日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「恵み深い主に感謝せよ」
詩編 118編1~29節
マタイによる福音書 21章6~9節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
今日は、この礼拝の後で2021年度の定期教会総会が開かれます。定期教会総会のある日の礼拝では、その年の教会聖句から御言葉を受けることにしています。既に4月4日から週報の表紙に記される聖句が替わり、詩編118編1節「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」と記されています。これが今年度の教会聖句です。この聖句を選んだのは長老会ですが、どうしてこの聖句が選ばれたのか、それははっきりしていると思います。
 私共は2020年度、新型コロナウイルスの感染が世界中に広がるという状況の中を歩んでまいりました。今もその状況は変わりません。金曜日から富山における感染状況がステージ2になったということで、週報にありますように、今日の礼拝から会堂の定員を2分の1から8分の3に減らしました。そして、讃美歌を歌うのは1番だけにしました。富山の感染状況がステージ1に戻れば、また2分の1定員に戻しますけれど、感染状況を見ながら、その都度対応を考えていかなければなりません。更に厳しい状況になれば、讃美歌を歌わないということも考えなければならなくなるかもしれません。2020年度はイースター、ペンテコステ、クリスマスの祝会は無しになりました。教会学校の夏期学校も泊まりで行うことは出来ませんでした。伝道礼拝「礼拝とコンサート」も中止となりました。召天者記念礼拝やクリスマス記念礼拝そしてキャンドル・サービスは、2回に分けて行う必要に迫られました。今年も、昨年と同じようなコロナ禍の中を歩まなければならないことははっきりしています。そのような私共に、聖書は告げるのです。「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」
 長老会は、2021年度はこの御言葉と共に歩むのがふさわしいと考えました。それは、コロナ禍の中で神様の恵みが見えなくなる、神様の慈しみがどこにあるのか分からなくなる、そういうこともあるかもしれない。しかし、たとえそのような状況になったとしても、私共が神様の御言葉に聞き、神様が為してくださった救いの御業を思い起こして神様を見上げるならば、私共は神様の慈しみの中にあることを思い起こすことが出来る。そして、神様に感謝することが出来る。2021年度という年が、たとえ昨年度よりも厳しいコロナ禍の中を歩まなければならなくなっても、それでも神様に感謝し、神様を賛美して歩んで行こう。そう願って、長老会はこの御言葉を選んだのです。

2.慈しみはとこしえに
 詩編の113編~118編は「ハレルの詩編」と呼ばれ、過越の祭の時に歌われました。マタイによる福音書26章30節には、最後の晩餐を守られたイエス様たちが「賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」と記されておりますが、その時に歌った「賛美の歌」はこの詩編113編~118編であったと考えられています。ユダヤの人々にとっては大変馴染みのある詩でした。
 この詩編118編の冒頭は、先導者と会衆が交互に歌い合ったようです。先導者が「恵み深い主に感謝せよ。」と歌いますと、会衆が「慈しみはとこしえに。」と歌う。次に先導者が「イスラエルは言え。」と歌いますと、会衆が「慈しみはとこしえに。」と歌う。詩編は元々すべてにメロディーが付いていたのですが、メロディーを記録する手段がありませんでしたので、今は歌詞だけがこのように残っているわけです。1~4節を実際にやってみましょう。私が「恵み深い主に感謝せよ」と言いますので、皆さんは「慈しみはとこしえに」と言ってください。今日はメロディーは無しです。
「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。
アロンの家は言え。慈しみはとこしえに。
主を畏れる人は言え。慈しみはとこしえに。」
今、私共は「慈しみはとこしえに」と繰り返し繰り返し、申しました。これは信仰を告白していると言っても良い言葉です。この「慈しみはとこしえに」とは、文字通り、神様の慈しみは「とこしえに変わることなく、私共の上にある」ということですが、この「とこしえに」という言葉は「いつまでも」という意味であると同時に、「いつでも」という意味があると思います。神様の慈しみは、いつでも、どんな時でも、いつまでも、変わることなく私共の上にあるということです。しかし、「神様の慈しみの中に自分はある」と言い切れない、そんな時もあるかもしれません。私共の歩みは、いつも私共が期待した通りではないし、願った通りであるわけではないからです。しかし、たとえそうであっても、その厳しい現実の中にも、神様の慈しみは既に確かに現れている。それを見出し、それを信じて歩もう。そう、聖書は私共を促しています。「慈しみはとこしえに」と歌い続ける中で、神の民は「恵み深い主」に出会い続けて来ました。
 この詩編は、神の民によってずっと歌い続けられて来たのですが、イスラエルの歴史において、イスラエルが完全に独立して繁栄したのはダビデとソロモンの時代だけです。紀元前1000年から約70年の期間だけです。ソロモンの後、国は分裂し、北のイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、南のユダ王国はバビロンによって滅ぼされました。その後はペルシャに、そしてギリシャ(アレクサンダー大王のマケドニア)に、さらにローマに支配されました。そのような歴史の中でイスラエルの民は、「慈しみはとこしえに」と歌い続けたのです。キリストの教会も同じです。いつも順風満帆であったわけではありません。先の大戦では敵性宗教と言われ、礼拝に集うこと自体がはばかられました。そして、富山の大空襲で会堂も焼失しました。それでも、「慈しみはとこしえに」と歌い続けて歩んで来ました。それが神の民の歩み方なのです。

3.恵み深い主
 詩編の詩人は「恵み深い主に感謝せよ」と告げます。恵み深い主。それは実際に、神の民をその歴史の中で、守り、支え、その恵み深さを現し続けられた主です。5~9節「苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた。主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。主はわたしの味方、助けとなって、わたしを憎む者らを支配させてくださる。人間に頼らず、主を避けどころとしよう。君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。」と歌います。具体的にどのような苦難があったのかは分かりません。病気だったのか、経済的な困窮だったのか、戦争のようなことだったのかもしれません。或いは、エジプトにおける奴隷の状態からの解放という、出エジプトの出来事が背景にあるのかもしれません。いずれにしても、神の民は、「ああ、もうダメだ」という時に主に依り頼んだ。そして、主はその願いを聞き、守ってくださったのです。
 ここでも、8~9節で先導者が「人間に頼らず」と歌うと、会衆が「主を避けどころとしよう」と歌い、「君公に頼らず」と歌うと、会衆が「主を避けどころとしよう」と歌ったのでしょう。勿論、「病気になった時に医者を頼るな」というようなことを言っているわけではありません。火事になったら消防士の方に消火してもらい、病気になったらお医者さんに看てもらう。それは当たり前のことです。困ったことが起きた時に、人に相談するのも良いことです。しかし、それでもどうにもならないことがある。けれども、神様にはどうにもならないことはありません。何故なら、私共の神様は、天地を造られた全能のお方だからです。
 私共の信仰は、この「ああ、もうダメだ」という時に主に依り頼むかどうか、そこで決まってしまう所があります。「ああ、もうダメだ」という状況には、いろんな「もうダメだ」という場合がありましょう。健康、仕事や人間関係、家族のこと、色々あります。でもどのような「ああ、もうダメだ」であっても、その時に主に依り頼む者は、私共の思いを超えた神様の具体的な恵みの御業に出会い、本当に神様は生きて働いておられるということを知ることになります。
 牧師をしておりますと、色んな相談を受けます。そういう時、勿論お祈りをしますし、アドバイスもいたします。そして、私はいつも、「困難な時は、証しが生まれる時」と言っています。困難な時には、神様から離れてしまうということだって確かに起きます。私共は弱いですから。神様ではなくて、目に見える何かを頼りたくなる。しかし、それでもなおも主に依り頼むならば、私共は本当に生きて働く神様に出会っていくことになります。そして、私共の神様が本当に「恵み深い主」であることを知ることになります。そこに証しが生まれます。コロナ禍の中を歩むこの2021年が、そのような1年となることを願っています。

4.礼拝の中で
 さて、この詩編は19節から、エルサレムへ、更にエルサレム神殿へと入っていきます。「城門」と言われているのは、エルサレムの町の城門、更にはエルサレム神殿の城門と考えて良いでしょう。そこで何をするのかと言えば、勿論礼拝です。その礼拝において「主に感謝をささげる」のです。ここで「感謝する」という言葉が繰り返されています。19節、21節、28節、29節です。礼拝とは神様を拝むことですけれど、その中核には「神様に感謝をささげる」ということがあります。私共は、主の日の礼拝において聖書の説き明かしを聞きますけれど、それは聖書を勉強するのが目的ではありません。聖書の説き明かしにおいて、聖書に記されている神様の憐れみと恵みと真実とが告げられる。それを受けて、心からなる感謝をささげるように導かれていきます。コロナ禍を歩んで行く私共ですけれど、この主の日の礼拝にあずかり続ける限り、私共の唇から感謝が消えてしまうことはありません。そして、感謝は賛美へと繋がっていきす。もっと言いますと、「信仰を告白する」ということと、「神様に感謝する」ということと、「神様を賛美する」ということは、分けることが出来ないように結びついています。私共はこの礼拝において、神様が為された御業を思い起こし、まことにこの方こそ私共の主であることを告白し、その御業に感謝し、この方を賛美するのです。
 逆に言いますと、この礼拝から遠ざかってしまいますと、私共はいとも容易く、神様の御業を忘れ、目の前の困難や不安に飲み込まれ、感謝することを忘れてしまうことになりかねないということでもあります。そして、感謝がなくなれば、賛美も失われてしまうことでしょう。詩編102編19節bに「主を賛美するために民は創造された。」と記されております。私共は神様を賛美するために造られました。ですから、私共が賛美を失ってしまうということは、神様の御心にかなわないことであるに違いありません。
 コロナ禍の中で、東京や神奈川などでは現在、礼拝の中で讃美歌を歌えない教会があります。オルガンの奏楽だけで、声を出さないで心で歌うというあり方を守っています。私共の教会も、今日から讃美歌は1番だけの賛美となりました。感染状況が大阪や東京のように厳しくなれば、声に出して讃美歌を歌わないという事態になるかもしれません。しかし、たとえそうであっても、私共の心の中から、この主の日の礼拝から、神様への感謝と賛美を奪うことは誰にも出来ません。

5.キリスト預言(1)
この詩編118編には「キリスト預言」が記されてます。それが22~23節です。「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。」この言葉は、イエス様の十字架の出来事を指し示す預言として、新約聖書で何ヶ所にも引用されています。イエス様は十字架に架けられて死にました。人々に捨てられました。しかし、誰も考えてもいなかったことが起きました。イエス様が三日目に復活なさったのです。そのことにより、イエス様が誰であるかが明示されました。イエス様の十字架が何であったかも明らかにされました。イエス様は天地を造られたただ一人の神の御子であり、私共の一切の罪の裁きを身に負われ、私共の身代わりとなって十字架の上で死なれました。その事によって私共は、ただイエス様を信じるだけで一切の罪を赦され、神の子とされ、イエス様が復活されたその命に与る者とされました。死さえも最早、私共を滅ぼすことは出来ません。その救いの御業を、イエス様は成し遂げてくださったのです。ここにこそ、神様の私共への愛が現れています。
 私共は主の日のたびごとに、このイエス様の御業を思い起こし、既に救いに与っていることを心に刻み、神様に感謝し、神様を賛美するのです。24節で「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」と聖書は告げます。しかし今は、文字通りに「喜び躍る」ことは出来ません。しかし、ここで言われている「今日」とは、イエス様が死人の中から三日目に復活された日、つまり「主の日」を指していると考えて良いでしょう。私共は、このイエス様の復活を記念して、主の日の礼拝をささげています。実に、主の日とは、イエス様の復活を「喜び祝い、喜び躍る」日なのです。このイエス様の十字架と復活によってもたらされた救いは、どんな困難・困窮・悩み・不安・痛み・苦しみそして死によってさえも、奪われることはありません。

6.キリスト預言(2)
 先ほどお読みいたしましたマタイによる福音書21章6節以下には、イエス様がエルサレムに入られた時のことが記されていました。ここに、詩編118編25~26節が引用されています。25節の「どうか主よ、わたしたちに救いを。」は、「ホサナ」という、イエス様がエルサレムに入城する時に人々がイエス様に向かって叫んだ賛美の言葉です。そして、その次の26節「祝福あれ、主の御名によって来る人に。」もまた、その時に人々がイエス様に向かって叫んだ言葉でした。
 このように詩編118編はキリスト預言になっているのですけれど、それだけではないと私は思っています。この群衆の叫びは、イエス様が再び天から降って来られる時の私共の姿、私共の歓喜の叫びなのだと思います。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来る人に。ホサナ。」そう喜びの叫びを上げて、私共はイエス様をお迎えするのです。私共が神様・イエス様に感謝し、賛美をささげるのは、二千年前にイエス様が私のために十字架にお架かりなって、そして復活されたからというだけではありません。このイエス様が、聖霊なる神様として、今も私共と共にいてくださって、私共を守り、支え、導いてくださっているからです。そして、そのイエス様は再び来られ、私共に復活の体と命を与えてくださり、イエス様に似た者としてくださるからです。イエス様のように愛し、イエス様のように仕え、イエス様のように神様を信頼して、イエス様のように神様に従う者となるからです。私共の信仰の眼差しは、過去に、現在に、そして将来に向けられます。「過去だけ」でも、「現在だけ」でも、「将来だけ」でもありません。この眼差しの中で、神様の憐れみの御業を見、自分も世界もこの神様の御手の中にあることをはっきり知る時、私共は神様に感謝し、神様を賛美しないではおられないでしょう。

7.恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
 皆さん、どうかこの一年、「恵み深い神に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」との御言葉を心に刻んで歩んでいただきたいと思います。皆さんが出会う人、或いは皆さん自身が、困窮した状況の中を歩むことになるかもしれません。しかし、イエス様の十字架と復活を覚え、主の日の礼拝に集い、「神様の慈しみは、私の上に、そしてこの人の上にも、いつも、今も、いつまでも注がれている。」ということを心に刻み、歩んで行きたいと思います。そうすれば私共は、目の前に迫る困窮した状況に呑みこまれることはありません。希望と平安を保持することが出来るでしょう。苦しみも困難もやって来ます。しかし、これに呑みこまれてはいけません。呑みこまれそうになる時、「慈しみはとこしえに。」と心の中で何度も何度も呟きましょう。そして、恵み深い主を思い起こし、心の唇に賛美を持ち続けましょう。そうすれば、大丈夫。何があっても大丈夫。これが、皆さんに今日与えられた、神様の約束です。

   祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝、あなた様は詩編118編の御言葉によって、あなた様が恵み深い方であること、そしてあなた様の慈しみはとこしえであることを教えてくださいました。ありがとうございます。コロナ禍の中を歩む世界中の人々が、明日への不安に呑みこまれることなく、希望をもって、感謝と讃美を捧げつつ、それぞれ遣わされている場において、為すべきことを誠実に為していくことが出来ますように。弱い私共を、どうか支え、守ってください。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年4月25日]