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礼拝説教

「罪の告発」
出エジプト記 34章4~9節
ローマの信徒への手紙 2章1~16節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今朝の説教の題は「罪の告発」としましたけれど、こんな題で人は説教を聞きたいと思うだろうかと思いまして、もっと考えて工夫しなければいけなかったと反省しています。自分の罪を告発されたり、糾弾されたりするのは、誰だって嫌でしょう。そんなことはパウロも百も承知でした。でも、今朝与えられた御言葉において彼は、「すべて人を裁く人よ、弁解の余地はない。」と語り始めます。「弁解の余地はない」というのは、何とも厳しい言い方です。しかし、この言い方は1章20節でも使われています。どうしてパウロはここまで厳しく罪を告発するのか。その理由ははっきりしていると思います。人は自分の罪を中々認めようとはしないからです。そして、自らの罪を認めないならば、イエス様による罪の赦しも求めることはありません。ここで、パウロは人間の罪の普遍性を告げることによって、すべての人はイエス様の救いを必要としている、すべての人はイエス様の救いへと招かれている、そのことをはっきり告げたかったのでしょう。罪は、神様の裁きによる滅びに至ります。イエス様はそのことから私共を救うために来られた。それが福音です。パウロはイエス様に救われて以来、このイエス様の救いを宣べ伝えることに集中して生きた人です。パウロが伝えたのは、地上での日々の生活における安泰ではありません。そうではなくて、神様の裁きによる永遠の滅びからの救いです。この地上の日々は、その日に向かっての歩みです。人間は死んで終わりではありません。その後があります。神様の裁きです。イエス様が再び来られてすべてが新しくされる時、私共は神様の御前に立って裁かれます。その時、永遠の滅びではなく、永遠の命を与えられる。そこに向かって私共は歩んでいるのです。これは民族や文化や時代を超えており、普遍的なものです。ギリシャ人であるとか、ユダヤ人であるとか、そんなことは全く関係ありません。ですから、パウロは地の果てまで伝道しようとしましたし、キリストの福音は二千年の時間をかけて全世界に広められたのです。

2.裁く者も裁かれる
 さて、1章18節以下の所において、パウロは、「神様が造られたこの世界には、神様が永遠であることや全能の方であることが溢れている。それなのに、神様に感謝もせず、偶像礼拝に走る者は、弁解の余地がない。」と告げました。そして前回見ました24節以下において、「人は性的な不品行に走ったり、してはならないことをした。」更に29~31節において、罪のリストが挙げられています。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。」このような悪徳のリストは、いくらでも追加することが出来るでしょう。大切なことは、偶像礼拝という、まことの神様との正しい関係を持たない中では、人はここに記されているような具体的な罪を罪として認識することも出来ずに、罪を犯しても平気になってしまうということです。ここで、パウロはギリシャ人を意識しているのでしょう。ローマの教会にはユダヤ人キリスト者とギリシャ人に代表される異邦人キリスト者がおりました。ユダヤ人たちは偶像礼拝はしませんし、性的不品行に対しても厳格でした。一方、ギリシャ人たちは偶像礼拝をし、性的不品行に対してもそれほど悪いこととは受け止めていませんでした。人間なのだから当然だ、という感じではなかったかと思います。1章の最後までの所を聞いたローマにいるユダヤ人キリスト者は、「そうだ、そうだ。偶像礼拝も性的不品行も、とんでもない。そんな者たちは神様の裁きによって滅ぶんだ。しかし、私たちユダヤ人は大丈夫。偶像礼拝もしていないし、性的不品行もしていない。」そう思ったでしょう。
 しかし、そのユダヤ人たちに対してパウロは、1~3節「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。」と告げるのです。彼らはギリシャ人たちを、神様に救われることのない異邦人と見なし、馬鹿にし、上から目線で裁いていたのです。それに対してパウロは、「あなたたちも同じだ。自分たちは大丈夫なんてことはない。同じことをしているではないか。」そう言うのです。これを聞いたユダヤ人たちは憤慨したかもしれません。ここでパウロが言っていることは、はっきりしています。6節「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。」ということです。ギリシャ人だから、ユダヤ人だから、そんなことは神様の御前に立ったなら、何の意味もない。その人がどう生きたか、それだけが問われるのだと、パウロは告げるのです。ユダヤ人だってギリシャ人だって、29節以下のことをしていないなんて言える者がいるかということです。私はねたんだことなんてありません。私は人を欺いたことなどありません。私は陰口を言ったことなどありません。私は人を侮ったことなどありません。そんな者がいるか。いないでしょう。そうであるならば「死に値する神の定め」の前では、裁かれるしかないではないか。そう告げているのです。

3.ユダヤ人の誇り、ギリシャ人の誇り
 しかし、その神様の裁きはまだ下されていません。それは4~5節に「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。」とありますように、神様の愛と寛容と忍耐の故です。ユダヤ人が正しい者だからではありません。神様は憐れみの故に、ユダヤ人たちが悔い改めることを待っておられるわけです。それなのに、自分は悔い改める必要はないと思い違いをし、自らを誇り、少しも変わろうとしないのであるならば、それは最後の日における神様の怒りを増やしているだけだ、とパウロは告げるのです。
ここで、ユダヤ人たちが何を誇りにしていたか、そのことを見てみましょう。イエス様に洗礼を施した洗礼者ヨハネは、こう告げました。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」(マタイによる福音書3章7~9節)ここにユダヤ人たちの誇りがはっきり現れています。それは、「自分たちはアブラハムの子孫である。自分たちは神様に選ばれた神の民である。」ということでした。そこには、自分たちは神様が契約のしるしとして与えてくださった割礼を受けた者だ、ということもあったでしょう。また、律法を持っている、ということもあったでしょう。しかし、悔い改めて、神様の御前に「ただ憐れみを受ける者」として立っていたか。ただ憐れみを受ける者であるならば、ギリシャ人をはじめとする異邦人たちを見下したりすることは出来ないはずです。しかし、彼らはいつの間にか、ただ憐れみを受ける者として御前に立つのではなく、ユダヤ人であることを神様の御前においても誇り始めていたのです。これでは、ユダヤ人の誇りは、他のどの民族も持っている、単なる民族的な誇りと少しも違いません。民族的な誇りを持たない民はいません。傍から見れば、そんなに誇れるとは思えないようなことであっても、みんな誇るのです。それはギリシャ人にしても同じでした。彼らはギリシャ語を話す者たちだけが文明人であって、ギリシャ語を話さない人々は未開の人と言って見下していました。確かに、ギリシャ人たちは古代ギリシャ以来、高い文明を持っていました。しかし、それが神様の御前に立った時に、如何ほどの意味があるのか、神様の救いに与るに相応しい価値となるのか。パウロはここで、ユダヤ人にしても、ギリシャ人にしても、そのような民族的な誇りなど、神様の御前では何の役にも立たない。そう言っているのです。
 こう言っても良いと思います。ユダヤ人たちは律法を知っていた。しかし、それに従って神様の御前にきちんと生きてきたか。ギリシャ人たちは、ストア派の哲学に代表されるような、人間の正しい生き方とはどういうものであるかを知っていると自負していました。自分たちは文明人なのだから、未開の者たちとは違うと思っていました。しかし、本当にそのように生きてきたか。生きていないではないか。それで本当に神様の御前に、正しい者として立てるのか。知っているだけでは意味がない。その様に生きているかどうか、生きてきたかどうか、それだけが神様の裁きの前では意味があるのだ。そう告げているわけです。まさに、弁解の余地はありません。

4.私共はどうなのか
 ここで私共は、「私はユダヤ人でもないし、ギリシャ人でもないから関係ない。」そうは言えません。キリスト者は「新しい神の民」です。私共はキリスト者であることを誇りにしています。しかし、それが自分を誇ることの理由になってしまっているのならば、本末転倒です。キリスト者であるということは、神様の御前に立って、自分の中には誇るべきものは何もないということを知っている。ただ、イエス様の十字架・復活によって、ただ神様の憐れみによって救われる者だと弁えているということです。自分を誇るのではなくて、ただ神様を誇る者であるということです。
 私共は日本人ですけれども、それが神様の御前において私共が救われるために役立つのか。否、何の意味もない。キリスト者であるということは、日本人であるとか日本人でないといったことは神様の御前では何の意味もないということを弁えることです。そして、そこにキリストの教会は立つのであって、神の民としての交わりが形成されていくのです。地上における様々な立場や違いによって崩されることのない、神の民としての交わりがここに生まれます。国籍・民族・年令・性別・政治的立場・社会的立場・職業といったものに一切関係なく、それらを超えて成立する交わりです。ただ、神様の憐れみによって形作られていく交わりです。
 そのことが最も明瞭に現れるのが、これから私共が与る聖餐です。私共はただ神様の憐れみによって、キリストの体と血とに与ります。そこでは、ただ信仰だけが問われます。それ以外のことは、何も問われることはありません。この聖餐が、キリストの教会の交わりの基礎なのです。聖餐は、私と神様・イエス様との交わりを明示するだけではなくて、共に聖餐に与る者同士の交わりも示しています。共に一つのイエス様の体に与るからです。共にイエス様によって与えられた新しい契約を更新するからです。

5.神の御前に立って
 ここで私共は、パウロが見ているのは終末における裁きであり、神様の御前に立ってということであることを知らされます。5節に「この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」とあります。また7節以下には「すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません。」とあります。ここでパウロは、善を行う者に与えられるのは永遠の命と栄光と誉れと平和である、と告げます。これは、終末において与えられるものです。真理ではなく不義に従う者には、神様は怒りと憤りを、つまり神様の裁きと滅びが与えられる。これは、終末における神様による審判のことが告げられているわけです。神様はその時、ユダヤ人であるとかギリシャ人であるということに関わりなく、一人一人に分け隔てなく相対されます。
 そもそも、先ほど見ましたように29節以下に記されている罪のリストは、具体的な殺人とか盗みとかいった、地上の法律によって裁かれるような罪ではありません。おもに心の中のことであり、日常における些細なことです。私共が日頃大したことではないと気にとめてもいないようなことです。これを罪としてきちんと認識することさえしていない。確かに、心の中でのことなど、言わなければ誰にも分かりません。それに、人と人との関係においては、自分だけが悪いとも限りません。ですから、多少のことは仕方がない、気にしない、そんな風に過ごしているのでしょう。しかし、それが神様の御前においては通用するのかということです。神様はすべてを御存知です。私共自身よりも、私共のことを御存知です。パウロは、神様の御前に立って、自らの姿を顧みなければダメだと言っているのです。そしてそれは、必然的に終末における神様の裁きを思わないわけにはいかないものです。
 この終末における神様の裁きというものを真面目にきちんと見つめて生きる時、私共は自分に対しても、神様に対しても、周りの人に対しても、この地上における歩みが整えられていかなければならないことを知るのでしょう。これはとても大切なことです。日々の日常の生活において、何を大切にして生きるのか、どのような心の動きをしているのか、そのことがこの裁きの日を見上げることにおいて定まってくるわけです。それは心の習慣が変わると言っても良いでしょう。私共はたくさんの生活習慣を持っていますが、心にも習慣がある。それが変えられ、整えられていく必要があるのです。イエス様が再び来られる日、神様の審判の時を迎える。このことを忘れてしまえば、私共は目の前の損得に右往左往して生きるだけなのではないでしょうか。

6.善を行って救われるのではない
 誤解の無いように申し上げますが、パウロは、善を行って救いに至りなさいと言っているのではありません。それでは「ただ信仰によって救われる」という、パウロが何としても伝えたかった福音と矛盾してしまいます。パウロはここで単純に、「ユダヤ人にしても、ギリシャ人にしても、神様の裁きに耐えられるような完全な善を行ってはいないでしょう。だったら、神様に裁かれ、滅びるしかないではないですか。」そう告げているのです。パウロの罪の告発は徹底しています。人は「自分は中々良い人間だ」と思っていたりするのですが、「それは甘い」とパウロは断じるのです。人と比べればそう言えても、それだって自分には甘く、人には厳しいだけなのではないでしょうか。自分への評価基準と、他人に対する評価基準はいつも違います。しかし、神様には一つの基準しかありません。その神様の御前に立って、自分は善を行っていると言えるのかとパウロは言っているのです。そこまで言われれば、誰も「弁解の余地」はありません。しかし、どうしてパウロは、そこまで徹底した罪の告発をするのでしょう。理由ははっきりしています。イエス様によって一切の罪を赦していただいたからです。その救いの道が、すべての罪人に開かれているからです。
 他人の罪の告発というものは、たいていブーメランのように自分に返ってくるものです。ここでも、「パウロ、あなたはどうなんだ。」と思う人がいても不思議ではありません。そう言われたなら、パウロはどう答えるのでしょうか。「私はあなたがたとは違う。そんな罪など犯してはいない。」とでも言うでしょうか。そんなことは決してありません。パウロはこう答えるはずです。「私は全くの罪人です。罪人の頭です。滅びるしかない者です。しかし、私はイエス様によって救われました。永遠の命を与えられる者としていただきました。皆さんもそうなのです。」
 私がまだ青年であった時、ドストエフスキーの本をよく読みました。その頃読んだドストエフスキーについての評論の中で、ある方が「ドストエフスキーの描く人間の闇は真っ暗だ。ここまで人間の罪を徹底的に描く。まことに救いようのない、人間のどうしようもなさを描く。それは彼が、それでも救われるということを確信しているからだろう。救われると確信しているから、人間の罪の闇から目をそむけないで見て、描いている。一方、日本の小説における人間の描き方は、徹底した闇を描かない。灰色で終わってしまう。それは、救いの確信がないために、人間の罪の闇を徹底して凝視出来ないからではないか。」そう言っていたことを、とても印象的に覚えています。なるほどと思いました。
 人は自分の罪を正直に見つめて、それを認めるということが出来ません。何故なら、それを認めたら、自分は滅びるしかない所に立つことになるからです。それは恐ろしいことです。しかし、イエス様の救いを知った者は、正直に自分の罪を認めることが出来ます。イエス様がその裁きをすべて身に受けて、十字架にお架かりになってくださったからです。正直になる。自分に対して、神様に対して、隣り人に対して、正直になる。正直に自らの罪を認めることが出来る。それは素敵なことです。そこから変えられていくことを、神様に願い祈る者となるからです。自らの罪を認めると同時に、イエス様の救いに与る喜びを与えられます。罪の赦しと救いの完成に与る希望の中で、神様の裁きの日を仰ぎ望みつつ、神様と共に歩む者とされている。それがキリスト者なのです。

 祈ります。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
 今朝あなた様は聖書の言葉を通して、私共が弁解の余地のない罪人であることを示してくださいました。どうか私共がこの事実を認めて、あなた様の御前に言い逃れすることなく、悔い改める者とされますように。そして、あなた様を愛し、信頼し、従う者として、聖霊なる神様のお働きの中で、心の底から私共を新しくしてください。あなた様の子・僕として相応しい者に造り変え、あなた様の御前に立つ日に向かって、感謝と希望を持って、あなた様の御前を健やかに歩ませてください。どうか、この教会をあなた様の御心に適う、麗しい交わりとして形作っていってください。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年7月4日]