日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「主イエス・キリストの福音」
エレミヤ書 23章5~6節
ローマの信徒への手紙 1章1~4節

小堀 康彦牧師

1.はじめに ~長老任職式~
 先週の礼拝後、2021年度の教会総会が開かれまして、長老・執事選挙が行われ、定員8名の半数4名が改選されました。長老選挙では3名が再任され、新しく一人の長老が選出されました。今まで1名欠員が続いていましたが、定員が満たされました。執事は、残念ながら2名欠員のまま、2名が再任されました。この後、新しく選出された長老の任職式が行われます。この任職の仕方は、教会によってそれぞれの伝統に基づいて為されるわけですが、私共の教会では「長老按手」と言いまして、既に長老の按手を受けた者たちが、新しく任職される長老の頭の上に手を置いてお祈りするという仕方で為されます。この任職式の中で、長老按手の前に、任職される長老に誓約をしていただきます。その誓約の第一のことは、自分が長老の職に任じられことが「イエス・キリストの召命によるものと確信しますか。」ということです。目に見える所においては、教会総会における選挙の結果、長老に選出されたということなのですけれど、私共はその選挙の結果に「神様の選び」「神様の召命」というものが現れたと信じるわけです。そして、教会員の方にも誓約していただきます。自分はこの人に投票した、或いはしていない、そんなことは関係なく、「神様がこの人を選んだ」「この人が長老として立てられるのが神様の御旨である」、そう信じる。そのことを誓約していただきます。そして、神様によって召されて、長老として立てられるのですから、長老に任職される人はそれに相応しく歩み、なすべき務めに励む。そして、教会員はその務めを支える。そのことも誓約していただきます。
 神の民において役割を与えられ、これに仕える者は皆、この神様による選び、召し出し、召命というものに根拠を持ちます。それは神の民の出発の時からそうです。神様はアブラハムを選び、神の民の始まりの者とされました。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ヨシュア、ダビデ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル等々、みんなそうです。そして、イエス様の十二弟子もそうです。みんな、神様に選ばれ、召し出され、立てられました。そして、主の御業に仕えてきたのです。
 この世には様々な組織がありますけれど、そこで役割を与えられた者が、このように神様によって選ばれ、立てられたと理解している所はあまりないだろうと思います。神様が選び、神様が召し出し、神様が立てる。それは、神様がその人、その共同体を用いて、御心を行われるからです。キリストの教会は神様の御心に仕え、御心を実現していくために励む共同体であり、その頭は主イエス・キリストだからです。

2.神様に選ばれ、召された使徒
 さて、今日からしばらくの間、ローマの信徒への手紙から御言葉を受けてまいります。新約聖書の中の「〇〇の信徒への手紙」という表題のものは、ほとんどパウロが書いたものです。新約聖書に収められている文書の中で、数としてはパウロが書いたものが圧倒的に多いです。新約聖書に収められているパウロの文書は、すべて手紙です。それぞれの手紙には書かれた目的があり、それぞれに特徴もあります。このローマの信徒への手紙は、キリスト教の信仰を最もまとまったあり方で記している手紙と言われています。当時の手紙は、必ず差出人を記し、宛名を記し、挨拶を記す、それから本文に入るということになっていました。今朝与えられましたローマの信徒への手紙1章1節~4節は、「この手紙の差出人はパウロです」と記している所です。しかし、ここでパウロは、ただパウロという自分の名前を記しているだけではありません。
 パウロは自分のことを「キリスト・イエスの僕」と言い、「使徒」と言っています。そして、何よりも自分が「キリスト・イエスの僕」となったのは、「使徒」となったのは、「神様に選ばれ、召された」からだと言っています。自分がなりたくてなったのではありません。皆さん、思い出してみましょう。パウロが復活のイエス様に召し出されたのは、パウロがキリスト者を捕らえるためにダマスコに行く途中でした。使徒言行録9章に記されています。突然、天からの光に照らされ、彼は地に倒れてしまいました。そして、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」と呼びかける声を聞いたのです。彼が「あなたはどなたですか。」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」との答えがありました。彼は目が見えなくなります。しかし、復活のイエス様が遣わされたアナニアというキリスト者によって、目が見えるようになります。そして、パウロは洗礼を受けてキリスト者になったのです。それから彼は、イエス様こそ神の御子であると宣べ伝える者になりました。この時アナニアは、自分たちキリスト者を迫害するパウロをどうして助けなければならないのか、納得出来ませんでした。そこでイエス様はアナニアをパウロのところに遣わすにあたり、アナニアに「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」と告げられました。イエス様はパウロにも同じことを告げたに違いありません。
 ここで大切なことは、神様によって召し出されるということは、出来事だということです。神様に召し出されたと自分が受け止めること、これを召命感(観)と言ったりします。召命感がはっきりしていませんと、伝道者として立ち続けるのは難しいでしょう。しかし、召命感というのは、あくまで召命を受けたと自分が受け止めることで、人間ですから勘違いもあるわけです。召命感というものを軽んじるつもりはありませんけれど、召命とはそもそも神様がその人を召し出すという出来事なのであって、神様が自分を召し出すという何らかの出来事があったかどうかが決定的に重要なのです。気持ちの問題ではありません。聖書の中で、召命の出来事なしに立てられた者は一人もいません。大切なのは、出来事があったかどうかです。私にもありました。その出来事を忘れることは、決してありません。

3.使徒パウロ
さて、パウロは自分のことを「キリスト・イエスの僕」と言い、「使徒」と言っています。まず、私共がよく耳にする「使徒」という言葉ですが、本来は「遣わされた者」という意味の言葉です。しかし、イエス様の直接の弟子を「十二使徒」と言いますように、初代教会において、人々に教え、教会を導く者として、最も権威が認められた者が「使徒」です。キリストの教会は使徒たちの伝道によって始まったからです。パウロは一番最後に召されて使徒となった者です。パウロは、自分が使徒であるということ、つまりイエス様に直接召し出され、伝道に遣わされた者であるということを大切にしていましたし、教会(=他の使徒たち)もこれを認めておりました。使徒たちは、イエス様が語ったこと、なさったことを直接見て、聞いておりました。彼らはそれを語り伝えました。パウロもダマスコ途上で復活のイエス様に出会い、召し出されました。そして、救いとは、イエス・キリストとは、ということについて他の使徒たちに話を聞くと同時に、イエス様からも教えていただいたのだろうと思います。パウロは自らが「使徒」であることを明確に告げますけれど、それは自分が告げる福音の正しさ、正統性をはっきりさせる必要があったからです。他の使徒たちが教えていること、伝えていること、それと全く同じことをパウロは告げている。そのことがはっきりしていないと、パウロの言っていることが説得力を持たないということになりかねません。生まれたばかりのキリストの教会です。ユダヤ教との関係にしても、はっきりしないところがあった時代です。当時キリスト教は、ユダヤ教の中の「ナザレ派」という一派と考えられていました。「ナザレ人イエスを信じる者たち」という意味です。そういう中で、「本当の教えはこれです。ここに救いがあります。」と明確に言える者でなければ、生まれたばかりのキリストの教会を導いていくことは出来なかったでしょう。
 神様は生まれたばかりのキリストの教会を導くために、使徒を選び、立て、遣わされました。これ以降、使徒はおりません。その後に出たどんなに偉い神学者も、使徒の前では小さな者でしかありません。何故なら、使徒たちの証言がなければ、それは新約聖書ということですが、これが無ければ、イエス様についても、福音についても、誰も知ることは出来ないからです。使徒たちよりも自分が正しい、つまり、聖書より自分が正しいと主張する、或いは自分は使徒であると言って使徒の証言と同じ正しさを自分の言葉に置こうという人がいれば、それはもうキリスト教ではありません。キリストの教会は使徒の上にしか建ちません。

4.キリスト・イエスの僕
 パウロは自らを「使徒」と言うわけですけれど、それは自分を偉く見せるためなんかでは全くありません。パウロは自分が「使徒」と言うと同時に、自分は「キリスト・イエスの僕」であると言います。「僕」とは「奴隷」という言葉です。私共は奴隷という言葉は知っていますけれど、奴隷という者がどういう存在なのか、直接知っているわけではありません。しかしパウロの時代、奴隷は沢山いました。ある程度の資産のある家ならば、必ず奴隷がいたと言って良いでしょう。明確な社会階層を示す言葉でした。奴隷には主人がおり、主人の命令は絶対です。反抗なんて出来ません。奴隷が良いなんて、誰も思いません。自由人が良いに決まっています。もう40年も前になりますが、この「僕」が「奴隷」という言葉であることを教えられ、私もまたイエス・キリストの奴隷なのだと教えられた時、正直なところ「嫌だな。」と思いました。しかし、パウロは「自分はキリスト・イエスの奴隷である」と言うのです。この言葉は、彼の手紙の中で何度も何度も出てきます。彼は、この言葉を「喜びと誇り」をもって用いています。奴隷であることを喜び、奴隷であることに誇りを持っている。その理由ははっきりしています。「キリスト・イエスの奴隷」であるということは、自分はキリスト・イエスという主人を持っているということだからです。パウロは、そのことを喜び、誇りとしていたのです。
 この「主人」という言葉も、現代の日本で使われることはなくなりました。江戸時代まで、日本人はみんな「主人」を持っていました。人によってそれは将軍様であったり、お殿様であったり、奉公先の旦那様であったり、親方であったりしましたけれど、みんな自分の主人がおりました。しかし、現代の日本には主従関係を持つような主人はいません。結婚した女性が、夫のことを「うちの主人」と言ったりしますけれど、それは言葉の上だけで、本当に自分の主人だと思っているわけではないでしょう。しかし、本当に私共は主人を持たなくなったのかと言えば、そうとも言えません。主人がいなければ、私共は全くの自由であるはずです。ところが、実際には色んな不自由を抱えています。それは、私共が完全に自由な者ではないということです。社会的な意味での主人はいなくても、私共を縛り、不自由にし、支配しているものがあるということです。それは、私共の中にある傲慢であり、身勝手さであり、自分の栄光を求める欲であり、自分は正しいと思い込む心であり、罪です。更に、私共の罪に働きかける悪しき者であり、愛を壊し、他の人を支配しようとする力であり、不安です。そして、その究極には死があります。誰もこの死の闇の支配から逃れることは出来ません。しかし、イエス・キリストを主人に持つということはそのような、私共を不自由にし、不安にし、脅かす一切のものから解き放たれたということです。イエス・キリストは私共のすべての罪を、闇を、不安を、死を滅ぼされました。そして私の主人となってくださった。イエス・キリストという主人は、私を徹底的に愛し、私を生まれ変わらせ、肉体の死さえも手を出せない永遠の命を私に与えてくださった。この方が私の主人である以上、どんな悪しき者も私に指一本触れることは出来ない。この喜びがパウロに、誇りを持って「奴隷」という言葉を使わせているのです。自由という名目で自分の罪に引きずり回されている現実、そのような自分を持て余しているすべての人に対して、聖書は「ここに本当の自由がある。喜びと平安がある。イエス様を主人とし、イエス様の御支配の中に共に生きよう。」と招いている。その招きを伝える者として、パウロは選ばれ、立てられたのです。

5.神の福音
パウロが選ばれ、立てられたのは、「神の福音」を宣べ伝えるためでした。「福音」とは、「喜びを伝える知らせ」のことであり、さらに具体的に言えば「主イエス・キリストによってもたらされた世界の救いと神の国に関する喜ばしい知らせ」です。イエス・キリストが来られて、十字架・復活・昇天・聖霊降臨という一連の神様の救いの御業によって、神様が天地を造られる前からお決めになっていた、この世界の救いの御業が成就しました。しかし、この世界を見れば、どこに救いがあるのか。戦争があり、飢えがあり、難民がいる。新型コロナウイルスの蔓延は世界中で止まることを知らず続いている。どこに救いがあるのか。そう思われる人もいるでしょう。この「神の福音」は、「主イエス・キリストによってもたらされた世界の救いと神の国に関する喜ばしい知らせ」ですから、イエス・キリストを抜きにこの世界をどんなに眺めていても、それを知ることは出来ません。パウロは、そのことを明確にこう告げています。2節「この福音は」と言って、3節で「御子に関するものです。」と告げています。神の福音は、御子に関することなのです。御子、すなわちイエス・キリストですが、このイエス・キリストというお方を抜きに、神の福音はありません。神様が私共にこの世界に与えてくださった救いの知らせ、喜ばしい知らせは、イエス・キリストに関することだとパウロは告げています。
 神様の救いについては、旧約において多くの預言者によって預言されておりました。やがて救い主が来られる。この方によって神様の救いの御業が為される。そう預言されてきました。その預言の通り、救い主が来られた。その方こそ、神の御子、主イエス・キリストである。そうパウロは告げているのです。当たり前と言えば、当たり前のことなのですが、キリスト教の中心はイエス・キリストなのです。キリスト教が教えていることと似たようなことを教えている宗教はたくさんあると思います。例えば、「互いに愛し合いなさい」という教えに、真っ向から反対するような宗教は無いでしょう。「父と母を敬え」とか「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」「偽証するな」等々、これを否定する宗教などありません。それらの教えが大切ではないと言うのではありません。しかし、これが無ければキリスト教の救いは成立しないというキリスト教の中心、救いの中心にあるのは、主イエス・キリストに関することなのです。
 キリスト教の中心にあるのは、主イエス・キリストが十字架に架かり、復活し、天に昇り、聖霊を注いでくださったという一連の神様の救いの御業です。この主イエス・キリストの一連の御業がどうして私共の救いになるのか。これが大切な所です。イエス・キリストというお方が、ただの素晴らしい人、偉い人、立派な人に過ぎないのであれば、この方が何をしても私共の救いにはなりません。イエス・キリストが誰であるか、つまり「御子に関すること」が決定的に重要なことになるのです。

6.肉によれば、聖なる霊によれば
 パウロはここで、御子に関して二つの面から告げています。「肉によれば」と「聖なる霊によれば」という二つの面です。
 まず「肉によれば」ですが、これはイエス様が人間として、おとめマリアから生まれたことを指しています。このクリスマスの出来事は旧約の預言の通り、ダビデの子孫としての誕生でした。これは要するに、御子イエス・キリストは本当の人間として来られたということです。
 次に「聖なる霊によれば」ということですが、イエス様は十字架の上で死んだ後、三日目に復活されました。このことによって、ただの人間ではなくて、神の子であることが明らかにされたということです。これを「十字架まではただの人間であったけれども、復活して神の子となった」というように誤解してはいけません。聖書が告げているのはそういうことではありません。復活によって神の御子であることが明らかにされ、天地を造られた全能の父なる神の御子であることが明らかにされ、神の御子とされたということです。つまり、主イエス・キリストというお方は、まことの人間にして、まことの神であられる。これが神の福音の中心です。この世界が救われる、私共が救われるという神の福音の中心、それがこの「主イエス・キリストはまことの人にして、まことの神である」ということなのです。
 まことの神にして、まことの人。それが私共の主イエス・キリストというお方です。そもそも、イエス・キリストという言い方が、このことを表しています。イエスとは、おとめマリアから生まれた人間の名前です。そして、キリストは、「油注がれた者」という意味のへブル語「メシア」のギリシャ語訳です。このメシアは、救い主という意味で用いられた言葉です。つまり、イエス・キリストという言い方は、人間として生まれたイエス様は神の御子・救い主であることを言い表しています。ユダヤ教もイスラム教も、イエス様が預言者の一人としては認めていますが、メシア、キリスト、救い主、神の子とは認めていません。ですから、決してイエス・キリストという言い方はしません。イエス・キリストという言い方の中に、この方はまことの人にしてまことの神であるというキリスト教信仰の中心が言い表されているのです。

7.イエス・キリストの福音
 私共の主イエス・キリストが、まことの人でありまことの神であられるが故に、イエス様の十字架はすべての人間の身代わりとなり得ました。もし、イエス様がただの人間であったのならば、どうしてイエス様の十字架が私共の罪の裁きの身代わりとなり得ましょう。そうであれば、私共は自分の罪の裁きを免れるために、ひたすら善き業に励む以外に救いの道はありません。要するに、多くの宗教が教えているように、「善い行いをして、善い人間になって救われましょう。」という話です。しかし、それは福音ではありません。良き知らせでは全くありません。何故なら私共は、全く罪を犯さない人間になど、決してなることは出来ないからです。それでも救われるとするならば、自分の罪を見ないことにして、罪が有っても無いこととするしかありません。それは福音ではありません。喜びの知らせではありません。何故ならそれでは、こんな自分が本当に救われるのだろうかという不安を拭うことは出来ないからです。どこまで善い人になれば救われるのか、その線引きなど誰にも出来ないからです。
 しかし、イエス・キリストによって備えられた救いの道はそうではありませんでした。神様はどんな小さな罪も見過ごすことはされず、徹底的に裁かれます。それが聖なる方であられるということです。しかし、神様はその裁きを御自分の御子に負わせ、私共の身代わりとされることによって、私共を既に裁きを受けた者として受け入れてくださった。赦してくださった。救ってくださった。これが主イエス・キリストによって与えられた、神の福音です。喜ばしい知らせです。
 この喜びの知らせを伝えるために、使徒パウロは神様に選ばれ、立てられ、遣わされたのです。そして、キリストの教会は使徒たちが伝えた主イエス・キリストの福音を保持し、宣べ伝え続けてきました。ただ信じるだけで、イエス様が備えてくださった救いに与り、神の子とされ、永遠の命に与る。これが福音です。ありがたいことです。この福音に生きる者とされていることを感謝して、共に祈りを合わせたいと思います。

祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝、あなた様は主イエス・キリストの福音を新しく心に刻ませてくださいました。ありがとうございます。天地を造られたただ独りの神様が、天地を造られる前から共におられた御子をイエス様として世に与えてくださり、私共はその尊い血潮によって、一切の罪を赦され、あなた様との親しい交わりに生きる者としていただきました。どうか、私共がこの恵みの中に生き切り、あなた様の御名を誉め讃えつつ、御国に向かっての歩みをいよいよ確かにしていくことが出来ますように。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年5月2日]