日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

伝道開始記念礼拝説教

「神の真実」
ゼカリア書 8章7~8節
ローマの信徒への手紙 3章1~8節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今日は伝道開始記念礼拝です。週報に記してありますように、私共の教会の伝道は1881年(明治14年)の8月12日~14日の3日間、市内の旅籠(はたご)町、教会のすぐ近くに旅籠町交差点がありますが、その近くの所でトマス・ウィン宣教師一行が開いた伝道集会から始まりました。今年で140年になります。トマス・ウィン宣教師はアメリカ北長老教会から派遣されて来日しました。1879年(明治12年)10月に金沢の石川県中等師範学校(後の第四高等学校)の英語教師として着任し、すぐに伝道を開始します。そして、その一年半後の1881年(明治14年)5月に金沢教会が設立されました。伝道を開始して1年半で教会が設立された。これは非常に早いと思います。私共の教会は伝道開始から伝道教会設立まで31年かかり、結局独立教会にはなれませんでした。この金沢教会が、北陸の地における最初のキリスト教会です。そして、金沢教会を設立したその年の8月、金沢教会が設立されて3ヶ月後ですね、トマス・ウィン一行は七尾・高岡・富山に伝道旅行をします。これが私共の教会の伝道開始の時であり、富山県の宣教開始の時となります。ですから、金沢教会の創立の年と私共の教会の伝道開始の時、そして富山県の宣教開始は同じ年ということになります。そして、富山に遣わされた最初の定住伝道者が長尾巻です。この時、長尾巻はまだ准允を受けておりませんので、信徒伝道者でした。長尾巻はトマス・ウィンに洗礼を受けた、北陸における最初の伝道者です。その後、長尾巻は金沢の殿町教会(現 金沢元町教会)、小松教会、そして大聖寺で開拓伝道をしました。残念なことに大聖寺の伝道は現在に繋がることはありませんでした。現在の日本基督教団の金沢教会・金沢元町教会・小松教会・富山鹿島町教会の4つは、この時をルーツとしているわけです。
 私共の教会はその後、日本基督教会富山講義所となり、その後、富山日本基督伝道教会となります。伝道教会になったのは、1912年(明治45年)でした。教会創立というのであれば、この時を起点とするという考えもあります。そうすると、教会創立109年ということになります。いやいや、1884年(明治17年)の講義所開設をもって教会創立の起点とするという考えもありましょう。その場合は、教会創立137年となります。ただ、私共の教会においては、現在のこの会堂建築は「宣教100年記念事業」として行われました。そのように、私共の教会は、教会創立ではなくて、宣教何年、伝道開始何年というように記念してきました。それは、アメリカ北長老教会から派遣されたトマス・ウィン宣教師によって伝道が開始されたこと、また、現在の地に会堂を移転する前、私共の教会は総曲輪教会と言っていたわけですが、その総曲輪教会があった総曲輪小学校の前の通りに面した100坪の土地をアメリカの長老教会から譲り受けたということ、これを忘れない。長老教会としての伝統、長老教会の信仰の伝統を忘れないということを意識してのことなのでありましょう。私共は大変忘れやすい者です。ですから、このように信仰のルーツを毎年確認しているわけです。

  2.同胞を愛するが故に
 さて、パウロは神様に救われるということにおいて、ユダヤ人もギリシャ人も区別はないと語ります。そして、今朝与えられた御言葉の中で、それならばユダヤ人であるとはどういう意味があるのか、割礼とは何なのか、そのことを語ります。神様によつて救われるということにおいて、区別がないとすればユダヤ人の特別な点は全くないのか。割礼は全く意味がないのか。パウロは自分がユダヤ人でしたから、ユダヤ人キリスト者の心が分かります。ですから、ユダヤ人に全く特別な点がないということになれば、ユダヤ人たちはパウロの言うことになど全く耳を貸さないことも分かっています。それは、パウロの意図していることではありません。パウロは何としても同胞であるユダヤ人もイエス様の福音による救いに与って欲しいのです。このことを見失ってはなりません。パウロはローマの教会にいるユダヤ人キリスト者に本当に分かって欲しいのです。イエス様の救いに与ったということの絶大な価値に気付いて欲しいのです。それは、パウロが彼らを愛しているからです。
 私共の教会は140年にわたって、この富山の地で福音を宣べ伝えてきました。それは、この地に住む人々を愛しているからです。神様がこの地に住む人々を愛して、福音を宣べ伝えるように宣教師を遣わされた。そして、その神様の愛に触れ、同じようにこの地に住む人々が一人でも多くイエス様の救いに与って欲しいと願い続けてきた。この「同胞を愛するが故に」という動機がなけば、私共の宣教の言葉には熱も力も備わっていかないでしょう。これはとっても大切な点です。伝道の原点には、この愛があります。愛がなければ福音は伝わるはずがありません。それは、イエス様の福音は愛だからです。
 ユダヤ人キリスト者たちは、自分たちは特別で、割礼を受けたから救われる、自分たちは正しいと思っているわけです。そのような人々に向かって、どう言えばイエス様の福音が伝わるのか。ことは簡単ではありません。しかし、パウロは何とかして、福音を伝えようとします。そのために、パウロは彼らの土俵に立って、彼らが言いたいこと、言おうとしていることを受け止め、その問いに答えるようにして言葉を紡いでいきます。

3.ユダヤ人の優れた点と割礼
 ですから、パウロは1節で、「ユダヤ人の優れた点は何か」「割礼の利益は何か」と言うのです。「そんなものは何もない」とは言わないのです。パウロは、それは何かといえば、「神の言葉をゆだねられた」ことだと言うのです。これは本当に特別なことです。神様の言葉を委ねられたということは、神様はその御心を御言葉として表し、それをユダヤ人たちに与えたということです。それが旧約の諸々の書です。これに律法も記されていますし、割礼のことも記されています。これを神様から与えられたということは、本当に特別なことです。彼らはこの神の言葉に従って、アブラハムからイエス様の時代まで、千数百年にわたって割礼を施してきました。そして、この神様の言葉には預言の書もあり、イエス様は神の言葉である旧約の預言、その成就として、メシア(=キリスト)として来られたわけです。割礼なんて何の意味もないということになれば、それを記した旧約の御言葉自体に意味がないことになってしまいます。それではイエス様がメシアとして来られたということ、またイエス様による救いの根拠というものもなくなってしまいます。ユダヤ人たちが神様の言葉を委ねられたということは、本当に特別なことなのです。しかしそれは、ユダヤの民が旧約の神の言葉を持っているというだけではなくて、それに従い、さらにはそれを知らない人々に伝えていく責任があるということです。その責任を果たしてきたかと、パウロは問うのです。その責任を棚に上げて、自分たちは特別な民だというところに胡座(あぐら)をかいていたのでは、神様に申し開きが出来ないではないかと言いたいのです。
 パウロは「割礼の有無」ではなくて、その人がどう御心に従っているかが大切なのだと2章26節以下で告げました。そう言われれば、ユダヤ人たちは、「割礼を受けようと受けまいと、神様の救いには関係ないとするならば、割礼に何の意味がある。それに、割礼が救いの根拠にならないとすれば、ユダヤ人を選んだこと自体に間違いがあった、神様が間違いを犯したということになるではないか。」と反論するでしょう。パウロはその反論に対して、「決してそうではない。」と告げます。割礼を受けたユダヤ人の中に不誠実な者がいたとしても、それはその人が悪いのであって、神様のせいには出来ないし、してはならない。割礼を受けた者は救われるということになれば、その人がどう神様の御前に生きるかは問われないことになってしまいます。パウロは、それこそおかしなことだ。神様は真実な方ではないか。そんな依怙贔屓(えこひいき)はされない。神様はユダヤ人を選ばれた。ユダヤ人に旧約という神の言葉を与えた。それは本当のことです。そして特別なことです。しかしそれは、「だから私たちユダヤ人は特別な者で、神様に救われる者。割礼なき者たちなんかとは違う。」ということにはなりません。そうではなくて、「だから神様は素晴らしい。ありがたい。この御心に従っていこう。そして、委ねられた御言葉、神様の愛を異邦人たちに伝えていこう。」となるのではないか。そうパウロは言うのです。
 このことは、私共の洗礼と照らし合わせて、よく考えなければならないでしょう。「私は洗礼を受けた者だ。」これは私共の救いの根拠です。神様が私を愛し、私を選び、洗礼へと導いてくださった。ありがたいことです。しかし、その洗礼が「悔い改め」と結びついていないのであれば、私共の洗礼はユダヤ人の割礼と何も違わないことになってしまいかねません。私共の洗礼は、悔い改めと共にあります。それは、洗礼を受けた時だけではなくて、キリスト者として歩む生涯のすべてにわたってです。「私の中には救われるに値する所など何一つない。にもかかわらず、神様は私を愛してくださり、洗礼を授けてくださり、一切の罪を赦し、神様の子としてくださった。何とありがたいことか。この方と共に歩んで行こう。」それが洗礼を受けた者の心の有り様でしょう。確かに、キリスト者は神様の愛、神様の御心を教えていただいた特別な者です。しかし、その特別さは、「神様の御前に小さな者とされる特別さ」です。キリスト者の特別さは、自らを大きくして他の人を見下すようなこととは正反対の所にある特別さなのです。

   4.悔い改めなき者の屁理屈<
 パウロは、もう一つユダヤ人の心に浮かぶ問いに答えます。その問いというのは、「パウロの告げる福音が『神様は罪人を赦す』というものであるならば、罪人の罪があるから神の義が現れ、神の救いの御業が為されるということになるではないか。だったら、その罪を裁くのは不当だろう。」というものです。これは何もユダヤ人キリスト者だけではなくて、イエス様を知らない者がイエス様の福音に対して持つ問いでもありましょう。これはいろいろな形で現れます。例えば、「ユダが裏切ったからイエス様の十字架があるのであって、ユダの裏切りが悪いとは言えない。」という考えを生んだりします。このような理屈を「悔い改めなき屁理屈」と私は呼んでいます。これはイエス様を知らない者の理屈です。これが屁理屈だというのは、ユダが自分の犯した罪を悔いて自殺してしまったことを見れば明らかです。ユダはこのような悔い改めなき屁理屈とは無縁です。私は、ユダがもう少し死ぬことを遅らせれば、イエス様が復活されるまで遅らせれば、ユダのこの悔いた心に復活のイエス様が来てくださったに違いないとは思います。しかし、たとえそうなったとしても、ユダは決して自分のしたことを正当化することはなかったでしょう。「わたしの裏切りがあってイエス様の救いの御業が為されたのだから、わたしのしたことはイエス様の救いを来たらせるための重要な働きだった。」と主張するようなことは決してなかったでしょう。彼はイエス様を知っていたからです。
 この屁理屈は、8節の「善が生じるために悪をしよう」というところに極まります。罪人を赦す神様の救いの御業、すなわち「善」が為されるためには罪が犯されなければならないのだから、大いに悪をしよう、という理屈です。そんな馬鹿な話があるわけがありません。これは、自分の罪の上に胡座をかいて、自らの罪を知らず、認めず、神様の御前に赦しを求めようとしない、悔い改めなき者の屁理屈です。もっと言えば、悔い改めたくない、自らの罪を認めたくない、そこに立って初めて成り立つ屁理屈です。
 この悔い改めなき屁理屈は、いろいろな形で現れます。「神様がすべての罪を赦してくれるならば、面白可笑しく生きて、罪でも不義でも何でも犯して、最後に悔い改めて死ねば良いじゃないか。」これは神様の御前に生きることを知らない者の理屈です。そもそも、いつ自分が死ぬのかなんて、誰も分からないではないですか。あるいは、これと少し違いますが、「神様がすべてを支配しているならば、どうして戦争が起きるのか。」現在ならば、「神様はすべての者を愛しているのに、どうして新型コロナのパンデミックが起きるのか。」というものもあります。このような理屈に、皆さんはどう答えるでしょうか。私は、答えようがないと思います。戦争にしても、パンデミックにしても、様々な原因はあるでしょうけれど、私はその根っこには人間の罪、「自分に敵対する者を亡き者にしたい」、或いは「自分さえ良ければ良い。他人のことなど知ったことではない」という罪の思いがあると思います。しかし、そのような自らの罪を棚に上げて、「神様は何をしてくれるのか。何もしてくれないではないか。」と言われても、正直なところ答えようがありません。罪を認めない、悔い改めなき屁理屈には答えようがない。信仰には信仰の理屈があり、信仰なき世界には信仰なき世界の理屈がある。しかし、これをかみ合わせることは本当に難しい。前提が違うからです。私は、理屈で相手が納得するように答えることは出来ません。「イエス様は私を愛してくださり、私の身代わりになってくださった。だから、私はこの方を愛し、この方と一緒に生きていきたい。あなたも一緒に生きよう。」そう自分の言葉で語ることしか出来ません。そして、この戦争がなくなるように祈る。パンデミックが収まるようにと祈る。それしか出来ません。きっと相手は納得しないでしょう。でも、そのような自分の言葉による証言によってしか、福音を伝えることは出来ないし、私共の教会は140年間ずっと、その証言を語り続けて来た。そして、祈ってきたのです。そこで力を持つのは、その証言をしている者の本気さであり、祈りの真剣さでしょう。そしてまた、その人の優しさや暖かさといったものなのではないでしょうか。
 ここでパウロはユダヤ人キリスト者に対して語っています。「あなたがたの問いは、悔い改めなき者の屁理屈になってしまっているではないか。でも、あなたがたは神様を知っているでしょう。イエス様を知っているでしょう。神様の御前に悔い改めたのでしょう。イエス様の十字架によって罪赦されたのでしょう。だったら、そこに立とう。」そう促しているのです。

5.神様の真実
 神様は真実なお方です。神様はユダヤ人を神の民として選ばれ、契約を結ばれました。この神様の選びと契約は、人間の罪によって無効にされることはありません。パウロはこの神様の真実を4節で、詩編51編の6節を引用して告げます。今私共が用いている新共同訳の詩編51編6節では、「あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。」となっています。この詩編51編は悔い改めの詩編です。この詩編は、自らの罪を知らされ、神様の御前に悔い改めた者が、神様が下される裁きに間違いはありませんと歌っているのです。この詩編の詩人は伝統的にはダビデだと言われています。彼がバト・シェバと罪を犯し、預言者ナタンによってその罪を告げられた時の詩と言われています。彼は、神様は真実だから、私との契約を忘れず、私は割礼を受けた者なのだから、決して裁かれるはずがないと歌ってはいません。そうではなくて、自らの罪を知らされて、自分が神様の裁きを受けるのは当然だ。だけれども、どうか神様、赦してください。憐れんでください。そう歌ったのです。この悔い改める者に対しての神様の真実、それが主イエス・キリストによって与えられた罪の赦しです。神様の真実は、イエス様の十字架において、最も明瞭に私共に示されました。この十字架を横に置いて、神様の真実を語ることは出来ません。私共は、このイエス様の十字架の前に立って、神様の真実を知らされ、神様との契約の揺るぎなき確かさを知るのです。その時、どうして悔い改めなき屁理屈など言っておられましょうか。自分は大した者だなどとうそぶいておられましょう。

6.神の真実は十字架のキリストと共に
 最後に、誤解のないように、このことは言っておかなければなりません。病気や事故や災害といったものによって苦しんでいる人が、「どうして私はこんな目に遭わねばならないのか。どうしてこんなに苦しまなければならないのか。神様は本当に私を愛しているのか。私を愛しているという聖書の言葉は真実なのか。」そのように問う時、これを悔い改めなき者の屁理屈とは誰も言うことは出来ません。これは屁理屈ではなくて、嘆きの言葉だからです。私も牧師として、このような問いの形をした嘆きの言葉の前に立たされました。これに対して、「それはこういう理由によってです。」などと答えることは私には出来ません。私にも分からないからです。ただ、私はこう確信しています。それは、あの十字架のイエス様は、苦しみのただ中にいるあなたと共におられる。あなたの痛みと嘆きと苦しみを担って、共に歩んでおられる。それは本当のことです。それが、神の真実は十字架のイエス様に現れたということです。しかし、困窮のただ中にいる時、そのイエス様が分からなくなる。共におられるということが本当なのかと思ってしまうことがある。それも私共の現実です。しかし、たとえそうであったとしても、その時も神様の真実は揺るぎません。私共の信仰がグラグラに揺らいだとしても、神様の真実は揺らぎません。その嘆きと苦しみの極みを十字架の上で味わわれたイエス様が、あなたの下に、あなたの傍らに、あなたの上に、そしてあなたの中におられる。それが神の真実です。私共はそれを信じる。そして、私共は、祈ることさえ出来なくなったその人のために、その人に代わって、神様の守りと支えと癒しを祈ることが出来ますし、そうしなければなりません。それが神様の真実に生きるということだからです。神様の真実は、理屈の中にはありません。神様は私共の理屈の中に収まることは決してありません。理屈で分かったつもりになっている人の根本から打ち砕き、自らの御前に立たせ、悔い改めへと導かれる。そして、私共との交わりを新たにしてくださる方。それが、私共の神様なのです。
 私共は今から聖餐に与ります。信仰をもってキリストの体と血とに与ります。それはあの十字架のキリストが私と共におられるということを、信仰をもって受け取るためためです。神様の真実がここにあります。

 お祈りいたします。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝私共は、私共の教会の伝道開始140年を記念して礼拝を守ることが許されました。140年前、この富山には一人のキリスト者もおりませんでした。誰もあなた様の福音を聞いたこともありませんでした。しかし今、富山県には30を越える教会があります。140年の宣教の歩みを心から感謝いたします。私共はあなた様の真実を忘れ、つまらぬ屁理屈をこねてしまうことがあります。どうか、私共が十字架のイエス様の前に立って、あなた様の真実を受け止め、それに応えて歩んでいくことが出来ますよう、聖霊なる神様の導きを祈り願います。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年8月1日]