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礼拝説教

「主イエスの大号令」
ダニエル書 7章13~14節
マタイによる福音書 28章16~20節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今朝与えられております御言葉は、マタイによる福音書の最後の所です。2016年の1月からマタイによる福音書を順に読み進めてまいりまして、今日が最後となります。この間、マタイによる福音書からだけ御言葉を受けてきたわけではありませんけれど、5年かけてこの最後の箇所にたどり着きました。私も65歳となりました。これからもマタイによる福音書から御言葉を受けることはあるでしょうが、このように順を追ってすべてを説き明かすということは、もうないでしょう。そう思いますと、いささか感慨深いものがあります。
 福音記者マタイもまた、ここを記すに当たっては万感の思いがあったのではないかと思います。ここを記して、マタイは筆を置いたわけです。今まで記してきた様々なことが、福音記者マタイの心に去来したのではないかと思います。ここには、マタイによる福音書において記されてきた幾つものことが背景としてあります。そして、今まで記してきたことの結論がここにあると言っても良いでしょう。イエス様は十字架にお架かりになり、三日目に復活されました。イエス様の十字架そして復活。これが私共の救いの根拠です。そして、福音記者マタイは、復活されたイエス様が弟子たちとガリラヤで出会って告げられた言葉を記して筆を置きました。このイエス様が弟子たちに告げられた言葉が、この福音書を読むすべての人を生かし、支え、押し出し、導いていく。そのことを信じ、筆を置いたのでしょう。それは、この復活されたイエス様が弟子たちに告げた言葉が、現に福音記者マタイを生かし、支え、押し出し、導いていたからです。

2.ガリラヤ
 復活されたイエス様は、復活された日に墓に来た婦人たちと出会い、「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(28章10節)と告げられました。弟子たちはガリラヤへ行き、復活されたイエス様と出会いました。その場所は「山に登った」とありますように、ガリラヤのどこかの山でした。その山がどの山であったのか、名前が記されているわけではありませんので本当の所は分かりません。しかし、マタイによる福音書を読み進めてきた者ならば、この「ガリラヤの山」は、幾つかの出来事と結びついていることを思い起こすでしょう。一つは5~7章に記されている、「心の貧しい人々は、幸いである。」で始まります「山上の説教」が告げられた山です。二つ目は、15章にあります、多くの人たちを癒やし、男だけで4千人の人たちが7つのパンで養われた出来事があった山です。そして、三つ目は17章に記されております、山の上でイエス様の姿が変わり、モーセとエリヤと話されたという、「山上の変貌」と呼ばれる出来事があった山です。
 この「ガリラヤの山」は、山上の説教で命じられたこと、イエス様の力、そしてイエス様が誰であるのかということが明らかにされた出来事と結びついていました。このことは、復活されたイエス様がここで弟子たちに告げられた内容と繋がっています。そのことについては後で触れます。

3.イエス様を神様として拝む
 弟子たちは復活のイエス様と出会って、イエス様の前に「ひれ伏し」ました。この「ひれ伏す」と訳されている言葉は、墓に向かった婦人たちが復活のイエス様と出会った時にも用いられておりますが、これは「神様として拝む、礼拝する」という意味でしか使われない言葉です。つまり、弟子たちは復活されたイエス様を神様として礼拝したのです。復活されたイエス様と出会った婦人たちそして弟子たちによって、「イエス様を神様として拝む礼拝」が始まりました。これがキリスト教会の礼拝の始まりです。
 しかし、福音記者マタイはここで、「しかし、疑う者もいた。」と記しています。復活されたイエス様に出会っているわけですから、弟子たちはイエス様が復活されたことを疑っていたわけではなかろうと思います。そうすると、何を疑うのかということになりますが、それは「イエス様を神様として拝んで良いものかどうか、そこに疑いがあった」ということではないかと思います。それは、ここでイエス様がお語りになったことに対して「疑う」「信じられない」者がいたということです。イエス様はただ者ではない、凄い方だ。そこまでは何の問題もありません。しかし、イエス様を「神様」として拝むかどうか。それは狐や狸や蛇、死んだ人まで神様にして拝んでしまう日本人の宗教感覚ではピンと来ないかもしれません。「復活したんだから神様だろう。」とは簡単にはいきません。何故なら、聖書の神様は「天地を造られたただ独りの神様」しかおられないからです。ですから、イエス様を神様として拝むということは、大変なことでした。ユダヤ教からキリスト教へと展開していく、最も重大な、根本的な変化がここにあります。11人の弟子たちは、みんなユダヤ人でした。ですから、このことに躊躇するのももっともなことです。そして、マタイがこの福音書を記した時にも、そのような人たちが教会の中にいたのでしょう。しかし聖書は、この一点を外してしまえば、イエス様の十字架と復活による救いそのものが分からなくなってしまう、この一点に教会の基礎、根本教理、礼拝の現実があると告げています。

4.二つの宣言(1)天と地の一切の権能を授けられた者
復活されたイエス様は、疑う者もいるような弟子たちに自ら「近寄って来て」言われました。イエス様は、「疑うような弟子は相手にしない」そういうお方ではありません。疑う者を、信じられない者を、なおも召し出し、御用に用いて、その歩みの中で「信じる者」へと造り変えていってくださる。そういうお方です。復活されたイエス様は弟子たちに、二つの宣言とそれに挟まれるようにして記されている大伝道命令を告げられました。
 最初の宣言は、18節b「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」という宣言です。「権能」と訳されている言葉は、口語訳では「権威」、新改訳でも「権威」と訳されておりました。「権能」と訳したのは、権威だけではなくて、能力・力もあるということを示したかったのでしょう。この箇所に至るまでに、マタイによる福音書は「ガリラヤの山」において、先ほど見ましたように、御姿を変えられたイエス様を描きました。そして多くの人々を癒やし、7つのパンで4千人を養われたイエス様を記しました。そして、十字架にお架かりになり復活されたイエス様を記した。そこで明らかにされたイエス様の権威と力とは、病に対して、自然の法則に対して、サタンに対して、罪に対して、そして死に対しての権威と力でありました。人間がどうしても立ち向かうことの出来ない、この前には無力でしかないものに対して、イエス様はそれを圧倒する権威と力を持っていることを示されました。それはイエス様というお方が、この天と地にあるすべてのものを造られたただ独りの神様の独り子であることを示しています。天と地の一切に対して権威がある。力がある。諸々の力に支配されている者たちを救うことがお出来になるお方です。イエス様はここで、自分はそういう者なのだと宣言されました。これはイエス様が神の御子である、神であるということです。マタイによる福音書の中で、イエス様は自らが何者であるかを明確にはお語りになりませんでした。しかし、遂にすべてを明らかにする時が来ました。復活されたイエス様は、神の御子としての権能を弟子たちに明らかにし、御自分が何者であるかをはっきりとお示しになったのです。イエス様は、御自分に対抗しうる権威と力あるものなど、天と地のどこにも存在しない、そうはっきりお告げになりました。だから、私共はこの方を神様として拝み、賛美し、礼拝しているのです。

5.二つの宣言(2)世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる
 二つ目の宣言は、マタイによる福音書の最後の言葉です。20節b「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という宣言、「約束としての宣言」です。マタイによる福音書は、イエス様の誕生の出来事をイザヤ書7章14節を引用して、「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイによる福音書1章23節)と告げました。マタイによる福音書はその最初と最後において、神様がそしてイエス様が「共におられる」ということを告げています。神様がそしてイエス様が私共と共にいてくださるというこの恵みの現実、これを伝えることがマタイによる福音書の一つの眼目でした。復活のイエス様は11人の弟子たちに「共にいてくださる」ことを告げられましたが、それは私共を含めたすべてのイエス様の弟子たちに向けて告げられたことです。
 そして、この時復活のイエス様は「世の終わりまで」「いつも」「あなたがたと共にいる」と約束されました。「世の終わりまで」とは、この世界の終わりまでということです。神の国が完成する時までということです。その時を決められるのは父なる神様ですけれど、その時まで私共と「共にいてくださる」と約束してくださいました。イエス様が私共と「共にいて」くださるということは、ただいるだけ、ただ見てるだけ、そんなことではありません。私共と共にいてくださり、生きて働き、天と地の一切の権能をもって出来事を起こし、御言葉を与え、それによって私共を守り、支え、導かれるということです。
 しかも、それは「いつも」です。イエス様は、私共が聖書を読み、祈り、礼拝している時だけ「共にいてくださる」のではありません。「いつも」です。イエス様は私共が寝ている時も共にいてくださっています。イエス様は私共が順風満帆に歩んでいる時だけ、共におられるのではありません。良いときも、悪いときも、健やかなときも、病めるときも、イエス様は共にいてくださいます。しかし、それが分からなくなる、信じられなくなる、この時の弟子たちのように「疑う」「信じられない」という思いに囚われることもあるかもしれません。苦しく困難な状況になれば、誰でもそうなるものです。しかし、たとえ私共がそのようになったとしても、イエス様は共にいてくださっています。それが「いつも」ということです。そういう時にこそ、イエス様は特別プログラムを与えてくださり、私共に特別に御言葉を与え、出来事を起こし、共におられることを教えてくださいます。神様の愛が揺るがぬことを教えてくださいます。
 このように「世の終わりまで」「いつも」「私共と共におられる」ということは、イエス様が永遠のお方であり、時間と空間を超えたお方であられるということです。イエス様が肉体を持っていたままであるならば、時と時間を超えることは出来ません。ですから、イエス様は十字架にお架かりになって死んで、三日目によみがえり、そして更に天に昇り、聖霊なる神様を注いでくださったのです。イエス様の霊、父なる神様の霊である聖霊なる神様が私共と共にいてくださって、すべてを導いてくださっています。ここに、私共の安心、大安心の根拠があります。私共の信仰の歩みは、この大安心の中を歩んでいくのです。この大安心の中で、イエス様が告げられた大伝道命令に従っていくのです。

6.大伝道命令(1)行って、すべての民を弟子とせよ
 復活されたイエス様は、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」という宣言と「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という約束の宣言に挟まれるようにして、弟子たちに伝道の大号令を告げられました。19~20節a「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」と告げられました。この復活のイエス様の御言葉によって、弟子たちは世界中へとイエス様の福音を宣べ伝え続けてきました。このイエス様の御命令は、自分を捨てて逃げていった弟子たちを再び弟子として召し出し、福音伝道という大切な務めを委ねたということです。ここで、弟子たちが一度はイエス様を見捨てて逃げた者であったということをきちんと受け止めなくてはいけません。彼らは失敗もなく、誇れるような真面目さを持ち、どんな時でもきちんと信仰を守り抜いた者ではなかったということです。この事実は、誰も「私なんてダメだ。」と言うことは出来ないということを意味しています。ダメな者で結構。そのような者が召され、立てられ、用いられるのです。そして、そこでキリスト者は変えられ続けていくのです。
 ここで命じられた大伝道命令は一つです。それは「すべての民をわたしの弟子にしなさい。」ということです。その為には、「洗礼を授ける」そして「教える」ということをしていかなければならないと告げられたのです。
 まず「すべての民をわたしの弟子にしなさい。」ですが、キリスト者になるとは「イエス様の弟子」となるということです。他の誰の弟子でもありません。私共はイエス様の弟子です。〇〇先生の弟子などではありません。弟子という言葉は良い言葉です。師弟関係というのは、実に麗しい愛の交わりです。しかも、この「師」(先生)であるイエス様は弟子である私共のために命を捨てられた方です。ですから、弟子はこの師(先生)を愛し、これを敬い、これに倣い、これに従って歩んで行きます。キリスト教という言い方ではなく、キリスト道と言うべきだと指摘する牧師もいます。キリスト教は単なる教えではないと言いたいのでしょう。私共はイエス様を師(先生)として、日常の生活、考え方、ものの見方、価値観、感じ方、そういったものすべてが、イエス様の弟子となることになって変えられていくものだからです。
 イエス様は、「すべての民」を弟子とするように告げられました。ユダヤ教では考えられないことでした。ユダヤ教では、ユダヤ人以外が救われるなどということはあり得ないことだったからです。しかし、イエス様は神様に救われる者、神の民を「すべての民」に広げられました。この新しい神の民は、人種も民族も国家も超えていきます。勿論、思想や主義主張、社会階層や身分、貧富の差も超えていきます。それがキリストの教会です。一口に人種も民族も国家も超えると言っても、この壁はとても高く、厚く、超えて行けそうに思えないほどです。しかし、長い時を用いて、キリストの教会はこの壁を超えてきました。今も超え続けています。それは、私共の主、イエス・キリストは「天と地の一切の権能」を持つお方であり、この権能に対抗しうる人間の権威や力などは存在しないからです。イエス様の前では、国家も人種や肌の色も性別の違いも、決定的な意味を持たなくなったからです。何故なら、天と地にあるすべてのものに対して、イエス様は権能をお持ちになっているからです。このお方の前に対抗出来るような権威も力も存在しないからです。私共はキリスト者になった。これは、根本から私共が変わったということです。勿論、日本人であることをやめたわけではありません。しかし、日本人である以上に、キリスト者になった、キリストの弟子となったのです。

7.大伝道命令(2)洗礼を授けよ
 イエス様は、すべての民を御自分の民とするために二つのことを弟子たちにお命じになりました。洗礼を授けること、教えることです。
 洗礼を受けるということは、イエス様の弟子となるためにはどうしても必要なことです。どうして洗礼を受けなければならないのかと思われる方もおられるかもしれません。その理由はとても簡単なことです。復活のイエス様がそうしなさいとお命じになったからです。それ以外の理由はありません。この洗礼によって私共は、父・子・聖霊なる神様との特別な関係に入れられます。洗礼は、歴史を貫くただ一つの神の民の一員となる、そして神様の子とされ、神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来る者とされる、またイエス様の弟子とされ、「イエス様を愛し、愛され、これを敬い、慕い、これに従う者」となる、生涯ただ一度の契約式です。この契約によって私共は神様と結ばれるのです。この契約は永遠の契約です。天と地にあるどんな力によっても、肉体の死によっても、無効になることはない契約です。キリストの教会は二千年の間、この洗礼を施し続けてきました。私共の洗礼は、途切れることなくイエス様の弟子たちにまで繋がっています。世界中の22億人のキリスト者は、一人の例外もなく、すべてこの11人の弟子に遡っていくことが出来ます。この洗礼によって歴史を貫いて一つとされている群れ、それがキリストの教会です。

8.大伝道命令(3)教えよ
 そしてもう一つ。イエス様は「教えよ」と命じられました。何を教えるのかと言いますと、「イエス様が命じられた一切のことを守る」ことです。イエス様が命じられたこととは、細々したことではありません。神様を愛すること、そして人を愛することです。それは神様に仕えることであり、人に仕えることです。礼拝に与ることも、祈ることも、どのように生きるかということも、すべてここから導かれてくることです。神様を愛し、神様に仕える。人を愛し、人に仕える。ここに私共の人生のすべてが集約されていきます。教会もキリスト者も、その時代や場所によって置かれた状況は違いますから、実際に行われてきたこと、行われていることは色々です。様々なバリエーションがあります。しかし、そのすべての業は、ここから出てきたことです。私共は、神様を愛しこれに仕え、人を愛しこれに仕えます。子どもも大人も年老いた者も、学生も社会人も主婦も、父親も母親も子どもも、日本人も中国人もブラジル人も、みんな同じです。それは、復活のイエス様がそうしなさいと言われたからです。
 この御言葉に従って、代々の聖徒たちは与えられた地上の生涯を歩み通してきました。私共もそうです。一切の権能を授けられたイエス様を我が主、我が神と崇めつつ、すべての民をイエス様の弟子とするために、洗礼を施し、神様を愛し人に仕え、人を愛し人に仕える者として生きるのです。復活されたイエス様は、今もあなたと共におられます。だから、大丈夫です。安心して行きなさい。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
 今朝、あなた様は復活されたイエス様が弟子たちに告げた御言葉を通して、イエス様が一切の権能を与えられていること、そのイエス様が私共と共にいてくださること、そして私共がすべての民をイエス様の弟子とするようにと遣わされていることを教えてくださいました。ありがとうございます。私共があなた様から命をいただいている意味を、目的をはっきり示してくださいました。自分の欲や損得で物事を見てしまう愚かさから私共を解き放ち、あなた様の御言葉に従い、あなた様と共なる歩みを為していくことが出来ますよう、どうか導いてください。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年4月18日]