことが信じられるのかが分かりません。そういうものです。復活を信じるということは、「神様によって私共が変えられる」ということがなければ、起きません。しかし、その前提として、イエス様を知る、イエス様を慕う、イエス様を愛するということがあるのでしょう。勿論、パウロのように、少しもイエス様を愛していなかったのに復活のイエス様に出会ってしまう、ということが全くないわけではありません。神様は全能のお方ですから、どんなこともなさいます。しかし、福音書が記すイエス様の復活の出来事は、イエス様が弟子たちにその復活の御姿を現されたということであって、イエス様と何の関係もない人々に対して、例えば市場で復活された御姿を現された、というようなことは記されておりません。これは大切な点だと思います。私共がイエス様の復活を信じるようになるまで、私共はどうしていたかと言いますと、聖書を読んだり、礼拝に集ったりして、イエス様の言葉や為された業を知り、そういう歩みの中で「この方と一緒に歩んで行きたい」そういう思いが与えれたのではないでしょうか。実はその時、私共ははっきり自覚していたわけではありませんけれど、私共は復活のイエス様と既に出会っていたのです。そして、私共は信じる者へと変えられたのです。

3.愛するイエス様の死の中で
 今朝はマタイによる福音書が記す、ガリラヤからイエス様に従って来た女性の弟子たちが復活されたイエス様と出会うという場面から御言葉を受けてまいります。
 彼女たちは金曜日の朝9時から午後3時まで、十字架のイエス様を遠くから見守っていました(27章55節)。そして、アリマタヤのヨセフがイエス様の遺体を引き取り、自分の墓に葬りますと、彼女たちはその墓までついて行き、大きな石で墓の入り口が閉ざされてもそこから離れず、墓の方を向いて座っていました(27章61節)。彼女たちは、イエス様や弟子たちの身の周りの世話をしつつガリラヤから従って来ました。彼女たちはいつもイエス様の話を聞き、イエス様の御業を見てきました。そして、イエス様を愛していました。イエス様の墓の前にたたずむ彼女たちの姿が、それを表してます。2、3時間前に目の前で愛する者を亡くした者が、遺体を墓に納めたからといって、そこをすぐ離れることが出来るでしょうか。日没と共に安息日が始まるので、仕方なく彼女たちはその場を離れたのでしょう。後ろ髪を引かれる思いだったと思います。イエス様が死んでしまったことは分かっている。泣いても話しかけても答えがないことも分かっている。しかし、亡くなった遺体のそばにいると、愛いする者がまだそばにいるような気がする。離れ難い。この感覚は、愛する者を亡くした者にはよく分かると思います。だから、彼女たちは安息日である土曜日が終わると、まだ日が昇る前から、朝の4時とか5時頃でしょうか、イエス様の墓に向かったのです。マルコによる福音書やルカによる福音書では、彼女たちは香料を持って墓に向かったと記されています。イエス様の遺体に香料を塗るという、当時の当たり前の葬りをイエス様にしてあげたかったのかもしれません。しかし、マタイはただ「墓を見に行った。」とだけ記しています。「墓を見に行った。」それは、愛する者の近くにいたいと思ったからでしょう。そんな思いが、夜明け前にもかかわらず、彼女たちをイエス様の墓へと向かわせたのだと思います。
 彼女たちは、「ひょっとすると、イエス様は復活するかもしれない。」と思って墓に行ったのではありません。そんなことは少しも期待しもいなかった。イエス様は、弟子たちに三度も、御自身が十字架に架かること、そして復活することを予告されました。しかし、弟子たちは、イエス様が十字架の上で死んだ時、そのことを少しも思い出しませんでした。弟子たちの不信仰を指摘することは出来るでしょう。けれど、死というものはそれ程までに圧倒的で絶対的なものなのです。死んだらオシマイ。現代の人もイエス様の時代の人も、同じです。弟子たちもそう思っていたのでしょう。彼女たちはイエス様の復活など微塵も思わず、イエス様の墓に向かいました。

4.天使
 彼女たちがイエス様の墓に行くと大きな地震がありました。イエス様が十字架の上で死んだときも地震がありました。これは、神様の御業を表しているのでしょう。そして、天使が天から降って来ました。天使は、墓の入り口を塞いでいた大きな石をわきへ転がします。そして、その石の上に座りました。この天使について、「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。」(28章3節)と聖書は記します。天使というのは、神様の御前に仕える天的な存在です。私共は色んな宗教画に記されている、羽の生えた天使の姿を思い浮かべますが、その姿については聖書には特に記されておりません。ただ、「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。」と記しているだけです。これは、天使が神様の力を示し、神様の栄光を輝かせ、神様の清さを現していたということです。
 この天使の力・栄光の輝き・全き清さを目の前にして、「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」(28章4節)とあります。私も天使に会ったことはありません。天使を直接見るようなことになれば、私もきっと「恐ろしさのあまり震え上がる」だろうと思います。平気でいる方がおかしい。彼らは死人のようになったというのですから、気絶してしまったのでしょう。この時、婦人たちもやっぱり恐ろしかった。天使の言葉を聞いて、弟子たちの所に行く段になって、「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去」(28章8節)ったと記されています。彼女たちも恐ろしかったのです。
 さてこの時、天使は最初に墓の入り口を塞いでいた大きな石をわきに転がしたわけですが、これは何のためかと言いますと、婦人たちが空になった墓の中を見ることが出来るようにするためです。復活したイエス様が墓の外に出るためでは、全くありません。復活されたイエス様は、天使に石をどけてもらう必要など全くありませんでした。イエス様はそのくらいのことは御自身で簡単に出来ましたし、そもそも復活されたイエス様はこの石があったままでも、外に出るのに困ることはありませんでした。弟子たちが戸を閉めていたのに、すーっと家に入られたこと(ヨハネによる福音書20章19節以下)を思い起こせば、当然のことでしょう。

5.天使のお告げ
天使は婦人たちに語りかけます。5節「恐れることはない。」最初に「恐れるな」です。婦人たちは天使たちを見て、本当に恐ろしく、脅えていたと思います。しかし、それだけではありません。婦人たちは愛するイエス様が死んでしまったことによって、死の圧倒的な力の前に打ちのめされ、為す術もなく悲しんでいるしかありませんでした。天使はそんな彼女たちに「恐れるな」と告げたのです。それは、「死を恐れるな」ということでもあったでしょう。
 次に告げたことは「十字架につけられたイエスは、ここにはおられない。復活なさった。」という告知でした。婦人たちはイエス様が十字架の上で死んだことも、遺体がこの墓に納められたのもしっかり見ていました。天使に「ここにはおられない。復活なさった。」と言われても、すぐには何を言われているのか分からなかったと思います。だから、天使は「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」と告げたのです。このために、石はどけられていなければならなかったのです。彼女たちは墓の中を見ました。すると、そこにあるはずのイエス様の遺体はありませんでした。
 そして、天使は更に婦人たちに「弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」と言うではありませんか。これを聞いて、「イエス様は死んでない。いや、死んだけれど復活された。生きておられる。また、イエス様に会える。」婦人たちの心に喜びが湧いてきました。しかし、まだそれがどういうことなのか、よく分かりません。でも、死んで終わりではなかったということだけは分かったと思います。ですから、ここではまだ半信半疑の喜びだったでしょう。婦人たちは恐れ、驚き、そして喜び、まことに混乱した頭で弟子たちの所に走りました。

6.復活のイエス様と出会う
 婦人たちが走って行くと、何と行く手にイエス様が立っておられるではありませんか。そして、イエス様の方から彼女たちに「おはよう」と挨拶されたのです。この「おはよう」という挨拶の言葉は、直訳すれば「喜べ」です。この「喜べ」という言葉、ギリシャ語では「カイレテ」という言葉ですが、これはギリシャ語文化圏において、いつでも使える挨拶の言葉です。朝なら「おはよう」、昼なら「こんにちは」、夜なら「こんばんは」。すべてこの言葉です。久しぶりに会った時の「やあ、久しぶり」もこの言葉です。ですから、この時は朝なので「おはよう」と訳しているのです。けれども、直訳の「喜べ」でも良いかなとも思います。復活されたイエス様が、婦人たちに「喜べ」と告げる。この言葉と共に、婦人たちの中に喜びが爆発しました。死んでしまった愛する者が、イエス様がここにいる。死んだはずの人が目の前に現れたのです。
 婦人たちは、ここで復活されたイエス様に出会って、天使が告げたこと、そして墓が空だったこと、復活されたと言われたことが、こういうことだったのかと合点がいきました。イエス様が復活されたということは、こういうことなのだ。はっきり分かったのです。今までも、婦人たちはイエス様がただ者ではない、偉い方だ、素晴らしい方だ、ということは分かっていました。だから、イエス様に従って来たのです。しかし、この復活のイエス様に出会って、もっと大事な本当のことが分かりました。それは、イエス様が神様であるということです。イエス様は死でさえも滅ぼすことの出来ないお方だということです。
 婦人たちの喜びは爆発します。そして、「イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」(28章9節)のです。イエス様の足を抱いたのですから、この復活のイエス様は幽霊ではなく、体を持っていたことが分かります。復活の体です。そして、彼女たちはイエス様を拝んだ。礼拝したのです。この「ひれ伏した」と訳されている言葉は「神様を拝む、神様を礼拝する」という意味でしか決して使われない言葉です。この時、爆発した喜びの中で、彼女たちは復活されたイエス様を神様として礼拝した。これが最初のキリスト教の礼拝です。この時以来、キリストの教会は復活の喜びの中で、イエス様が復活された日曜日に、復活されたイエス様を神様として礼拝してきました。それが私共の主の日の礼拝です。
 私共は主の日のたびごとに、復活されたイエス様の御前で礼拝を捧げています。イエス様の御業を思い起こし、イエス様の言葉を思い起こし、礼拝します。しかし、それは遠い昔を思い起こして礼拝しているということではなく、現臨される復活のイエス様が私共に語りかけ、私共はそれを聞く。神の言葉を聞くとは、そういうことです。そして、ここに現臨されるイエス様を、我が神・我が主として礼拝しているのでしょう。

7.復活の主の言葉
イエス様は婦人たちに、天使が告げたことと同じことを語られました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(28章10節)と告げられました。  イエス様は弟子たちを「わたしの兄弟たち」と言います。イエス様の弟子は、私共は、実にイエス様に「わたしの兄弟」と言われる者なのです。ありがたいことです。イエス様の十字架によって一切の罪を赦していただき、私共も神の子とされたからです。キリストの教会が兄弟姉妹の交わりであるということの根拠がここにあります。イエス様の兄弟とされたから、私共は互いに兄弟姉妹なのです。天地を造られたただ独りの神様を父として持ち、イエス様を頭とする兄弟とされたからです。私共は神の家族なのです。
 そして、イエス様はガリラヤに行くようにお命じになりました。ガリラヤとは、イエス様が弟子たちを召し出した所、共に神の国の福音を宣べ伝えた所です。そこに行け。そこで「わたしに会うことになる」と告げられます。それは、イエス様が捕らえられ、十字架に架けられて死んでしまって、もう何もかもオシマイだと思っていた弟子たちに会い、再び立ち上がらせるためです。もう一度弟子として召し出し、召命を与え、やり直させるためです。復活のイエス様を知るということは、神様によって「やり直し」「出直し」をさせていただけるということです。信仰においても、日々の歩みにおいても、人生の選択においても、神様の子・僕として神様の言葉に従うことによって、私共はやり直すことが出来ます。何度でもです。そのことを信じて良いのです。もうオシマイだと思っても、何も終わってはいない。イエス様は復活されたのですから。

8.コロナ禍の中で
今、世界中はコロナ禍の中にあります。2021年度の教会総会資料を作りながら、改めて大変な一年だったと思いました。私共の教会は、まだ良い方です。集まって主の日の礼拝が出来ないという教会も世界中にたくさんあります。集まっても、讃美歌が歌えない、聖餐に与れないという教会もたくさんあります。そういう中で、私共はイエス様の復活を祝うイースターの礼拝を捧げています。神様は私共の肉体の死さえも最後ではないことを、イエス様の復活の出来事をもって示してくださいました。とするならば、このコロナ禍という現実がどんなに厳しいものであったとしても、それで終わるわけもありません。もうしばらくの時、私共は辛抱しなければならないでしょうけれど、私共は復活の光の中を歩んでいる。この事実を覆すことは誰にも出来ません。私共がこのイエス様の復活の光が見えず、神様の憐れみの御手を信じられず、ただただ闇の中を歩んでいるとしか思えない時であっても、イエス様の復活の事実がなくなるわけでもありませんし、神様の慈愛に満ちた御支配と導きとがなくなったわけでもありません。神様は御言葉を与え、出来事を起こし、必ず道を開いてくださいます。そして、再びイエス様の復活の光の中を歩ませてくださいます。だから、大丈夫。
 ただ今から聖餐に与ります。復活のイエス様が私共と一つとなってくださり、御国への道を共に歩んでくださっている。この事実を、共々にしっかり受け止めて、ここから新しく、御国への道を歩んでまいりましょう。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝、イエス様の御復活を覚えるイースター記念礼拝を、愛する兄弟姉妹と共に御前に捧げることが許され、感謝いたします。イエス様は復活されました。それにより私共の命もまた、肉体の死では終わらないことをはっきり示してくださいました。どうか、私共がこのことをしっかり受け止めて、あなた様が備えてくださっている明日に向かって、神の国の希望の中を歩んで行くことが出来ますように。困窮のただ中にある一人一人を憐れみ、復活の光をもって照らし、新しく歩み出す力と勇気を与えてください。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年4月4日]