日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「恵みによって召された者」
イザヤ書 49章1~6節
ローマの信徒への手紙 1章5~7節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 ローマの信徒への手紙を先週から共に読み始めました。今朝与えられておりますのは、この手紙の冒頭にあります、挨拶の部分の後半です。先週の前半には、この手紙の差出人がパウロであるということが記されておりました。先週見ましたように、このローマの信徒への手紙を書いたパウロは、神様に選ばれ、「神の福音」を宣べ伝えるために召されて、使徒とされました。パウロはそのことをしっかり受け止めて、伝道者としての生涯を御前に捧げました。パウロが伝えた福音は、パウロがイエス様によって召し出された出来事と切り離すことは出来ません。彼はキリスト者を迫害している時に、ダマスコ途上においてイエス様に召し出されました。この出来事は、パウロが神様の救いに与るのに相応しい者であるが故に救われ召し出されたのではないということを、はっきり示しています。パウロはキリスト者を迫害していたのですから、神様に敵対する者として、神様によって裁かれ、滅びるしかなかった。しかし、そうであるにもにもかかわらず、彼は救われました。彼はこのことを「ただただ、まことにありがたいことだ。」と受け止めました。それがパウロの言う「恵みによって」ということです。「ただ恵みによって救われる。」これが神様によって、イエス様によって、パウロが宣べ伝えるように命じられた「福音」です。この「ただ恵みによって」ということの対極にあるのが、「自らの力よって」「自らの善き業によって」ということです。良いいことをして、良い人になって、神様に救っていただきましょうという教え。それは福音ではありませんし、キリスト教でもありません。福音とは、キリスト教が教える救いとは、徹底して「ただ恵みによって」です。救いに与る私共には、それに相応しい所など少しもありません。でも救われました。それが福音です。パウロは、自分が救われた時の出来事によって明らかにされた、「ただ恵みによって」ということを宣べ伝え続けました。パウロはそのように歩む中で、このローマの信徒への手紙を書いたのです。

2.ただ恵みによって
 ただ恵みによって神様によって救われた、救われているという事実は、決して古くはなりません。信仰の歩みを与えられて何十年経とうとも、古くなったり、色あせたりすることは決してありません。救いに与る最初の時は「ただ恵みによって」だけれども、救われた後は、どんどん良い人になって、神様に良しとされる人になっていく、そしてやがては救いの完成に至る。このような話は分かりやすいかもしれませんけれど、どうもそこには嘘があると思います。善き業をすることが大切ではない、ということではありません。神様は私共が善き業に励むことを望んでいない、ということでもありません。しかし、「ただ恵みによって救われる」という福音が、いつの間にか「善き業によって救われる」に変質してしまっていないか、それは違うということです。福音は、最初から最後まで「ただ恵みによって」です。救いの完成もまた、「ただ恵みによって」です。私共が努力して完成に至るのではありません。キリスト者は生涯、「ただ恵みによって」という一点に立ち続けます。それが福音に生かされ続けるということです。ここに立ち続けることによって、キリスト者は変えられ続け、成長していくのです。それは使徒パウロの歩みにおいて、その存在において、証しされていることです。こう言っても良いでしょう。キリスト者は、ただ恵みによって救われた、このことを感謝をもって受け止め続けていく中で成長していく。いよいよ、神様の愛、真実、憐れみを味わい知り、感謝と賛美を捧げていく者とされ、神様にいよいよ従う者とされていくということでしょう。

3.異邦人伝道
 パウロが神様から特に託された務めは、異邦人への伝道でした。5節「わたしたちはこの方により、その御名を広めすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」とあります。異邦人というのは、一般的には外国人・異国の人という意味ですけれど、聖書でこの言葉が使われる場合は、ユダヤ人以外の者という意味です。パウロの伝道の歩みは使徒言行録に記されていますが、聖書の後ろに付いている地図7と8に、パウロが行った3回の伝道旅行の経路が記されています。パウロはアンティオキアの教会から派遣されて、現在のトルコ、そしてギリシャの町々に伝道しました。そこにはユダヤ人も住んでおりましたけれど、そこ住む大半の人たちは異邦人でした。ユダヤ人の考えでいけば、アブラハム以来の神の民であるユダヤ人だけが救われ、異邦人は決して救われないということになっていました。
 しかし神様は、パウロを召し出して、異邦人に福音を伝えていく、異邦人を救いへと招いていく、その務めに就かせました。それは、主イエス・キリストによって与えられた救いは「恵みによって」与えられるものだからです。「ユダヤ人であるから救われる」「ユダヤ人だけが救われる」というのは、ユダヤ人であるということに救われる基準がある、救われる価値がある、ということになります。しかし、「ただ恵みによって」ということは、救われるはずのない者が「ただ神様の恵みによって救われる」ということですから、救いに与る者がどのような者であるかどうか、そんなことは一切問われない、問題となりません。救いに与る側には理由が無い、救われるに相応しい所など何も無いのです。それは、ユダヤ人であるかどうかということに留まりません。その人がどんな人生を歩んできたのか、どんな社会階層に属しているのか、どんな性格なのか、男なのか女なのか、信仰深い者かどうか、どんな能力があるか等々、一切が救われるための条件とはならないということです。勿論、国籍も民族も人種も問われません。ただ恵みによってです。
この「ただ恵みによって」ということを別の言葉で言い表しますと、「ただ信仰によって」ということになります。「ただ恵みによって」ということと「ただ信仰によって」とは、同じことです。

4.ただ信仰によって
 信仰というものは、神様が私共に与えてくださるものです。神様がその人を選んで、信仰を与えてくださるのです。「信仰」というものを「私が信じていること」「私の確信」というように、「私が神様を信じるという善き業」のように考えてしまいますと、「ただ信仰によって」ということが「私が信じるという善き業によって」ということになってしまいます。それでは、「ただ恵みによって」ということが分からなくなります。信仰もまた、ただ神様の恵みによって与えられるものです。
 パウロにとって、信仰がただ恵みによって与えられるのであるということは、自分が信仰を与えられた出来事、あのダマスコ途上の出来事からして、議論の余地はありませんでした。パウロはキリスト者を迫害するという、まことにイエス様と敵対する行為を行っていた時にイエス様によって召し出され、イエス様こそ神の御子であるという信仰を与えられました。パウロにとって信仰はあの時に与えられたのです。自分で獲得したのではありません。色々とイエス様について調べ、修行し、ついにその確信に至ったということでは全くありません。突然、イエス様がパウロに現れて、御自身が何者であるかを明らかにされたのです。自分の中に信仰を与えられるに相応しい何かがあったということでもありません。イエス様に出会うまで、彼の中にあった信仰とは、「自分はユダヤ人であり、律法を守る正しい人であり、神様に救われるに価する者だ」というものでした。そして、イエス様に対しては「神様を冒涜するとんでもない輩だ」という思いを持ち、「これを信じる者たちは根絶やしにしなければならない」というとんでもない確信を持っていました。そして、それが神様に対しての正しいあり方だと信じていました。彼は信仰が無かったのではありません。強烈に持っていました。しかし、それは「福音によって与えられた信仰」ではありませんでした。「自分の中に救われる価値があり、理由がある」というものでした。しかし、そのすべてが、あのダマスコ途上の出来事によって崩され、粉々になってしまったのです。私の中には救われるに価するものなど何も無い。ただ裁かれ、滅びるしかない自分が、一切を赦され、救われた。何という幸い。何という恵み。これぞ福音。パウロはこの福音に生き、この福音を伝えました。

5.信仰の従順
 この福音を伝えられ、これを受け入れ、イエス様を神の御子、我が主・我が神と信ずる信仰へと導かれた者、それがキリスト者です。キリスト者は、イエス様を愛し、イエス様を信頼し、イエス様に従います。このイエス様を愛し、イエス様を信頼し、イエス様に従うということは、イエス様と私共との新しい関係を言い表したものです。イエス様と私共との関係ついては色々な言い方が出来ます。色々な言葉に言い換えることが出来ますけれど、それによって関係が変わるわけではありません。イエス様を愛し、信頼し、従う。この三つは、イエス様と私共のただ一つの関係における三つの側面を言い表しているだけですから、これを分けることは出来ません。イエス様を愛して、信頼しているけれど、イエス様に従うことは嫌だ、従わない。イエス様とキリスト者との間に、そんな関係はありません。他も同じです。イエス様を信頼し、従うけれど、イエス様を愛することは出来ない。そんなことはあり得ません。福音によって救われた者とイエス様の関係は、いつもこのイエス様に対しての三つ側面を持ちます。
 5節でパウロは「すべての異邦人を信仰による従順へと導くため」と告げますけれど、これは誤解を与えかねない訳です。信仰が与えられて、それからイエス様に対しての従順が与えられると読みかねません。しかし、信仰が与えられたなら、そこにはイエス様に従うという、イエス様への従順というものが一緒に付いてきている。イエス様への従順無しに、イエス様を愛し、信頼するなんてことはあり得ません。パウロが福音を宣べ伝える使徒として遣わされたのは、イエス様とは誰であり、どのような方であり、この方によって与えられる救いとはどういうものなのか、そのことを宣べ伝えるためでした。パウロはこれを伝え、これを信じるようにと招く。そして、これを受け入れ、信じる者は、イエス様に愛されていることを知らされ、イエス様を愛する者となります。イエス様が自分のために十字架に架かり、身代わりとなってくださったことを知らされ、この方を心から信頼します。この方と共に歩んで行こう、この方の御手の中に自分の明日があるのだから、安んじて今日を生きようと思う。そして、この方が語られた御言葉に従って歩んで行こう、この方の後に従って生きていこう。そう願い、祈るのでしょう。
 しかし、私共は「これほどあなたを愛しています。これほど信頼しています。これほど従っています。」そんなことは、神様・イエス様に対して口が裂けても言いません。何故なら、イエス様が私共を愛し、父なる神様を愛されたことに比べたら、「愛しています」なんてとても言えないほどにしか愛していないことを知っているからです。イエス様が父なる神様を信頼されたのに比べるならば、とても「信頼しています」なんて言えるほどのものでないことを知っているからです。従うにしても同じです。イエス様の、十字架の死に至るまでの父なる神様への従順に比べるならば、私共のそれは、従っているなどとはとても言えるものではないことを知っているからです。確かに、私共はイエス様を愛し、信頼し、従います。でもそれは、救われる条件でも手柄でもありません。それ以外に生きようがないからです。私共は神様・イエス様を愛し、信頼し、従うことを喜びとする命、新しい命に生きる者となったからです。これはパウロがダマスコ途上で経験した回心と同じです。パウロと同じことが私共の上にも起きたからです。それは、福音を聞いて受け入れた者に二千年の間ずっと、世界中の教会において起き続けていることです。
 パウロは自分のことを「キリスト・イエスの僕(奴隷)」と言いました。それは、イエス様が私の主人となられたということです。罪でも、サタンでも、死でも、この世の富でも権力でもなく、イエス様が私の主人となってくださった。私共がイエス様のものとされた。これがパウロの喜びであり、私共の喜びです。そしてこれが、私共が生きるにしても死ぬにしても、唯一の慰めです。そのことを伝え、導くために、パウロは恵みによって召されて使徒となりました。それはパウロの誇りでした。生きる意味でした。この生きる意味と誇りを私共に与えるのが福音であり、福音によって与えられる信仰なのです。

6.聖なる者
 さて、ここでパウロはこの手紙の宛名を記しています。7節「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。」とあります。ローマの教会の人たちに宛ててこの手紙は記されました。このローマの教会の人たちを、パウロは「神に愛され、召されて聖なる者となった」人と呼んでいるのです。ローマの教会の人たちは、神様に愛されたことを知らされ、これを受け入れ、信じました。どれほど神様に愛されているのか。それは、独り子イエス様を十字架に架けて身代わりにするほどです。私のために死んでくれた方はイエス様の他にはおりません。ここに愛があります。この神様の愛を信じ、受け入れ、ローマの教会の人々に信仰が与えられました。それを「召されて」とパウロは言うのです。ローマの教会の人々だけではありません。私共も同じです。神様に召されて、信仰を与えられ、神様の愛の中に生かされてることを知る者とされました。ありがたいことです。
 そしてパウロは、そのようなローマの教会の人々を「聖なる者」と言うのです。ローマの教会には聖人君子、善男善女ばかりがいたということではありません。この教会も同じことです。皆さんもそれなりに良い人だと思いますけれど、自分を見て、「自分は聖人だ」と思う人など一人もいないでしょう。パウロは、「聖なる方」はお一人だけ、神様・イエス様しかいないことを知っています。それなのにパウロがローマの教会の人々を「聖なる者」と呼ぶのは、ローマの教会の人たちかが聖なるイエス様と一つに結び合わされた者だからです。教会は「キリストの体」と呼ばれます。それは、この教会に聖霊なる神様が臨んでくださり、ここに集う者に信仰を与え、洗礼を受けさせ、聖餐に与らせ、イエス様と一つに結び合わせてくださるからです。
 ですから、すべてのキリスト者は「聖なる者」、すなわち聖人です。ローマ・カトリック教会は、この点において私共とは理解を異にします。今、このことについて丁寧に話す暇はありません。ただ、ローマの教会の人々がすべて「聖なる者となった」と言われていることを確認しておきます。私共も同じことです。「聖なる者」とされるのも、私共が聖なる者と呼ばれるに相応しい者となったからではありません。これも「ただ恵みによって」です。私共の中に「聖なる者」と呼ばれるに相応しい所などちっとも無いのですけれど、神様が私共をそのような者として受け入れてくださっているということです。愚かで、欠けがあり、罪を犯し続けるような私共ですけれども、それでもなお、神様は私共を「聖なる者」として受け入れてくださり、ただ独りの聖なるお方、主イエス・キリストと一つにされた者として見てくださっているということです。救われたとは、そういうことです。「聖なる者」が罪に定められ、裁かれるはずがありません。

7.恵みと平和があるように
そのローマの教会の人々に、パウロは「恵みと平和があるように」と挨拶を記します。そのパウロの挨拶が、その後のキリストの教会における手紙での挨拶となりました。しかし、これは単なる挨拶というよりも、祝福の祈りです。祝福を願う祈りが挨拶の言葉となった。これは素敵なことです。
 そして、この「恵みと平和」は「父である神と主イエス・キリストから」与えられるものです。ですから、この「恵み」は、第一に、イエス様の十字架と復活によって与えられた救いの恵みです。この救いの恵みの中にあるようにと祈っています。第二に、私共のすべての日々をその御手の中に置いてくださっている父なる神様が与えてくださる、良きものすべてです。そこには目に見えるものだって含まれています。食べ物もあれば、家族や仕事といった日々の営みの中で必要なすべてが、この「恵み」には含まれています。
 そして、「平和」です。この平和も、第一には、イエス様の十字架と復活によって与えられた、父なる神様との平和です。勿論、私共の心の平安も含まれています。神様との和解によって与えられた、神様のものとされている平安です。そして第二に、人々との平和です。私共が関わる隣り人との間の平和です。
 パウロはこの「恵みと平和」を、「今は無いけれど、与えられたら良いですね。」とローマの教会の人々に告げているのではありません。そうではなくて、「もう既に与えられていますね。その恵みと平和の中にあり続けますように。恵みと平和の中を歩み続けられますように。」そう告げています。私共もそうなのです。礼拝の最後に「祝福」を受けますが、それも無いものを願い、求めているわけではありません。既にこの「父なる神様と主イエス・キリストからの恵みと平和」を受けています。私共はそれを受け続けていく。その中にあり続けていく。その中を歩み続けていく。それがキリスト者たる私共の歩みです。

8.恵みによる召し
 私共がキリスト者としてここに集っているということは、神様が私共を招いてくださり、召し出してくださったからです。私共が、愛に満ちて、優しく、真面目で、敬虔で、信心深い者だったからではありません。私共の中に理由はありません。ただ神様が私共を愛してくださったからです。「ただ恵みによって」です。ありがたいことです。この救いの恵みに与らせていただいたということは、使命も与えられているということでもあります。それは、パウロが救われたのと同時に、福音を伝える者として立てられたのと同じです。
 私が救いに与った頃、45年ほど前ですが、「先に救われた私たち」という言い方が、よく教会の祈りの中に出てきていました。最近はあまり聞かなくなったように思います。この言葉は、私たちは先に救われたけれど、それは私たちの後から救われる人たちがいるし、その人たちへの責任がある。福音を伝えて行く責任です。そのことを受け止めた祈りの言葉であったと思います。ただ恵みによって召し出され、救いに与った私共です。この恵みをしっかり受け止めて、この恵みに応えていく歩みを御前に為してまいりたいと心から願うものです。

  祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
あなた様は今朝、御言葉によって、私共が「ただ恵みによって」救われたことを、改めて心に刻ませてくださいました。ありがとうございます。些細なことでもすぐに思い上がり、自惚れてしまうような私共です。どうか、「ただ恵みによって」ということをきちんと受け止め、いつもあなた様に感謝と賛美を捧げる者であらしめてください。あなた様の福音を、言葉と行いと存在とによって隣り人に証しし、伝えて行くことが出来ますように、私共を聖霊の導きの中に置いてください。  この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年5月9日]